龍の声

龍の声は、天の声

第4巻 奇跡

2023-11-30 08:08:14 | 日本

私は宇宙最大の奇跡である。
有史以来、現在に至るまで、私と同じものがこの世にあらわれたことは決してなかった。私の知性、心、目、耳、手、髪、口を持った人間は、かって存在したことはなかったし、また現在も存在していない。
私はすべての人々と同じ兄弟ではあるが、しかしまた、すべての人々とは異なっている。
この世でただ一人の存在である。

私は宇宙最大の奇跡である。
何代にもわたって、私の中で燃え続けてきた炎がある。その炎の熱が、私の精神をあぶり、奮い立たせる。「よりすぐれた者になれ!」と。そして飽くなき向上心を持って、さらに飛躍しようとする。
私は自分自身に向かって宣言する。「私は、この宇宙における、唯一にして最大の存在である」と。
これより私は、この「違い」という利点を利用しよう。なぜなら、この利点こそ最大限に運用されるべき私の財産だからである。

他人を真似るなどという無益なことを私はもうやらない。私は自分の独自性を発揮する。
今や私は、他人との相違点を強調し始める。そして類似点は隠すよう務める。この原理は、私が売る商品にもあてはまる。その異なることに誇りをもっている。

私は、大自然が生み出した唯一の創造物である。
私は稀有なるものである。稀有なるものには価値がある。
私は何千万年も進化をしつづけてきた最終生物である。したがって私は、精神面においても、肉体面においても、優れた能力がそなわっているはずである。
私は、今日の行為をもって、その軌跡をさらに拡大していけるのだ。

私は宇宙最大の奇跡である。
私は、偶然にこの世に生まれたのではない。一つの目的をもって、この世に存在しているのである。その目的とは、山の如く偉大なる者になれ、と言うことである。
人間についての知識、自分自身についての知識を増やしていくことを怠らなく務める。商品を売る時の言葉を練習し、改良し、磨きをかける。私は、つねに行儀作法の改良に務める。人々は、感じの良い態度にひきつけられるからである。

私は宇宙最大の奇跡である。
私は見るために眼を、考えるために頭脳を与えられた。そして今、私は人生最大の秘密を知った。それは人生における様々な難関は、実つは成功の為に与えられた絶好の機会なのだ!と言うことである。私の人生はすべて、「ラッキー・チャンス」なのである。

私は宇宙最大の奇跡である。
動物、植物、風、雨など、どれ一つとつとして、私と同じようにして生まれたものはない。なぜならば私は、愛の内に生を受け、目的をもって、この世に送り出されてきた者だからである。今まで私は、この事実に気が付いていなかったが、今はこの真理を悟っている。
この真理は、これからの私を導き、私の人生を築きあげていくのである。

一つの勝利ごとに、私は優れた戦士になる。
私は勝つ。私は偉大な人物となる。なぜなら私は、この世で唯一の存在だからである。

私は宇宙最大の奇跡である。













第3巻 継続

2023-11-29 07:33:06 | 日本

私は、明るく頑張り続けている。
私は成功するためにこの世に生まれてきた。私は喜びと感謝のおもいを全宇宙に満たそう。

人生の栄光は、それぞれの旅の終わりにあるのであって、始めたばかりの地点にはない。目標地点に何歩で到着出来るのか、私には知る由もない。千歩歩いて後、私は成功と出会うかもしれない。しかし、次の曲がり角の向こうに、もっと大きな成功は隠れているのかもしれない。だが、その角を曲がらない限り、何人も、そこに成功があるのかどうかは、決して知る事は出来ないのである。私にできることは、ただ次の一歩を踏み出すことだけである。ゆえに、私は次の一歩を踏み出す。事実、一度に一歩だけ踏み出すことは、そう難しいことではない。問題は、それを繰り返せるかどうかである。
一つ、一つ、一歩、一歩!喜びと愛を込めて。

私は、明るく頑張り続けている。
私の毎日の努力とは、あたかも堅(かた)い樫(かし)の木に加えられた、斧(おの)の一撃のようなものである。最初に、斧が打ち込まれても、木は微動だにしない。二度三度と繰り返されても同様である。それぞれの一撃は無意味なり、何の効果も生じないように見える。しかし、子供じみた、この一撃も、それが繰り返されることにより、樫の木は、ついに倒れるのである。
今日の私の努力は、まさにこれである。
ほんの小さな試みも、それが繰り返されることによって、いかに困難な仕事でも成し遂げられることを、私は知っている。私の辞書には、「喜びと感謝、愛情」の言葉しかない。

私は、明るく頑張り続けている。
私は全ての機会に成功をもたらす。心の中で唱える「私はあなたを愛している!」相手の渋い顔つきは、やがては笑顔に変わり、そこに友情が生まれる。ここがポイントである。人は必ず変わる。

私は先輩からの仕事の秘訣を学び取り、そのやり方を自分の仕事のやり方へ取り入れていく。一日が終わろうとするとき、疲れた体が家に帰りたがっても、私はもうひと踏ん張り頑張り、勝利を持って一日の終わりとしたい。
このようにして、明日の成功の種を、私は蒔き続けるのだ。

私は、成功するまで明るく頑張り続けている。
私は、今日の成功をもって自分を甘やかし、自己満足とはしない。足元をしっかりとかため、明るく頑張り続ける。
私は、今日こそが、わが人生最良の日と確信して、日の出を迎えるのだ。
成功の為の最大の原理とは、「明るい心でやり続けることが、勝利への道だ」ということである。
一つ、一つ、一歩、一歩!
私は励む、そして私は勝つ!







