龍の声

龍の声は、天の声

「心柱とは、」

2018-04-28 05:55:03 | 日本

日本の伝統的木造建築物「五重塔」がもつ「心柱(しんばしら)」にちなんで命名したものである。
五重塔は地震による倒壊がほとんどない。
激震に見舞われたとき、隣に建つ御堂が倒れても木塔だけが残るケースも多い。
かの伊東忠太(建築家・建築史家)も、「関東大震災でも五重塔はまったく損害がなく、 歴史上、五重塔が倒れたケースを知らない」と伝えている。
1995年の阪神・淡路大震災においても、兵庫県にある15の三重塔はほとんど無損傷だった。
一方で、コンクリート造の三重塔にはヒビが入った。
三重塔、五重塔は「多重塔」という形式で、その基本的な構成は、一重ごとに軸部・組物・軒を
順次組んで積み重ねていくものである。
内部の真ん中は、相輪(そうりん)という塔の先端部を支持する心柱だけが一本でつながっている。

つまり、真ん中のところは、吹抜けの中空構造になっていてそこに心柱が立っているという格好である。
寺院建築の様式は仏教とともに中国から伝わったが、その中国の塔には心柱がない。
一方で、日本では三内丸山遺跡の巨木跡や諏訪神社の御柱(おんはしら)、伊勢神宮の心の御柱(しんのみはしら)、「天御柱神」「国御柱神」というように、柱信仰が古くからあった。
とすると、多重塔における心柱は、信仰の対象という意味合いだったとも考えられる。
この心柱は、古くは法隆寺の五重塔のように根元を地下に埋めた堀立柱のものから、地上の礎石の上に立てられるようになり、塔の一層目の梁上に立てられるようになって、江戸時代後期には、日光東照宮の五重塔のように心柱を上から吊り下げる構法までと、さまざまである。
ただ、いずれにせよ、心柱が、塔体の木造架構系から構造的に独立し、中空構造になっている。
五重塔が倒れない理由は、心柱が振子となって制振効果があるという説、心柱と塔体の振動が牽制し合って効果があるという説、一層ごとに互い違いにくねくねと揺れることで倒れないという説、そもそも木組でできているので接合部には「遊び(余裕)」があるので、そこで力を吸収できる、などさまざまな説があり、100%には解明されていない。
ただ、心柱が、全体の安定化に何らかのかたちで寄与していると推測されている。

さて、東京スカイツリーの「心柱制振」は、同じく塔であり、中空構造をしていて、その中に構造的に独立した柱をもっている。
五重塔からダイレクトに取り入れたシステムではなく質量付加機構という既知の原理に則ったものだが、もちろん当初より五重塔の話は知っており、潜在意識のうちのことなのか、五重塔に一脈通じるものがある。
そこで、いまだ解明されていない日本古来の業への敬意を込めて「心柱制振」と名付けた。


◎心柱のふしぎ   
                                                               数ある日本建築の中で仏塔は本格的な木造の高層建築であり、その姿形の美しさ、構造の巧みさは他の追随を許さない。しかも、高層建築でありながら地震や大風、とくに地震に対しては驚異的ともいえる強さを発揮する。                                     
心柱は五重塔の構造の中でも、別格の神秘性をもって位置づけられている。
それは、宗教的意味合いのみならず、耐震性の根源を心柱に求める説や、何十トンもある希少な巨木を運搬・加工させた権力・財力、それらをつなげて30メートル以上の高さに直立させる職人技など、我々の想像力を十二分にかき立ててくれる存在である。


◎大黒柱 と心柱

スカイツリーには、五重塔の心柱と同じ技法が用いられているのは有名。
何故、五重塔は倒れないのか? 
其れは仏教伝来によりもたらされた日本の文化革命の始まりであろう。
五重塔が倒れないのは、地震に因る揺れを ”心柱” のしなやかさが逃がす 「柔構造建造物」 だからである。
現代の住宅は釘や金物で接合すが、塔は差し込み接合で、塔の五つの部分は独立した重箱形式。
それでも地震で揺れが生じると、塔の中心に心柱が通してあり、此の心柱が共振し揺れを逃がすからだ。
日本人には古来より 「大きい巨木信仰」 があり、直径1mを超すような ”心柱” 技術を民家にも応用した。
家を作るとき地震に因る揺れを逃がす工夫に、”心柱” ならぬ一尺もあろうかとする ”大黒柱” を用いた。
いわゆる 「巨大な一本の柱 ”心柱”」 こそ安心感をもたらすという事であろう。

”大黒柱” ・・・一家の主を大黒柱というが、安定した経済状態をもたらし、家庭の揺れを防ぐ人の事である。
近年、家づくり技術は大きく進歩(?)したと言われるが、”巨木” と ”差し込み式” には敵わないのか。
科学進歩第一主義が持て囃さるが、古来よりの技術を再確認する必要もあろう。










「海国図志とは、」

2018-04-28 05:53:42 | 日本

幕末・維新期における「海国図志」について学ぶ。



『海国図志』は、清の道光22年(1842)、南京条約が締結された年の12月に、イギリスに対する清朝の降伏を憤り民族的危機を感じた魏源(ぎげん 1794-1856)が、19世紀前半の西洋諸国の情勢を説き、近代的軍備と殖産興業等による中国の富国強兵を訴えた実用の地理書です。魏源は実学を重視した学者で、アへン戦争では、浙江方面(長江下流平野の南部)で実際にイギリス軍と交戦した人でもありました。

『海国図志』は、当時の世界情勢を知ろうとする人々にとってバイブル的役割を果たし、海防と開国の難問に直面するわが国にも最新かつ豊富な情報をもたらしました。外交問題に対する判断に及ぼした影響も少なくありません。吉田松陰(よしだしょういん)や橋本左内(はしもとさない)など幕末の志士に深い感銘を与えたことでも有名ですが、幕府もまた、アメリカの情勢等をより正確に把握するために本書を活用しています。資料は光緒2年(1876)刊。全24冊。





「海国図志」と時代を動かした校正者たち

 
市川清流が参加した遣欧使節団の目的には、欧州各国と結んだ条約の改訂交渉以外に「外国事情の視察」があった。出発前から団員たちは書物を通じ欧米の文明に触れていたが、当時盛んに読まれたのは数種類の蘭書を編述した「坤輿図識(こんよ・ずしき)」や中国から輸入した「海国図志(かいこく・ずし)」「地理全志(ぜんし)」などの世界地誌だった。

このうち米、英、仏、露など列強の地理、政治体制、海防や武器などの軍事情報を網羅した海国図志は黒船来航の翌年から3年間に約20点もの「日本語版」が“緊急出版”され、幕末の世界観に影響を与えた。
 
「隣国の清がアヘン戦争に敗れたことは幕閣や諸侯らに大きな衝撃を与えた。欧米人が記した書籍から列強諸国の情報を収集することに着目した」。中国の近代思想史を専攻する文教大学の阿川修三教授(59)の研究室には数冊の海国図志が蔵される。
 
海国図志は英国人、ヒュー・マレー著「世界地理大全」を底本に、漢文抄訳した数書を清国の地方行政官だった魏源(ぎげん、1794~1856)が編纂(へんさん)した。魏源はアヘン戦争になぜ負けたのかを念頭に「夷(欧米)の長技を師として夷を制す」を理念に据え、地理や政治、歴史、外交、軍事などを記述の骨組みとした。
 
中国の貿易船に荷と混載された原書3冊が長崎に初めて入ったのは、黒船来航前の嘉永4(1851)年。禁制のキリスト教の記事があり全て蔵に一時保留された。その後、江戸に運ばれ1冊は江戸城内の紅葉山文庫、もう1冊は昌平坂学問所、残りは老中の牧野備前守に渡った。幕府は欧米列強の情報収集に本腰を入れ始めていたが、同6年6月、江戸湾に入った米国のペリー艦隊を目撃したショックは大きかった。阿川教授は「海防を中心に軍事情報を網羅した地誌の必要性が切迫した」と話す。
 
2冊は外圧の危機感を強める2人の目にとまる。一人は幕府儒家の林大学頭家に仕え、ペリー来航時の応接掛だった林復斎の補佐役、河田迪斎(てきさい、1806~59)。河田は昌平坂学問所の海国図志を精読、うち「墨利加洲(アメリカ)部」の記述に重要性を感じ原書の漢文に訓読点を施した“和製漢文”に校訂・校正した。巻末に掲載している蒸気船の図説などを付け、昵懇(じっこん)の豪農・中山家名義で嘉永7年4月に出版した。
 
もう一人は海防掛の川路聖謨(としあきら)。ロシアとの交渉担当だった川路は紅葉山文庫の海国図志を読み、老中の許可を得て日本語版の製作に着手。作業の責任者に浜松藩の儒学者でアヘン戦争の研究著書もある塩谷宕陰(しおのや・とういん、1809~67)と蘭学者でロシア交渉の通訳を務めた箕作阮甫(みつくり・げんぽ、1799~1863)を指名した。和刻(校訂・校正)には各国の海防や軍事情報、武器などを記した「籌海(ちゅうかい=海防)篇」と「俄羅斯(ロシア)国」「英吉利(イギリス)国」を選んだ。
「攘夷」思想の塩谷は、文武を兼習して人材を育てる「講武之意」を重視していたという。原書を読み込み「甚だしく精ならず頗(すこぶ)る訛字(かじ)多し」と判断。本文中の訛字を□で囲み欄外に正しい文字を記した。訛字は清朝末期の中国の漢字辞典で「字形に誤りがあり公式に字形として認めない字」とされる。

蕃書(ばんしょ)調所の首席教授で欧米の政治制度に詳しい箕作は西洋の地名や物品名などに片仮名のルビを挿入。英国の議会政治を説明する箇所では下院を「コムモンハウス」、議会は「パルリメント」とするなど正確性を期した。塩谷・箕作コンビの和刻書は同年7月に出版した。
 一方、原書の漢文を訓読してルビを付け日本語の書き下し文にしたり、中国の元号を日本の元号に直すなど分かりやすい表現に意訳したりする翻訳型の海国図誌も作られた。校訂・校正は幕府の許可を得た者からペンネームを使った“ゴースト”まで複数人おり、「実際に何人が手がけたのは不明だ。和解(わげ)書、和訳書といわれるこの形態は最も点数が多い」と阿川教授。嘉永7年から3年間で約15点の競作となった。
 
作り手側の熱気に受け手はすぐに反応した。河田や塩谷・箕作コンビの和刻書は幕府の職員録といわれる「武鑑」を手がける江戸や京・大坂の大手書肆(しょし=版元)が発行。幕閣や諸大名らが次々と買い求め、各藩の藩校などに納められた。ベストセラーとなった海国図誌の元値(中国商人から買った原書の値段)が、品薄の影響などで嘉永5年から5年ほどの間に現代の価格で50万円近くはね上がったと当時の記録にある。
 
「地位の低い役人や寺子屋の生徒まで読めるように」と校訂・校正された和解書、和訳書は和刻書より廉価で販売されたほか、さらに多くの写本が流通し全国に広がった。長州藩の吉田松陰や越前福井藩の橋本左内、肥後熊本藩の横井小楠、信州松代藩の佐久間象山ら在野の知識人が争って読み、書簡などで議論を交わしたという。

 「墨利加洲部」を校訂・校正し「墨利加洲総記」として刊行した広瀬達(山城淀藩士、のち高松藩藩儒)は「秘蔵の原書を盗み見て筆写したのを元に日本語版を完成させた」と後書きに記した。時代の求めに素早く応じた有名、無名の校正者たち。その活動は世界情勢を渇望する為政者や学者、一般民衆ら多くの日本人の魂を揺さぶった。





 
「海国図志 魏源&佐久間象山」

魏源(1794~1857)の『海国図志』(Hai-kuo t’u-chin)は、明治維新の前夜、中国から輸入された多くの書籍のうちで、当時の日本人に最も多く読まれ、かつ最大の影響を与えた。その本が1854年に輸入されてから僅か三年間のうちに、23種もの和刻本が『海国図志』というタイトルで翻刻された。この中には十六種の日本語訳(書下し文)版が含まれている。この事実は、『海国図志』が漢文の読めない庶民にも読まれたことを物語る。この本に対する日本人の熱狂的態度は、一八五六年アロー号事件において敗北を喫する以前の中国知識人の、この本に対する無関心な態度とは対照的であった。
 
当時の日本における『海国図志』の受容の仕方は三つのタイプに分けられる。
第一のタイプは、「夷の長技を師として夷を制する」こと、すなわち西洋の科学技術を採用することによって日本の独立を全うしようとするものである。
第二は、この本から戦法、戦略を学ぶことによって攘夷をしようとするものである。
第三は、西欧諸国の政治、法律、経済、ならびに社会組織における諸々の卓越した点を学び、このことを通じて日本を開化しようとするものである。
 
これらのうち、第一と第三のタイプが重要である。この論文においては第一の点のみに限って考察した。第一のタイプの社会的特性は、アーノルド・トインビー(Arnold Toynbee)によって、「ヘロデ主義者」(Herodians)と称された。そして私は、当時の日本におけるヘロデ主義者の代表者として佐久間象山(1811~1864)を選びたいと思う。
 
魏源と佐久間象山とは、お互いに何の交渉関係もないけれども、西欧の科学技術を採用するということにおいて共通の基盤をもっていた。象山は魏源を海外における「同志」とみなしている。
 
両者の差異は次の如くである。魏源は諸外国から戦艦や大砲を買うことで満足している。象山はこれに満足せず、みずから西欧のスタイルで大砲をつくることを試みた。この試練に成功するために、彼はオランダ語を学び、それをマスターした。そしてオランダ語で書かれた砲術の本を読むことによって、砲の製造に成功した。
 
