龍の声

龍の声は、天の声

「対露外交転換の時、原点に戻る時だ」

2019-01-31 06:28:51 | 日本

西村真悟さんが、「対露外交転換の時、原点に戻る時だ」と題して掲載している。
以下、要約し記す。



安倍首相がモスクワで、ロシアのプーチン大統領と会談した一月二十二日、我が国のマスコミは、「何か進展」があるのではないかとの「期待」を滲ませたような報道姿勢だった。
一夜明けた今朝、報道をみて、芭蕉の句ではないが、「あらなんともなや」と思った。
皮肉を言っているのではない。
安堵したのだ。

では、懸念していたことは何か?
それは、「自分の内閣で北方領土問題を解決する」としている安倍総理の足下を見て、ロシアが仕掛ける、一九五六年(昭和三十一年)の「日ソ共同宣言の二島の枠内」に「領土問題」を閉じ込めることに合意し、すべてのロシアの要求を受諾する方向に向かわないかということだ。

十四日の日露外相会談で、ロシアのラブロフ外相は、「第二次世界大戦の結果、南クリール諸島(北方領土)はロシア領になったことを日本が認めない限り、領土問題の進展はない。」
と日本側に伝えていた。
これは、かつてのソ連のグロムイコ外相と同じ、長年の我が国の主張の100パーセントの否定である。
しかし、これを言われた日本側が、「日露交渉の決裂もあり得る」ことをロシア側に伝えず、むしろ外相は会談の「手応え」を強調していたのだ。
つまり、あのロシアのラブロフ外相の発言に対し、河野外相は、「おぬし、そこまで言うのなら確認するが、ロシア側は日露の決裂を望んでいるのか」とは言っていないようだ。

これが、我が輩の懸念した理由だ。
何故なら、このロシア外相の発言は、我が国の主張の100パーセント否定であるところ、この外相会談を前提にしたこの度の日露首脳会談で、プーチン氏が、「平和条約締結の後に歯舞色丹の二島を返還」という六十三年前の日ソ共同宣言を認めると発言すれば、それだけで、ロシアのプーチン氏は「大いなる譲歩」を決断したとなる。
そして、我が国内に、それに飛びつく勢力がある。
モスクワの安倍総理も、「わあ、ウラジーミル君ありがとう!我が内閣で解決した!」となり得るなあ、と懸念していた訳だ。
その懸念の上で、さらに懸念は続く。
つまり、相手がロシアであることを忘れてはならない、ということだ。
まず、我が国が二島が帰ると喜んで、二島に手を伸ばそうとすると、するとロシアは必ず、「チョット待て」と言う。
そして、二島を丸々帰すことはなく、そこから更に我が国の譲歩を迫る。
その果てに、結局、現実には、二島の半分が帰ればいいと思わせられる。
だから、二島の半分に手を伸ばそうとすると、また、ロシアは「チョット待て」と言って二島の半分の半分にされてしまう。
これがロシアの交渉だ!

一つの前例を上げる。
十四歳でスパイに興味を持ってKGBを訪問し、以後、そのつもりで大学に進み、二十三歳で共産党員としてKGBに入ったプーチン氏の親分はブレジネフだ。

そのソビエトのブレジネフ共産党書記長、コスイギン首相と我が国の田中首相、大平外相の
昭和四十八年(一九七三年)の日ソ首脳会談を思い起こそう。
この日ソ首脳会談に臨む田中総理の外務省事務当局との間で一致させた最終意思は次の二点

1、平和条約は、四島が返還されない限り締結しない。
2、経済協力協定には、領土問題が解決されない限り応じない。

第一回会談では、ブレジネフは田中首相の発言中に隣のコスイギン外相と雑談した。
第二回会談では、ブレジネフが関係のないプラハの春のチェコのドプチェクがけしからんとか二時間机を叩いて話し続けた。
そして第三回会談を経て共同コミニュケを決定する最終会談に入った。
出席者は、田中首相、大平外相、外務省東欧第一課長の三人、対するはブレジネフ党書記長、コスイギン首相、グロムイコ外相の三人。
首脳交渉後に共同コミニュケがないならば、招待側のソ連外交の失敗を世界に晒すことになる。
コミニュケ中に、「日ソ間の領土問題」という言葉を入れることにコスイギンが反対した。
その上で、ソ連側は「第二次世界大戦の時からの未解決の問題(単数)」との言葉を複数にしてもらいたいと提案してきた。
そこで田中首相が、「未解決の問題」とは「領土問題」以外にないではないか、と言うとブレジネフが、「漁業とか、経済協力とか・・・」と言い始めた。

そこで、田中首相が、「では、この『未解決の問題(複数)』の中に『四つの島』が入っているか」
と四本の指を立ててたたみかけると、ブレジネフは、「ヤー ズナーユー(知っている)」と言った。
そこで首相が、「もっとはっきりと未解決の問題に四つの島が入るか確認願いたい」と迫ると、レジネフは、「ダー(そうです)」と言った。
そこで田中首相は、日ソ共同コミニュケ発出に同意した。
この時、「日ソ間の領土問題は、ヤルタ以来、一連の国際協定によって解決済み」というソ連の立場の一角が崩れた(以上、新井弘一著「モスムワ・ベルリン・東京」時事通信社)。


以上、思い浮かんだことを述べた上で、

相手はロシアだ。
「ロシア人は、約束を破るために約束をする」という格言を肝に銘じ直し、今、シンゾウ君がウラジーミル君との「個人的信頼関係」を前庭にして、領土問題の上でのロシアの態度を軟化させるために経済援助と共同開発の進展を謀るという路線は止めて、田中角栄首相が、ブレジネフ党書記長との首脳会談に臨んだ前記の意思決定に戻るべきだ。

つまり、
1、平和条約は、四島が返還されない限り締結しない。
2、経済協力協定、共同開発協定には領土問題が解決されない限り応じない。

安倍総理には、我が国がロシアと緊密にならなければ、中露が接近して蜜月状態になる、これを避けねばならない、中露蜜月になれば、我が国は北と南から同時に脅威に去らされる、との思いが強いようだ。
しかし、このことは、江戸時代半ばからの我が国が置かれている国際情勢であり地政学的宿命である。
ウラジーミル君と仲良くなって解消することではない。
事実、ウラジーミル君は、北京の天安門で習近平の催した対日戦争勝利七〇年の軍事パレードを見物しているし、南シナ海で中露共同海軍軍事演習をしているし、北方四島を含む極東で大規模軍事演習をしているし、国後島と択捉島にミサイル基地を建設しているではないか。
この懸念は、我が国が「明治の日本」に戻って北と南で軍備を増強し、またアメリカ軍と北と南で日米合同軍事演習を実施し、脅威への対抗力を強化することによって安全を確保する問題である。
今こそ、断固とした軍備増強の時なのだ。
それを断行することなく、中露蜜月を防ぐ為にウラジーミル君に援助して仲良くするなど却って危険だ。
親友を裏切ることなど屁とも思わないのがロシアのエリート、つまり、プーチンだ。

中露とは、約束を破るために約束をする連中と、そもそも約束は守らねばならないとは思っていない連中ではないか、中露蜜月などあるもんか。

最後に提案する。

相手のロシアは、約束などへとも思わない連中で、日ソ中立条約も、日ソ共同宣言も、後でケロッと否定して平気な連中だ。

よって、こっちも、外務官僚が勉強した歴史の教科書に、幕末の日露和親条約、明治八年の千島樺太交換条約、そしてサンフランシスコ講和条約などが書いてあるから、あくまでそれらを前提にして対露外交を進めるのではなく、日ソ首脳会談の時、田中総理の前で、関係のないことを二時間以上机を叩いて話し続けたブレジネフのように、ロシアのウラジーミル君の前で、
我が長州のシンゾウ君が、高杉晋作が乗り移ったつもりで、幕末と明治八年のロシアとの条約などみんな無視して、全樺太と全千島は日本のもんじゃ、おまえらが来る何百年も前から日本人が開発していたんだ、帰せ!
帰したら、北方領土どころか、全シべイリアの開発どころかウラル以東からカムチャッカまでの開発に日本は協力すると机を叩いて怒鳴ったらどうか。










「酔古堂剣掃⑬」

2019-01-30 06:01:57 | 日本

◎野人・別天地の楽しみ(その一)

『枕を邱中に高くし、名を世外に逃れ、耕嫁して以て王悦を輪(いた)し采樵して以て親の顔を奉じ、新穀既に升(みの)り、田家大いに洽(うるお)い、肥?(ひちょ)煮て以て神に享し、枯魚燔(や)きて而して友を招(よ)び、蓑笠戸に在り、桔槹(きっこう)空しく懸る。濁醪(だくろう)相命じ、缶(ふ)撃ちて長歌す。野人の楽しみ足れり。』
 
「枕を邱中に高くし」とは官途に就かず、民間にあって枕を高くして眠ること。名を世の外に隠して、田畑を耕して租税を納める。草を採り木を伐り、「以て親の顔を奉じ」、親を喜ばせる。「新穀既に升り、田家大いに洽い」、太った子羊を煮て神に捧げ、自分は干物を焼いて友を招く。蓑笠は戸に懸けてあり、「桔槹」ははねつるべのこと、それが空しく懸っている。「濁醪相命じ」、どぶろくを取り寄せて、缶(酒を入れる素焼きの土器)を撃って長歌する。「野人の楽しみ足れり」。読むだけでも気持ちがいい。田園の生活、山野の悠々として自在な生活が、よく短い文章の中に躍動しておる。

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野人を辞書で引いてみると、「庶民」「かざり気がなく真心のある人」「いなかもの、礼儀を知らない粗野な人」(新字源)とある。また、引用例に「野人無暦日(やじんれきじつなし)田舎に住んで、世間と無縁な人には、こよみの必要がない」とある。しかし、文章をみると、田舎者、粗野な人についての記述ではなく、教養人の擬似願望の要素を含んでいるように思える。隠棲の楽しみ、自然との関わりは現代人も常に求めている。

定年退職して、自在な田舎暮らしを夢見る人は今や多いと聞く、蓑笠は戸に懸けてなくとも干物を焼いて友を招くことはできそうだ。


◎野人・別天地の楽しみ(その二)

『山居城市に勝る、蓋し八德あり。苛礼を責めず。生客を見ず。酒肉を混ぜず。田産を競わず。炎凉を聞かず。曲直を閙(さわ)がず。文逋(ぶんぽ)を徴せず。士籍を談ぜず。』