第2巻 愛

2023-11-28 07:25:46 | 日本

今日この日を、私は心からの愛をもって迎える。
なぜならばこれは、いかなる仕事においても成功するための最大の秘訣だからである。
腕力は盾を打ち砕き、人を殺すこともできるが、人の心を開くことはできまい。これが出来るのは、目に見えない愛の力だけである。この愛の心をもって相手に接する。私は愛を持って、私の最大の武器としよう。

今日この日を、私は心からの愛をもって迎える。
私はすべてのものを愛の心をもって見ることにしよう。そして、私は生まれ変わるのだ。

私は喜びを歓迎する。なぜなら、それは私の心を広げてくれるからだ。
報酬は当然私に支払われるべきものだから、私は喜んでそれを受け取ろう。

今日この日を、私は心からの愛をもって迎える。
私は私の敵をたたえよう。これによって、彼らは私の友となろう。私は友を力づけよう。つねに私は、彼らを称えるべき理由を探すべく勤めよう。他人を非難したくなったら、私は自分の舌を噛もう。反対に人を褒めたくなったら、私は大声で叫ぼう。

今日この日を、私は心からの愛をもって迎える。
しかし私は、人々の行いに対して、どのように対応すればよいのであろうか。
「愛をもって」、この一語である。愛は人の心を開くための武器である。

今日この日を、私は心からの愛をもって迎える。
しかし私は、初めて出会う人、難しく見える人々に対し、どのように接すればよいのだろうか?
方法はただ一つである。無言のうちに、心の中で、私は彼に近寄り、そして「私はあなたを愛している」と呼びかける。この言葉は、沈黙のうちに語られるが、しかしそれは、私の眼の中で輝き、私の唇に微笑みをもたらし、私の声の中にこだまする。そしてこのとき、はじめて彼の心が開かれるのである。

今日この日を、私は心からの愛をもって迎える。
私は何にもまして、自分自身を愛する。
私は独りよがりな自己満足に陥ることなく、瞑想と祈りによって、自らの魂を高めていこう。
私は自分の心がいつも広く喜びにあふれている。愛情にあふれている。人々と愛を分かち合い、寛容の心を成長させ、世界が温かい友情で包まれるのが、私の望みである。

今日この日を、私は心からの愛をもって迎える。
今より私は全人類を愛する。今この瞬間より、すべての憎しみは除かれる。私には愛することしかない。今、この瞬間より、私は男の中の男になるべく、その第一歩を踏み出す。
たとえ、私には何の長所がないとしても、案ずるには及ばない。愛さえあれば、成功への道は必ず開けている。









第1巻 習慣

2023-11-27 07:02:23 | 日本

今日、私は新しいワクワクする人生を始める。
今日、私は古い皮膚を脱ぎ捨てて、まったく新しいワクワクする人間となる。
成功を得るために、喜びを持って迎えよう。自然が私のからだと心に豊かさと喜びを与える。今、私は富、地位、幸福の陽光のもとへ導かれるのである。そして、私は莫大な報酬を手にするのだ。

目的を達成への道は、「今すぐ出発する」これがポイントである。
われわれ人間は、すでに大自然から、万物の霊長であるという能力を与えられている。
以下の全10巻の巻物の中にある教えは、真理として永続する。そしてその教えは今、私の手中にある。

なぜなら、成功とは、各人の気持ちのあり方の問題であるからだ。ある成功の報酬も、それが小さすぎると感じる人にとっては、成功とは思えないであろうし、同じ程度の報酬でも、成功したと喜ぶ人には成功である。

良い習慣こそ、あらゆる成功の鍵である。
かくして、すべてに優先して、私の守るべき最初の法は、「私は良い習慣をつくる。」
私の自由意志というものは、とっくに、長年つみあげられた習慣の中にある。
良い習慣をドンドン積み上げよう。

私は良い習慣をつくりだす。その秘訣は、「ある習慣を変えるものは、新しい他の習慣だけである」という自然の法則にもとづいている。新しい習慣づくりの第一は、この巻物を読むという行為である。

私は、次のやり方で、自分を鍛えていく。
それぞれの巻物は、30日間かけて読み続ける。その読み方は、朝起きたら、先ず黙読する。昼食をすましたら、ふたたび黙読をする。そして、一日の終わり、眠りにつく前には、もう一度声を出して読むのである。音読することはもっとも大切な点であるから、決して忘れてはならない。
翌日も、このやり方を繰り返す。これを30日間続けるのである。そして、次の巻に移り、同様にして30日間つづける。但し、これは原則である。自由に気楽に行うこと。継続することが最も重要である。あくまでその本質を見て時間と形に囚われてはいけない。継続することが大事である。

このようにして、私はすべての巻物とともに生活し、巻物を読むことは、私の生活の一部、すなわち習慣となる。

毎日、読み返していると、巻物は、ついには私の思考意識の一部となる。それは、私の、もう一つの心とも呼ぶべき場所にしみこんでいき、私の理解しがたい神秘的な力となる。それは、私に夢をつくりださせ、しばしば不思議な行動を私にとらせるが、結局それは、目的達成のための最短距離だったことが後からわかる。

この習慣がつづけられていくうちに、私は不思議な力に目覚めはじめる。
朝起きるごとに、それまでに覚えたことのないような活力が体内にみなぎっているのを知る。やる気は増し、希望に燃え、世の人々と会いたくなる。今まで思ってもみなかった幸福な世界があることを知るようになる。
知らず知らずのうちに、私は日常生活の中で直面する出来事に、巻物の中で説かれている方法を持って、対処している自分の姿を見出すよになる。そしてまもなく、それらの行動や反応が、簡単かつ自動的に行えるようになる。なぜなら、反復された練習の効果は、いかなる行為も容易にするからである。

こうして新しい良い習慣は私の内に誕生する。なぜなら、絶えざる繰り返しにより、その行為が容易になると、それを行うことが楽しみになるからである。

今日、私は新しいワクワクした人生を始める。
私は、巻物を読むことを、一日たりとも欠かさない。なぜなら失った一日はけっして取り戻すことは出来ないし、また他日を持ってそれを取り替えることも出来ないからである。また、この毎日の習慣を続行する労力などは、この習慣がもたらす成功と幸福の喜びを思えば、とるに足らないささなことである。