象山は魏源を尊敬していたけれども、「海国図志」における砲製造法の記述を採用しなかった。なぜならそれは魏源の実験・実試二基づかず、象山にすれば「児戯」に類するものだったからである。ここでわれわれはこれら二人の対比のうちに、技術を軽蔑した中国読書人の知的文化と、技能一般の重要性を認めていた日本の武士文化との相違を想定しても、誤りではないであろう。そして更に象山は、徳川時代の科学者たちの「親試実験」の伝統をその背後にもっていたのである。










「台湾と中国」

2018-04-28 05:50:46 | 日本

台湾国民は、中国が侵攻してきた場合、軍隊に志願するか、その他の手段で抵抗すると回答した人の割合は約70%に達している。
日本国民の場合、自衛隊に志願し抵抗すると答えた人は、約7%。大和民族は、居なくなったようだ。(翻訳:ガリレオ)


◎緊張のなか台湾が軍事演習──中国が攻めてきたら7割が「戦う」
 
<台湾近海での恫喝的な軍事演習を増やしている中国に対し、台湾も「中国軍の撃退」を想定した演習を始める>
 
中国との緊張が高まる中、台湾が4月30日からの軍事演習で「侵略勢力の撃退」を想定したシミュレーションを行うことがわかった。
 
ロイターの報道によると、台湾政府が実施するこの一連の軍事演習には、民間企業が初めて参加し、空軍基地滑走路の緊急補修演習を行うほか、民間企業が操作するドローンも参加するという。
 
この「漢光(Han Kuang)」演習は毎年恒例で、2018年の演習は4月30日から、実弾演習は6月4日から実施される。ただし、仮想敵国として中国の名前は挙げておらず、「台湾に侵略する敵対勢力」との記述があるのみだ。今回は、実弾射撃を伴う実動演習に加え、「海岸線での敵軍撃退」演習も行われる。
 

◎民間も参加して総力戦
 
実弾演習は6月4日~8日までの日程で実施され、台湾の軍事演習としては初めて、他の政府機関や民間が参加する。沿岸警備隊や、航空救難任務を担当する空中勤務総隊との合同演習が行われるほか、民間企業が操作するドローンが戦場の状況監視を補助する。さらに、民間の建設会社が、清泉崗(せいせんこう)空軍基地で滑走路の緊急修理演習を実施する。
 
台湾国防部は、「今回の演習では、民間資源も一体となって軍事演習をサポートする」とコメントしている。
 
台湾は2018年1月にも、台湾東部の花蓮港(かれんこう)で、偵察機やF-16ジェット戦闘機が参加する軍事演習を行った。
 
中国は台湾を国家として認めておらず、中国の不可分の領土だと主張している。とくに2016年に台湾独立推進派の民主進歩党から蔡英文が総統に選出されて以降、中国の示威行動は激しさを増している。
 
中国は2017年に入り、台湾付近での軍事演習を増やしており、台湾の領海および領空を侵犯することもしばしば。また、4月18日には、台湾海峡で大規模な軍事演習を実施した。
 
台北を拠点とするシンクタンク、国家政策研究財団の掲仲は、中国政府のこうした行動について、台湾に対する心理作戦だと見る。
 
掲はシンガポールのニュース専門チャンネル「チャンネル・ニュース・アジア」に対して、「中国政府はこの1~2年、あまり費用がかからない小規模かつ限定的な軍事演習を定期的に行って心理戦を仕掛けている」と述べている。
 
一方アメリカは、中国の「一つの中国」政策を支持しているものの、中国の侵攻からは台湾を守るとして、台湾にアメリカ製の武器を供与している。
 
台湾民主基金会が2018年1月に行った世論調査によると、中国が侵攻してきた場合、軍隊に志願するか、その他の手段で抵抗すると回答した人の割合は68%に達している。
 
また台湾の独立を懸けた戦争が起きた場合、55%が参戦すると述べたものの、その一方で91%が、独立よりも実質的に主権が保たれた現在の状態の維持を望むと回答した。
 
台湾が中国と再統一されるべきだと考える人は、アメリカの外交専門誌ナショナル・インタレストによれば、わずか1.5%にすぎなかった。
 
 













「同盟を強固にした目に見えない力、横田滋さん」

2018-04-27 08:36:15 | 日本

西村真悟さんが「同盟を強固にした目に見えない力、横田滋さん」につい掲載している。
以下、要約し記す。



私が、直感し確信したことを記しておきたい。
それは、横田めぐみさんのご両親、父の滋さんと、母の早紀江さんには、日本を動かす力、して、世界を動かす力が天から与えられている、ということだ。

平成十四年九月十七日
北朝鮮の平壌を訪問した小泉純一郎総理一行は、同日の午前、北朝鮮の金正日から、拉致被害者は、五名が生きているが、めぐみちゃんを含む八名は死亡していると伝えられた。
そして、同日の午後五時頃、東京の外務省公館に官房長官と外務政務次官が拉致被害者家族を呼び、滋さんと早紀江さんに、「残念ですが、あなたの娘さんは、既に死亡しています」
と死亡を宣告した。
その三十分後に、記者会見に臨み、滋さんはマイクの前に座り早紀江さんはその後ろに立った。

そして、滋さんは、娘のめぐみちゃんが死亡したと告げられたと話して嗚咽し声が出なくなった。
その時、早紀江さんがマイクを握り、「・・・こうして大きな政治の中の大変な問題であることを暴露しました。

このことは本当に日本にとって大事なことでした。
北朝鮮にとっても大事なことです。
そのようなことのために、ほんとうに、めぐみは犠牲になり、また使命を果たしたのではないかと私は信じています。
いずれ人は皆、死んでいきます。
ほんとうに濃厚な足跡を残していったのではないかと、私はそう思うことでこれからも頑張ってまいります。
まだ生きていることを信じ続けて戦ってまいります。
皆さん、めぐみを愛してくださってありがとうございます。
めぐみのことを報道してくださってありがとうございます。」と言った。

言い知れぬ感動が記者会見場を包んだ。
この時から、拉致被害者救出は、全国民の願いとなり国民運動となった。

そして、皇后陛下は、十月二十日のお誕生日(地久節)において次のお言葉を国民に発せられた。
「小泉総理の北朝鮮訪問により、一連の拉致事件に関し、初めて真相の一部が報道され、驚きと悲しみとともに、無念さを覚えます。
何故私たちみなが、自分たち共同社会の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることができなかったのかとの思いを消すことができません。」

後日、私は早紀江さんに尋ねた。
「あの、記者会見での話は、事前にしゃべろうと思っておられたのですか」
すると、早紀江さんは、答えた。
「いえ、主人が泣き崩れたので、夢中に話したのです。
何を話しているのか、分かりませんでした。」

平成三十年四月、
安倍総理のアメリカ訪問とトランプ大統領との日米首脳会談が予定され、そこで、トランプ大統領に、米朝首脳会談において
北朝鮮の金正恩に対し、拉致した日本人被害者を解放するよう、要求してもらう要請をすることになっていた。

ここにおいて、私は、自国民を自らの力で救出する具体的努力をせずに、他国に依存する我が国の戦後政治に、情けなさ、悲哀を感じていた。

まず、我が国内における徹底的な努力、それは、例えば、我が国内の北朝鮮隷下の機関である朝鮮総連の実態の徹底的究明と、イギリスが行ったロシア外交官の国外追放のように、北朝鮮関係者の「このましからざる人物」(ペルソナ・ノン・グラーダ)の国外追放だ。

そのような時、四月十日、同志の有泉たかしさんから、「滋さんが入院している」という知らせがあった。
四月十二日、東京に行き、東京駅で有泉さんと落ち合って、三人で滋さんの病院に向かった。

ベットの上で寝ている滋さんに会った。
中学に入学した時の桜の花の下のめぐみちゃんの写真が寝ている滋さんが眺めることができるように置かれていた。
滋さんは、言葉を発しなかったが、私に微笑み、有泉さんの問いかけに、娘のめぐみちゃんに会いたいという強い意志を示した。

その時、私は、平成十四年九月十七日の早紀江さんと同じ、目に見えない強い力が滋さんに与えられていると感じた。
病室から退出するとき、滋さんは上半身を起こして私を見た。
早紀江さんが驚いていた。

その後、川崎の駅で、早紀江さんと別れる前、急に涙がでてきた。
そして、言った。
滋さんは、目に見えない強い力をもっている。
この力は、日本を動かしアメリカを動かす力だ。
安倍総理は、この滋さんの力を直に感じて、アメリカに行き、トランプ大統領と会見するべきだ、と。

安倍総理は、病院の滋さんに会ってからアメリカに向かった。
もはや、トランプ氏にお願いに行くのではなく、めぐみさんの父母の、天から与えられた力を伝達するために行ったのだ。
今朝の朝刊(産経新聞)は、トランプ大統領の様子を次のように記している。

・・・ところが、拉致問題の話題では、トランプ氏は神妙な面持ちになり、最後にこう語った。
「拉致問題へのシンゾーの情熱はすごいな。
貿易問題とは迫力が違う。
長年執念を燃やし、決してあきらめない態度はビューティフルだ。
シンゾーの情熱が自分にも乗り移ったよ。
私も拉致被害者のご家族にもお会いしたんだ。
最大限の努力をするよ。」

この記事を読んで、川崎の病院で寝ている滋さんの力が、アメリカのアールアラーゴにいるトランプ大統領に伝達されていることを感じた。
ということは、滋さんの力は、トランプ大統領と安倍総理を「同志」にしたということだ。
もはや二人の関係は、頼む者と頼まれた者の関係ではない。
安倍総理、よくやってくれた。
トランプ大統領は、言った通りするだろう。

安倍総理は、このトランプ大統領の目に見えることをすべきだ。
それは、来たるべきアジアの動乱に際し、また朝鮮半島の無政府的混乱に際し、アメリカの青年だけを危険にさらし戦わせるのではないことを明確に示すことだ。
それは、つまり、防衛予算の十兆円への二倍の増額と日本海、東シナ海および南シナ海そして西太平洋における日米合同軍事演習の開始だ。








「福沢諭吉が見抜いた韓国の本質」

2018-04-26 05:28:47 | 日本

「福沢諭吉が見抜いた韓国の本質」の論文が掲載されていた。
まったくその通りである。参考になるので、以下、要約し記す。



福沢諭吉は朝鮮を見限った。
  
韓国の不実はいまに始まったことではない。明治の傑出した知識人、福澤諭吉は当時すでにそのことを看破していた。「脱亜論」で彼はなぜ朝鮮を見限ったのか。いまこそその背景にある思想に学ぶべきだ。文芸評論家の富岡幸一郎氏が解説する。
 
『左れば斯る国人に対して如何なる約束を結ぶも、背信違約は彼等の持前にして毫も意に介することなし。既に従来の国交際上にも屡ば実験したる所なれば、朝鮮人を相手の約束ならば最初より無効のものと覚悟して、事実上に自ら実を収むるの外なきのみ』(『時事新報』明治三十年十月七日)
 
これは福澤諭吉の言葉であるが、まさに現在の日韓関係の本質を言い当てているではないか。ただし福澤は決して「嫌韓」論者なのではなかった。後で引く有名な「脱亜論」もそうである。彼は西洋列強のアジアへの帝国主義的な侵略にたいして、明治維新によって近代化の道を拓いた日本こそが、中国や朝鮮にたいして力を貸して共に連帯して抗すべきであると考えていた。
 
また亜細亜という言葉から中国(清朝)と朝鮮を同じく捉えていたのではなく、むしろ朝鮮をアジア同胞として清韓の宗属関係から脱却させ日本のように文明化させることの必要性を説き尽力したのである。李氏朝鮮の旧体制(血族や門閥による支配)のままでは早晩、清国やロシアの植民地となり、それはそのまま日本の国難になるからだ。
 
李朝末期のこの腐敗した絶望的な国を変革しようとした開化派を福澤は積極的に支援し、そのリーダーであった金玉均らの青年を個人的にも受け入れ指導教育を惜しまなかった。また朝鮮に慶應義塾の門下生を派遣する行動を起こし、清朝の体制に取りこまれるのをよしとする朝鮮王朝の「事大主義」の変革をうながした。
 
清仏戦争が勃発し、清国軍が京城から退却したのを機に開化派がクーデターを企てるが(甲申事件・明治十七年)、それが失敗に帰したことから、朝鮮における清国の影響力は決定的となった。福澤のなかにあった日本による朝鮮の文明化の期待も潰えた。
 
日本に十年余り亡命した金玉均も明治二十七年上海で朝鮮の刺客に暗殺され、その遺体は無残に切断され国中に晒された。福澤に「脱亜論」を書かしめたのも、朝鮮の開明派、独立派の人々への必死の支援がことごとくその固陋な中国従属の封建体制によって無に帰したことによるものだ。
 

『我日本の国土はアジアの東辺に在りと雖ども、その国民の精神は既にアジアの固陋を脱して西洋の文明に移りたり。然るに爰に不幸なるは近隣に国あり、一を支那と云い、一を朝鮮と云う。』(「脱亜論」明治十八年三月十六日)。
 
この近隣にある「二国」は、
『その古風旧慣に恋々するの情は百千年の古に異ならず……教育の事を論ずれば儒教主義と云い、学校の教旨は仁義礼智と称し、一より十に至るまで外見の虚飾のみを事として……道徳さえ地を払うて残刻不廉恥を極め、尚傲然として自省の念なき者の如』
 
 福澤の文章の烈しさは、そのまま朝鮮の開化を祈念していた彼の思いの裏返しの憤怒であった。しかし福澤は「文明化」自体に絶対的な価値を置いていたのではない。「脱亜論」の冒頭でも「文明は猶麻疹の流行の如し」といい、「有害一偏の流行病にても尚且その勢いには激すべからず」として文明化は利害相伴うものであることも語っている。
 