『山野の住まいというものは城市に勝る。近いに勝る。「蓋し八德あり」、八つの德がある。「苛礼を責めず」うるさい礼儀作法やしきたりを責められることがない。都会生活は、やれ葬式だ、やれ結婚式だ、なんだかんだといろいろ礼儀がある。これに「うるさい」という意味の字をつけて「苛礼」という。「生客を見ず」の生は、まだ修練のできておらん、枯れていないこと。人間世界の練達、修行のできていない生の客、そういう客は見ない。「酒肉を混ぜず」酒だの肉だのとゴタゴタしたものを混えない。まことに簡素である。「田産を競わず」いくら取れた、いくら儲かったと競うことがない。「炎凉を聞かず」暑いの寒いのということを聞かない。つまり、あいつは成功したとか、失敗したなんていうことを聞かない。「曲直を閙(さわ)がず」とはあいつは曲っとるとか、真っ直ぐだとか騒がない。
「文逋(ぶんぽ)を徴せず」逋は負うで、文の催促、何日までの書いてもらいたい、何日にあれこれしてもらいたいなどの話が持ち込まれない。「士籍を談ぜず」人間の籍、どこに属するとか、そんな話はない一つひとつごもっともである。山居、隠遁的生活こそ自由の生活というものであるに違いない。』

********************
隠遁生活に憧れた時もあった。しかし現代の高齢者は、忙しい。いや忙しくしているのが精神健康に良いなどと言われている。高齢者は「今日用(きょうよう)」と「今日行く(きょういく)」(今日用があること、今日行く所がある)が大事である」などと吹聴する人もいる。家にぼーっとしているよりはよっぽど健康的であるという捉え方である。
たまには、家でゆったりとして、茶を啜り、本を読み、昼寝をし、書画の構想を練り、時に妻と酒の肴を調理して楽しむのも現代の擬似隠遁生活といえるのではなかろうか。
前出の「八德」を実感することは筆者には不可能に近い。 


◎野人・別天地の楽しみ(その三)

『間居の趣、快活、五あり。与に交接せず、拝送の礼を免るるは一なり。終日書を観、琴を鼓すべきは二なり。睡起、意に随い、拘碍(こうげ)ある無きは三なり。炎涼囂雜(ごうざつ)を聞かざるは四なり。能く子に耕読を課するは五なり。』

間居にはまことに快い活き活きとした快活が五つある。「与に交接せず、拝送の礼を免るるは一なり」、ともに交際せず、お辞儀をして送るとか迎える礼儀がない。往来がないから出迎え、見送る煩わしさがない。終日書を観たり、琴を奏でて「睡起、意に随い」、眠ければ眠る。起きたければ起きる。意のままである。「拘碍(こうげ)」、何もそこに引っ掛かりがない、妨げがない、自由自在である。「炎涼囂雜(ごうざつ)を聞かざるは四なり」、暑いの寒いの、やかましいのゴタゴタするの、というようなことを聞かん。そして「能く子に耕読を課するは五なり」伜に農事の余暇に書を読ませる、耕読を課する。まことに愉快で、かつ活き活きしたことで、これが間居の趣というものだ。こういう生活は、まことに気持ちがいい。うらやましい。

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先日たまたま脚本家の倉本聡さんのインタビュウー番組を見る機会があった。北海道富良野に隠棲して四十年、ドラマ「北の国から」はあまりにも有名だ。
冬は零下三十度にもなる厳寒の片田舎に居住を決意した理由を聞かれ、「世の中があまりのスピードで便利になり、自分で考え、自分で行動することが難しくなった。世の煩雑さから逃れて、自由自在な生活を求めたかった」というような趣旨の話をされていた。
まさに四十年前から別天地の楽しみ、閑居の趣を実践している方のように思えた。




<了>










「酔古堂剣掃⑫」

2019-01-29 06:20:16 | 日本

『酔古堂剣掃』を読む 清水蕗山


『酔古堂剣掃』という書物は、明末の教養人・陸紹珩(りくしょうこう)が長年愛読した古典の中から会心の名言・嘉句を収録した読書録であり。全体を通して自然、田園、山水などを楽しみ、世の中の名利など全く眼中にない悠々たる人間の生き方を見事に活写した風雅の書である。日本では明治の人は良く読んだそうだが、昭和になってほとんど読む人を見かけなくなったと著者は嘆く。そこで人間の心身を本当に養う。心の食べ物・栄養として、また本当の意味の教養として広く知ってもらうために講演を重ねた。その講演録が前出の書である。


1、淡宕(たんとう)の心境

『人、一字識らずして而も詩意多く、一偈(いちげ)せずして而も禅意多く、一勺濡らさずして而も酒意多く、一石暁(さと)らずして而も意多きあり。淡宕の故なり。』

人間は、文字の教養がなくても、況や学校なんか出なくとも人柄そのものが詩的である。参禅なんてやらなくとも禅客よりもずっと超越した妙境にある人もいる。酒を一滴も飲まないで、飲む人よりも飲酒の味・趣を豊かに持っている人もいる。一つの石の描きかたも知らないでも人間そのものに画意、絵心が豊かにある人もいる。どうしてかというと「淡宕の故なり」と締めている。「淡」とは「淡い」である。淡いとは味がない、薄味などと言っては「君子の交わりは淡・水の如し」などは、水のように味がないとなってしまう。実は甘いとも渋いとも言うに言えない妙味、これを「淡」という。「宕」は堂々たる大石がでんとして構えているということ。老人の茶飲み友達などは実は何とも言えぬ味のある友達ということで、至極の境地に至っている。その「淡い」であり、しかしそこに何とも言えないおおらかさ、強さ、逞しさを持っておるというのが「宕」、だから「淡宕」という言葉は実に味のあるいい言葉である。


◎「遊」の哲学

「遊学」という言葉がある。遊ぶ学という。普通は遊学というと、どこか遠い所へ出かけて勉強するくらいにしか考えないが、本当の遊学というのは大変奥深く妙味のある言葉である。

「遊」とは漢民族の歴史から生まれた言葉である。漢民族は黄河の流域から興り、定着して農耕生活を営むようになった。
そこで、最初に困ったのが、黄河の氾濫である。
つまり黄河の水処理に非常に苦しんだ。ほとんど黄河の治水記録といっていい。
ある所に治水工事をやると、水はとんでもない所へ転じて、思わざる所に大変な災害を引き起こす。長い間、治水に苦しんで到達した結論は、結局「水に抵抗しない」ということであった。
水に抵抗するとその反動がどこへ行くやらわからない。水を無抵抗にする。
すなわち水を自由に遊ばせる。そこで水をゆっくりと、無抵抗の状態で自ずからに行かしめ、これを「自適」と言った。
適という字は行くという字。思うままに、つまり無抵抗に行く。抵抗がないから自然に落ちついて、ゆったりと自ずからにして行く。これが「優遊自適」であります。
そこで「ゆう(游、遊)」という字はサンズイでもシンニュウでもいい。サンズイならば水を表したものだし、シンニュウはその水路を表したもので、黄河の治水工事の結論は、水をして悠々自適せしめるにある。
それは人間でも同じことである。抵抗して戦っていくのは、これは苦しい。つまり、自ずからにして思うがままに行けるということは、黄河ならぬ人間にも非常に楽しいことで、それが極致であります。

そこで学問もそういうやり方を遊学という。 
「学記」の中に「四焉(しえん)」という非常にいい格言がある。学問というのは、「焉(これ)を修め、焉(これ)を蔵し、焉(これ)に息し、焉(これ)に遊ぶ」
つまり学問というものは、これを修(整理)して、それを体の中に蔵(入)して、それを息(呼吸)と同じようにする。そうすると、ゆったりと無理がない。抵抗なしに「焉に遊ぶ」ことになる。これが優遊自適である。
それで初めて古人が遊説とか遊学、遊の字をよく使うことがわかる


◎山居・幽居の楽しみ

『門内径有り。径曲れるを欲す。径転じて屏有り。屏小なるを欲す。屏進みて堦有り。堦平らかなるを欲す。堦畔花有り。花鮮なるを欲す。花外牆有り。牆低きを欲す。牆内松有り。松古きを欲す。松底石有り。石怪なるを欲す。石前亭有り。亭朴なるを欲す。亭後竹有り。竹疎なるを欲す。竹尽きて室有り。室幽なるを欲す。・・・・・
客至れば酒有り。酒は却けざるを欲す。酒行りて酔う有り。酔えば帰らざるを欲す。』

「門を入ると小径がある。『径曲がれるを欲す』る。真っ直ぐではおもしろくない。曲がっていなければいかん。
径が転ずると屏がある。その屏も高い屏だとおもしろくない。虚しく人を遮るから『屏小なるを欲す』のである。小さい柴折戸かなんか、とにかく小なるが良い。
そこから進んでいくと『堦有り』階段がある。『堦平らかなるを欲す』、むやみに高かったり、危なっかしかったのではいかん。
その階段の畔に花がある。そこに雑佛物が置いてあるのではいかん。花がある。その花も鮮やかなのがいい。
花の近所には低い牆があって、牆の中に松がある。『松古きを欲す』、松はやっぱり古松がいい。
松の下に石がある。『石怪なるを欲す』、石もこういう場合の怪は非常に趣きがある。尋常でない、いわゆる怪石です。
石の前には亭がある。それも、極めて素朴自然で、手が込んでいない。贅沢なものでない。自然の素朴な休み場所、そういう四阿(あずまや)が欲しい。
その亭の後ろに竹がある。それも密着してあってはおもしろくない。『竹疎なるを欲す』、これを疎竹という。何本かバラバラあって勘定していくと、ちょうど数が尽きた所に部屋がある。『室幽なるを欲す』、部屋はあまり明るいと良くない。木蔭、樹蔭の亭であるから、いくらか暗いというては悪いから幽である。幽は暗い、静か、奥深い、いろいろの意味がある。・・・・・
『客至れば酒有り』これはありがたいことで『酒は却(しりぞけ)ざるを欲す』である。いや私は飲めませんなんてやつは話にならん。『酒行(めぐり)て酔う有り』そのうち酒がめぐって醉わなくちゃいかん。
『酔えば帰らざるを欲す』というのは、これはちょっと深刻だ。よほど良い友人でなければそうはいかん。たいていはもう早く帰らんかなという。これも実にいい描写です。
読んでいると嬉しくなる。『酔えば帰らざるを欲す』なんていう客になれば、たいしたものだ。もういいかげんに帰らんか、なんて言いながら飲んでいるなら、飮まん方がいい。
何気なく読むと豪奢だが、よくよく読むと非常に素朴、自然、簡素である。」

********************

都会でせわしなく日常を過ごしていると、ちょっとしたところに心を豊かにしてくれる景色があることに気がつかない。
思い起こせば、筆者が田舎で子供のころ見た光景そのままだ。路も雨がふればぬかるみ、手入れもしない庭らしきもの、隣のオヤジさんがひょこり来れば、酒を出し、世間話をして、帰るまで付き合う。
電気もなく、本もなく不便で貧乏な生活だったが、心は豐だったと思う。知らず、山居・幽居の楽しみに接していたのかもしれない。