私はすっかり生まれ変わり、まったく新しいワクワクした人生を歩きはじめた人間である。




「光明思想 全巻物10巻」

2023-11-26 08:33:23 | 日本

成功するための普遍の習慣を身につける
「光明思想 巻物10巻」


第一巻   習慣
第二巻   愛
第三巻   継続
第四巻   奇跡
第五巻   人生最高の日
第六感   感情
第七巻   笑顔
第八巻   自分の価値
第九巻   行動
第十巻   祈り



新しい習慣づくりの第一は、この巻物を読むという行為である。

それぞれの巻物は、30日間かけて読み続ける。その読み方は、朝起きたら、先ず黙読する。昼食をすましたら、ふたたび黙読をする。そして、一日の終わり、眠りにつく前には、もう一度声を出して読むのである。音読することはもっとも大切な点であるから、決して忘れてはならない。
翌日も、このやり方を繰り返す。これを30日間続けるのである。そして、次の巻に移り、同様にして30日間つづける。第十巻までいったら、初めに戻り、そして何度も何度も繰り返して読み続けていくことが、「人生有終の美」を飾ることになる。



※この『光明思想 巻物10巻』は、『地上最強の商人』の書籍の第1巻から第10巻までをベースとして、光明思想の内容でまとめ直し、より進化させたものである。




『光明思想 巻物10巻』

2023-11-25 08:02:28 | 日本

今日より、数日間にわたり、『光明思想 巻物10巻』を掲載します。
是非、勉強実践してみてください。


『地上最強の商人』の書籍411ページを熟読して、その中の第1巻から第10巻までを毎日続けて実践しました。
15ヶ月かかっております。今なを継続中です。
詳しくは、やり方が第1巻に書いてあります。

また、1巻読むごとに、「そしじ」の文字を書き入れました。
今回は、100ページほどある「地上最強の商人」第1巻から第10巻までをベースとして、私なりに15ページほどに「光明思想」の内容でまとめ直し進化させ、『光明思想 巻物10巻』として編纂しました。

  

「妙々 そしじの力」
大宇宙 示し申さば わが主(うち)の 愛と感謝と 調和に満つる
そしじとは、「大宇宙の宇冠(うかんむり) + 神 + 主」を合わせた漢字の造語である。
では、なぜ戦後生まれの私たちは知らないのか?
終戦時のGHQが、この文字があまりにパワーがハードなので潰したと言われています。
この一文字で、「愛・感謝・調和」を表す漢字で、古くからあった漢字と言われているそうです。ものすごい高波動だそうです。

たとえば・・・
・この文字の上に置いて凍らせた水は素晴らしく美しい結晶になる。
・この文字の上に置いた花瓶や植木鉢など花は生き生きと長生きする。
・この文字を置いた場所は瞬時に空気が浄化され、いい気が流れ光が降りる。
・痛いところにこの字を書いて貼ったら痛みが消えた。
・枕の下に置いたら寝起きがいい、ぐっすり朝まで眠れた。
・電磁波カットを期待している etc…


※各巻1日3回、1回読むごとに、このそしじの文字を書くとよい。







大和輝承文 「完全プラス思考の法則」

2023-11-24 07:14:45 | 日本

大和輝承文 「完全プラス思考の法則」


一喜一憂とは、すべて心の迷いである。
迷いを去り、今を完全に生きる。私は完全円満な人生である。私の生きる力は、その場その場において大きく成長する。プラス思考の想いを十分心の中に満たし、前向きに一つ、一つ前進していく。明るい心を持って前進していく。その一歩、一歩の前進力が、今の自分をさらに大きくする。常に感謝の心に切り替え前進する。常に心を充実させ気力があふれている。

そして、これをもっと深める発想、すなわち「完全プラス思考」に持っていくにはどうするのか?それにはさらに思考を深め、最後には常に前あがりの発想で終わること。ここが重要である。すべての出来事の節目は、「前あがりの発想=完全プラス思考」に切り替えて終わることが超重要である。





「日本人らしさを大事にする」

2023-11-23 07:45:20 | 日本

かつて、日本では、修身の授業を受けることで、日本人であることの
プライドを持ったとも言えます。

修身とは文字通り、身を修めて正しい行いをすることです。

この授業があったことで、日本人は子どものころから正しい生き方を身につけ、
人に迷惑をかけない躾ができていました。

ところが、戦後、日本人の価値観はまるで変わってしまいました。

教育の現場では、どんどん日本人であることのプライドを奪われてしまい、
親たちも子どもの教育に自信が持てなくなってしまいました。

それが、大きな失敗だったと思っています








「ウエツフミによる天孫降臨」(現代語訳)

2023-11-22 07:45:02 | 日本

「ニニギ、「ニ上の大宮」から「大分の宮」に遷都」


◎第11綴 第1章 ニニギ、国土完成の勅命を受ける
(高千穂に天孫降臨したニニギだったが、しばらく二上の大宮で過ごしていると・・・・)
 
ここに、イザナギ、イザナミ、天照大神、アメノオシホミミ、タマヨリヒメは、一緒になって、
天津御子であるニニギに、こうお告げになりました。
 
これ豊道之原の中津国(地球の中心にある国という意味、即ち日本国)は、天津諸々の神たちが造り固めました。
しかし、造り終わっていないところもあるので、汝は、国の国々、島の島々の未完の土地を求めて、造り固めなさい!
また、人民たちに便利が良いようにしなさい。
汝は、大須佐田、小須佐田を極めて開いて作りなさい。(※意味不明だが、田んぼのことか?)
また、人草のような人民たちを、撫でるように可愛がりなさい。 」
 
