龍の声

龍の声は、天の声

「日台の絆は永遠に」

2014-05-31 06:47:14 | 日本

李登輝・特別寄稿「日台の絆は永遠に」の論文が『Voice』に掲載された。素晴らしい内容であるので、以下、要約し記す。




(1)新渡戸稲造との出会い

台北高校の1クラスの定員は40人。そのうち台湾人の生徒は3人か4人だったと記憶している。在学中、とくに差別を感じたことはない。むしろ先生からはかわいがられたほうだと思うし、級友たちも表立って私におかしなことをいう者はいなかった。自由な校風の下、私は級友たちとの議論を楽しみ、大いに読書に励んだ。

そんなとき、台北の図書館で新渡戸稲造の『衣裳哲学』についての講義録に出合った。これに大いに助けられ、またその内容に感銘を受けた私は、『武士道』を座右の書とするようになる。京都帝国大学で私が農業経済学を学んだのも、農業経済学者であった新渡戸の影響を受けたことが理由の一つである。

 新渡戸は『武士道』のなかで、「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」を武士の徳目として挙げている。しかし『武士道』でなにより重要な点は、それらの実践躬行を強調していることであろう。一回しかない人生をいかに意義あるものとして肯定するか。そのために「私」のためではなく、「公」のために働くことの大切さや尊さについて『衣裳哲学』や『武士道』から学び、若き日の私は救われたのである。


(2)安倍総理へ3つのお願い

大東亜戦争に出征して散華し、靖国神社に祀られている台湾人の英霊は2万8000柱。現在、このことを多くの日本人が知らないのは残念である。
もし、先の戦争における台湾人の死を無駄にしないために、日本は何をすべきかと問われれば、私からは次の3つのことをお願いしたい。

1つ目は、昨年4月に締結された日台漁業協定に従い、尖閣諸島周辺における日台間の漁業権の問題を円滑に解決することである。この協定は安倍総理のリーダーシップによって結ばれたもので、私は高く評価している。「水面下で私が反対派を説得した」という論文も目にしたが事実無根で、私はいっさい何もタッチしていない。ひとえに安倍総理の決断のおかげだ。実務レベルではまだまだ解決すべき課題は多いだろうが、引き続き安倍総理の指導力に期待したい。

2つ目は、中性子を使った最先端の癌治療技術を台湾の衛生署を通じて台湾の病院に売ってもらうことである。日本と同じように、台湾でも死因の1位は癌である。日本がこの技術を台湾の病院に売らないのは、中国への技術流出を恐れている事情があるのかもしれないが、私、李登輝がそのような事態が起きないよう責任をもつ。

3つ目は、「日本版・台湾関係法」の制定である。1979年、アメリカは国内法として台湾関係法を定めて台湾との関係を維持し、中国を牽制した。しかし日本では、72年の日中国交正常化にともなう日台断交以来、台湾交流の法的根拠を欠いたままである。

近年、私は台湾に来た日本の国会議員に必ず「日本版・台湾関係法」の制定について尋ねるようにしている。すると、反対する人はほとんどいない。しかし一部には、中国が反対するから難しいと囁く人がいる。中国が口を出す権利がいったいどこにあるのか。台湾は中国の一部ではない。台湾は台湾人のものである。

日本が中国の対応を恐れて台湾との義を軽んじることは了解できない。歴史的経緯を顧みれば、台湾の未来について日本にも一定の責任があると考えるのは当然であろう。安倍総理はしっかりとした国家観の持ち主であるようにみえる。直接、お会いして頼むわけにはいかないので「日本版・台湾関係法」の制定についてはこの誌面を通じて深くお願いすることにしたい。


(3)結びに

私は今年で91歳になった。台湾のためなら、もういつ死んでも構わないと思っている。結局、「生」と「死」というものは表裏一体の関係にある。一回しかない生命をどう有意義に使うか。「死」をみつめて初めて、人間はそれが理解できる。これは私の確信である。しかし、確信は行為に移さなければ、何の役にも立たない。
なにぶん老齢の身である。身体はなかなかいうことを聞いてくれない。まことに情けない限りだ。しかし、台湾こそ私の生きる国なのだ。台湾のために十字架を背負って、誰を恨むことなく、牛のように一歩一歩、国土を回り、果てる所存である。