「酔古堂剣掃⑪」

2019-01-28 07:22:14 | 日本

83
人の恩は念ふべし、忘るべからず。
人の仇は忘るべし、念ふべからず。

84
人の言葉を受け入れない者に対しては、余計な言葉を発するべきではない。
これ人と善く交わるための法則である。

85
君子の人たるや、人の過失に遇えば人情を斟酌するところを探し求め、無闇に過失を暴いて咎めるようなことはしない。

86
もしも自分に心酔してくれる人が居ったならば、その人は我が範疇にある。
その人を活かすも殺すも自分に責任がある。
もしも自分が誰かに心酔したのならば、我はその人の範疇にある。
心酔した以上はどうなろうともその人に尽すのみである。

87
自分が人を重んずるからこそ、人もまた重んずるのである。
人が自分を軽んずるのは、自分自身が人を軽んじているからに過ぎない。

88
無風流に遇えば静かに黙っているのがよい。
調子よく戯れると怨みを生ずるであろう。

89
世を超脱するの者は他を顧みざること多し、常に精密謹厳なるを学ぶべし。
厳密なるに過ぎたる者は常に拘泥して性を損ず、当に円転窮まりなきところを思うべし。

90
精錬された金や輝くほどに磨かれた玉のような、他に類をみない程の人品にならんと欲するならば、烈火の中より鍛え来たるべし。
地に掲げ、天に達するほどの事功を立てんと欲するならば、常に薄氷を踏むが如くに戦戦兢兢たるの志を存すべし。

91
性は欲望に溺れず善く収め、怒は速やかに去りて留むるなく、語は激さずして温然和気を旨とし、飲は節度をたもって過ぎざるべし。

92
よく富貴なることを軽んずるにも関わらず、その富貴を軽んずる心を軽んずることが出来ず、よく名義を重んずるも、その名義を重んずるの心を重んじてしまうのは、いうならば世俗の塵気をいまだ掃うことが出来ず、そして心に萌えでる些細な思いに捉われてしまっているのである。
この処をとり除いて擺脱せねば、石を取り去るも草が生じてしまうように、いつまでたっても達することは叶わないのである。

93
騒がしきことは志を散逸させることはもとよりなれども、単に静かなるだけもまた心を枯らすばかりである。
故に道を志す者は心を深く蔵して虚の如く、志の赴くままに楽しみて円通窮まりなきを養うべし。

94
昨日の非はすぐさま取り去らなければならない。
これを取り去らねば、燃え残った根から草木が生え出るように、遂にはくだらぬ心情にまみれて道理を失うであろう。
今日の是とするところに拘泥してはならない。
これに拘泥すれば無心たることを得ず、遂には欲心生ずる根とならん。

95
小人に対すれば、厳格なるには難からずして悪まざるに難し。
君子に対すれば、恭敬なるには難からずして真に礼を尽すは難し。

96
私事で恩をうることは、公共の事を助けるに遠く及ばない。
新しい友を得ることは、親しき友を大切にするに遠く及ばない。
世に名を立てることは、ひそかに徳化するに遠く及ばない。
飛び抜けたるを貴ぶは、日々の行いを大事にするに遠く及ばない。

97
一時の思いで先祖の禁戒を犯し、一言にして天地の和を破り、一事にして子孫に禍を遺す者あり。
最も戒めるべきところである。

98
現実に馳せて心を用いざれば事を成すことはなく、現実を超脱して心を用いざればその真を知ることはない。

99
年老いたる人の通病はいたずらに人に従うことである。
年若き人の通病はいたずらに世の中を歯牙にもかけぬことである。

100
善をなすも表裏始終に違いがあるのならば、みせかけの善人に過ぎない。
悪をなして表裏始終に違いがないのならば、かえってこれを気骨ある者という。

101
本当に心に入れば、どのような近いところでも玄門となる。
絶頂とならば、何にも勝る快事なり。

102
水滸伝に足らぬものなどあるだろうか。
ただ長寿を思うの一事無し。
これは欠陥ではない。
豪放磊落な男達の、意気な心を示すのみ。
これを以てますます作者の妙を知る。

103
世間に便宜を訪ね求めることを悟り知る者は、すでにこれかつて便宜を失いたるを経験せし者である。

104
書は志を同じくする友である。
一篇を読む毎に、自ずから心に染み入るを覚ゆ。
仏は晩年の友である。
ただ半偈を窺えば、なんとも死後の真に空なるを思う。

105
衣服に垢がついて洗わず、器物を欠損して補わざれば、人に対して恥ずる有り。
行い正しからざるに改めず、徳量足らざるに修養せざれば、天に対してどうして恥じぬことがあろうか。

106
天地共に醒めず、昏く沈んで酔夢の間に落ちてしまった。
この洪濛なる状態もどうせ客に過ぎないのだから、さっさと天にいる主人を尋ねよう。

107
老熟して達せし人には必ず常訓とするところあり、必ず則法とするところあり、ほんのわずかなことでもこれを手本とすべし。
心定まらずして悶々たる人は、吐くこともできず食らうこともできず、少しの間でも対するに足らず。

108
友を重んずる者は交際を始めること極めて難く、友とするに相応しいかをよくよく点険する。
故にその友となること非常に重し。
友を軽んずる者は交際を始めること極めて易く、友とするに相応しいかをほとんど問題とせず。
故にその友となること非常に軽し。










「酔古堂剣掃⑩」

2019-01-27 08:45:50 | 日本

65
静座して然る後に日頃の気の定まらざるを知り、沈黙を守りて然る後に日頃の言葉の騒がしきを知り、事を省きて然る後に日頃の無事を費やすを知り、戸を閉じて然る後に日頃の交友の煩雑なるを知り、欲を寡くして然る後に日頃の通病の多きを知り、人情に近づきて然る後に日頃の存念の過酷なるを知る。

66
喜びに乗じて言に過ぎれば多く信頼を失い、怒りにまかせて言に過ぎれば多く事態を失う。

67
広く交われば費用が掛かり、費用が掛かれば稼がねばならず、稼ぐ必要があれば人に求めること多くなり、求めが多ければ恥辱を得ること多し。

68
心残りになるような事を為してはならない。
中途半端で済ます心を生じてはならない。

69
一字も軽しく人に与ふ可からず、一言も軽しく人に諾だくす可からず、一笑も軽しく人に假す可からず。

70
人に対すれば正を忘れず、廉潔を抱いて己を律し、忠誠の心を以て君に事つかえ、恭謹の心を以て長に事え、誠信を以て物事に接し、寛容を以て下の者を待ち、敬意を以て事に処す。
これ官に勤めるの七要である。

71
聖人大事業を成す者、戦戦兢兢の小心より来たる。

72
酒が入れば舌が出て、舌が出れば妄言す。
我は思う、酒で身を滅ぼすぐらいならば、酒を棄てるに如かず、と。

73
青き空に太陽が輝き、穏やかな風に雲が漂えば、人に喜色を生じさせるのみならず、かささぎもまた好い音で鳴く。
もし風が荒ぶり雨が吹きつけ、雷鳴轟き閃光発すれば、鳥は林へと隠れ、人もまた戸を閉じる。
故に君子は大和の元気を以て主と為す。

74
胸中に重んずるところ、気概ばかりを主とすれば、友に交わるも人情を得ず。
楚辞や詩経ばかりを主とすれば、読書をするも心に達せず。

75
友として交わるならば先ずその人物を察すべし、交わりて後は信じ抜くべし。

76
ただ倹約を以て廉謹なるに向かい、ただ恕の心を以て徳を成す。

77
書を読むに貴賤・貧富・老少は問題ではない。
書を読むこと一巻なれば、誰しもが一巻の益を得て、書を読むこと一日ならば、誰しもが一日の益を得る。

78
その心持ちは細部に拘らずして平易平坦にし、その発するところは表裏なくして飾らぬようにし、その則るところは形式張らずに人情に合わせ、その交わるところは簡にして少なくす。

79
好醜は太だ明らかなる可からず、議論は務めて尽す可からず、情勢は殫く竭す可からず、好悪は驟に施す可からず。

80
穏やかにたゆたう波、はっとするような夢は、人に道心を発起させる。

81
読書には成長させるに足る書を積むべし。

82
口を開けば人を誹謗中傷するは軽薄なることの第一である。
ただ徳を失うのみに足らず、身をも失うに足る。









「酔古堂剣掃⑨」

2019-01-26 06:52:54 | 日本

35
人の詐りを覚りても言葉に表さず、人の侮りを受けても怒りを生ぜず。
この不言不動の趣には、限りない意味があり、また限りない学ぶべきものがある。

36
爵位は分に過ぎたるを得てはならない、分に過ぎれば必ず破れてしまう。
自らの力を以て事を為せると雖も必ず余裕を存さねばならない、余裕有らざれば必ず衰えてしまう。

37
旧友を遇するには、意気を新たにして接すべし。
人に知られざる事を処するには、心を清浄にして為すべし。
衰え朽ちたる人を待つには、往年に接した以上の恩礼を以て接すべ

38
人を用いるには甚だしきに過ぎざるを要す。
甚だしければ正しきに従い效う者は去ってしまう。
交友は善悪の区別なく交わってはならない。
区別せざれば阿諛迎合の者が来たりて乱すに至らん。

39
憂勤はこれ美徳である。
然れども憂勤に過ぎて苦に至らば、性に適さず、情を喜ばさず。
淡白はこれ高風である。
然れども淡白に過ぎて枯に至らば、経世済民ならずして只の世捨て人である。


40
人を興起せしむるには平生の習いより脱するを要し、少しも世俗の習いを矯正するの心を抱いてはならない。
世に応じて事功を為すには時勢に随うを要し、少しも時勢におもねり義理を破るの念を起してはならない。

41
富貴の家にして窮途の親戚が頻繁に往来することあれば、これ忠厚を存すというべし。

42
師に従って名士に会うは、教えを垂れるの実益少なく、弟子となりて試験に及第するを望むは、教えを受けるの真心少なし。

43
男子徳有るは便ち是れ才、女子才無きは便ち是れ徳なり。

44
病の楽しみを想うべし、苦境の景色を経験すべし。

45
才の衆に優れ、一国に並ぶべきのない程の者なれば、必ず常人には測るべからざるの功業を負う。
この故に、才が少しでも衆を抑えこめば、たちまち忌む心が生じ、行が少しでも時に違えば、たちまち嫉視生じて非難至り、死後の声名が空しく墓中の骸骨を誉めるばかりである。
たとえ途窮まり落ちぶれるとも、誰が宮外にさまよう美人を憐れむだろうか。