と、イミスキとイミクワを遣わして、言依り(※イタコのように憑依して代言させること)させ賜いました。

 
◎第11綴 第2章 ニニギ、大分への遷都を臣下の神に命ず
ここに、ニニギに大須佐田と小須佐田(※意味不明)を極めようと、
臣下の神たちに言依り(※前出)させて、
 
「臼杵の平地、大分の平地を開いて水田を固め、
また直入(※現在の竹田市)の荒野、阿蘇の荒野を開いて畑を固め、
ニニギとその妃たち、御子たち、 八百の(※数多い)臣たちとともに、
豊種津物(※豊かな農作物)を作り出して食を安定させよ。
また、その種で、東の端から西の端まで、賄わせるのだ。」
 
と、おっしゃいました。
 

◎第11綴 第3章 同行者を決め、国内巡行を準備
ここに、ニニギは国巡りをしようと、オモイカネ、コヤネ、フトダマの3人の命たちに、国廻りの道筋を指示しました。
(※オモイカネは岩戸開きにも登場する知恵の神だが、主にフトマニによる占いを担当。アメノコヤネはヤタの鏡を預かる右大臣で中臣氏=藤原氏の祖先。フトダマは剣を預かる左大臣で忌部氏/斉部氏の祖先。)
 
ここに三柱の神たちはともに会議を開いて、 多くの神々も同行させることに決めました。
(以下、同行する神々の名前と役割、その装束など・・・このときに同行した主な神々のリストはこちら)
 

◎第11綴 第4章 ニニギ、高千穂を出発、大御伴はサルタビコとウヅメ
ここに、ニニギは国廻りの装束を着て、「二上の大宮」(ふたのぼりのおおみや※高千穂にあった大宮殿)を出発されるときに、サルタビコとウズメが直前に立って固め、清めながら、お守りしました。
(※この二人は天孫降臨のときにも道案内をしているが、その後どこに行くにも同行している)
 
同行した神々(※省略)と一緒に、笛や太鼓を打ち鳴らしながら大分の国に到着しましたが、その一行の装束があまりにも美しかったので、大分の人々はみんな、畏み喜んで祝詞を歌いながらお迎えしました。
 

◎第11綴 第5章 大分に入御
ここに、大分郡の、和那麿(わなまろ)という地方の頭国主(※領主)であった小屋田の三郎の頭という人が、御宝山(※みたからやま)に、神事を執り行うお宮を造って、お迎えしました。
 
(※現在の霊山とされている。西隣の障子岳に連なる宇曽岳には「宇曽嶽神社」があり、ここに日向国宇土大明神という別名でウガヤフキアエズの肖像が祀られており、以下に登場する各地名からのアクセスも近いので、私はこの障子岳または宇曽岳こそが、本当の「御宝山」であると考える。)
 
お祝いの善に小豆のおこわの火丹色をしたものを奉げましたが、ニニギは「この場所は人民がよく集まることができる山だなあ。」と、おっしゃいました。
だからこの山を御宝山といいます。(当時は人民のことをオオミタカラと呼んでいたので)
 
また小豆のおこわを召し上がったときに、「小豆の赤が栄えるだろう」とおっしゃったので、そこを荏隈(えのこわ=さかえるおこわの意※現在のエノクマ)といいます。
 
臣下の神たちが到着された所を、廻洲野(くるすぬ※現在の廻栖野‎めぐすの‎)といい、
お伴してきた人の頭たちが集まってきた所を、世利(せり※現在の上芹・下芹)といい、
馬を繋いだ所を、胡麻津留(こまづる※現在の胡麻鶴)といい、
牛を繋いだ所を、塚野(つかぬ※現在の塚野)といい、
しばらくして、大分の人たちが集まってきた所を、市(いち※現在の市)といいます。
大分の宮周辺地図・・・・南北を神社が守っていることに注目。
さらに続く・・・・
このあと、山幸彦とトヨタマヒメの間に、ウガヤフキアエズが生まれ、以降少なくとも74代以上続くウガヤフキアエズ王朝がスタートする。
 

【前書き】

ウガヤフキアエズ王朝末期に起こった『神武東征』、
それは王朝にとっては未曾有の大事件であり、
同時に、王朝の存在自体を揺るがす死活問題でした。
 
しかし、『古事記』や『日本書紀』は、その真相をほとんど伝えていません。
それどころか、隠蔽しようとしている姿勢さえ見受けられます。
 
そこで、『ウエツフミ』の膨大かつ正確な記述をもとに、素人ながら私が現代語に翻訳にしてみました。
すると、当時の人たちの動きや感情が、鮮明に蘇ってきたのです。
 
まず、『ウエツフミ』の記述が、『古事記』や『日本書紀』とは、どう異なっているのか?
そのポイントを箇条書きにしておきます。
 
<あらすじ>
◆そもそものきっかけは、天変地異による大飢饉だった。
◆第71代ウガヤフキアエズの命や皇族たちが、豊の国から全国を巡幸して、食料確保の指導を行なっていた。
◆その途中で、関西の長脛彦(ナガスネヒコ)と新羅の連合軍が、五瀬の命を襲撃して戦死させる。
◆長脛彦は、新羅にそそのかされ、天皇家を滅ぼして、自分がそれに代わろうとしていた。
◆彼はニギハヤヒの子孫ではない。その持っていたご神宝の弓矢は、斑鳩山から盗んだものだった。
◆しかし、弟の日高狭野=ヒダカサヌらを中心とする皇軍に滅ぼされ自殺する。新羅軍も一掃される。
◆日高狭野の兄弟たち、稲飯と三毛入野は、「熊野の海戦」で、新羅の船団50隻を全滅させるが、自らも犠牲となり、英雄として熊野神社に祀られた。
◆この日高狭野こそが神武天皇であると記紀は伝えているが、ウエツフミにはこの呼称は存在しない。
◆日高狭野は、いったん豊の国に凱旋帰国して、人民の歓待を受ける。
◆しかし、占いにより再び奈良・吉野山への遷都を決意する。(まだ天変地異が続いていたので)
◆橿原の地で第73代ウガヤ天皇に即位するが、ここでウエツフミの記述は終わる。
(つまりウガヤフキアエズ王朝は滅ぼされたが、その経緯はどこにも書かれていない)
 