むろん福澤はアジアのなかで唯一文明化に成功した日本を正しい選択であったとしている。大切なのは西洋文明の波がかくも急速に高く押し寄せているときに、旧態依然の「外見の虚飾」を捨てない朝鮮の政体と人民への絶望と苛立ちをはっきりと表明してみせた言論人としての姿勢である。
 
『左れば今日の謀を為すに我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予あるべからず、寧ろその伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、その支那、朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分すべきのみ。悪友を親しむ者は共に悪名を免かるべからず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。』
 
当時も今も国際社会のなかで外交を「謝絶」することはできない。問題は「心に於て」、すなわち日本はユーラシア・中華帝国の膨張の現実を前にして、この世界史に参与すべく如何なる「思想」を自ら打ち建てるかである。
 
韓国に関していえば日韓基本条約(一九六五年)で国交正常化をなし、日本から韓国への膨大な資金提供もあり「漢江の奇跡」と呼ばれた経済復興を成し遂げたにもかかわらず、日本のおかげというその現実を認めたくないがために慰安婦問題や戦時徴用工などの「歴史問題」を繰り出し続けてやまない。その国家としての態度に日本は毅然とした「処分」を示さねばならない。韓国がやっているのは、福澤のいうまさに「外見の虚飾のみを事として」の「背信違約」の狼藉三昧である。
 
かかる「悪友」への処し方を、われわれは今こそ明治国家の多極的な外交戦略と、その背後にあった福澤諭吉のような近代日本の思想的先達によくよく学ぶべきであろう。
 
 









「セクハラで空転する国会はデモクラシー末期」

2018-04-25 06:36:03 | 日本

池田信夫さんが「セクハラで空転する国会はデモクラシー末期」について掲載している。
まったく、同感である。以下、要約し記す。



国会は今週ずっと、財務次官のセクハラ問題で審議が止まっている。野党6党は国会内で集会を開き、女性議員はセクハラ運動のプラカードを掲げ、喪服をつけて麻生総務相の辞任を求めた。

これを見て私は、
もう日本のデモクラシーは終わったと思った。

国会は法案や予算を審議する「国権の最高機関」であって、個人のスキャンダルを暴く場ではない。そんなことはいうまでもないが、ここ1年以上、国会は森友・加計やセクハラなどのくだらないスキャンダルで埋まっている。

こういう状態は、戦前の政党政治末期に似ている。1923年の朴烈事件では、政治犯が女と抱き合う写真が帝国議会で問題になり、野党は内閣の「監督責任」を追及した。議会はこのスキャンダルで空転し、若槻内閣は総辞職した。これが政党政治の行き詰まるきっかけだった。
スキャンダルに明け暮れる政党政治に国民はいやけがさし、金融恐慌で窮乏化した農村を救済すると称して北一輝などのファシストが出てきた。軍部は腐敗した政治家を追放して総力戦体制を築こうと満州に進出を図った。

戦前も今も大衆は政策には関心がなく下ネタが好きだから、野党はそういうわかりやすい不祥事を騒ぎ立てる。マスコミもそれを応援して、内閣が倒れるまでスキャンダルを煽る。こうして内閣が弱体化して政党政治が機能しなくなると、国民は軍部を熱狂的に支持した。
つまり戦前の政治がおかしくなった原因は、デモクラシーと軍部の対立の中で軍部が暴走したのではなく、普通選挙で大衆迎合に走ったデモクラシーの暴走だった。政党は1930年代末まで存在しており、政党を超える独裁政権が出てきたわけではない。むしろ政党は軍部の対外的膨張主義に積極的に「翼賛」した。それを煽動したのが新聞だった。

デモクラシーが第1次大戦以降に支配的になったのは、戦争に強いからだ。ドイツもオーストリアもオスマンもロシアも、帝政は戦闘で負けたわけではなく、国内の革命で崩壊した。デモクラシーは国民を主権者として「自分の戦争」に総動員するので、長期戦に強いのだ。

しかし普通選挙で過剰に代表された大衆の関心は金と女のスキャンダルに集中し、議会は機能しなくなる。戦前の場合はそこに軍部が出てきたが、戦後の自衛隊にはそういう求心力はない。官邸主導の安倍政権が終わると、またコンセンサスの得られない問題を果てしなく先送りし、内閣が毎年変わる「決まらない政治」が始まるのだろう。












「兵法書⑨」

2018-04-24 05:39:55 | 日本

【六韜】


『六韜』(りくとう)は、中国の代表的な兵法書で、武経七書の一つ。このうちの『三略』と併称される。「韜」は剣や弓などを入れる袋の意味である。一巻に「文韜」「武韜」、二巻に「龍韜」「虎韜」、三巻に「豹韜」「犬韜」の60編から成り、全編が太公望呂尚が周の文王・武王に兵学を指南する設定で構成されている。中でも「虎の巻(虎韜)」は、兵法の極意として慣用句にもなっている。


◎先秦の古書

『六韜』は宋代に刊行された宋刊本が通行していたが、『漢書』巻30藝文志「兵書略」にその名が見えず、『隋書』巻34経籍志「兵家」にその書名が見える。このため姚際恒は『古今偽書攷』で秦漢以降の偽作と論じている。しかし、1972年に発掘調査された銀雀山漢墓群(前漢武帝期の造営)より出土した竹簡の中に「文韜」「武韜」「虎韜」の残簡(竹簡53枚)が検出され、前漢前期の紀元前2世紀には既に流布していたことが判明した。このことから、戦国時代には成立していた可能性が高いとされる。


◎伝承

前漢創業の功臣である軍師張良が黄石公から譲り受けたといわれている書物でもある[5]。
日本では、朝廷の書物を管理していた大江維時が10世紀初めの930年頃、唐から『六韜』『三略』および『軍勝図』(諸葛亮の八陣図)を持ちかえったが、これらの兵書を「人の耳目(じもく)を惑わすもの」とし、大江家にのみ伝え、他家に秘して、しばらくの間は広まらなかったとされる(大江家が兵書を伝えたのは、古代では天皇の勅命でやむをえずの場合)。このほか、源義経が陰陽術師の鬼一法眼から譲り受けたという伝説や、大化の改新の際に中臣鎌足が暗唱するほど読み込んでいたという言い伝えが残っている。


◎内容

第一巻
「文韜」 - 戦を始めるに当たり、準備や政治問題の記述。
「武韜」 - 政治的戦略についての記述。
第二巻
「龍韜」 - 作戦指揮や兵力配置などの記述。
「虎韜」 - 平野部での戦略、武器の使用法についての記述。別名、虎の巻。
第三巻
「豹韜」 - 森林・山岳など地形に応じた戦略についての記述。
「犬韜」 - 兵の訓練・編成、兵種に応じた作戦の記述。

特色の一つとして、『孫子』では寡戦(小勢で大勢と戦うこと)を説かないが、『六韜』では寡戦を説く部分が見られ(詳細は寡戦を参照)、これが戦闘姿勢に対する違いといえる。


◎将軍への全権委任

『六韜』「立将篇」では、君主が戦争の全権を将に移譲する儀礼を行い、口出しさせない誓いを立たせているが、このスタイルはクラウゼヴィッツの『戦争論』と対比される。『戦争論』では、戦争は政治の一手段であり、軍はあくまで政治家の管轄下(シビリアンコントロール)とされる。『孫子』を初めとする中国兵法において、君主が軍事行動に口を出さない思想があったのは、古代中国において、政治家と軍人が未分離の状態であったためとされ、将軍が政治にも精通していたためとされる。


◎歩騎兵力の換算

『六韜』における用兵論の一つとして、「平坦な土地」においては、1騎に対し、歩兵8人で対抗できると記し、山間など「険しい土地」では、1騎に対し、歩兵4人で戦えると記述されており、土地柄によって歩兵で騎兵を相手にできる人数を説いている。




<完>






「兵法書⑧」

2018-04-23 06:16:12 | 日本

【兵法三十六計】


『兵法三十六計』(へいほうさんじゅうろっけい、中: 三十六計)は、魏晋南北朝時代の中国の兵法書。兵法における戦術を六段階の三十六通りのに分けてまとめたものである。魏晋南北朝時代の宋の将軍檀道済は著者。「三十六計逃げるに如かず」の語源である。


◎概要

1941年、邠県(現・陝西省彬県)において再発見され、時流に乗って大量に出版された。様々な時代の故事・教訓がちりばめられ、中国では兵法書として世界的に有名な『孫子』よりも民間において流通し、日常生活でも幅広く流用されている。

この本は南斉書の王敬則伝「敬則曰、『檀公三十六策、走是上計』」の語源である[1][2]。
荒削りな部分が見られ、戦術とは呼べないようなものが含まれていることがある。また、権威付けのために『易経』からの引用を使って解説しているが、どれも名文とは言い難い。六計六組の配列も入れ替えたほうが良い部分があるとも指摘され、このようなことが三十六計が歴史の中に埋もれてしまった理由だと思われる。


◎勝戦計

こちらが戦いの主導権を握っている場合の定石。
瞞天過海 - 敵に繰り返し行動を見せつけて見慣れさせておき、油断を誘って攻撃する。
囲魏救趙 - 敵を一箇所に集中させず、奔走させて疲れさせてから撃破する。
借刀殺人 - 同盟者や第三者が敵を攻撃するよう仕向ける。
以逸待労 - 直ちに戦闘するのではなく、敵を撹乱して主導権を握り、敵の疲弊を誘う。
趁火打劫 - 敵の被害や混乱に乗じて行動し、利益を得る。
声東撃西 - 陽動によって敵の動きを翻弄し、防備を崩してから攻める。


◎敵戦計

余裕を持って戦える、優勢の場合の作戦。
無中生有 - 偽装工作をわざと露見させ、相手が油断した所を攻撃する。
暗渡陳倉 - 偽装工作によって攻撃を隠蔽し、敵を奇襲する。
隔岸観火 - 敵の秩序に乱れが生じているなら、あえて攻めずに放置して敵の自滅を待つ。
笑裏蔵刀 - 敵を攻撃する前に友好的に接しておき、油断を誘う。
李代桃僵 - 不要な部分を切り捨て、全体の被害を抑えつつ勝利する。
順手牽羊 - 敵の統制の隙を突き、悟られないように細かく損害を与える。


◎攻戦計

相手が一筋縄でいかない場合の作戦。
打草驚蛇 - 状況が分らない場合は偵察を出し、反応を探る。
借屍還魂 - 死んだ者や他人の大義名分を持ち出して、自らの目的を達する。
調虎離山 - 敵を本拠地から誘い出し、味方に有利な地形で戦う。
欲擒姑縦 - 敵をわざと逃がして気を弛ませたところを捕らえる。
抛磚引玉 - 自分にとっては必要のないものを囮にし、敵をおびき寄せる。
擒賊擒王 - 敵の主力や、中心人物を捕らえることで、敵を弱体化する。


◎混戦計

相手がかなり手ごわい場合の作戦。
釜底抽薪 - 敵軍の兵站や大義名分を壊して、敵の活動を抑制し、あわよくば自壊させる。
混水摸魚 - 敵の内部を混乱させ、敵の行動を誤らせたり、自分の望む行動を取らせる。
金蝉脱殻 - あたかも現在地に留まっているように見せかけ、主力を撤退させる。
関門捉賊 - 敵の退路を閉ざしてから包囲殲滅する。
遠交近攻 - 遠くの相手と同盟を組み、近くの相手を攻める。
仮道伐虢 - 攻略対象を買収等により分断して各個撃破する。


◎併戦計

同盟国間で優位に立つために用いる策謀。
偸梁換柱 - 敵の布陣の強力な部分の相手を他者に押し付け、自軍の相対的立場を優位にする。
指桑罵槐 - 本来の相手ではない別の相手を批判し、間接的に人心を牽制しコントロールする。
仮痴不癲 - 愚か者のふりをして相手を油断させ、時期の到来を待つ。
上屋抽梯 - 敵を巧みに唆して逃げられない状況に追い込む。
樹上開花 - 小兵力を大兵力に見せかけて敵を欺く。
反客為主 - 一旦敵の配下に従属しておき、内から乗っ取りをかける。


◎敗戦計

自国がきわめて劣勢の場合に用いる奇策。
美人計 - 土地や金銀財宝ではなく、あえて美女を献上して敵の力を挫く。
空城計 - 自分の陣地に敵を招き入れることで敵の警戒心を誘い、攻城戦や包囲戦を避ける。
反間計 - スパイを利用し、敵内部を混乱させ、自らの望む行動を取らせる。
苦肉計 - 人間というものは自分を傷つけることはない、と思い込む心理を利用して敵を騙す。
連環計 - 敵と正面からぶつかることなく、複数の計略を連続して用いたり足の引っ張り合いをさせて勝利を得る。
走為上 - 勝ち目がないならば、戦わずに全力で逃走して損害を避ける。












「兵法書⑦」

2018-04-22 05:45:22 | 日本

【兵法家伝書】


『兵法家伝書』(へいほうかでんしょ)は、江戸時代初期の剣豪・柳生宗矩によって寛永9年(1632年)に著された兵法(剣術:柳生新陰流)の伝書であり、またその代表的著作でもある。
同世代の剣豪・宮本武蔵の著した『五輪書』と共に、近世武道書の二大巨峰といわれる。現在は岩波文庫から渡辺一郎校注によるものが刊行されている。


◎概要

『兵法家伝書』は、江戸幕府3代将軍・徳川家光のために将軍家兵法指南役・柳生宗矩が確立した柳生新陰流(江戸柳生)の兵法思想を記した武道書である。
「進履橋」「殺人刀」「活人剣」の三部構成になっており、「進履橋」のみ、流儀を極めた者に対し、相伝の印として授ける目録となっているが、基本的には「家を出でざるの書也」とされ、柳生家の秘書とされている。