46
位高き人が貧しき者と交わる場合には、驕り高ぶる気象が表れやすく、貧しき者が位高き者と交わる場合には、貴位に屈せざるの気骨を存すべし。

47
君子の身を処するや、寧ろ人の己に負くとも、己の人に負くこと無し。
小人の事を処するや、寧ろ己の人に負とも、人の己に負くこと無からしむ。

48
硯神を淬妃と曰ひ、墨神を回氏と曰ひ、紙神を尚卿と曰ひ、筆神を昌化と曰ひ、又た佩阿と曰ふ。

49
治世の要は、半部の論語、出世の要は、一巻の南華あり。

50
禍は己の欲を縦いままにするより大なるは莫く、悪は人の悪を言ふより大なるはなし。

51
世に知られ称えられる者を求めることは簡単だが、真に自己を知る者を求めることは難しい。
表面を飾る者を求めることは簡単だが、知られざる処において愧ずる所の無き者を求めることは難しい。

52
聖人の言葉はどんな時も常に持ち来たりて、読み、発し、想うべし。

53
事の末に巧みにならんことを期するよりは、事の初めに拙ならざらんことを戒めるに若かず。

54
君子には三つの惜しむことがある。
生を受けて学ばざる、これ一の惜しむべきことである。
学ばずして一日一日が無駄に過ぎていく、これ二の惜しむべきことである。
そして遂には己を得ずして一生を終える、これ三の惜しむべきことである。

55
昼は妻子のあり方を以て確かめ、夜には夢に何を観るかで確かめる。
ふたつの者、いずれも恥じるところ無ければ、始めて学んでいると言える。
56
士大夫たるもの、三日も聖賢の書を読まねば、義理が胸中より離れ、面構えは悪くなり、言葉には味が無くなるを覚えるであろう。

57
外面ばかりの交際を密にするよりは、誠心より交わる友を親しむに及ばない。
新たに恩を施すよりは、旧き貸しに報いるに及ばない。

58
士たる者は当に王公をして己が名声を聞からしめ、実際に会うことは稀なるべし。
むしろ王公をして来たらざるを訝らしめ、その去らずして長く留まるを厭わしてはならない。

59
人が得意のときには心から喜び、人が失意のときは心から悲しむべし。
これらはいずれも自らの身心を全くして達する所以、人の成功を忌み、人の失敗を楽しむ事が、どうして人事に関係しようか。
いたずらに自らの身心を破るのみである。

60
重恩を受けては酬い難く、高名を得てはつり合い難し。

61
客をもてなすの礼は、当に古人の意を存すべし。
ただ一羽の鶏、一握りの黍、酒を数回酌み交わし、飯を食らいてやむ。
これを以て法と為す。

62
心を処するには深遠を旨とす、明白に過ぎれば必ず偏す。
事をなすには余裕を旨とす、甚だしきに過ぎれば必ず窮す。

63
士たる者の貴ぶべき所は、節義正しきを大と為す。
貴位はこれを失うも、時宜を得ればまた来たる。
節義を失えば、その身を終えるまで人と為ること無し。

64
勢いは頼りすぎるべからず、言語は言い尽くすべからず、福は授かりすぎるべからず。
何事においても不尽の処を存するは、意味深長なる趣あり











「酔古堂剣掃⑧」

2019-01-25 06:11:45 | 日本

酔古堂剣掃-法部

1
僧侶や隠者の如き姿が天下に満ちてより、一世を超越し衆に優れし者、遂に世俗と調子を合わせ基準を同じくしてこれを矯正す、故に今世の道はすでに古の道と同じからず。
迂遠で陳腐なる者は、既に法に拘泥して自己を失い、一世を超越せし者は、また法を軽んじて自己あるのみ。
されば士君子たるもの、拘泥することなく軽んずることなく、その中ちゅうを得て放越せざるを期せんのみ。
どうして必ずしも世俗より逃れるを望まんや。
法第十一を集む。

2
いかなる世も才の乏しき世は無し。
天地の道に達せんとの精神を以て、是非を知る素のままの心を尽くして中庸を得ん。

3
尽して過ぎざる意を存すべし。
これを事において留めば、何時如何なるときも円滑となり、これを物において留めば、その働きに余裕が生じ、これを情において留めば、その味わい深きは全てを包み、これを言において留めば、その致すところ深遠にして測り知れず、これを興において留めば、その趣き多くして世を楽しみ、これを才において留めば、精神満ちて天地に通ず。

4
世には法則というものがあり、因縁というものがあり、人情というものがある。
因縁は人情に非ざれば長くは続かず、人情は法に則らざれば流れ易くして収まらず。

5
世には理の必し難き所の事多し、宋人の道学を執ること莫れ。
世には情の通じ難き所の事多し、晋人の風流を説くこと莫れ。

6
朝廷に仕えて国を危うきに導いてしまうぐらいであれば、民間に在りて世に関与するほうがよい。
隠遁して朝廷に仕える者に誇るぐらいであれば、朝廷に在りて自然を楽しむ趣きを有しているほうがよい。

7
遠望広大に先を見通す者は、その心、ますます小心翼翼たり。
高位長者に至りし者は、その挙措動作、ますます慎み節す。

8
真の心なるが故に万友に交わるを得。
偽心にては、一人に対してすら真に交わるということは得られぬであろう。

9
年少なれば心を没頭させるがよい。
没頭させれば浮ついた気持ちを収めて一に定まる。
老年なれば心は閑静なるがよい。
閑静なれば安んじてその生を楽しめるであろう。

10
晋人は老荘を論じて虚無を尊び、宋人は性理を論じて致知に向かう。
晋人は以て世俗を超越し、宋人は以て心を定めてその身を安んず。
これを合わせば美しく、これを分かてばどちらも破る。

11
事を始めるならば、自らの心が満足せぬことを行なってはならない。
事に当たらば、これを行い尽くさざるの心を抱いてはならない。

12
忙しき中に事を処すには、必ず間を得てよくよく吟味し、実行に当たりて節を持するに至るは、必ず平時に秘したる想いに由る。

13
日常に顕れ来たる節義は、人の知らざるところを戒尽するに由りて養われ、天下経綸の大事業は、深淵に臨み薄氷を踏むが如く戦戦兢兢たるの心持ちに由りて操とり出だす。

14
貨財を積むの心を以て学問を積み、功名を求むるの念を以て道徳を求め、妻子を愛するの心を以て父母を愛し、爵位を保つの策を以て国家を保つ。

15
何を以てか下達する、惟だ非を飾るに有り。
何を以てか上達する、過ちを改むるに如しくは無し。

16
わずかでも忍びざるの心を起せば、これ民を生じ物を生ずるの根本となる。
わずかでも非を為さざるの気象を存せば、これ天を支え地を支えるの柱石となる。

17
君子は青天に対して懼るれども、雷霆を聞いて驚かず。
平地を履みて恐るれども、風波を歩みて駭かず。

18
心喜びて軽々しく承諾してはならない、心奪われて怒りを発してはならない、心快くして多方に手を出してはならない、心倦みて終わりを全うせざるようではいけない。

19
意の念慮は想起するが如くにこれを防ぎ、口の言語は押し止めるが如くにこれを防ぎ、身の汚染は奪うが如くにこれを防ぎ、行の過ちは事を果断するが如くにこれを防ぐ。

20
白き砂が泥土の中に在れば、泥土と共に黒くなる。
染まっていくこと習慣となりて久しき故なり。
他山の石は玉を磨くべし。
切磋琢磨するは己を修める所以なり。

21
後生の輩の胸中、意気の両字に落つ。
趣きを以て勝る者あり、味を以て勝る者あり。
然れども寧味に饒きも、寧ろ趣きに饒きこと無からん。

22
片片として子瞻の壁に絵いし、点点として原憲の羹にしんす。

23
花の咲き満ちるは財貨も及ばず、春意の萌え出づるは貧者を救う。

24
思慮を少なくして心を養い、情欲を切り去りて精を養い、言語を謹みて気を養う。

25
身を立つること高き一歩なれば方に超脱す。
世に処するに退く一歩なれば方に安楽なり。

26
士君子たる者、貧しくして財を以て救済するを得ずとも、人の惑いに遭遇して一言の下にこれを目覚めさせ、人の危急に遭遇して一言の下にこれを解きて救えば、それで計り知れぬ功徳である。

27
既に敗れた事を救わんとする者は、崖に臨む馬を御するが如く、軽々しく鞭打つようなことをしてはならない。
事が成らんとする功を図る者は、奔流の中に在る小舟を引くが如く、最後まで棹を止めてはならない。

28
事無くして常に事ある時の如くに事を防げば、多少は予想外の事変を補正することが出来るであろう。
事ありて常に事無き時の如くに事を治めば、事局を越える危険を消すことが出来るであろう。

29
是非邪正に交わりて少しでも迎合する心を抱けば、位次立たずしてその正を失う。
利害得失に会いてこれを明らかに分かてば、功利に眩みて私心に惑う。

30
事が人の秘事に当たったならば、これを護りかばうを思うを要す。
少しのあばかんとする心も抱いてはならない。
人が貧賤にあらば、これを敬い貴ぶを思うを要す。
少しのおごり高ぶる態度も示してはならない。

31
ちょっと嫌な事があるからと肉親を疎んじてはならない。
新たに怨みが生じたからと旧恩を忘れてはならない。

32
富貴の人に対しては、礼を以て接するのは難しくないが、本心より思うことは難しい。
貧賤の人に対しては、恩を施すことは難しくないが、これを真に礼することは難しい。

33
礼義廉恥は己を律すべきものであって、人に対して要求すべきものではない。
己を律するときは過ち少なく、人を糾すときは即ち離る。

34
およそ物事というものは善悪を兼ね入れて暴かぬでよきは暴かざるべし。
さすれば独り己を益するのみならず、天下人民皆の益となる。
何でも明らかにして甚追するは、独り人を損させるのみならず、自らの損にもなる。








「酔古堂剣掃⑦」

2019-01-24 06:10:47 | 日本

56
事を処するには、第一に熟考し、そして着実に処すべし。
熟考すれば情に合致し、着実に処せば遊離せず。

57
到底人が忍ぶこと出来ぬような心逆のことを忍び得て、初めて到底人の為しえぬ事功をなし得ん。

58
軽々しく与えれば取ること必ず濫れ、簡単に信ずる者は疑うこともまた易し。

59
丘や山に達する程の善を積むも、未だ君子と為すには足らず。
糸や毛の如き僅かな利欲を貪れば、たちまち小人に落つ。

60
知者は命と闘はず、法と闘はず、理と闘はず、勢と闘はず。

61
人の良心は夜の物静かな頃にあらわれ、人の真情はわずかな食べ物の間にもあらわれる。
故に我を以てその良心に気付かせることは、その人自身が省みることに遠く及ばない。
我を以てその情の動きを責めることは、その人自身が吐露して気付くことに遠く及ばない。