「風邪は万病のもと」

2023-11-21 07:23:43 | 日本

「風邪は万病のもと」気を付けましょう。
いい内容が掲載されていた。


急に寒くなってきました。風邪がはやる季節です。風邪(common cold)は、鼻水、せき、のどの痛みといった上気道に限局した炎症症状を呈する疾患の総称で、さまざまなウイルスが原因になります。風邪が冬に流行するのは日本だけではなく、世界中の温帯地域で同様のパターンが知られています。それにしても、いったいなぜ、冬に風邪が流行しやすいのでしょうか?  「体が冷えると風邪を引きやすい」と広く信じられていますが、医学的には証明されていません。

確かに動物実験では体温を下げるとウイルスに対する抵抗力が下がることが示されていますが、日常生活において多くの人が風邪を引いている状況は、動物実験ほどの極端な寒冷環境ではありません。みなさん、寒ければ服を着こんだりして対処しますよね。  

ヒトでの実験も少ないながら行われています。1968年に報告された実験では、44人の健康な成人男性に対し、一般的な風邪ウイルスであるライノウイルスを感染させた上で、4℃の室内および32℃の水浴の影響を調べました。その結果、寒冷環境は風邪症状の頻度や重症度を増加させないことが示されました。他の実験でも似たような結果が得られており、寒冷環境は風邪の発症の重要な要因ではないとされています。  

「気温が下がって体が冷えるから」といった単純な理由ではないとして、冬に風邪が流行する理由は何でしょう。一つはウイルスの安定性です。温度だけではなく湿度も関係してきます。低温で適度に乾燥した冬では、風邪に関連したウイルスが不活化されにくに環境中で長く生き残り、その分、感染が広がりやすくなります。湿度が低い方がウイルスを含んだ粒子が空気中に留まりやすいことも影響しているかもしれません。  

人と人との接触の機会の増加も風邪が流行する要因です。寒い冬は、暖房が効いた室内に人が集まることが多くなります。風邪ウイルスは容易に流行するでしょう。体全体が冷えるのではなく、ウイルスの侵入経路である鼻粘膜が冷えることが重要だという説もあります。だとすると、服を着こんで体が冷えないようにしても鼻周辺が冷えていれば風邪を引きやすくなります。  

いずれにせよ、冬に風邪が流行するのは複合的な要因が関与していると思われます。新型コロナウイルス感染症やインフルエンザだけでなく、普通の風邪も生活の質を落とします。手洗いやマスク着用、適切な湿度の維持、定期的な換気といった感染予防対策を行って、快適な冬をお過ごしください。







◎今を生きる

2023-11-19 08:05:52 | 日本

幸せな人生とは、物質的な豊かさだけでは実現しません。
もし、物質的な豊かさだけが幸せの条件であれば、日本は世界幸福度ランキングでベスト10に入るでしょう。
残念ながら日本は47位です。


人が幸せであるために必要なものは?

自分軸で生きること。
自分のやりたいことを自由にやれる喜び。
自分がどうしたいのか?
自分がどうありたいのか?

あなたの人生というドラマの主役はあなたです。
あなたのドラマの脚本は誰が書いていますか?
もし他人が書いた脚本で、しかもそれが面白いものでなかったなら、それは大変なことです。
あなた自身が脚本を書き直しましょう。
とは言え、面白い脚本を書こうと思っても、10年も20年も先のことなど、そう簡単に見通せるものではありません。
その場合、まずは今を懸命に生きるよう、心がけることです。
そうすれば、明日が見えてくるようになるのです。
そして、日々の積み重ねが、10年後、20年後に花開き、大きな成果を生むことになるのです。
一日一日を懸命に生きれば、未来が開かれてくるのです。
未来を見通すということは、今を懸命に努力して生きることの延長上にしかないのです。
あなたのドラマのタイトルはすでに決まっているのです。


「今を生きる」脚本、主演、演出はすべてあなたです。













「編集と編纂の違いとは?」

2023-11-18 06:58:14 | 日本

◎編集とは、


「編集」という言葉には、どのような意味があるでしょうか。

「編集」は「へんしゅう」と読みます。

「編集」には「一定の方針に従って資料を整理して、新聞や雑誌、書物などにまとめること」また「撮影された映像を、映画などにまとめること」という意味があります。

またそれらの仕事をする人を、「編集」と呼ぶことがあります。

例えば、漫画の原稿を集めて、雑誌としてまとめるとき、「漫画雑誌を編集する」と言います。

また、撮影が済んだ映像を、映画監督が作品としてまとめる作業を、「映画の編集作業をする」などと言います。

「映画は撮影よりも、編集作業の方が楽しい」などという文章を作ることができます。

また、新聞や雑誌などをまとめる仕事に就いた場合、「編集の仕事に就いた」とか「編集者にな

ったと言います。


◎編纂とは

「編纂」という言葉には、どのような意味があるでしょうか。

「編纂」は「へんさん」と読みます。

「編纂」は「いろいろと材料を集めて、整理と加筆などを行って、書物にまとめること」を意味します。

例えば、日本中の言葉を集めて、意味を整理したり、足りない部分を加筆したり、例文を考えて、引きやすいように整理する作業を「辞書を編纂する」と言います。

また、日本中に散らばる神話などを集めて、書物にまとめるような作業を「神話の編纂」と言い、過去の歴史的な事実を集めて、書物としてまとめる作業を「歴史書の編纂」などと言います。