その内容は、「進履橋」は父宗厳(石舟斎)から相伝された「習い(技法)」を目録として示し、「殺人刀」「活人剣」は、宗矩が独自に体得した兵法の理である「習いの外の別伝(心法等)」について説いたものとなっている。全体を通じて心法についての説明について多くを割いており、「活人剣」「大なる兵法」「治国平天下の剣」「平常心」「無刀」「剣禅一致(あるいは剣禅一如)」など後の武道に影響を与えた概念が提示されている。


◎進履橋

題名の「進履橋(しんりきょう)」は、古代中国の軍師・張良と黄石公の逸話から取られたものである。宗矩が父・柳生宗厳(石舟斎)から相伝された新陰流の勢法(形)についての目録となっているが、通常の目録とは異なり、伝書と中間の形式を取っている。基本的に宗厳の教えを踏襲しているが、「五ケの習」で示された身作りついての説明や、上位の高弟にしか稽古が許されない「奥の太刀」については宗矩による改変が見られる。


◎殺人刀

「さつじんとう」ではなく、「せつにんとう」と読む。新陰流の勢法の中にも同名のものが存在するが、大元は禅の公案集である『碧巌録』、『無門関』などからの引用である。その内容は、「古にいへる事あり、『兵は不祥の器なり。天道之を悪(にく)む。止むことを獲ずして之を用いる、是れ天道也』」という三略の引用から始まり、「兵法の目的とは」「大将たる者にとって必要な兵法とは何か」「兵法を治国に活かすとはどういうことか」ということを説きつつ、新陰流の兵法のうち、心法(特に「平常心」を得る事)に重点を置き、様々な例えや形容を用いて解説している。また「致知格物(格物致知)」のように、『大学(四書のひとつ)』などから引用された儒教的な要素も組み込まれている。


◎活人剣

「かつじんけん」ではなく「かつにんけん」と読む。これも『碧巌録』、『無門関』などからの引用である。「進履橋」と異なり、「殺人刀」と内容的な部分においては大きな差はなく、ふたつでひとつの書として捉えるのが適当である。特徴として「無刀之巻」と呼ばれる、柳生新陰流の特色である「無刀」について解説した項が含まれる。

「無刀之巻」
「無刀」について解説がなされている箇所である。一般にイメージされるような、一種の悟りや平和主義などに類する思想的なものではなく、実用性の強調された護身術としての心構えが説かれている。柳生新陰流の極意であり、「専一の秘事」であると同時に、普段の稽古の時から、全ての技法・心法[4]は「悉く、無刀の(間)積もりからでる」ものであると説明されている。


◎成立の経緯

将軍家兵法指南役であった柳生宗矩は、将軍家が修めるに相応しい兵法と、それを記した伝書を作成することを目指していた。宗矩が目指していた将軍家に相応しい兵法は、「1対1で立ち合うための技法(いとちいさき兵法)」ではなく、「もろもろの軍勢を働かし、太平時に於いては治国の術ともなる兵法(大なる兵法)」でなければならなかった。そのために、家光自身の心の鍛錬、即ち『修身』につながるものを目指すこととなった。
この方向性に基づき、宗矩は具体的な理論を確立するべく、懇意にしていた禅僧・沢庵に相談し、心法の理論化についての助言を求めた。この宗矩の依頼を受け、沢庵が著したと見られるのが『不動智神妙録』である。

この書で説かれた「剣禅一致」の思想を、自身の修めた新陰流と重ねあわせ、更に、漢籍の古典(大学、三略など)も取り入れて理論化することで、宗矩は将軍家御流儀としての柳生新陰流(江戸柳生)の兵法思想を確立するに至った。その思想を伝書の形で著したことで、『兵法家伝書』は成立したのである。


◎伝授者

伝授された原本が現存している者
柳生三厳(十兵衛) - 正確には「柳生家の次期当主」としての三厳であり、三厳自身が伝授者として宗矩に認められていたかどうかは不明。またこの柳生家に伝わるものが、おそらく最初の原本であろうと思われる。

鍋島勝茂 - 柳生家、及び将軍家以外に最初に伝授されたものである。
細川忠利 - 沢庵の識語の載った白紙印可状が添えられている。
鍋島元茂 - 花押は、宗矩が死の間際に記したとされる「乱れ花押」である。
原本は不明だが、伝授されていても不自然ではない者
徳川家光


◎影響

『不動智神妙録』と共に「剣禅一致」に象徴される兵法を通じての修身を説いた最初期の書物であり、また同時に、伝授は口伝が主で、技法名の目録のみであることの多かった従来の兵法伝書と異なり、その技法や思想の理論化/明文化を行なった意味でも画期的な兵法伝書であった。
ここで示された兵法思想は、後に成立する諸流派の兵法伝書にも影響を与え、従来の実戦のための「武芸」から、修身のための「武道」への変遷のきっかけとなった。

◎補足
なお、『兵法家伝書』で記された思想は柳生新陰流のうち、将軍家御流儀である江戸柳生の思想であり、尾張柳生はこの思想とは無関係である(尾張柳生家の家祖・柳生利厳(宗矩の甥・兵庫助)は、別に『始終不捨書』という伝書を著している)。















「兵法書⑥」

2018-04-21 05:52:31 | 日本

【不動智神妙録」


不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)は、江戸時代初期の禅僧・沢庵宗彭が執筆した「剣法(兵法)と禅法の一致(剣禅一致)」についての書物である。執筆時期は諸説あるが、内容から見て寛永年間(1624年から1645年)であろうと推測される。別称を『不動智』、『剣術法語』、『神妙録』とも呼ばれ、原本は存在せず、宗矩に与えられた書も、手紙か本か詳しい形式は判明していない。


◎概要

徳川将軍家兵法指南役・柳生宗矩に与えられ、『五輪書』、『兵法家伝書』等と並び、後の武道に多大な影響を与えた書物である。また、沢庵の同種の著作として『太阿記』もある。
心が一つの物事に捉われれば(意識し過ぎれば)、体が不自由となり、迷えば、わずかながらでも心身が止まる。これらの状態を禅の立場から良しとせず、達人の域に達した武人の精神状態・心法を、「無意識行動」かつ心が常に流動し、「迷わず、捉われず、止まらず」であることを説き、不動智を「答えより迷わず=結果より行動」に重きを置く禅問答で説明(当書の「石火之機」)したもので、実質的には心法を説いた兵法書であり、実技である新陰流と表裏一体で学ぶもの(当書「理の修行、事の修行」)としている。

海外では、オイゲン・ヘリゲル著の『弓と禅』において、一部、紹介されており、西洋諸国の身体運用法とは異なり、意識して動いている内は達人の域ではないとした(意識からの解脱論法の)考えが日本では古くからあり、『不動智神妙録』を例に挙げ、研究対象として貴重である旨の記述がなされている(紹介文では、沢庵は、意識して動く者をどうすれば救えるかといったことを述べている)。ただし、日本兵法書において、「意識して動いている内は武人として未熟である」とした考え方自体は、禅の思想の流入以前からあり、『闘戦経』内の「知りて知を有(たも)たず、虜(おもんばか)って虜を有たず。ひそかに識りて骨と化し、骨と化して識る」(知っただけでは忘れてしまうものであり、真に覚えるとは、ひそかに識って骨と化し、骨と化して識るものである)と記述しており、体に覚え込ませる(無意識に働かせる)思想がそれ以前からあることがわかる。


◎無明住地煩悩

「無明」とは「迷い」を指し、「住地」とは仏教の修行段階の五十二位の一つで、「住」には「止まる」の意も含む。心が迷って止まる状態はよくないと説明する。
相手が太刀を振るう時に、かかって来ると思った瞬間から自分の心は相手の動きに奪われていると説き、無心で懐に飛び込めば、相手の刀も奪って逆に斬ることも可能であると「無刀」の心構えについて説いている。自由に動くためには「誰がどう打って来る」とか「敵の心を読めば(こちらの心を見透かされる)」など意識的に動いてはいけないことを諭す。相手の刀の動きも、タイミングも、自分の刀の動きも、心を奪われる対象であり、不自由になるだけであるとして、禅の立場から思考対思考の対決を否定した記述がなされている。


◎諸仏不動智

不動とあるが、全く動かないという意ではなく、心は自由に動かし、一つの物、一つの事に少しも心を捉われていないのが、不動智であると説く。不動智を最も体現した不動明王の如く動ければ最良であるとする。
例として、10人が1人ずつ斬りかかって来た時、一太刀を受け流したとして、そのことに心が留まっていれば、即次に対応はできず、10人に対して応じるには、10度心を動かす他ないとする。千手観音にしても千本ある手の内、弓を持った一つの手に心が捉われれば、残った999の手は全て役に立たないと説明し、一つに心が捉われていないからこそ、千本全ての手が役に立つとする。木の葉の例をとって、一枚の落ち葉(動くもの)を注視するのではなく、全体を無心で観ることによって、多くの葉を観ることが可能となる話や初めて刀を持った者は(構えなどに対して)心を捉われていないなど、例え話を含む。


◎理の修行、事(わざ)の修行

仏教における「理」は、つきつめれば無心となり、捉われない(境地)の意で、「事(わざ)」は、新陰流の五つの構えの他、様々な技術であると記す。理合を解するだけでなく、自由に動かす技術がなければならないとする。


◎間不容髪

常に流れ動く心の状態がよいと説き、隙がない状態・物事を説明した記述。


◎石火之機

心が物事に捉われていなければ、素早く動けるが、素早いことが重要なのではないと説く。素早く動かなければ、という思いも、また心が捉われている証しであり、心が止まっている状態であるとする。
名を呼ばれて、反射的に「お?」と応じるのが、「不動智」の状態であり、思いをめぐらした末に「ご用は」と応えるのが、「迷い」=心が止まっている状態であると説明している。


◎心の置所

この問題に対する答えとして、沢庵は、どこにも置かないことが仏法の境地であるとし、必要に応じるためには一ヶ所に定めるなとする。孟子の「放心を求めよ」も間違いではないが、仏法の境地の前では、まだ低い段階(俗的境地)であると認知している。


◎本心妄心

「本心」とは、一ヶ所に心が留まらず、広がった状態を指し、「妄心」とは、一ヶ所に心が留まり、固まっている(止まっている)状態であると説明する。水と氷で例えており、溶かした水だからこそ、幅広く役立つと説く。


◎有心の心、無心の心

前者は「妄心」と同意で、後者は「本心」と同意であると説明している。


◎水上打₂胡藘子₁捺着即転

水面に浮かんだひょうたんを捺(な)着=手で押したところで横に横にと転がり逃げ、さらに押したところで逃げられ、一ヶ所に止まらない事象を引用して、高い境地に達した人は、このひょうたんの如く、止まるところはないと説く。

◎応無所住而生其心
「応(まさ)に住する所無くしてその心を生ず」と読むとしている。心を止めないまま、やろうと思わなければならないことを説く。


◎求₂放心₁

孟子の「放心を求めよ」の言葉(俗的境地)からさらに高い仏法的境地に至るためにはと考察する。


◎急水上打毬子、念々不停留

「急流に投げた毬は少しも止まらない」という言葉から一つの所に止まらないことを示す。


◎前後際断

以前と今を切り離し、心を止めぬことを示す。

◎敬の一字

この言葉は心法を表したものであるとし、自心を治めることを説く。


◎影響

『不動智神妙録』の思想は、他書にも影響が見られ、『願立剣術物語』第四十段目の「迷いたる目を頼み、敵の打つを見て、それに合わんとはかるは、雲に印の如くなり」は当書の「無明住地煩悩」で説かれている事と同じであり、他にも「ものに取り付き、止まるところに閉じられ、氷となり、水の自由なる理を知らず」も当書の「本心妄心」で説かれている事と同じである。
また18世紀成立の談義本『天狗芸術論』(不動智が禅主体に対し、儒教主体の剣術書で同様に精神面を説く)巻之一で2人目の天狗が、意識し過ぎる(意図ある)ことの害や未熟者には迷いがないとした説明で、「無明住地煩悩」や「諸仏不動智」に説かれていることと同じ語りがある。

剣術流派以外にも柔術で引用が見られ、『天神真楊流柔術極意教授図解』(吉田千春・磯又右衛門、八幡書店、初版明治26年)の目録第七「真の位の説」に、水中の瓢を押しても脱する旨の記述があり、不動智の「水上打 胡藘子 捺着即転」の引用である。














「兵法書⑤」

2018-04-20 06:34:15 | 日本

【闘戦経】


『闘戦経』(鬪戰經 とうせんきょう)は、平安時代末期に成立したとみられる日本の兵法書(後述)。現存する国内独自の兵法書としては、最古の兵法書である。


◎著者・成立

当書を著し、代々伝えてきたのは、古代から朝廷の書物を管理してきた大江家であり、鎌倉幕府の時代では源頼朝から実朝の三代にわたって、兵法師範として伝授してきた一族である。
当書によれば、「永い歳月を経て、虫や鼠にかわりがわり噛まれ、その伝えを失い、何人の作述か(具体的には)知られておらず、大祖宰(大江)維時卿の作とも、大宰帥匡房卿の書なりともされる」とあり、説として、維時か匡房としている。日本兵法研究会会長家村和幸は、時代的に見て匡房の作としている[1]。従って、11世紀末か12世紀初め頃とみられる。当書には、一切、「武士」や「侍」といった語が用いられておらず、「兵」や「軍」としか記されていない。また、内容から権威主義的であり[2]、戦国期(15世紀末から16世紀)における下剋上といった合理・実力主義的な思考[3](中国的戦争観)が全く見られない[4]ことから、まだ武家が権威に対して従順だった時代の頃(鎌倉期以前)の作とわかる(戦国期では通じない精神的な面、「兵の本分とは」といった理念も見られる)。
また、『闘戦経』は度重なる戦乱を経て一部のみ伝わったものとされる。