62
侠の一字、昔はこれを意気に加え、今はこれを外面に加える。
本当はただ、気魄気骨がどれだけあるかなのだ。

63
実業せずして食し、服し、口を動かして批評を加う。
故に知る。
何もせぬ人に限って、好んで事を生ずるものなるを。

64
執着して已まざるの病根は、一に恋の字に在り。
万変窮まらざるの妙用は、一に耐の字に在り。

65
むしろ世に随うばかりの凡庸なる者になるとも、世を欺くの豪傑には為ること無かれ。

66
世の中に自分に従順なるを好まざる人無し、故に媚び諂いの術に窮まりなし。
世の中は尽く批判批評するの輩、故に讒言の路を塞ぐは難し。

67
善言を進め、善言を受ける。
これが行き来する船の如くであれば、交わりて通ぜざるなし。

68
清福せいふくは天の大事とするところである。
故にもしも心を亡なって望むようになれば、福をすぐに消してしまう。
清名は天の敬意するところである。
故に少しでも汚れるところがあれば、名をすぐに消してしまう。

69
人の批判批評を為すものは心を亡ない、それを受ける者は心安し。

70
蒲柳の如きは秋を迎えて零落凋傷す。
松柏の如きは霜雪を経るもいよいよ青々たり。

71
人が名節を欲し、格好良くありたいと願い、男伊達を抱くは、酒を好むが如く当然のことである。
だが、安直に求めて溺れる者少なからず、故に徳性を以てこれを消すべきである。

72
好んで内情を語り、好んで人を誹り乱す者は、必ず鬼神の忌む所となる。
思いがけない災いに出会わぬとしても、必ず思いがけぬところで窮するであろう。

73
至れる人は微言にして測り知れず、聖人は簡易にして深意あり、賢人は明瞭にして察し易く、衆人は多言にして中身なく、小人は妄言して乱すのみ。

74
士君子にして人を感化させることが出来ぬのは、結局のところ学問を尽くしきれずして真に至らぬからである。

75
一言にして全てを混乱させ、一事にして全てを台無しにする者あり。
よくよく注意しなければならない。

76
人から善言を受けること、商売人の利益を求めるが如く、わずかなものでも着実に積み重ねてゆけば、自然と心豊かに老熟するであろう。

77
財産多ければ、ただこれまさに臨終の時、子孫の眼は涙を少し溜めるばかりで、その他は知らず、財産に眼を光らせ心を奪われる。
財産少なければ、ただこれまさに臨終の時、子孫の眼は涙を溜めるばかりで、その他は知らず、哀しみに耽りて終う。

78
読書は、必ず書中の眼目を感じ得て始めて読んだと言える。

79
光景調和して心気澄み渡り、地勢雄大にして壮心已まず。

80
善を尽せば善神これに従い、悪を尽せば悪神これに従う。
これを知らば以て鬼神を使役するが如きなり。

81
一人の志なき秀才を出だすは、一人の陰徳を積む凡人を出だすに遠く及ばない。

82
わずかでもまぶたを閉ずれば、夢の中に落つ。
人、夢に在りては自己たるを得ず。
眼光地に落つればその生を終う。
生前に自己を知らず、死後にどうして自己を知らん。

83
仏は解脱に至り、仙人もまた無境に至る。
聖人は天理を求めて天に至るも天を知らず。
天理を求めて天に至りたるを知らずして、天理を得る。
もし、天理を求めて天に至りたるを知らば、どうして天理を得るだろうか。

84
万事、酒杯の手にあるが如くに楽しむべし。
人生百年、いつまでも月の空に懸かるを見ていられる訳ではないのだから。
85
憂いや疑いは酒杯の中に映る蛇に過ぎず、そうと知れば両眉晴れるを得ん。
得失は夢に鹿を隠すに同じ、そうと知れば固執せずして前進あるのみ。
86
名茶や美酒には自ずから真味あり。
物好きな人、香の物を投じてこれを助け、却って最善となす。
これ人格高尚なる人や、風流なる人の、誤りて俗世に墜ちると何の違いがあるだろうか。
87
花咲き誇る石の坂、少しく座りて少しく酔う。
歌えば独り高らかに、心情最も細やかに。
茶は頻りに勧めて皆と楽しみ、深味最も苦きを欲す。
88
黙すべき時に黙するはよく語るに勝り、禁不禁の境を知るは事を処して明らかである。
世に混じりて在るは身を隠し、心を安んずるは境遇に適して素行自得ならざるはなし。
89
隠逸の真趣に心を馳せずとも、そのような志を抱く英傑は知らねばならない。
90
鋭気収めて自然と憤怒悠々たるを覚え、心神収めて自然と言語簡明なるを覚え、人を容れて自然と味識和合するを覚え、静を守りて自然と天地広大なるを覚ゆ。
91
事を処するには果断果決、心を存するには寛大寛容、己を持するには厳酷精明、人と共にするには和気藹々。
92
住居すれば必ずしも悪しき隣人を避けられるわけではなく、人と会うに必ずしも損友を避けられるわけではない。
ただ、よく自らを持して惑わされぬ者のみ、これと交わってよく己を存す。
93
自己の至りし所を知らんと欲さば、ただ早朝清明なるの時、心中想いしところはこれ如何と点険すれば、恐らくは察するところあらん。
94
平坦な道なるとも、車の往生せざる無く、巨波大波なろうとも、舟の渡らざるは無し。
事無きを図れば必ず事生じ、事有るを戒慎せば、必ず無事なるを得ん。
95
都会に在るも隠棲するも、その中ともに事を有す。
今の人の忙しき処、昔の人の閑を得し処である。
96
人と生まれたからには書を読むべきである。
暇をみつけては読み、余裕ができればよく読み、そして自らのものとするのである。
読みて読まざる人の如くであれば、これを善く読む者という。
世間の清福をうけること、いまだこれに過ぎたるはなし。












「韓国海軍駆逐艦による自衛隊機への火器管制レーダー照射に関する防衛省の最終見解について」(全文)

2019-01-23 06:27:56 | 日本

「韓国海軍駆逐艦による自衛隊機への火器管制レーダー照射に関する防衛省の最終見解について」(全文)
2019.1.21 

はじめに
 
防衛省は、これまで日韓の防衛当局間で緊密な意思疎通を図ってきており、この度の火器管制レーダー照射をめぐる問題に関しても、日韓間で累次に及ぶ協議を行ってきました。しかしながら、照射の有無をはじめとする主要な論点につき、今日まで認識の隔たりを解消するに至っていないことは誠に残念です。
 
防衛省としては、本件事案を重く受け止め、再発防止を強く求める観点から、日本側が有する客観的事実をとりまとめ、公表することといたしました。
本公表が、今後の同種事案の再発防止につながることを期待いたします。
 

1 火器管制レーダーの照射について
 
わが国は広大な海域に囲まれていることから、防衛省は、各種事態に適時・適切に対処し、国民の生命・身体・財産と領土・領海・領空を確実に守り抜くため、わが国周辺海域で活動する外国軍艦等に対し、平素から広域にわたって警戒監視および情報収集を実施しています。
 
昨年12月28日に動画でも公表したとおり、同月20日午後3時頃、平素の警戒監視および情報収集の一環として、海自P1哨戒機が日本海のわが国の排他的経済水域(EEZ)内を飛行中、韓国駆逐艦および韓国警備救難艦を確認したことから、写真撮影等を実施していたところ、突然、その駆逐艦から火器管制レーダーの照射を受け、海自P1哨戒機は、直ちに安全確保のための行動をとりました。
 
火器管制レーダーの照射は、火器の使用に先立って実施する行為であり、他国の航空機に向けて、合理的な理由もなく照射することは、不測の事態を招きかねない極めて危険な行為です。
 
わが国や韓国を含む21カ国の海軍等が、2014年に採択したCUES(Code for Unplanned Encounters at Sea(洋上で不慮の遭遇をした場合の行動基準))では、こうした行為は攻撃の模擬とされ、指揮官が回避すべき動作の一つとして規定されています。
 
このような重大な事案の発生を受けて、防衛省は、韓国側に対し強く抗議し、再発防止を求めましたが、韓国側は、この事実を否定したばかりでなく、防衛省に「事実の歪曲(わいきょく)」の中止と「低空で脅威飛行したこと」への謝罪を求めるといった対応に終始しています。
 
防衛省の専門部隊で海自P1哨戒機に照射されたレーダー波の周波数、強度、受信波形などを慎重かつ綿密に解析した結果、海自P1哨戒機が写真撮影等を実施した韓国駆逐艦の火器管制レーダー(STIR-180)からのレーダー波を一定時間継続して複数回照射されていたことを確認しています。なお、近傍に所在していた韓国警備救難艦には、同じレーダーは搭載されておらず、韓国駆逐艦からの照射の事実は、防衛省が昨年12月28日に公表した動画の内容からも明らかです。
 
今般、防衛省としては、火器管制レーダー照射の更なる根拠として、海自P1哨戒機の乗組員が機上で聞いていた、探知レーダー波を音に変換したデータを、保全措置を講じた上で、防衛省ホームページにおいて公表することとしました。
 
一般に、火器管制レーダーは、ミサイルや砲弾を命中させるために、目標にレーダー波を継続的に照射して、その位置や速度等を正確につかむために用いるものであり、回転しながらレーダー波を出して、周囲の目標を捜索・発見するための捜索レーダーとは、波形などのデータに明確な違いがあります。このため、レーダー波を解析すれば、その種類や発信源の特定が可能であり、今回、海自P1哨戒機に照射されたレーダー波は、火器管制レーダー特有の性質を示していました。
 
防衛省の解析結果等から、このレーダー波が、海自P1哨戒機が写真撮影等を実施した韓国駆逐艦の火器管制レーダーから発せられたことは明らかですが、客観的かつ中立的に事実を認定するためには、相互主義に基づき、日本が探知したレーダー波の情報と、韓国駆逐艦が装備する火器管制レーダーの詳細な性能の情報の双方を突き合わせた上で総合的な判断を行うことが不可欠です。
 
こうしたことから、防衛省は、本年1月14日の実務者協議において、相互主義に基づき、解析結果のもととなる探知したレーダー波のデータやレーダー波を音に変換したデータなど事実確認に資する証拠と、韓国駆逐艦の火器管制レーダーの性能や同レーダーの使用記録などを、情報管理を徹底した上で突き合わせ、共同で検証していくことを提案しましたが、受け入れられませんでした。
 
なお、昨年12月27日の実務者協議でも、同趣旨の提案をしています。また、本年1月14日の実務者協議では、事実確認に資する証拠の一つとして、探知したレーダー波を音に変換したデータを持参し、その場で韓国側に聴取してもらうことを提案しましたが、韓国側はその提案も拒否しました。
 
韓国国防部報道官は、翌15日に、「無礼」との外交的にも異例な用語を用いて、防衛省の提案を非難した上、同月14日の実務者協議の詳細について、事前の合意に反して、事実と異なる内容を一方的に明らかにしています。同報道官のこのような言動は、双方の信頼関係を損ない、率直な意見交換の支障となるもので、極めて遺憾であり、同月16日、防衛省はこのような言動が繰り返されることのないよう、強く求めましたが、韓国側からは、誠意のある回答が得られていません。
 