「天皇の命令を受けて、日本で初めての歴史書を編纂した人物」、「怪談を集めて怪談集を編纂するために山陰地方を旅して取材するという使い方が出来ます。

◎編集と編纂の違い

編集と編纂の違いを、分かりやすく解説します。

「編集」には「一定の方針に従って資料を整理して、新聞や雑誌、書物などにまとめること。

撮影された映像を、映画などにまとめること」という意味があります。

一方の、「編纂」には、「いろいろと材料を集めて、整理と加筆などを行って、書物にまとめること」を意味します。

基本的に「編纂」の仕事の中には、「編集」の仕事が含まれていると考えることができます。

逆に言えば、「材料を集める」という仕事が、「編集」の仕事には含まれていないと考えることができます。

このように、「編集」の仕事に加えて、雑誌や本を作るための材料を集める作業が加わっている

のが編纂だと覚えておくのがいいのではないでしょう。


◎まとめ

編集と編纂の違いについて見てきました。

2つの言葉は似た意味があり、意味が重なっている部分もあります。

基本的に「編纂」には「編集」が含まれていて、「編集+材料集め=編纂」と覚えておくといいかもしれません。
2つの言葉を使いやすくなるのではないでしょうか。










「パワーワードって知ってる?」

2023-11-17 06:42:06 | 日本

よい意味でも悪い意味でも、なぜか頭にこびりついて離れない言葉ってありますよね? これが「パワーワード」です。「インパクトの強い言葉」という意味ですが、SNSで広く拡散される以前は、少し違う使われ方をしていたようですよ。ということで今回は「パワーワード」の意味や使い方、類語について解説します。

■意味
『現代用語の基礎知識』によれば、「パワーワード」は「人にインパクトを与える強い言葉」を指す言葉です。もともとはSNSで広まったネットスラングでしたが、今ではネットを利用しない人にも広く浸透し、「頭から離れない言葉」「破壊力のある言葉」といった意味で使われています。
「パワーワード」の特徴は、「よくも悪くも印象に残る強い言葉」である点です。なるほど…!と納得させられる含蓄のある言葉もあれば、挫けそうになったときに励ましてくれる言葉や、自分の中のネガティブな感情をかき立てるような言葉も含まれます。内容に関わらず、インパクトさえあれば「パワーワード」です。そのため、どんな言葉を「パワーワード」だと感じるかは、人それぞれ。つまり、万人に共通した「パワーワード」は存在しない、とも言えます。

■語源は「英語」なの?
「パワーワード」は、「Power(力)」と「Word(言葉)」という、ごく一般的な英単語を組み合わせた言葉であるため、語源は明確には特定できません。「インパクトのある言葉」という意味であれば、英語でもそのまま[power words]で通じます。履歴書や面接など、自己PRが重要な場面でも効果を発揮します。

■いつから、なぜ流行った?
「パワーワード」は2010年代から広く使われるようになったと言われ、「三省堂 辞書を編む人が選ぶ『今年の新語 2017』」においては、大賞の「忖度」、2位の「インフルエンサー」に続く、3位に選ばれています。

もともと「パワーワード」は、「説得力のある言葉」や「自分を励ましてくれる言葉」、「深い意味を感じさせる言葉」といった意味で使われていましたが、SNSにより一般に広く浸透した過程で、「インパクトのある言葉」としての「パワーワード」が拡散されたため、現在のような使われ方になったようです。








「シーボルトとは、」

2023-11-16 07:20:58 | 日本

フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(ドイツ語: Philipp Franz Balthasar von Siebold、1796年2月17日 - 1866年10月18日)は、ドイツの医師・博物学者。出島の三学者の一人。

◎誕生

神聖ローマ帝国の司教領ヴュルツブルク(現ドイツ連邦共和国バイエルン州北西部)に生まれる。シーボルト家は祖父、父ともヴュルツブルク大学の医師であり、医学界の名門だった。父はヴュルツブルク大学医学部産婦人科教授ヨハン・ゲオルク・クリストフ・フォン・シーボルト。シーボルトという姓の前にフォン (von) が添えられているが、これは貴族階級を意味し、シーボルト家はフィリップが20歳になった1816年にバイエルン王国(ナポレオン戦争の終結に際してヴュルツブルク一帯を領土に加えた)の貴族階級に登録された。シーボルト姓を名乗る親類の多くも中部ドイツの貴族階級で、学才に秀で、医者や医学教授を多数輩出している。
父ヨハン・ゲオルク・クリストフは31歳で死去した。1歳1か月のときである。以後、ハイディングスフェルに住む母方の叔父に育てられる。母マリア・アポロニア・ヨゼファとの間に2男1女があったが、長兄と長姉は幼年に死去し、弟のフィリップだけが成人した。

◎大学時代

フィリップが9歳になったとき、母とヴュルツブルクからマイン川を半時間ほど遡ったハイディングスフェルト(ドイツ語版)に移住し、1810年ヴュルツブルクの高校に入学するまでここで育った。12歳からは、地元の司祭となった叔父から個人授業を受けるほか、教会のラテン語学校に通う。1815年にヴュルツブルク大学の哲学科に入学するも、家系や親類の意見に従い、医学を学ぶことになる。大学在学中は解剖学の教授のイグナーツ・デリンガー(ドイツ語版)家に寄寓した。医学をはじめ、動物、植物、地理などを学ぶ。
一方で、大学在学中のフィリップは、自分が名門の出身という誇りと自尊心が高かった。またメナニア団(ドイツ語版)という一種の同郷会に属し議長に選ばれ、乗馬の奨励をしたり、当時決闘は常識だったとはいえ、33回もの決闘をして顔に傷も作った。江戸参府のときに商館長ヨハン・ウィレム・デ・スチュルレル(オランダ語版)にも、学術調査に非協力的だとの理由で決闘を申し入れている。