◎作述理由

著された理由として、中国兵法書『孫子』における「兵は詭道なり(謀略などの騙し合いが要)」とした思想が日本の国風に合致せず(『闘戦経』の内容からも、知略ばかりに頼れば、裏目に出るとした考え方がうかがえる)、いずれこのままでは中国のような春秋戦国時代が訪れた際、国が危うくなるといった危惧から、精神面を説く必要が生じた為、『孫子』の補助的兵書として成立した旨が、『闘戦経』を納めた函(はこ)の金文に書かれている。金文を一部引用すると、「闘戦経は孫子と表裏す」とあり、『孫子』(戦略・戦術)を学ぶ将は『闘戦経』(兵としての精神・理念)も学ぶことが重要であるとした大江家の思想がうかがえる。


◎名の由来

『闘戦経』の序文において、「闘戦全ての経なるものにして、本朝兵家のうん秘、我家の古書なり」(闘戦全経者、本朝兵家之蘊奥、我家之古書也。)とあり、国内の兵法書において、「経」を冠した兵書がないことからも、経といえる兵法書は当書が初めてであり、これが名の由来とみられる。なお、序文は室町時代に記述されたものとされ、この序を記した大江某とは、応仁の乱以前の大江家当主とみられる。


◎伝来・由緒

作述されてからは、大江家38代大江広元が、鎌倉幕府・源氏三代に仕えたが、北条家の治世となってからは遠ざけられ、結果として理解しやすい『孫子』・『呉子』が武家社会の間で普及し、『闘戦経』を学ぶ者は一部の武家に限られ、伝えられた。
のちに、41代大江時親は金剛山麓に館を構え、当地周辺の豪族に兵法を伝授するようになる。その中には、鎌倉幕府を倒し、足利家に立ち向かった名将楠木正成もいたとされる[8](当将は最期まで権威に従い、裏切らなかった)。建武中興(1334年)後、時親は安芸国へ行き、毛利家の始祖となる。

戦国期に至り、大江家52代毛利元就の弟である大江元綱は、この書を出羽守の秦武元に授け、さらに彼から伝授された眞人正豊(橘正豊)は、自らを「江家(ごうけ)兵学の正統」と称し、元就の孫(吉川元春の子)たる大江元氏に「源家古法」と共に伝えた(この「源家古法」の表現は、当書内にも見られる)。

その後は、江戸期に至り、18世紀中頃の宝暦年間に伊予松山藩の兵法師範木村勝政に伝えられ、藩内において数代にわたって伝え続けられてきた。この他にも、何らかの形を経て、黒羽藩にも伝わっている。

最終的に『闘戦経』は大正15年(1926年)に海軍兵学校に全て寄贈され、戦前の海軍大学校でも、『闘戦経』を講義に用いた。現在9冊の写本が残り、それぞれ、本文だけのもの、注釈つきのもの、釈義のみのものがあり、現在に至るまで、古来の日本兵法思想とは何かといった研究に欠かせない資料となっている。


◎内容

一部のみ現存する上、『孫子』の補助的兵書としての役割の為、兵として、将としての思想・精神・理念・心法を主に説き、用兵論を一部で説いているものの、攻城戦や籠城戦といった具体的な戦術論は説かれていない。実質的戦術は『孫子』・『呉子』に任せている形となり、従ってこれらの中国兵法書も熟知していなければならない。また、文は全体的に見て、短く、簡潔にまとめられている為、読者に解釈を求められる形式となっていて、後世、注釈本が書かれたゆえんでもある。

(現存部として)全53章から成る。
当書における思想の特徴として、物事を二元的に区別して考えるのではなく、一元的に集約して語り、用所ごとに使い分けるべきと論じたもので[12]、「これは一と為(な)し、かれは二と為す。何を以って輪と翼とを諭(さと)らん」の文に表れている。翼は一対であり、区別(二元論)をしても、ものの役には立たないのは事実であり、中国朝廷の制度のように、文官・武官と別けるのではなく、両道に努めるべきだとする大江家兵法の根幹が各所で説かれる。一方で、思考の基盤としては、陰陽思想や古代中国の賢人の言葉を引用し、自然の摂理(自然現象や動物の体形および生態系)から照らし、物事を洞察し、解するように述べている。
『孫子』について、「孫子十三篇、懼(おそ)れの字を免れざるなり」(敵に対して恐れをもっている)とあり、いかに有能で優れた兵法書たる『孫子』でも、精神面は説いていないとする。『呉子』については、「呉起の書六篇は、常を説くに庶幾(ちか)し」とし、常道の大切さを説く(当書は基本を何度も説く)。

用兵論として、「単兵にて急に虜にする者は毒尾を討つなり」(小部隊に急襲させ、捕虜を得るにはまず危険な所から討て)や「先づ脚下の蛇を断ち、而(しか)して重ねて山中の虎を制すべし」(目先の危災を処理してから遠地の強敵に向かえ)といった現代では基本ともいえる順序を述べている。他にも「軍に踵(きびす)無きものは善なり」(良き軍とは余計な足跡を残さない)と用兵の理想(何事においても一度で済ます規律さ、迷いのなさ)が記されている。三十六章については、物資や兵站についてのものと解釈できるが、精神論的であり、小さいものから大きなものが生じたり、小さなものの中に広大な世界があるといった例えをした上で、「天地の性がどうして少ないといえるか(考え方次第で不足なものはない)」として、具体性がない。

また、「善のまた善なるものは却(かえ)って兵勝の術に非(あら)ず」といったように、やたら付け加えたり、多過ぎても、時によっては悪いと説き、「一心と一気とは兵勝の大根か」といったように、兵が勝つ為にはバラバラな気の状態・心理状態より、一斉に一致団結するのが基本であると兵が勝つ為の基本的条件を将たる者に語っている。そういった意味では、将としての資格を養う為の書といえる。それは、「剛を先にして兵を学ぶ者は勝主となり、兵を学んで剛に志す者は敗将となる」(術や兵学より体を鍛える=基礎体力の向上の方が先である)とした表現からもわかる。

兵としての社会的役割・意義についても多々語っていて、「兵の本は過患(かかん)を杜(ふさ)ぐにあり」(兵士の本分は、災いや凶事を杜(と)絶することにある)とし、「用兵の神妙は虚無に堕ちざるなり」(無駄に思想に凝るのではなく、実に努めることが用兵の要である)としている。仏僧が幻術(奇術)による布教を本分に非ずとする考えと同じである。また、「兵者は綾(りょう)を用ふ」(綾とは、この場合、鋭い勢い、鋭気を指す。転じて鋭い洞察力とも解せる)として、兵の基本的状態のあり方を説き、「兵の道にある者は能(よ)く戦うのみ」(下手に裏工作をすれば、裏目を見る)といった姿勢からも、基本からブレるべきではないとしたことを繰り返して述べている。

一方で現実的な面も突きつけており、「鼓頭に(鼓が鳴り、戦が始まれば)仁義無く」や「勝ちて仁義行はる」といったように、平時での仁義は戦場では通じないと割り切り、「儒術は死し、謀略は逃る」(儒を奉じる者は事変に会って死を選ぶ他なく、謀略を成す者は危急の際、逃げる)と語っているように、儒教に対しては、むしろ批判的な一面を有し、この文からも、謀略家を批判する立場をとっている。

智者の定義としては、「取るべきは倍取るべし。捨つべきは倍捨つべし。鴟顧(しこ)して狐疑する者は智者依らず」(鳶が後方を気にし、顧み、円を描いて飛び、狐のように疑ってぐずぐずするような者は知恵ある者にあらず)とあるように、智者の条件とは、決断力ある者とする。
権威については、「草木なるものは霜を懼れて雪を懼れず。威を懼れて罰を懼れざるを知る」(民は権威が恐ろしくて、権力が恐ろしくないことを知っている)と解し、「戦国の主たる者は、疑を捨て、権を益すに在り」(疑心を捨て、権威を益せ)と説いているが、現実の国内戦国史においては、多くの武将が中国観における「疑って当然」という態度・姿勢を示しており、当書が権威に従順だった頃に成立したものとわかる。
「死を説き生を説いて、死と生とを弁ぜず。而して死と生とを忘れて、死と生との地を説け」(死とは生とは何かと説いたところで、死と生とはわかるものではない。むしろ死生については忘れ、死すべき地と生きるべき地とを説け)とするこの考えは日本的である。それは日本列島が細長い地形であり(南から東北にかけて広がる点は、ヨーロッパ大陸とも似、南部と東北に異文化が栄えた点も似るが)、一度、大きな戦争が始まると、一方が先端に追い詰められやすく、史上で度々そうしたことが起きたこと(例として、源平合戦、南北朝、関ヶ原の戦いなど)とも関連する。日本には山々や離島といった「隠れる場所」はいくらでもあるが、広大な大陸のように「逃げる場所」があるわけではない(日本で戦うとは、いうなれば、高所の綱の上での戦いである)。そこで武人達の間で何度となく、試され、培われたのが、見苦しくない「潔さ」といった精神であり、死生そのものより、死地と生地を説けといった考え方が当書にも表れている。


◎『闘戦経』内におけるヒエラルキー

「兵術は草鞋の如し。その足健にして着すべし。豈(あ)に跛(は)者の用うる所となさんや」(草鞋は強健な足にのみ着用すべきもので、兵術も適材適所であり、足腰弱く歩けない者に用いた所で役立つことはない)としているように、兵術の根本は、兵の健康が前提であり、従って、最下層は「不健康者(不適合者)」[17]、その上に「健康者」がくる。次いで、「術は却って力に勝るか」とあり、「大力」より「術者」(この場合、投石者より弓術者)を上とする。その上を「鋭い者」、頂点を「権威」とする。後世の兵法書である『甲陽軍鑑』の分類でいう、「兵法遣い」、「兵法者」、「兵法仁」は、「術者」に当たるといえる。そして、いかに知略に長けた将も、洞察力=鋭い者の前には見抜かれる。


◎備考

『史記』孫子・呉起列伝(第五)から引用するのであれば、「太史公曰く、(省略)実行上手な者が必ずしも説明上手とは限らず。その逆もしかり。他人を計略にかけてきた孫子は知略家であったが、自身は刖(あしきり)の刑にかけられることを予防できなかった(後略)」旨の話を記し、用兵・謀略を説いた孫子自身が計略にかかって害を防げなかったことは、悲しいことで、皮肉なこととして述べられている。このように中国では一元的には語られず、計略を尽くす謀略家自身が妬まれ、裏目に出ている。

また『史記』には、「人を鏡とする者は自分の吉凶を知る」とも記され、兵書の鏡を『孫子』とする立場を取る大江家としては、前述の孫子の結果が、自家将来の凶事と認識されたとも考えられ、当書=国風兵書の成立に繋がったとも考えられる。
当書の「矢の弦を離るるものは衆を討つの善か」は、『孫子』の表現からすれば、一度放たれたら戻らない「勢い」を説いたものと解釈できる。
『孫子』の中の「勢」には2つの意があり、「大勢(組織)」と「情勢」「状況」であり、『闘戦経』内でも「龍の太虚に勝るものは勢なり」とあり、『孫子』の解釈に従った場合、この勢は情勢の方ともとれる。

広大な中国において、「戦略」といった長期的兵法が発展したのに対し、追い詰めやすく、逃げる場がない日本(隼人・蝦夷征討が例)において、武人の質や精神面の方が兵法書で説かれたのは風土観の違いにもより、当書以降、その考え方が続いていることがわかる。中世以降の兵法書は中国における意とは異なり、『五輪書』や柳生家の兵法書に見られるように、流派における武術書の意となり、精神論や活人剣といった思想が説かれている。
当書には、度々、(過去の事例として)昔話が引用され、例として、身が石化した婦女の話、すなわち松浦佐用姫の話を出し、謀略家と比較し、最後まで夫を慕ってその地に残り続けた婦女に対し、危い時に逃げる謀士が郷里に骨を残したことは見たことがないと記し、純情な者は、例え武人でない女性であっても後世まで残ると語り、謀略家は精神面では佐用姫にすら及ばないと説いている。

当書にも記述がある「兵道(つわもののみち)」とは、後の武士道を指し、武家道徳を意味するが、大江家は公家(解釈を広げても、朝廷の兵家)であり、国風兵書たる当書も武家の兵法書ではなく、公家が著した兵法書である(それでも中世以降、一部の武家の指南書となった事実はある)。













「兵法書④」

2018-04-19 06:05:33 | 日本

【天狗芸術論】


『天狗芸術論』(てんぐげいじゅつろん)は、佚斎樗山(本名丹波忠明、1659 - 1741年)著の談義本(戯作の一)『田舎荘子』(享保12年(1727年刊)内の一話であり、剣術書(厳密には精神面を説いた書)。全4巻。題名にある「芸術」とは、「武芸と心術」(本来は、技芸と学術)の意。


◎内容

兵法書として扱われるが、実技を説いたものではなく、同著者の『猫の妙術』と同様、精神面を説く剣術書といえるもので、「気」と「心」と「道」のあり方を中心に展開する。

山中で剣術修行をしている木の葉天狗達が、修行後、武芸・心術(または学術)を議論し合い、その後、大天狗が問いに対し、答えていく形式。江戸期の妖怪としての天狗は仏教と関連した存在であるが、当著では、武芸・心術を儒教的観点から説いていくもので、いわば、天狗が儒学の立場の代弁者ともいえる存在として描かれ、巻之三においては、大天狗が、「仏教については詳しくは知らないが」とまでいわせている。部分的に仏教の用語も出てくるが、儒教の立場から仏教が語られ、同巻之三には、(儒家の)聖人(中国思想)の道にふれれば、天竺の仏氏(インドの僧侶)も感化される旨の記述がなされ、当著には、道・仏は同じ道=無我無心に至るとしつつも、儒教が優位的に語られている。
最終的に剣術家の夢オチとして終わるが、「天狗がかかわる夢オチ」という点では、「天狗裁き」と通じるものがある。