上述のような一連の韓国側の対応ぶりや、これまでの韓国側の主張が一貫しておらず信頼性に欠けるものであることを踏まえると、韓国側が事実とは全く異なる主張を繰り返していると結論付けざるを得ません。
 
このような状況においては、相互主義に基づく客観的かつ中立的な事実認定が困難であるため、これ以上実務者協議を継続しても、真実の究明に資するとは考えられません。防衛省としては、韓国駆逐艦による海自P1哨戒機への火器管制レーダー照射について、改めて強く抗議するとともに、韓国側に対し、この事実を認め、再発防止を徹底することを強く求めます。

 
2 その他の韓国側の主張について
 
(1)海自P1哨戒機の飛行について
 
韓国側は、海自P1哨戒機が、「人道主義的救助作戦」に従事していた韓国駆逐艦に対し、近接した距離において「低空で脅威飛行した」と主張し、謝罪を求めています。
 
軍用機の最低安全高度を直接定める国際法はありませんが、海自P1哨戒機は、安全を確保するため、国際民間航空条約にのっとったわが国航空法に従って飛行しており、韓国駆逐艦に脅威を与えるような飛行は一切行っていません。なお、米軍やNATOの通常のオペレーションも、同様の基準にのっとって行われていると承知しています。
 
実際、昨年12月28日に防衛省が公開した動画の内容や、海自P1哨戒機の航跡図からも明らかなように、この海自P1哨戒機は、韓国駆逐艦に最も接近した際でも、十分な高度(約150メートル)と距離(約500メートル)を確保しており、韓国駆逐艦の活動を妨害するような飛行も行っていません。なお、韓国駆逐艦からの無線による呼びかけもなかったことから、海自P1哨戒機は、韓国側が救助作戦を行っていることを認知できませんでした。
 
韓国側が公表した、警備救難艦の小型艇から海自P1哨戒機を撮影したとみられる約10秒間の映像には、韓国側の主張を支える根拠は見当たりませんし、それ以外にも、同機が「低空で脅威飛行した」との韓国側の主張を裏付ける客観的根拠は何ら示されていません。
 
これまで、海上自衛隊では、警戒監視および情報収集中に、韓国のみならず外国軍艦等を確認した場合には、今回と同じような飛行を行い、写真を撮影しています。昨年4月以降、今回写真撮影を行った韓国駆逐艦(「クァンゲト・デワン」)に対しても、今回と同じように3回の撮影(4月27日、4月28日、8月23日)を行っていますが、その際、韓国側から問題提起を受けたことはありません。
 
防衛省は、実務者協議において、更なる客観的根拠の提示を求めましたが、韓国側からは、そのようなものは示されず、逆に「脅威を受けた者が、脅威と感じれば、それは脅威である」などの全く客観性に欠ける回答を繰り返しています。
 
こうしたことから、防衛省では、韓国側の主張は、客観的根拠に基づいていない説得力を欠いたものであり、火器管制レーダー照射に関する重要な論点を希薄化させるためのものと言わざるを得ないと考えています。
 
(2)通信状況について
 
一般に、艦船の乗員が危険を感じた場合には無線で呼びかけを行いますが、韓国駆逐艦は、海自P1哨戒機の飛行を問題視する一方で、同機に対して危険を伝える呼びかけなどを全く行っていません。
 
また、海自P1哨戒機は、火器管制レーダーの照射を受けた後に、国際VHF(156・8メガヘルツ)と緊急周波数(121・5メガヘルツおよび243メガヘルツ)の3つの周波数を用いて呼びかけを行いましたが、同艦からは一切応答がありませんでした。
 
この問題について、韓国側は、現場の通信環境が悪く、同機からの呼びかけをほとんど聞き取れず、「KOREA COAST」と聞こえたために反応しなかったと説明しています。また、3つの周波数のうち1つについてはそれを聞けるような状態に通信装備をセットしていなかったとも説明しています。
 
しかし、当日の現場海域は、晴天で雲も少なく、通信環境は極めて良好でした。また、海自P1哨戒機は、韓国駆逐艦に呼びかけた同じ通信機器(この通信機器は飛行前、飛行中および飛行後に正常に作動していたことを確認済み)を用いて、埼玉県の陸上局と通信を行っていたほか、現場から約240キロメートル離れた位置を飛行していた航空自衛隊の練習機が、この韓国駆逐艦に対する同機の呼びかけを聞き取っていたことも確認しています。
 
このように良好な通信環境であったにもかかわらず、通信が明瞭に受信できなかったとは通常では考えられないことであり、実際に韓国側が公表した動画では、韓国駆逐艦内において海自P1哨戒機の乗組員の呼びかけ内容(「KOREAN SOUTH NAVAL SHIP, HULL NUMBER 971, THIS IS JAPAN NAVY.」)を明確に聞き取ることができます。
 
この点について、本年1月14日の実務者協議で韓国側は、海自P1哨戒機からの呼びかけを繰り返し確認した結果、後になって通信当直の聞き間違いであることを確認したと初めて説明しました。
 
これまで、韓国側は記者会見等の場で、「KOREA COAST」と聞こえたために反応しなかったとのみ説明しており、このような事実を明らかにしていませんでした。
 
防衛省としては、今後このような問題が再び起こることのないよう、韓国側に対して、自衛隊機等に対する適切な通信の実施、通信の待ち受け状態の改善、通信要員等への教育・訓練など、日韓の防衛当局間の現場における意思疎通の改善を図るための措置を求めます。

 
3 今後の対応について
 
以上の理由から、防衛省としては、韓国駆逐艦による海自P1哨戒機への火器管制レーダー照射について、改めて強く抗議するとともに、韓国側に対し、この事実を認め、再発防止を徹底することを強く求めます。
 
一方で、韓国側に、相互主義に基づく客観的かつ中立的な事実認定に応じる姿勢が見られないため、レーダー照射の有無について、これ以上実務者協議を継続しても、真実の究明に至らないと考えられることから、本件事案に関する協議を韓国側と続けていくことはもはや困難であると判断いたします。
 
その上で、日韓・日米韓の防衛協力は、北朝鮮の核・ミサイル問題をはじめ、東アジア地域における安定的な安全保障環境を維持するために極めて重要であり、不可欠であるとの認識に変わりはありません。
 
本公表が、同種事案の再発防止につながることを期待するとともに、引き続き、日韓・日米韓の防衛協力の継続へ向けて真摯(しんし)に努力していく考えです。










「酔古堂剣掃⑥」

2019-01-22 06:13:03 | 日本

27
情は最も定まり難きものである。
故に多情の人は、必ず情に薄くなる。
性は自ずから常道あり。
故に己が天性を尽くして飾らざる者は、その性を失わずしてその生全し。

28
才高くして心を貧賤に安んずる者なれば、栄達して貴位へと至るに足る。
善人なりて意を貧賤に馳せる者なれば、富みて金銭を用いるに足る。

29
語を伝えることを喜ぶ者は、共に語るには足らない。
事を議論することを好む者は、共に図るには足らない。

30
甘い言葉の多くは、その事の良し悪しを論ぜず、ただ人を喜ばせるを旨として惑わせる。
奮発させる言葉の多くは、その事の利害を顧みず、ただ人を激するを旨として暴走させる。

31
真に廉なる者は、あまりに大なるが故に人々は廉とは察せない。
これ名を立てし者を貪欲であるとする所以である。
真に巧みなる者は、あまりに大なるが故に形跡無し。
これ術を用いる者を拙なき者とする所以である。

32
悪事を為してその悪事が人に知られることを畏れるは、悪ではあるがその中にも善の心が開かれている。
善事を為してその善事を人に知られることを望むは、善を行なってはいるが悪の根ざしといえよう。

33
世俗を逃れて山林に入る楽しみを談ずる者は、まだその真の楽しみを得てはいない。
名利を談ずることを厭う者は、まだ名利から脱しきれてはいない。

34
冷たきより熱きを視て、然る後に熱き処に奔走するの益なきを知り、冗長より閑に入り、然る後に閑中の味わい最も深きを覚る。

35
冷たきより熱きを視て、然る後に熱き処に奔走するの益なきを知り、冗長より閑に入り、然る後に閑中の味わい最も深きを覚る。

36
雌伏すること久しき者は、雄飛して高きに往く。
すぐ花開きて早熟なる者は、早く散りて久しからず。

37
利欲に惑う者は、富貴なるとも心は貧し。
足るを知る者は、貧賤なるとも心は富む。
高位に居る者は、身は安んじて精神労す。
下位に居る者は、身は労して精神安んず。

38
人物偉大なれば、三軒足らずの小村に住むとも、その境遇に束縛されず。
形ばかりの矮小なれば、大都市に居るとも、心情迫りて安からず。

39
時間を惜みて励む者は、千古に卓越せんとの大志あり。
微才を憐れみ容るる者は、将に将たるの心あり。
40
感慨の極みは、転じて屈託なき笑いを生じ、歓喜の極みは、転じて声なき涙を生ず。

41
天が人に禍を下さんと欲すれば、必ず先ずわずかな福を以てこれを驕らし、微福を受けさせた訳を知り得るかを看るのである。
天が人に福を下さんと欲すれば、必ず先ずわずかな禍を以てこれを戒め、微禍を受けさせた訳を知り得るかを看るのである。

42
書画を俗物に品評されるは、末代までの恥である。
鼎彜を商人に鑑定されるは、千古の憂いというべきか。

43
英傑の本質はこれを懐に入れて初めて現れ、超脱の趣は己の足らざるを察して初めて知る。

44
名声高ければ忌み嫌われ、寵愛深ければ嫉妬を生ず。

45
想いを結ぶところ奢侈にして華美ならば、その見るところ全て満足せず。
心を致すところ清浄にして素朴なれば、その行うところ全て利欲を厭う。

46
人情に過ぎる者は、共に賢愚を図るには足らない。
好誼に過ぎる者は、共に賞罰を図るには足らない。
感情に過ぎる者は、共に得失を図るには足らない。
興味に過ぎる者は、共に進退を図るには足らない。

47
世の人々、破綻のところは多くその振る舞いから生じ、過誤のところは多くその執着から生じ、艱難のところは多くその欲心窮まり無きところから生ず。

48
隠棲は勝れた事である。
然れども、少しでも拘泥するところがあれば、人ごみに在ると変わらない。
書画を鑑賞するは風雅な事である。
然れども、少しでも貪り狂うところがあれば、利欲のためと変わらない。
詩酒を嗜むは楽しき事である。
然れども、少しでも求めに応じて行うのであれば、苦悩のところと変わらない。
客を好むは快活なる事である。
然れども、少しでも俗人に乱さるれば、忍耐のところと変わらない。