「日露戦争とイスラエル建国の英雄 ②」

2014-05-30 06:56:10 | 日本

〔2〕真の愛国者とは鉄の塊

トルンペルドールのようなイスラエル建国の理想をもった人びとは、まだ少数だったが、当時イスラエルの地を支配していたトルコ帝国から土地を買い、イスラエルに住み始めた。ただその運動はまだバラバラで、それぞれが思い思いの場所に土地を買い、開拓に従事していた。多くの人は、イスラエル中部の比較的安全な場所に住むことを希望していた。誰も北の辺境の地に住もうなどとは思わなかった。しかし、トルンペルドールはあえてイスラエル北部のアラブの遊牧民等が多く住む、無法地帯と思われるような場所を選んだ。当時は多くのユダヤ人がその場所を重要だとは思わなかった。危険な場所で、身を危険に曝してまでそのような場所を守る必要はないと考えていた。

ところが、イスラエルが建国されてみてわかったのだが、そのイスラエルの北部には、イスラエルには欠かすことのできない水源がある。その水があるから、私たちイスラエル人は生活できるのである。トルンペルドールたちが命懸けで守ってくれたおかげで、イスラエルは貴重な水源を確保することができ、いま私たちはイスラエルで生活することができる。あのときトルンペルドールがその地にこだわることもなく諦めていたら、貴重な水源はいまごろシリアやレバノンといった危険な国の支配下に置かれ、イスラエルは存在することができなかった。だから、彼は異常なまでにその場所にこだわったのであった。

そして、イスラエルの地でアラブ人との戦いの末にトルンペルドールは戦死する。アラブ人がテル・ハイに侵入してきたとき、トルンペルドールは、「エッシュ(撃て)!」と叫んだ。その言葉こそが、それまで各地で迫害され苛められ、まさに防戦一方だったユダヤ人の歴史から、国を守るための戦いに立ち上がるきっかけとなった。
イスラエルは紀元70年、いまからおよそ2000年前にローマ帝国との戦争に敗れた。イスラエルのマッサダという要塞には、970人の者が立て籠もって、最期まで抵抗を続けた。3年間籠城したが、やがて力尽きて陥落する。いよいよローマ軍の侵入が不可避となった前夜、立て籠もっていたユダヤ人たちは、降伏してローマ人の奴隷になるよりも民族の誇りを守るために死を選ぼうといって全員が自害する。
それ以来、ユダヤ民族は世界各地に離散し、国をもたない流浪の歴史を2000年間続けてきた。そのとき、ユダヤ人が失ったのは国だけではなかった。マッサダの兵士たちは民族の誇りを守るために自害していったが、ユダヤ人はその戦いに敗れたことで、民族のために戦おう、国を再興しようという気概まで失ってしまったのである。

しかし、20世紀の初頭に現れたトルンペルドールが「エッシュ!」といった瞬間、私たちユダヤ民族が2000年間忘れていた民族のために戦う気概が呼び覚まされた。彼が最期に、「国のために死ぬことはよいことだ」という言葉を残したことによって、ユダヤ人の中に「生命を懸けて自分たちの国を創り、その国のために戦うんだ」という思いが明確になったのである。

トルンペルドールがイメージした「国」というのは、明治のあの時代の日本のことだったかもしれない。彼は日本で捕虜になって、初めて「ユダヤ人の国を創りたい」と思ったのだから。それ以前の彼は、シオニスト(イスラエル再建を理想とする人びと)ではなかった。

もちろん、彼個人にはユダヤ民族の名誉と誇りのために戦うという気概はあった。反ユダヤ主義の強いロシア軍に志願して入隊し、片腕を失ってでも「ユダヤ人として笑われない生き方がしたい」と願って前線に戻って戦い続けたのだから。しかし、彼の中に「ユダヤの国を創りたい」という願いが湧き起こったのは、日本との戦争や捕虜時代を通じて、日本という国に触れてからである。