◎物語

◎巻之一

「大意」には、心のあり方を説き、自然の法則に従うには、心術(=精神面)で志深く、初学者には六芸をもって基盤を形成し、心法(大道)に入るべきとし、幼い内から六芸を学ぶ者はわがままにならず、身体健常で病身にもならず、心から国家のために尽くし、禄を無駄にしないと儒学的見地から語られる。また、芸を道(精神を大道)と解釈するような誤りがあってはいけないと記し、心術と心法は区別している。

ある剣術家が牛若丸時代の源義経(の伝説)に習い、山中へ入り、修行をしていたが、奥意をつかめず、満たされずにいた。牛若丸のように天狗にその道の極則を教わろうと何度も呼ぶも応答がない。ある夜、山中に風が起こり、翼のある天狗が数人、雲中にて叩き合っていた。しばらくして、全員、杉の梢(こずえ)に坐して、語り合いを始めた。

1人目の天狗は、古の芸術修行の手段を説明する。古人はその時に応じるのみと教えたと。心が剛でも技に熟さなければ、応じることはできず、技は気をもって修練する。気は心の作用で形を使う。だから「気の要」は、滞ることなく、剛健にして屈せざること。技の中の道理と器たる心身の機能が合致し、技が熟せば、気と融和し、技の中の理が現れ、心に疑いが無くなった時、事理(技と原理)一致して、気が収まり、精神が安定し、応用に支障が無くなる。ゆえに芸術は修練を要とする。技が熟さなければ、気は和せず、形も従わず、心と形と2つになり、自在にならなくなる。
2人目は、刀は切るもの、槍は突くもので、他に用いることはないと言い、体は気に従い、その気は心に従うと説き始める。心が動じない時は気も動ぜず、心が平で物事に捉われていない時は気も和して従い、技は自然に応じる。心が捉われれば、気は塞がり、手足を用いることに応じられない。技に心を留めれば、気が滞って和せず、心を強めても捉われて、虚になり弱になる。そして意識し過ぎることの害を説き、「懸(かかる)の中の待つ、待つの中の懸(懸待一致)」を悪く心得れば、意図的となって、大害となり、自在に動けないどころか、敵に翻弄される。一方、未熟者の方が応用所作を知らないから、ここを防ぎ、ここを打とうといった心(意図)が無いので、心気共に滞らず、世間のいう大形の兵法者よりも気の位では勝る所があるとしつつ、滞らないが、無知で血気に任せて、(結果として)無心なだけであるという。自然の妙用に形や相はなく、ゆえに気に形が生じれば、敵は形ある所を打ち、心に思うことなく、気が和して定まらない時は形なく、自在に動ける。だから意図的に剛にしなくても自然体で剛になる。思い(意図)がわずかにあれば、心の明かさは塞がり、自在でなくなると述べた。

3人目は、2人目の反論を述べつつ、切るには切る技、突くには突く技があると主張。心が剛であっても形(体の動き)に背く時、当たってはいけない所に当たり、技が理に違えば、達する所に届かない。捉われていない僧でも技に熟さなければ、用はなせないということを説明し、弓矢を引いて用いることは誰でも知っているが、技に熟さない者が射ても的の堅板は貫けないとし、弓の性質に逆らわず、弓我一体となって無心で放ち、その後も変わらないままの状態が弓道の習いと語り始める。意識して得られることでなく、理を知っても、心に徹し、技に熟し、修練の功を積まなければ、得られない。弓を引いて保つには、内で志正しく、外で体の姿正しくなければならず、力任せに引けば、弓と争い、2つとなり、逆に弓の力を妨げ、勢いを無くす。また、気と心の状態を儒書用語を引用して説明し、気を練り、心を修し、修行が熟した時こそ、剣術の極則に達すると説く。気で破るも心で破るも一つであり、心気一つでなければ、相手は破れない。ただし、気に弱い所があり、わずかに疑う心があるなら、この心術は実行しない方がいいとも語った。

天狗達が論ずる中、大天狗と見られる姿の1人が語る。各論には、皆、理が含まれているとし、古人の稽古法を語り始める。昔の師は無暗に口で教えず、弟子が苦心の末、自得し、それを師が確認し、満足のいく答えなら認めただけと。芸術に限らず、儒教といった学術も昔はそうであり、ゆえに昔は奥深かった。その上で、今の人の在り方や横着心を語り、昔の方法でやれば、修行者がなくなるから、今は師の方から教え聞かせ、手にとって指導するといった。昔の人が言葉足らずなのではなく、今の世が理屈ばかりなのだと。技は理により生じ、無形のものは有形のものの主。ゆえに気によって技を修練し、心によって気を修練するのが順序。しかし例外もあるとし、舟人や樵、瓦職人を例に説明していく。天狗達は次々と質問し、剣術の道は生死を2つに分けず、同一と意識する者が自在の働きをすると説いたり、剣術家と禅僧は修行の趣旨が異なり、後者は死に動じないが、生きるための役に立たず、死を嫌わないだけのことといって、(儒家)聖人は生きる場合は生に任せ、死ぬ場合は死に任せ、生死によって心を二分しないと説く。僧は生きるための技芸に関心がないからその技芸を自在にできないが、聖人の学問は生きる時は生の道を極め、死の時は死の道を極めると違いを明らかにし、有用性を説く。
昔から剣術家が禅僧に会い、極則を悟る者がいるのはなぜかという問いに、大天狗は、僧が剣術の極則を伝えた訳でなく、心にこだわりのない時は、よく変化に対応でき、生に執着すれば、逆に生きることが苦しくなり、この世を悪いものと思えば、心が理不尽に働き、生き方を誤ることを示しただけ。これは長年、気と技を修練した者だからこそ悟れたのであって、未熟者が名僧にあったところで、悟りは開けないと答えた。


◎巻之二

一切の芸術は楽器の使い方から茶碗廻しに至るまで修練によって上手となるが、その妙技を成させるのは全て気であるとし、自然の法則から説明し、気の変化を説いていく。仏僧は輪廻思想による再生流転を恐れるが、(儒家)聖人の学には再生輪廻の恐れはなく、気の変化により死に至るだけで、気を修練すれば、自ずから心の問題を理解すると儒の気学を説く。気に対する例え話を(河川上を進む舟で)した上で、形あるゆえ敵が生じ、我があるから敵があり、形が現れなければ、敵もなく、これを「敵も無く、我もなし」というとする。心のあり方を説いた上で、神がかって自由に動ける人を、剣術における悟入の人と言うとした。

武士たる者は、ただ志が挫けぬことが肝心であり、形の上では、老少、強弱、病身の者、公用多忙な者があるが、それらは「天命」であり、自決できることではないが、志だけは自分のものであり、天地も鬼神もこれを奪うことはできない。だから結果は天命に任せ、自分は己の志を実行するだけと志の重要性を語る。

子がどうしたら剣術を修得できるかといった問いに、昔は清掃作業や長者に呼ばれ、問いに答えることから始め、六芸に親しんだ後、大学に入って、心術を身につけたといい、修行の順序は、技の修得に努めさせ、手足の働きを習わせ、筋骨を鍛え、その上で気を修練し、心の修行をして、その究極の原理をうかがうようにすべきと答えた。人欲が邪の原因であり、学術の目的は人欲の妄動を抑え、心本来の性質を害することがないようにすることに尽きる。邪が退いた時、天理(心に備わった本来の自然道理)だけが現れる。剣術もそのようなものである。


◎巻之三

「動いて動くことなく、静かであって静かでない」とはどういうことかという問いに、心は物事のために動かされる訳ではないとした上で、剣術の場合、多勢に囲まれ、左右に闘っても、生死の問題とは決別し、精神は安定し、動揺しない状態を、「動いて動くことはない」と説明し、乗馬者と馬で例え話をする。では、静かで静かなことがないとは何か。感情が生じていない空で、蓄えもない状態が「心の本体」であり、無欲時、何か物事が到来すれば、それらに次々と対応し、働きが途絶えない。心の本体は静かで動かず、動いて物事に対応するのが「心の作用」であり、本体も作用もその源は一つであり、これを、動いて動くことなく、静かであって静かなことがないという。敵を憎むことなく、恐れることなく、どうこうしようと思わない状態でありながら、攻められれば、支障なく自在に対応し、体は動いて心は冷静な状態を失わない。心は静かであっても、体を動かす働きを欠かさない。また、鏡で例え話をする。

「水月」とは何かという問いに、諸流で色々いわれているが、無心で本来の理に適った対応を、月が水に映る事象の相互関係に例えたものと答えた。ただし心には形も色もないと説明する。
諸流に「残心」があるが分からないという問いに、技に捉われず、心の本体が動じないことと答え、心の本体が動じない時は応用の働きが明らかであると述べた。十分に打ち込んで奈落の底まで打ち落したとしても、自分は元の自分で打つ前と少しも変わらない。ゆえに前後左右、何の支障もなく自在に動ける。心を入れて残すことではない。心を残せば、考えが2つに分かれる。また心本体が明らかでないまま、心を入れないのであれば、盲打盲突となる。明らかさは心本体が動じない所より生じる。ただ明らかに打ち、明らかに突くのみ。これらのことは語り難く、心得違いをすれば、大害となる。

諸流に「先」があるがという問いに、初心者の鋭気を助長し、惰気に鞭打つための言葉と答え、心本体が動じず、自分を失わず、浩然の気が身体に満ちるような時は、いつも我に先があると説明し、他人より先に打ち込もうとする心遣いではないと語る。剣術は生気を養って、死気を除去することを要とする。「懸の中の待つ、待つの中の懸」など、皆、自然応用であって、初心者のために名付けているだけ。それらは皆、「動いて動くことなく、静かであって静かなことがない」という意味。体の動静は気の作用で、心は気の主。気には陰陽清濁のみ。形(動き)は気に従うもの。ゆえに剣術は気の修行が要。気は剛と和が片寄ってはいけないと説き、弱と柔、休と惰の違いを説明し、水と氷で例える。

諸流ともその極則は同一とし、極則は是非を争うべきこともないと語り、大本は一つだが、色々分かれた時、善悪や邪生、剛柔や長短が生じ、末端まで論じつくせないといった。それは学術も同じであり、老子、仏教、荘子、列子、巣父、許由も過程は異なれど、無我無心の心本体を見ることは同一とした上で、聖人の思想に触れれば、仏氏といえども感化され、異学の徒といえども、聖人の別派であり、大道に背くことはできないと(儒学を優位的に)語る。
清らかさだけを用い、濁りを捨て去るのはなぜかという問いに、濁りも用いることはあるが、剣術の用は速さを貴ぶと答え、濁気が心に与える害を説いていく。

気はどう修練すればいいかという問いに、ただ濁気を除去するのみと答える。濁は陰気のカスで、カスは止まって活せず。すでに濁水となったものは清めることはできず、物を加えて注いでも返って物を穢すと例え話をし、学術によって、具わった知性を明らかにして、濁を除去すると説明する。

陰陽、元は一つの気だが、分かれている時は千差万別も異なる。一つの気でありながら、度合が異なるということを知らなければ、道は明らかにならない。今のところ、木の葉天狗は心本体を通して理解していないため、試みをしても、結果、有無によって議論するしかないといい、気の中にある心について、水中の魚に例え、心は気の剛健さによって自在でいられ、気が無くなれば、心も存在しなくなるといった。気が動じれば、心も穏やかでなくなる。
また、「天に任す」と「運に任す」は異なると違いを語り、例で説明した。

心の修養はどのようにするのかという問いに、まずは良知を発見することと答えた。良知とは、心本体の優れた明析の人と凡人では異なり、前者は是非邪正を照らして天地神明に通じ、後者は濁気の妄動に覆われ、全ては照らせず、隙間からわずかに(照らし是非邪正を)発見するものを良知という。また良心についても語り、良知を信じ従い、良心を養い、私念により害することがない時、濁気妄動は自然に静まり、天理の明析さが現れる。私念は己が得たい心から生じ、己の利益のみ考える時は人に害を与えることもかえりみず、終には邪まを成し、身を滅ぼすに至る。心を修練することと気を修練することは別のことでない。ゆえに孟子の「浩然の気を養う」の論は、志を持するだけを説き、気を養う工夫を論じていないと説明した。

仏僧が意・識を憎み、離れようとするのはなぜかという問いに、仏教の工夫は知らないが、意識は知に用いるのに必要で憎むべきものではないと答え、情を助け、心本体を離れ、己の利益のために動くことを憎むのみといった。意識を士卒に例え、私欲の害を説くが、意識が悪い訳ではないと説いた。聖人の意は身勝手な働きをせず、自然法則に従って働くため、意が働いた跡も残らない。ゆえに私意無しという。

昔の中国にも剣術の伝書はあったかという問いに、我未だそのような書を見ないと答えた。和漢共に、古は気の剛強活達を主として生死をかえりみず、力をもって争うとみえると述べた。荘子の「説剣の扁」などを見るに皆そうである。「達生の扁」に「闘鶏を養う」の論がある。これこそ剣術の極則。しかし荘子は剣術のために論じた訳でなく、気を養うの生熟を論じただけ。理に2つ無し。一切のこと、学問とも剣術ともなる。和朝の剣術書を見るに、かつて向上論はない。ただ軽業早業の術を習うものとみえる。多くの者は天狗を祖とする。
剣術は心身を用いるための技なのに、なぜ秘することがあるのかという問いに、初心者のためと答える。秘さなければ、初心者の方が信用できないと。方便であり、秘する技は皆、末端の技で、極則を秘している訳ではない。初心者は教えると、理解したと思って、他人に喋る。それは返って害となるから、理解できぬ内は教えぬということ。ゆえに剣術の極則を秘するのは兵法の方便。