49
多く両句の書を読みて、少しく一句の話を説き、両行の書を読み得て、幾句の話を説き得。

50
普通の者を判断するは、大事な所で逸脱せぬかに在る。
豪傑を判断するは、細部に手抜かりせぬかに在る。

51
七分ばかりの正しき道を留めて以てその生を尽くし、三分ばかりの余裕を留めて以てその死を超ゆ。

52
財貨を軽んずれば以て人を集めるに足り、自己を律すれば以て人を服するに足り、度量が寛大なれば以て人を得るに足り、自ら率先すれば人を率いるに足る。

53
迷いに迷って迷いを識らば、即ち釈然として全てに通ず。
放ち難き想いをもって一たび放たば、即ち率然として全てに和す。

54
大事や難事には、それを担うだけの人物たるかを看る。
逆境や順境には、それで心が萎えたり調子に乗ったりせぬかを看る。
喜びや怒りには、感情の動きに左右されないかを看る。
集団の中に在れば、多数に流されて本質を見失わないかを看る。

55
余裕を存するはこれ事を処するの第一法。
貪らざるはこれ身を保つの第一法。
寛容なるはこれ人を処するの第一法。
拘泥せざるはこれ心を養うの第一法。












「酔古堂剣掃⑤」

2019-01-21 06:06:27 | 日本

10
志の発露なき士に遇いては、自らの志を吐露してはならない。
怒りを発して人を容るる無きの輩を見ては、口を防ぎ止めてこれとは語らぬ方がよい。

11
ひもを結び冠を整えるの態度は、これを頭が焦げ、額がただれるの時に施すなかれ。
歩行正しきを守るの規定は、これを死を救い、傷つくを助くるの日に用いるなかれ。

12
事を議る者は、その身を事の外に置いて、利害の情を十分に知り議りて決すべし。
事に当たりて実行する者は、その身を事の中に置いて、利害を忘れて尽力すべし。

13
倹約は美徳である。
然れども倹に過ぎれば、物をしみばかりで欲深く、心はいやしくなりて却って風雅の道を失う。
謙譲は徳行である。
然れども譲に過ぎれば、諂いとなり、細部を過剰に気に掛けるようになり、その多くは他を伺って己無く、ただ機をみて動かんとの心を出だす。

14
拙の如くにして内には巧を蔵す、さすれば暗くして明らかなり。
濁の如くにして清を宿す、さすれば屈して以て伸長となる。

15
徳を為して徳を望まず、恩を施して恩を示さず。
貧賤の交わりの長く久しき所以なり。
望めば甚だしく、欲せば足るを知らず。
利得の交わりの必ず破れし所以なり。

16
怨みは徳を徳とするが故に生ず。
故に人に自然と徳を感じさせるには、徳と怨の両方を忘れてしまうに勝るものはない。
仇は恩を恩とするが故に立つ。
故に人に自然と恩を感じさせるには、恩と仇の両方を無くしてしまうに勝るものはない。

17
天が我が福を薄くすれば、吾は吾が徳を厚くしてこれを迎える。
天が我が身を多忙にすれば、吾は吾が心に余裕を持たせてこれを補う。
天が我に偶然を与えれば、吾は吾が為すべきところを心に秘して以てこの偶然を処す。

18
あっさりして無欲な者は必ず栄華を欲する者に疑われ、節操を持する者は必ず驕り高ぶる者の忌むところとなる。

19
事が窮まり、勢いが衰えていく時に当たらば、まさにその初心を尋ねるとよい。
功が成り、行うところ達したならば、その末路を察して戒めねばならない。

20
好み醜む心が甚だ明らかなれば、物情を介せずして合うことなく、賢を崇敬し愚を軽侮するの心が甚だ明らかなれば、人情を介せずして親しまず。
故に何事においても内は精明にして、外は兼ね容れるべし。
さすれば好醜いずれもその平を得て、賢愚共にその益を受く。
そうであって初めて天地に通ずる徳といえるのである。

21
弁舌を好みて禍いを招くは、沈黙を好みてその性を喜ばすに遠く及ばない。
交友を広くして誉れを得るは、独居して自らを修めるに遠く及ばない。
費えを厚くして他事を営むは、事を省きて倹約しその分を守るに遠く及ばない。
才能をひけらかして妬みを受けるは、精一を旨にして己を慎み迂遠なるが如く在るに遠く及ばない。

22
千金を費やして賢人豪傑と交友することは、瓢箪半分ほどの食糧を以て飢餓を救うのと比べてどうだろうか。
大きな屋敷を構えて賓客を招来することは、小さな茅葺きの家を以て孤独で貧しき者の身を寄せる場とするのと比べてどうだろうか。

23
恩の多い寡ないは問題ではない。
困窮したときに施すわずかな飲料も、死力を尽した報いを得ることがある。
怨みの浅い深いは関係ない。
一杯の羹で気分を害したに過ぎずとも、時に亡国の禍を招く。

24
仕官の途は功を挙げ名を達す。
然れども常に林下の風味を思えば、権勢への望みは自ずから軽くなる。
世渡りの途は財を蓄え衣食満つ。
然れども常に泉下の光景を思えば、利欲の心は自ずから淡くなる。

25
富貴の極みに居る者は、水が溢れそうでなんとか溢れずにあるようなものである。
わずかでも節操を忘れば凋落に至る。
危難の極みに居る者は、木が折れそうでなんとか折れずにあるようなものである。
わずかでも他に頼れば滅亡に至る。

26
心に脱しきれば自ずから事もまた脱す。
例えるならば根が抜けて草の生ぜざるがごとし。
世間を脱してなお名を好む者は、生臭き肉ありて蚋の集まるに似たり。





「酔古堂剣掃④」

2019-01-20 08:12:07 | 日本

酔古堂剣掃(すいこどうけんすい) 「人間至宝の生き方」への箴言集 (PHP文庫)
以下、一部抜粋。


◎「酔古堂剣掃」を刻すの叙

書は以て人の神智を益すべし。剣は以て人の心膽を壮にすべし。
是れ古人の書剣を併称する所以にして、而して文事ある者は必ず武略ある也。
但し世上の奇書、多くは西土に出づ。而して刀剣は則ち、我が邦ひとり宇宙に冠絶せり。
ただに紫電・白虹のみならず、[尸+羊]を切り蛟を断つ也。

余、夙に刀剣の癖あり。一室に坐して、左に劍、右に書、竊かに以て南面百城※(天子富豪)の楽に比す。
其れ抑鬱無聊の時に当る毎に、輙ち匣を発(ひら)き払拭してこれを翫す。
其の星動龍飛、光彩陸離を視れば、すなはち大声叫快し、妻児婢僕は皆な騒然として以て狂となす。

余の精神が煥発し、霊慧は開豁にして、面上三斗の俗塵の一掃せらるるを知らざる也。
古人のいはゆる「書を検して燭を焼くこと短し。剣を看て引杯長し。」※杜甫「夜宴左氏庄」
読書倦む時は須く剣を看るべし。英発の気を磨せざるは、皆な先づ吾が志を獲ると謂ふべし。然らば今の此の楽しみ也。

余の之(ゆ)く所は独り。世の人の之く所と同じくせず。
若(も)し夫れ読書の中に、実に剣の趣を看る者は、其れ惟(た)だ酔古堂剣掃なり。
其の命名すでに奇。而して門を分って更に奇なり。
蓋し古人の名言快語を裒(あつ)め、以て帙と成す。字字は簡澹。句句は雋(俊)妙。以て精神を煥發すべく、以て靈慧を開豁すべし。
また猶ほ剣を看るごときにして星動龍飛、光彩陸離。其の快意、言ふに勝ふべけんや。
往年たまたま謄本を獲る。これを刻せんと欲すれば以て一部を当てて剣を説く。然るに魯魚(誤字)頗る多く、因循未だ果さず。

ちかごろ崇蘭館の所蔵する原本を借りて校訂、而してこれを開雕(出版)す。
嗟呼。此者を読み、その英発の気を磨し、以て面上三斗の俗塵を一掃せよ。
而して神智を自ら益すべし。心膽を自ら壮とすべし。
則ちこの書を以て、我が宗近・正宗の利剣と為す。また豈に不可ならんや。是を序と為す。
 嘉永壬子(五年)蒲月(五月) 陶所池内、容安書屋に於いて時題を奉る。三井高敏、隷(書)す

酔古堂剣掃-醒部


1
中山の酒を飲みて一酔すれば千日を経る、今の世の昏々として定まらざること、一日も酔わぬこと無きが如く、誰一人として酔わざる者の無きが如し。
栄達に奔る者は朝廷に酔い、利欲に奔る者は民間に酔い、富豪の者は女色、音楽、車馬に酔い、天下は終に昏迷して醒めること無きが如し。
ここに一服の清涼を得て、人々の眼を醒まさん。
醒せい第一を集む。

2
自らの才ばかりを頼りにして世を軽んずれば、?よくの如くに背後より害を為す者が現れるであろう。
外面を飾って人を欺けば、咸陽宮の方鏡が目の前にあるが如く、いずれはその心底を見透かされるであろう。

3
くだらない人物が豪傑をあべこべに批判するを怪しむも、批判に慣れて何も思わざれば小人と同じ。
世の中が自分を虐げるを惜しむも、困難はその人物の真贋を見るに過ぎざるを知らず。

4
花咲き誇り、柳の満つる所、驕ることなく推し開けば、わずかにこれ処するに足る。
風吹き荒み、雨の激しき時、惑うことなく見定めれば、まさに為すべきところを知る。

5
あっさりして捉われざる心境は、必ず絶頂の時より試み来るべし。
定まりて動ぜざる心境は、むしろ非常の時に向かいて窺い知るべし。

6
恩を売るは、人より与えられた恩徳に報いることの厚きに遠く及ばない。
誉を求めるは、世間の称賛より逃れることの適切なるに遠く及ばない。
情を矯正するは、その節操を正して心より直くするに遠く及ばない。

7
人と交わるにその人を褒めて名誉有らしむるは易く、その人の知らざるところにおける謗りを無からしむるは難し。
人と交わるにすぐに仲良くなりて喜ばしむるは易く、交わり久しくしてこれを敬するに至らしめるは難し。

8
人の悪を責めるには、厳しきに過ぎてはならない。
その人の、責めるを受けるに堪える気持ちを察するのだ。
人に善を教えるには、高きに過ぎてはならない。
その人の、従う気持ちが自然にして芽生えるように導くのだ。

9
人情に近からざれば、世の中に安んずるところ無し。
物事を察する能はざれば、一生夢の中に在るが如く、定まるところ無し。










「酔古堂剣掃③」

2019-01-19 08:30:19 | 日本

内容は、「足るを知る虚無観」「好煩悩と百忍百耐」「生活・自然・風流」「山居・幽居の楽しみ」などから自然と共生して生きる喜びを味わえと訴えている、人格よりも経済力を、過程よりも結果を重視しがちな現代人に対する警鐘の書ともいえる内容です。
そんな『酔古堂剣掃』から、幾つかピックアックしてみます。
後半は、徐々に飲みたくなるような名言・嘉句を並べてみました。