◎植物学との出会い

デリンガー教授宅に寄宿し、植物学者のネース・フォン・エーゼンベック教授の知遇を得たことが彼を植物に目覚めさせた。ヴュルツベルク大学は思弁的医学から、臨床での正確な観察、記述及び比較する経験主義の医学への移行を重視していた。シーボルトの家系の人たちはこの経験主義の医学の『シーボルト学会』の組織までしていた。どの恩師も医学で学位をとり、植物学に強い関心をもっていた。デリンガー教授(解剖学)がそうであり、専門のエーゼンベック教授はコケ植物、菌類、ノギク属植物等について『植物学便覧』という著作を残している。1822年にはゼンケンベルク自然科学研究学所通信会員、王立レオポルド・カロリン自然研究者アカデミー会員、ヴェタラウ全博物学会正会員に任命され、フランクフルトに新設の博物館用のタイプ標本の収集を依頼される。

1820年に卒業したシーボルトは国家試験を受け、ハイディングスフェルトで開業する。しかし既に述べたように名門貴族出身という誇りと自尊心が強く町医師で終わることを選ばなかった。
東洋学研究を志したシーボルトは、1822年にオランダのハーグへ赴き、国王ウィレム1世の侍医から斡旋を受け、7月にオランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となる。近年の調査により、バタヴィアの蘭印政庁総督に宛てたシーボルトの書簡に「外科少佐及び調査任務付き」の署名があることや、江戸城本丸詳細図面や樺太測量図、武器・武具解説図など軍事的政治的資料も発見されたことから、単なる医師・学術研究者ではなかったと見られている。

◎日本へ

9月にロッテルダムから出航し、喜望峰を経由して1823年3月にバタヴィア近郊のヴェルテフレーデン(ジャカルタ市内)の第五砲兵連隊付軍医に配属され、東インド自然科学調査官も兼任するも滞在中にオランダ領東インド総督に日本研究の希望を述べ認められる。6月末にバタヴィアを出て8月に来日、鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医となる。本来はドイツ人であるシーボルトの話すオランダ語は、日本人通辞よりも発音が不正確であり、怪しまれたが、「自分はオランダ山地出身の高地オランダ人なので訛りがある」「山オランダ人」と偽って、その場を切り抜けた。本来は干拓によってできた国であるオランダに山地は無いが、そのような事情を知らない日本人にはこの言い訳で通用した。または、オランダ語は系統的に低地ドイツ語の一種と見なされており、高地ドイツをこれに対する地域として表現したともいえる。エンゲルベルト・ケンペルとカール・ツンベルクとの3人を「出島三学者」などと呼ぶことがあるが、全員オランダ人ではなかった。来日した年の秋には『日本博物誌』を脱稿。
出島内において開業の後、1824年には出島外に鳴滝塾を開設し、西洋医学(蘭学)教育を行う。日本各地から集まってきた多くの医者や学者に講義した。代表として高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介らがいる。塾生は、後に医者や学者として活躍している。そしてシーボルトは、日本の文化を探索・研究した。また、特別に長崎の町で診察することを唯一許され、感謝された。1825年には出島に植物園を作り、日本を退去するまでに1400種以上の植物を栽培した。また、日本茶の種子をジャワに送ったことにより同島で茶栽培が始まった。

日本へ来たのは、プロイセン政府から日本の内情探索を命じられたからだとする説もある。シーボルトが江戸で多くの蘭学者らと面会したときに「あなたの仕事は何ですか」と問われて、「コンデンスポンデーヴォルデ」(内情探索官)と答えたと渡辺崋山が書いている。
1826年4月には162回目にあたるオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行、道中を利用して日本の自然を研究することに没頭する。地理や植生、気候や天文などを調査する。1826年には将軍徳川家斉に謁見した。江戸においても学者らと交友し、将軍御典医桂川甫賢、蘭学者宇田川榕庵、元薩摩藩主島津重豪、中津藩主奥平昌高、蝦夷探検家最上徳内、天文方高橋景保らと交友した。この年、それまでに収集した博物標本6箱をライデン博物館へ送る。
徳内からは北方の地図を贈られる。景保には、クルーゼンシュテルンによる最新の世界地図を与える見返りとして、最新の日本地図を受け取った。

来日まもなく一緒になった日本女性の楠本滝との間に娘・楠本イネを1827年にもうける。アジサイを新種記載した際にHydrangea otaksa と命名(のちにシノニムと判明して有効ではなくなった)しているが、これは滝の名前をつけていると牧野富太郎が推測している]。
1828年に帰国する際、先発した船が難破し、積荷の多くが海中に流出して一部は日本の浜に流れ着いたが、その積荷の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、地図返却を要請されたがそれを拒否したため、出国停止処分を受けたのち国外追放処分となる(シーボルト事件)。当初の予定では帰国3年後に再来日する予定だった。

◎帰国

1830年、オランダに帰着する。日本で収集した文学的・民族学的コレクション5000点以上のほか、哺乳動物標本200・鳥類900・魚類750・爬虫類170・無脊椎動物標本5000以上・植物2000種・植物標本12000点を持ち帰る。滞在中のアントワープで東洋学者のヨハン・ヨーゼフ・ホフマンと会い、以後協力者となる。翌1831年にはオランダ政府から叙勲の知らせが届き、ウィレム1世からライオン文官功労勲爵士とハッセルト十字章(金属十字章)を下賜され、コレクション購入の前金が支払われる。同年、蘭領東印度陸軍参謀部付となり、日本関係の事務を嘱託されている。1832年にライデンで家を借り、コレクションを展示した「日本博物館」を開設。ルートヴィヒ1世からもバエルン文官功労勲章騎士十字章を賜る。オランダ政府の後援で日本研究をまとめ、集大成として全7巻の『日本』(日本、日本とその隣国及び保護国蝦夷南千島樺太、朝鮮琉球諸島記述記録集)を随時刊行する。同書の中で間宮海峡を「マミヤ・ノ・セト」と表記し、その名を世界に知らしめた。
日本学の祖として名声が高まり、ドイツのボン大学にヨーロッパ最初の日本学教授として招かれるが、固辞してライデンに留まった。
一方で日本の開国を促すために運動し、1844年にはオランダ国王ウィレム2世の親書を起草している。