心気は一体。分けて例えるなら、火と薪であり、火に大小なく、薪が不足すれば、勢いが盛んでなくなり、湿れば、火光明らかにならず。心が明らかでないと、気の行き場を失い、妄動し、剛健果断の主を失い、小ざかしい知恵をもって、返って心の明らかさを塞ぐ。心暗く、気が妄動する時、血気盛んでも、物事は自在に動かない。血気は一時的で根拠がない。初学の士は、まず孝悌を尽くし、欲を捨て去ること。小ざかしい知恵は気を害す。


◎巻之四

槍には直槍、十文字槍、鉤槍、管槍など伝があるが、どれが有利かという問いに、槍は突くための道具であって、自在に操るのは我であり、武器ではないと答えた。しかし、鎌を付け、柄に鉤を仕込み、または管をかけて用いるは、先人の得たものをさらに工夫し、武器の働きを極めて、これを用いて自在になせるようになったということ。使い慣れた武器が有利であり、それに達して至れば、棒でさえ槍となるといった。
また、気の整え方について語り、腹の上に手を置けば、気は腹に集中し、ゆえに気が満ちている所に手は置かず、気が虚空になっている所に置くのが習わしと説明する。神道の内清浄と外清浄も説明し、これも元々一体であると説く。

禅僧が子供にいった逸話を出し、腹を張れば、気が引き下がって集まり、しばらく気が体内に満ちて強くなる。驚いたり、怖れるのは、気が不足し、上の方にあるためと説明した。
多くは上半身を動かして動くため、頭も動き、人によっては全体をゆすって歩く。善い歩行者は腰より上は動かず、足だけで歩行するゆえ、体は静かで五臓六腑をゆすることなく、形でも疲れない。これは貴人の輿をかつぐ歩行者を見ればわかる。剣と戟を扱う者も気が濁って片寄る時、足だけ動かして歩くことができない。頭につられ、全身がゆすると形に欠陥があり、気が動じて心が静かにならない。刀は右足を、槍は左足を前にし、立つ時は進む前足を活かして立つものといった。常に修行であり、道を歩く時も、座る時も、寝ている時も、人と対面する時も工夫次第で修行となると説いた。また例え話として、猿楽の太夫や蹴鞠をする者を出し、語った。

軍学は謀計をもって欺く術だが、この道に熟せば、小ざかしい知恵を助長し、心術の害とならないかという問いに、君子が用いる時は国家治平の武器となり、小人が用いる時は己を害する人を傷つける武器となると述べ、道を志し、私心の混じらない時、例え盗賊の術を学ぶとしても盗賊を防ぐ術となり、志の害とはならないと語った。志がもっぱら情欲利害に基づき学べば、聖賢の書といえども小ざかしい知恵の助けとなってしまうゆえ、まず正道の志を立て、万事を学ぶべきと説き、我に正道なくて軍術を学べば、功利の言にいちいち喜び、心が動き、小ざかしい知恵の巧みさを求め、これこそ士道と誤ることになる。剣術者も芸に熟し、これを辻斬り強盗に用い、男道と思えば、芸術は返って身の害を招くといい、芸術の罪ではないとした上で、志の誤りを熊坂(盗賊)と弁慶で例え話をする。謀計は士道ではなく、これを用いて忠戦を成すことを士道とするのであるといった。また弁慶の逸話を引用し、弁慶が杖で義経を打ったのは忠ではなく、君難を救ったことが忠であると説いた。跡をもって論じ、事をもって論ずるのは知恵ではない。

将には人情が必要とその重要性と人情がないことの害を説く。
謀をすれば、相手も謀を用いて自分を欺こうとするというと、版画の原版に例え、手本を学んでこそ、新しい手も生じると答えた。これは学術も同じで、先人の例があってこそと述べた。
軍中では敵味方大勢で独り働きの如く自由に成り難い。常に古人の跡を参考にし、法を出し、士卒を練り、駆け引きが自在になるよう、備えを立てることを要とすると語る。

今自分が父祖の陰徳により幸福とはいえ、わずかに思い違いをすれば、種々の妄心が生じ、終に天狗界に入り、父祖の陰徳を削り、身に災いがふりかかること、矢より早いと述べ、汝らも怖れ慎むようといった。天狗界とは何かを語り、心の状態を説明した上で、汝らはよく心を修し、気を収め、魔界を去り、人間(じんかん)に出て、道を求めるべきといった。また、鼻長く、嘴あり、翼あるのを、人に勝っていると思って、愚人を騙すが、これら身の一部は返って心を苦しめ、人に害を与える器官でしかないといった。学術、剣術、己を知ることを専務とする。心が明らかになれば、身をわきまえ、敵もなくなる。無欲なら討たれるような虚がなく、勢いで挫けず、欲を利用して動かすことも、巧み技によって欺くこともできない。我もこのことを思って慎んでいるが、凡情、未だ断ち切れず、熱湯を飲む(仏教で心が静まらないの意)ことを多少免れているだけで、今なお天狗の輩で、いつか人の世に出、道を悟ろうと思っていると述べると、谷がこだまし、風が当たり、夢がさめる。山と見えていたのは屏風であり、剣術家は怖れおののき、横たわっていた。


◎備考

巻之一において、2人目の天狗は、槍は突くもので他に用いないと語っているが、『雑兵物語』には、「集団では槍は上から叩くもの」と記しており、また、佐分利流(鉤槍を用いる)では、「槍は切るもの、刀は突くもの」としており、実際は突く以外にも用途がある。

3人目の天狗が、捉われていないからといって、禅僧が政治を行ったり、大将として敵を攻めたりすることができるか、と語り、煩悩を蓄えていなくても用はなせないと主張する場面があるが(要約のため、「物語」には記述していない)、戦国期に比べて身分の固定化が進んだ近世ゆえの表現であって、雪斎の三国同盟に見られるように、当時は外交に僧侶が用いられていた上に、一向一揆にみられるよう、武装集団として率いている。

巻之四において、「正道の志を立ててから万事(軍学・軍術)を学ぶべき」と記されているが、陰陽思想主体の兵書『闘戦経』でも、「体を鍛える方が先で、兵法を学ぶのは後」としている点で、実技より基盤作りを先とする考え方が古くからあることがわかる。
学術を重要視しているという点では、文武両道を説いた書ともいえる。

武道書における「芸術」という語の使用例は柔術にも見られ、吉田千春・磯又右衛門『天神真楊流柔術極意教授図解』(八幡書店、初版明治26年)の目録第四「芸術進達に必要なる心法」や第六にも表記がみられる(若い内から、酒・色・財の三毒に浸れば、芸道進達を妨げると説明している)。














「兵法書③」

2018-04-18 06:36:46 | 日本

【孫子 (書物)】



孫子の兵法書


孫子の著者とされる孫武の像。鳥取県湯梨浜町の燕趙園に立つ
『孫子』(そんし)は、紀元前500年ごろの中国春秋時代の軍事思想家孫武の作とされる兵法書。武経七書の一つ。古今東西の兵法書のうち最も著名なものの一つである。紀元前5世紀中頃から紀元前4世紀中頃あたりに成立したと推定されている。
『孫子』以前は、戦争の勝敗は天運に左右されるという考え方が強かった。孫武は戦争の記録を分析・研究し、勝敗は運ではなく人為によることを知り、勝利を得るための指針を理論化して、本書で後世に残そうとした。


◎構成

以下の13篇からなる。

計 篇 - 序論。戦争を決断する以前に考慮すべき事柄について述べる。
作戦篇 - 戦争準備計画について述べる。
謀攻篇 - 実際の戦闘に拠らずして、勝利を収める方法について述べる。
形 篇 - 攻撃と守備それぞれの態勢について述べる。
勢 篇 - 上述の態勢から生じる軍勢の勢いについて述べる。
虚実篇 - 戦争においていかに主導性を発揮するかについて述べる。
軍争篇 - 敵軍の機先を如何に制するかについて述べる。
九変篇 - 戦局の変化に臨機応変に対応するための9つの手立てについて述べる。
行軍篇 - 軍を進める上での注意事項について述べる。
地形篇 - 地形によって戦術を変更することを説く。
九地篇 - 9種類の地勢について説明し、それに応じた戦術を説く。
火攻篇 - 火攻め戦術について述べる。
用間篇 - 「間」とは間諜を指す。すなわちスパイ。敵情偵察の重要性を説く。

現存する『孫子』は以上からなるが、底本によって順番やタイトルが異なる。
上記の篇名とその順序は、1972年に中国山東省臨沂県銀雀山の前漢時代の墓から出土した竹簡に記されたもの(以下『竹簡孫子』)を元に、 竹簡で欠落しているものを『宋本十一家注孫子』によって補ったものである。
『竹簡孫子』のほうが原型に近いと考えられており、 『竹簡孫子』とそれ以外とでは、用間篇と火攻篇、虚実(実虚)篇と軍争篇が入れ替わっている。


◎全般的特徴

非好戦的 - 戦争を簡単に起こすことや、長期戦による国力消耗を戒める。この点について 老子思想との類縁性を指摘する研究もある。「百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」(謀攻篇)

現実主義 - 緻密な観察眼に基づき、戦争の様々な様相を区別し、それに対応した記述を行う。「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」(謀攻篇)

主導権の重視 - 「善く攻むる者には、敵、其の守る所を知らず。善く守る者は、敵、其の攻むる所を知らず」(虚実篇)


◎戦争観

孫子は戦争を極めて深刻なものであると捉えていた。それは「兵は国の大事にして、死生の地、存亡の地なり。察せざるべからず」(戦争は国家の大事であって、国民の生死、国家の存亡がかかっている。よく考えねばならない)と説くように、戦争という一事象の中だけで考察するのではなく、あくまで国家運営と戦争との関係を俯瞰する政略・戦略を重視する姿勢から導き出されたものである。それは「国を全うするを上と為し、国を破るは之に次ぐ」、「百戦百勝は善の善なるものに非ず」といった言葉からもうかがえる。

また「兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり」(多少まずいやり方で短期決戦に出ることはあっても、長期戦に持ち込んで成功した例は知らない)ということばも、戦争長期化によって国家に与える経済的負担を憂慮するものである。この費用対効果的な発想も、国家と戦争の関係から発せられたものであると言えるだろう。孫子は、敵国を攻めた時は食料の輸送に莫大な費用がかかるから、食料は現地で調達すべきだとも言っている。
すなわち『孫子』が単なる兵法解説書の地位を脱し、今日まで普遍的な価値を有し続けているのは、目先の戦闘に勝利することに終始せず、こうした国家との関係から戦争を論ずる書の性格によるといえる。


◎戦略

『孫子』戦略論の特色は、「廟算」の重視にある。廟算とは開戦の前に廟堂(祖先祭祀の霊廟)で行われる軍議のことで、「算」とは敵味方の実情分析と比較を指す。では廟算とは敵味方の何を比較するのか。それは、

道 - 為政者と民とが一致団結するような政治や教化のあり方
天 - 天候などの自然
地 - 地形
将 - 戦争指導者の力量
法 - 軍の制度・軍規

の「五事」である。より具体的には以下の「七計」によって判断する。

敵味方、どちらの君主が人心を把握しているか。
将軍はどちらが優秀な人材であるか。
天の利・地の利はどちらの軍に有利か。
軍規はどちらがより厳格に守られているか。
軍隊はどちらが強力か。
兵卒の訓練は、どちらがよりなされているか。
信賞必罰はどちらがより明確に守られているか。

以上のような要素を戦前に比較し、十分な勝算が見込めるときに兵を起こすべきとする。
守屋洋は、孫子の兵法は以下の7つに集約されるとしている。
彼を知り己を知れば百戦して殆うからず。
主導権を握って変幻自在に戦え。
事前に的確な見通しを立て、敵の無備を攻め、その不意を衝く。
敵と対峙するときは正(正攻法)の作戦を採用し、戦いは奇(奇襲)によって勝つ。
守勢のときはじっと鳴りをひそめ、攻勢のときは一気にたたみかける。
勝算があれば戦い、なければ戦わない。
兵力の分散と集中に注意し、たえず敵の状況に対応して変化する。
また、ジョン・ボイド は孫子の思想を以下のように捉えて機略戦を論考している。


◎現代戦略理論との関わり

現代の戦略理論であるゲーム理論で、以下のことが証明されている。すなわち、二人零和有限確定完全情報ゲームの解は、ミニマックス理論である。
孫子が主張するように勝利を目的に敵対する双方が、情報の収集をできるだけ行う・戦力の集中などの工夫で戦闘結果の必然性を増す・冷徹な判断を行う・中立する組織への対応の工夫、などの戦争の合理性をとことん追求していくと、ミニマックス理論が成り立つような状況に限りなく近づいていく。そしてミニマックス法は、最善を尽くしながら相手の失着を待つ手法であり、孫子の主張することとの類似性を指摘する意見も多い。
『ウォートンスクールのダイナミック競争戦略』において、ゲーム理論の淵源が『孫子』などにあったとテック・フーとキース・ワイゲルトらは指摘している。孫子の兵法はゲーム理論の本でもしばしば引用されるほど、ゲーム理論との共通性があると言われている。
このように、孫子は現代戦略理論でも注目されている。


◎日本への伝来

『孫子』が日本に伝えられ、最初に実戦に用いられたことを史料的に確認できるのは、『続日本紀』天平宝字4年(760年)の条である。当時、反藤原仲麻呂勢力に属していたため大宰府に左遷されていた吉備真備のもとへ、『孫子』の兵法を学ぶために下級武官が派遣されたことを記録している。吉備真備は23歳のとき、遣唐使として唐に入国し、41歳で帰国するまで『礼記』や『漢書』を学んでいたが、この時恐らく『孫子』・『呉子』をはじめとする兵法も学んだと推測されている。数年後に起きた藤原仲麻呂の乱では実戦に活用してもいる。
律令制の時代、『孫子』は学問・教養の書として貴族たちに受け入れられた。大江匡房は兵学も修めていたが、『孫子』もその一つであり、源義家に教え授けている。積極的に実戦において試された例としては、源義家が前九年・後三年の役の折、孫子の「鳥の飛び立つところに伏兵がいる」という教えを活用して伏兵を察知し、敵を破った話(古今著聞集)が名高い。ただし古今著聞集が発行されたのは後三年の役の約170年後のことであり、この兵法が『孫子』であるとの記載も存在しない。