・”志は高華なるを要し、趣は淡白ならんことを要す”
志は高く掲げ、でも感情に荒ぶることなく穏やかでいよう、ということです。

・”眼裡、点の灰塵なくして方に書千巻を読むべし。 胸中、些の渣滓なくして纔に能く世に処すること一番す”
眼中に一点の曇りもなくなってこそ、本当の読書・学問ができる。
胸中に一切のかすを無くして明朗闊達であって、初めて世に処していける、ということです。

・”士大夫、三日書を読まざれば、則ち理義胸中に交らず。 便ち覚ゆ、面目憎むべく、語言味無きを”
三日も書を読まなければ、哲学が胸中より離れ、面構えや認証が悪くなり、言葉も味が無いような気がする。

・”書を読みて倦む時、須らく剣を看るべし。英発の気、磨せず。文を作りて苦しむの際、詩を謌うべし。鬱結の懐、随いて暢ぶ”
書物を読んで疲れたときは、ぜひ刀を看るがよい。発する気が消磨していないことがわかるからである。
文章を作って苦しむときは、詩を吟ずるがよい。むすぼれた懐いが次第に暢やかになるからである。

・”友に交はるには、すべからく三分の侠気を帯ぶべく、人と作るには要ず一点の素心を存すべし。”
友人と交わるには必ず三分の侠気を帯び、人間たるには一点の純真な心を保つべきである。

・”人情に近からざれば世を挙げて皆畏途なり。物情を察せざれば一生倶(とも)に夢境なり”
人情を得ない、人情がピッタリ来ないと世を挙げて、人の世の中は実に怖い・警戒しなければならない。
人情に近くない、人情に反するとなると世の中は難しい。
物事がいかにあるべきかという実情を察しないと、人間の一生とは何だかわからない夢のようなもの。
だから、人情と物情を明らかにすることは、非常に大切なことである。
天下は昏迷不醒。そこで迷うて醒めない人々の悪酔いを醒めさせてやりたいものだということです。

・”才人の行は多くは放なり。当に正を以て之を斂むべし。正人の行は多くは板あり。当に趣を以て之を通ずべし”
才人の行いは多く放埓になるから、正義をもってこれを収斂するべきである。正しい人の行いは多くは型にはまって単調になるから、趣味や芸術をもってこれを行うようにするべきである。

・”嬾には臥すべし、風つべからず。静には座すべし、思うべからず。悶には対すべし、独なるべからず。労せば酒のむべし、食うべからず。酔えば睡るべし、淫すべからず”
人はものうい、気合が入らないときには、ぐずぐずせずに寝てしまえ。
静かで落ち着いたときには正座して、くだらないことを考えるな。
人は一人だとどうしても考え込んだり、くだらないことに悩みがちだが、友や佳書といった意義や権威あるものに差し向かって対峙しなさい。
疲れたら、酒を飲め、疲れて食べると腹を壊したりするので、気をつけろ。
酔ってしまえば眠るに限る、酔って淫するようなことはしない方がよい。
これは五不可といって有名な格言であるようですが、たいていの人間はこの逆をやっているという戒めでもあります。

・”花は半開を看、酒は微酔を欲す”
華は半分開いたぐらいが丁度よい、酒はほんのり酔うぐらいが丁度よい。
”肝胆相照らせば、天下と共に秋月を分たんと欲す。意気相許せば、天下と共に春風に座せんと欲す”
お互いに心の中を打ち明けて気が合う人と一緒にいるぐらい楽しいことはない。

秋の月というのは心が澄んで、清くきれいだ。
気が合う友と心を通わせれば、天下の世の中でいつまでも一緒にいたいと思うものだ。
こんな友を得られるだけの人物にならなければなりませんね。

・”刺を投じて空しく労するは原と生計にあらず。裾を曳いて自ら屈するは豈に是れ交遊ならんや”
名刺を差し出して、社長さんや重役やらあちこちウロウロして功名を図るのは人がいかに生きるべきかの本質の謀ではない。
腰を低くしてご機嫌を取って回ることが、本当の交際をは言えないのである。
単に毎日の生活を立てる生計でなく、自分はいかに生くべきかという人の根源的生き方を問うているものです。

・”法飲は宜しく舒なるべし。放飲は宜しく雅なるべし。病飲は宜しく少なかるべし。愁飲は宜しく酔うべし。
 
春飲は郊に宜し。夏飲は洞に宜し。秋飲は船に宜し。冬飲は室に宜し。夜飲は月に宜し”
形式ばった酒宴では硬くなってはならない。
わがまま勝手に飲むのは、洗練されセンスがなければならない。
病気で大酒を飲むのは駄目だが、少しぐらい使うのであればよい。
泣き上戸が飲むのは、迷惑で困り者である。
春は郊外で、夏は涼しいところで、秋は船で、冬は部屋で、夜は月を愛でながら飲むのがよい。

・”花を鑑賞するには須らく豪友と結ぶべし。妓を観るには須らく淡友と結ぶべし。山に登るには須らく逸友と結ぶべし。水に汎(うか)ぶには須らく曠友と結ぶべし。月に対するには須らく冷友と結ぶべし。雪を待つには須らく艶友と結ぶべし。酒を捉るには須らく韻友と結ぶべし”
花見に行くなら豪爽な友にすればよい。芸妓を観るにはあっさりした友がいい。登山をするなら俗気のない友にするのがいい。舟遊びをするにはおおらかな友がいい。雪見の友なら美女がよい。酒の友なら風流人しかいない。
生きることは運命であり宿命ですが、”いかにあるべきか”を知ることを”知命”と言います。
そして、それを如何に創造・実践していくこと、一身の一時的な利害などに囚われず世の中を救おうと心を尽くすことが”立命”というものです。
日本やこれからの私達はこの”知命”を立て”立命”していかなければなりません。
このような整理も、そのための誰かのお役に立てれば幸いです。





















「酔古堂剣掃②」

2019-01-18 06:36:33 | 日本

酔古堂剣掃に学ぶ!悠々たる人の生き方

徳川時代から明治・大正を中心に広く普及し、多くの文人・墨家が愛読したものとして『菜根譚』よりずっと内容が豊富で面白いとまで言われていた『酔古堂剣掃』。
国内では昭和53年から数回増版され、平成元年までは細々と出版された後、今ではほぼ絶版状態になっているような状態です。

今のように先行きが不安な時代だからこそ、こうした佳書はもっと多くの人に読まれるようになってほしいと思い、整理してみることにしました。

『酔古堂剣掃』は、中国・明朝末の教養人・陸紹珩(字は湘客)が長年愛読した儒仏道の古典である史記や漢書などの中から会心の名言・嘉句を抜粋し、収録した読書録です。
特徴としては、『菜根譚』と同様に自然の描写と観察が豊富で優れており、世の名利から距離を置いた悠々たる人の生き方を活写した風雅の書といわれています。


原本は十二巻で成り立っており、一巻毎に片言隻句の内容が分類された構成となっています。


第一巻:醒(せい)…心を醒まさせる句を載せるとする。
  
世情が乱れると、人は酔ったように正気ではなくなってしまいます。まさに今の時代ですね。
 そこで、本来の人間らしい生活をするには活眼を開くしかないですよ、目を醒ましましょう!という警鐘を、一番最初の巻としています。


第二巻:情(じょう)…情味のある句を載せるとする。
  
目を醒ましても、冷めるのでは理屈っぽかったり意地っ張りな傾向に陥るので、人情味を持ち合わせて大切にしましょう、ということです。


第三巻:峭(しょう)…聳然とした句を載せるとする。
  
峭は山の険しい形を表しており、情に流されるだけではだらしなくなってしまうので、このままではいけない、奮起するところから始めよう、と繋げている訳です。


第四巻:霊(れい)…魂の句を載せるとする。
  
奮起するにしても、目的もなく暴走するのではなく、魂・志を持ちあわせましょう、ということです。


第五巻:素(そ)…素朴な句を載せるとする。
  
感覚や感情だけで突き進むのではなく、平素・平常の心で自然体でいきましょう、ということです。


第六巻:景(けい)…景色の句を載せるとする。
  
ここまでくると、ようやくいろんな景色が見えてくるので、その景色を楽しみましょう、ということです。


第七巻:韻(いん)…韻律のある句を載せるとする。
  
そんな景色も平凡・単調ではなく、春夏秋冬それぞれにいろいろなリズム・韻律が生まれてくる、ということです。


第八巻:奇(き)…奇抜な句を載せるとする。
  
景色に韻律が加わると、平凡ではなくなる、要は奇抜になってこなければならない、ということです。


第九巻:綺(き)…煌びやかな句を載せるとする。
  
ではどうずればよいか、それには風情やロマンを持たせる必要がある、ということです。


第十巻:豪(ごう)…豪邁な句を載せるとする。
  
こうした風情も、線が細くなると退廃してしまうので線を太くする、つまりは気魄を優れたものにする、ということです。


第十一巻:法(ほう)…締めくくり(法)のある句を載せるとする。
  
こうした豪も、豪邁・気性が強くなり、常軌を逸して型破りなことをしがちになるので、法に則りましょう、ということです。


第十二巻:倩(せん)…大丈夫の句を載せるとする。
  

そういたことから、立派な人になりましょう、ということで締めくくります。















「酔古堂剣掃①」

2019-01-17 06:44:35 | 日本

「酔古堂剣掃」について学ぶ。



『酔古堂剣掃』(すいこどうけんそう)は、中国・明朝末の教養人・陸紹珩(字は湘客)が長年愛読した儒仏道の古典の中から会心の名言嘉句を抜粋し、収録した読書録である。特徴としては、『菜根譚』と同様に自然の描写と観察が豊富で優れている。


◎日本での評価
日本には江戸時代に紹介されて教養人の間に広く流布し、明治・大正に至っても何度か訳されたりしたが、昭和に入ってからは殆ど出版されなくなった。


◎目次

原本は十二巻で成り立っており、一巻毎に片言隻句の内容が分類されてある。
第一巻:醒(せい)…心を醒まさせる句を載せるとする。
第二巻:情(じょう)…情味のある句を載せるとする。
第三巻:峭(しょう)…聳然(男らしい)句を載せるとする。
第四巻:霊(れい)…魂の句を載せるとする。
第五巻:素(そ)…素朴な句を載せるとする。
第六巻:景(けい)…景色の句を載せるとする。
第七巻:韻(いん)…韻律のある句を載せるとする。
第八巻:奇(き)…奇抜な句を載せるとする。
第九巻:綺(き)…煌びやか(ロマンチック)な句を載せるとする。
第十巻:豪(ごう)…豪邁な句を載せるとする。
第十一巻:法(ほう)…締めくくり(法)のある句を載せるとする。
第十二巻:倩(せん)…大丈夫(立派な男)の句を載せるとする。