1853年のアメリカの東インド艦隊を率いたマシュー・ペリー来日とその目的は事前に察知しており、準備の段階で遠征艦隊への参加を申し出たものの、シーボルト事件で追放されていたことを理由に拒否された。また、早急な対処(軍事)を行わないように要請する書簡を送っている。
48歳にあたる1845年には、ドイツ貴族出身の女性、ヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚し、3男2女をもうけた。

◎晩年のシーボルト

1854年に日本は開国し、1858年には日蘭修好通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除される。1859年、オランダ貿易会社顧問として再来日し、1861年には対外交渉のための幕府顧問となる。貿易会社との契約が切れたため、幕府からの手当で収入を得る一方で、プロイセン遠征隊が長崎に寄港すると、息子アレクサンダーに日本の地図を持たせて、ロシア海軍極東遠征隊司令官リハチョフを訪問させ、その後自らプロイセン使節や司令官、全権公使らと会見し、司令官リハチョフとはその後も密に連絡を取り合い、その他フランス公使やオランダ植民大臣らなどの要請に応じて頻繁に日本の情勢についての情報を提供する。並行して博物収集や自然観察なども続行し、風俗習慣や政治など日本関連のあらゆる記述を残す[8]。江戸・横浜にも滞在したが、幕府より江戸退去を命じられ、幕府外交顧問・学術教授の職も解任される。また、イギリス公使オールコックを通じて息子アレクサンダーをイギリス公使館の職員に就職させる。1862年5月、多数の収集品とともに長崎から帰国する。

1863年、オランダ領インド陸軍の参謀部付名誉少将に昇進、オランダ政府に対日外交代表部への任命を要求するが拒否される。日本で集めた約2500点のコレクションをアムステルダムの産業振興会で展示し、コレクションの購入をオランダ政府に持ちかけるが高額を理由に拒否される。オランダ政府には日本追放における損失についても補償を求めたが拒否される。1864年にはオランダの官職も辞して故郷のヴュルツブルクに帰った。同年5月、パリに来ていた遣欧使節正使・外国奉行の池田長発の対仏交渉に協力する一方、同行の三宅秀から父・三宅艮斉が貸した「鉱物標本」20-30箱の返却を求められ、これを渋った。その渋りようは相当なもので、僅か3箱だけを数年後にようやく返したほどだった。バイエルン国王のルートヴィヒ2世にコレクションの売却を提案するも叶わず。ヴュルツブルクの高校でコレクションを展示し「日本博物館」を開催、1866年にはミュンヘンでも開く。再度、日本訪問を計画していたが、10月18日、ミュンヘンで風邪をこじらせ敗血症を併発して死去した。70歳没。墓は石造りの仏塔の形で、旧ミュンヘン南墓地 (Alter Münchner Südfriedhof) にある。








「如意とは?」

2023-11-15 07:05:34 | 日本

◎如意は「にょい」と読み、以下の二つの意味があります。

自分の思っていることが全て叶う、思いどおりになる。
僧が読経・説法のときに手に持つ棒状の僧具。
中国語で如意は「と発音し「意のままになる」「思いどおりになる」の意味。
如意は、思いどおりになるという意味から、①孫の手や②僧具を意味するようになったと言われています。

①痒い所に自在に手が届く「孫の手」
背中が痒いときに手でかこうとしても一苦労です。
「手の届かない背中の痒いところに意の如く(思いのままに)手が届くもの」
つまり、背中をかく道具である「孫の手」を如意と呼ぶようになったという説があります。
中国では、王や官人、貴人などが次第に手にするようになり、孫の手のような道具を如意と呼ぶようになりました。それに工芸品的な要素が加わり、様々な細工が施されたものも見られます。

②持っていれば思いのままに読経ができる「僧具」
読経・説法のときに僧が手に持つ孫の手が原形とされる僧具も如意と呼ばれています。
本来は、権威や身だしなみを正すために用いられるようになったとされますが、これを持っていると「忘れずに読経できる」「思いのままに説法ができる」として持たれるようになったとも言われています。
僧具としての如意は、竹や木、銅などで作られており、長さは30㎝〜40㎝程度。柄の先は、雲やキノコの一種である、蓮の形を模したものなど様々です。他にも「心」という文字を表わしているという説もあります。

③中国の縁起物 如意
如意は誰もが知る縁起物である。仏教の八宝の一つで、僧侶が経文を記録するための仏具であり、中国では昔から縁起物とされてきた。ハート形や霊芝の形、瑞雲の形の如意の文様がつくられ、日常生活において、建造物や家具、衣服、装飾品などによく使われている。
縁起ものの絵も如意を題材にしたものが多い。瓶に如意が刺してある絵や瓶の取っ手として如意が描かれているものなどがある。「瓶」と「平」が同じ発音であるため「平安如意」と呼ばれている。2つの柿あるいは2匹の獅子と如意が一緒に描かれている絵があるが、それは「柿」と「獅」が「事」と同自発音であることから「事事如意」を意味している。蝙蝠(こうもり)と「寿」の字と如意の組み合わせは「福寿如意」、如意が2つの喜の字を貫いている絵は「双喜如意」、男の子あるいは宮女が如意を持って象に跨っている図は「吉祥如意」を意味している。