◎武士の受容

平安貴族に代わって歴史の主役に躍り出た武士たちも、当初は前述の源義家のような例外を除き『孫子』を活用することは少なかったと考えられている。中世における戦争とは、個人の技量が幅をきかせる一対一の戦闘の集積であったためである。『孫子』のような組織戦の兵法はまだ生かされることはなかった。しかし足軽が登場し、組織戦が主体となると、『孫子』は取り入れられるようになっていく。幾人かの戦国武将には容易にその痕跡を見出すことができる。中でも、武田信玄が軍争篇の一節より採った「風林火山」を旗指物にしていたことは有名である。ただし全般的に見て鎌倉から室町、戦国期において孫子はそれほど重視されていたわけではなく、中国兵書としては『六韜』や『三略』の方がより重視されていた。


◎兵学の隆盛―近世―

徳川家康は江戸時代初頭に伏見版と呼ばれる木活字の印刷本を発行させるが、その一環として1606年には閑室元佶によって『孫子』が出版された。これはそれまで写本しかなかった『孫子』の初めての印刷であり、江戸期を通じて覆刻され、孫子の普及に大きな役割を果たした。

徳川幕府が天下を治めるようになる時期と、兵学と呼ばれる学問が隆盛を迎える時期は合致する。天下泰平の世には実戦など稀であるが、かえって戦国時代に蓄積された軍事知識を体系化しようとする動きが出てきた。それが兵学(軍学)である。それに比例して、『孫子』を兵法の知識体系として研究する傾向が復活する。そのため江戸時代には、50を超える『孫子』注釈書が世に出るのである。これには中国からの刺激も影響している。たとえば中国で明代から清代に出た注釈書が日本に伝わり、覆刻されている。劉寅の『武経七書直解』や趙本学の『孫子校解引類』(趙注孫子)が有名である。また、日本人の手になるものも多く出た。この嚆矢となるものは1626年に出版された林羅山の『孫子諺解』であり、以降代表的なものだけでも山鹿素行『孫子諺義』(1673年)、新井白石『孫武兵法択』(1722年)、荻生徂徠『孫子国字解』(1707年ごろ)、佐藤一斎『孫子副註』、吉田松陰『孫子評注』など多数の注釈が著され、このうちでも素行と徂徠のものは特に有用といわれている。また『孫子国字解』は1750年に出版され、わかりやすい日本語の仮名交じり文によって広く読まれ、孫子の普及に大きな役割を果たした。


◎近代以後

明治以降、日本は近代的兵学としてプロイセン流兵学を導入し、それに基づき軍事力を整えていった。しかし『孫子』の研究は途絶えることなく、個人レベルで読み継がれていった。たとえば日露戦争においてバルティック艦隊を破った東郷平八郎の丁字戦法採用の背後には、『孫子』の「逸を以て労を待ち、飽を以て飢を待つ」(軍争篇)の言葉があったと言われる。
しかし時代が下るにつれ、海軍・陸軍ともに『孫子』が学ばれることは少なくなっていく。近代的兵学に圧倒されていったためである。武藤章陸軍中佐が「クラウゼヴィッツと孫子の比較研究」(『偕行社記事』1933年6月)を発表しているものの、研究が盛んであるとはいえない状況であった。しかも武藤はクラウゼヴィッツを「戦争の一般的理論を探求して之を演繹し或は帰納して二三の原則を確立せんとす」と結論づけ、普遍性があると批評するのに対し、『孫子』に対しては、その書かれている内容は遙か以前の、中国国内のみを対象としているため「普遍性に乏しき憾あり」と述べ、前述のリデル・ハートとは逆の感想を抱いていることが読み取れる。
学問的世界では近代的な考証が積み重ねられ、『孫子』の真の著者は誰かといったテーマが日中共に上記のように論じられた。そんな中で1972年に山東省銀雀山から、『竹簡孫子』や『孫臏兵法』が発見されたことは大きなニュースであり、これにより大きく研究が進展した。またこの発見によって、「孫子兵法」は現存する「孫子」とほぼ対応するものであったのに対し、「孫臏兵法」がそれと独立して発見されたことで、孫子の著者が孫武であることがほぼ確定的となった。

戦後は『孫子』が復権し、教養ブームに乗って広く読まれるようになり、現代でも(ビジネスなどの戦略においても)通用するとされ、解説書が数多く出版されている。
戦後、自衛隊では第二次世界大戦敗因への批判的分析から孫子の兵法はクラウゼヴィッツの『戦争論』と対比される形で研究されてきた。杉之尾宜生防衛大学教授らによる一連の研究がある。












「兵法書②」

2018-04-17 07:47:45 | 日本

【五輪書】


『五輪書』(ごりんのしょ)は、宮本武蔵の著した兵法書。武蔵の代表的な著作であり、剣術の奥義をまとめたといわれる。

寛永20年(1643年)から死の直前の正保2年(1645年)にかけて、熊本県熊本市近郊の金峰山にある霊巌洞で執筆されたとされる。
自筆本である原本は焼失したと伝えられる。写本は細川家本を始め、楠家旧蔵本・九州大学本・丸岡家本・狩野文庫本、底本不明の『劍道祕要』収録などがある。自筆本が現存せず写本間での相違も多いことや、武蔵の時代よりも後の価値観に基づく記述が多いこと、さらに同時代の文献に武蔵が五輪書を書いたと傍証できるものがないことなどから、武蔵の死後に弟子が創作したという説もある。


◎構成

書名の由来は密教の五輪(五大)からで、それになぞらえて「地・水・火・風・空」の五巻に分かれる。

・地の巻
自らの流を二天一流と名付けたこと、これまでの生涯、兵法のあらましが書かれている。「まっすぐな道を地面に書く」ということになぞらえて、「地の巻」とされている。

・水の巻
二天一流での心の持ち方、太刀の持ち方や構えなど、実際の剣術に関することが書かれている。「二天一流の水を手本とする」剣さばき、体さばきを例えて、「水の巻」とされている。

・火の巻
戦いのことについて書かれている。個人対個人、集団対集団の戦いも同じであるとし、戦いにおいての心構えなどが書かれている。戦いのことを火の勢いに見立て、「火の巻」とされている。

・風の巻
他の流派について書かれている。「風」というのは、昔風、今風、それぞれの家風などのこととされている。

・空の巻
兵法の本質としての「空」について書かれている。


◎「風の巻」における他流派批判

長太刀を用いる流派に対しては、接近戦に不向きであり、狭い場所では不利となり、何より長い得物に頼ろうとする心がよくないと記す。
短太刀を用いる流派に対しては、常に後手となり、先手を取れず、相手が多数の場合、通用せず、敵に振り回されると記す。
太刀を強く振る(剛の剣の)流派に対しては、相手の太刀を強く打てば、こちらの体勢も崩れる上、太刀が折れてしまうことがあると指摘する。
妙な足使い(変わった足捌き)をする流派に対しては、飛び跳ねたりしていたら、出足が遅れ、先手を取られる上、場所によっては動きが制限されると指摘する。
構え方に固執する流派に対しては、構えは基本的には守りであり、後手となる。敵を混乱させるためにも構えは柔軟であるべきと記す。
奥義や秘伝書を有する流派に対しては、真剣の斬り合いにおいて、初歩と奥義の技を使い分けたりはしないとし、当人の技量に応じて指導すべきと記す。
これらの他流派批判をすることにより、二天一流の有用性を説いている。
















「兵法書①」

2018-04-16 06:04:11 | 日本

兵法書に掲載されていた文章があったので、これについて以下、要約し学ぶ。



兵法書(へいほうしょ)あるいは兵書(へいしょ)、戦争などにおいて兵の用い方を説いた書物。主な兵法書として古代中国の孫子、呉子、六韜などが知られる。




【呉子】


『呉子』(ごし)は、春秋戦国時代に著されたとされる兵法書。武経七書の一つ。古くから『孫子』と並び評されていた。しかし著者ははっきりとしない。中身の主人公でもある呉起またはその門人が著者であると言われるが、定かではない。

内容は呉起を主人公とした物語形式となっている。現存している『呉子』は六篇だが、『漢書』「芸文志」には「呉子四十八篇」と記されている。
部隊編制の方法、状況・地形毎の戦い方、兵の士気の上げ方、騎兵・戦車・弩・弓の運用方法などを説いている。

『孫子』と並び評される兵法書であるとされるが、後世への影響の大きさは『孫子』ほどではない。これは内容が春秋戦国時代の軍事的状況に基づくものであり、その後の時代では応用ができなかったのが原因であると言われる。逆に『孫子』のほうは、戦略や政略を重視しているため、近代戦にまで応用できる普遍性により世界的に有名になっている。


<名言集>

◎和して、しかる後に大事をなす

古来、国家を治めようとする者は、かならず第一に臣下を教育し人民との結びつきを強化した。団結がなければ戦うことはできない。その団結を乱す不和が四つある。
国の不和 - 国に団結がなければ、軍を進めるべきではない。
軍の不和 - 軍に団結がなければ、部隊を進めるべきではない。
部隊の不和 - 部隊に団結がなければ、戦いをいどむべきではない。
戦闘における不和 - 戦闘にあたって団結がなければ、決戦に出るべきではない。
したがって、道理をわきまえた君主は、人民を動員するまえに、まずその団結をはかり、それからはじめて戦争を決行する。また、開戦の決断は、自分だけの思いつきによってはならない。


◎敵状を察知する法

武侯が尋ねた。「敵の外観を見て内情を判断し、敵の進み方を見てどう止まるかを推測し、それによって勝てるかどうかを事前に判断したいと思うが、こうした事が分かるものだろうか?」
呉起は答えた。「敵の来襲する様子に、落ち着きが無く、旗印が乱れ、人馬がおどおどしている様ならば、それは確固たる方針のない証拠です。一の力で、十の敵を撃つ事ができます。敵は、手も足も出ないでしょう。また、どの国とも連合する事が出来ず、君臣は離間し、陣地は完成せず、法令は行き渡らない、この様な敵の軍勢は恐れおののき、進むも、退くも思うに任せない状態になります。こんな場合は、敵の半分の兵力で充分です。何回戦っても負ける心配はありません。」


◎百万人いても役に立たない

武侯が尋ねた。「戦争の勝利とは何によって決まるのだろうか?」
呉起は答えた。「勝利は治によって得る事が出来ます」
「兵力の多寡によるのではないのか?」
「法令が明確でなく、賞罰が公正を欠き、停止の合図をしても止まらず、進発の合図をしても進まなかったならば、百万の大軍があったとしても何の役にも立ちません。治とは即ち、平時では秩序正しく礼が行なわれ、戦時では威力を発揮し、進めば誰も阻止できず、退けば誰も追い得ず、進退は節度があり、左右はたちまち合図に応じ、連絡を絶たれても陣容をくずさず、散開しても隊列をくずさない。将兵が安危を共にし、結束していて離間させる事は出来ず、いくら戦っても疲労することはない。このような軍は、向う所敵無しです。これを指して父子の兵と言います」


◎死の栄ありて生の辱なし

軍をひきいるには、武だけでなく文武を総合し、戦争をするには、剛だけでなく剛と柔とを兼ね備えなければならない。ふつう、世人が将を論ずる場合は、とかく、勇気という観点だけに立ちがちである。しかし、勇気ということは、将の条件の中の何分の一かにすぎない。勇者は、力を頼んで考えもなしに戦いをはじめる。利害を考えずに戦うのは、誉められた語ではない。

そこで、将の心すべきことが五つある。

理(管理) - どんなに部下が多勢いても、それを一つに纏める事である。
備(準備) - 一度門を出た以上、至る所に敵がいる積りで掛かる事である。
果(決意) - 敵と相対したとき、生きようという気持を捨てる事である。
戎(警戒、自戒) - たとえ勝っても緒戦のような緊張を失わない事である。
約(簡素化) - 形式的な規則や手続きを省略し、簡素化する事である。

ひとたび出陣の命令を受けたならば、家族にも知らせずそのまま出撃し、敵に勝つまでは家のことを口にしないのが、将たる者の礼である。いざ出陣というときには、名誉の死はあり得ても、生き恥は晒さないものと心得るべきである。


◎少数で多数を撃つには

武侯が尋ねた。「味方が少なく、敵が多い時、どうすればよいか?」
呉起は答えた。「平坦な場所で戦うことは避け、隘路で迎え撃ちます。古い諺に『一の力で十の敵を撃つ最善の策は狭い道で戦うことであり、十の力で百の敵を撃つ最善の策は険しい山地で戦うことであり、千の力で万の敵を撃つに最善の策は狭い谷間で戦うことである』とあります。かりに小人数でも、狭い地形をえらび鐸(たく)をうち鼓を鳴らして、不意打ちをかければ、いかに相手が多人数でも驚き慌てます。ですから、『多数を率いるものは、平坦な戦場を選ぼうとし、少数を率いるものは、狭隘な戦場を選ぼうとする』といわれています。」


◎決死の勢い

武侯が尋ねた。「賞罰を公正にすれば、勝利を得る事が出来るだろうか?」
呉起が答えた。「私ごときに判断できる問題ではありませんが、賞罰はそれ自体、勝利の保証とはならないかと存じます。

君主が号令を発すれば、喜んで服従する。
動員命令を出せば、喜んで戦場に赴く。
敵と刃を交えれば、喜んで一命を投げ出す。

この三つの条件が満たされてこそ、勝利は保証されるのです」
「どうすればよいか?」
「功績のある者を、抜擢して手厚く遇することはもちろん、功績のない者に対しても激励のことばをかけてやるのです」