今、日本には中国や韓国、そしてロシアとの領土問題がある。トルンペルドールが諦めなかったように、日本人は決してそれらの領土を諦めてはいけないと思う。結果的には第三者の仲介に入り、妥協点を見出すことになるかもしれないが、決して日本人から放棄するようなことがあってはならない。領土の交渉というのは格闘技のように、交渉相手からの大変な圧力があり、それに対してこちらも圧力をかけて対峙する。そのような睨み合いの状況を維持しつつ、妥当な妥協点を見出す努力をするのである。

ユダヤ教にはこのような言葉がある。「ある一つの物を挟んで二人の人がそれぞれに、『これは私の物だ』と主張したとする。そのときに、もしあなたが『これはすべて私の物だ』と主張し、相手が『この半分が自分の物だ』と主張するならば、あなたはすべてを得ることができる。しかし、もしお互いが『それはすべて私の物だ』と主張するならば、それは二つに分けなくてはならない」と。これは領土問題にも当てはまるのではないかと思う。

トルンペルドールは愛国者としての模範的な生き方をした。イスラエルではいまでも多くの小学生や中高生が、トルンペルドールが最期の戦いをしたテル・ハイにやって来くる。その場所に立ち、トルンペルドールの生き様に想いを馳せるとき、子供たちのなかから、自ずと国を思う心、愛国心というものが醸成されてくる。
ゼエヴ・ジャボティンスキーというイスラエル建国の志士が、「真の愛国者とはどのような人物か?」とトルンペルドールに問いかけた。その問いに対し、トルンペルドールは答えた。

「真の愛国者とは、鍛冶屋の手の中にある鉄の塊のようなものだ。その鉄は馬車の車輪に変わることもできるし、鍬にも成れる、刀剣にだって変わることができる。農作業の道具にも成れるし、戦いの武器に成ることもできる。そのように、真の愛国者は祖国が必要とするのならどんな形にだって成れるということだ。もし農夫が必要なら自分は農夫に成ろう。兵士が足りないなら兵士に、医者が必要なら医者にだって成ろう。そのような人が真の愛国者だ」

つまり、トルンペルドールは、真の愛国者とは自分よりも大いなる者のために、この身を捧げて生きることであるということを言おうとしたんだと思う。きっと明治時代の日本人が自分の命も顧みずに、国のために、天皇陛下のために生きる姿から学んだのかもしれない。トルンペルドールは鉄の塊の例えをもって、祖国のために生きる自分の姿を表したのである。

実際、彼はもともと歯医者だったから医術の心得もあった。しかし、志願して兵隊に成り、国のために戦った。また、イスラエルに帰還してからは、農夫として建国のために農地の開拓にも従事したのである。「愛国者とはこうあるべきだ」という以前に、自分自身で身をもって生き方を示したのである。だから人びとは彼を信じ、彼に従っていった。そして彼のその志は引き継がれ、彼の死後30年がたって、ついにイスラエル国が誕生したのである。

有名な逸話として、トルンペルドールが明治天皇に義手を賜った。それは数年前にロシアの新聞で紹介されたツィンマンというユダヤ人の捕虜だった人の家族の証言を基にした話である。おそらくロシア人捕虜が読み書きを学ぶ学校をつくったり、図書館や職業訓練所のようなものを始めたトルンペルドールの活躍の噂が収容所の外にも聞こえたのだと思う。それが明治天皇のお耳に入り、そのような人物ならぜひ一度見てみたいということで、明治天皇への拝謁ということになり、義手を賜ったのではないのだろうか。その義手はイスラエル北部のテル・ハイ博物館に展示されている。その後、トルンペルドールはロシアに帰国するが、そこではロシア皇帝からも義手をもらうのである。だから彼は二つの義手をもっていた。



<了>







「日露戦争とイスラエル建国の英雄 ①」

2014-05-29 07:33:51 | 日本

エリ・エリヤフ・コーヘン(元駐日イスラエル大使)が、祖国イスラエルの英雄「ヨセフ・トルンペルドール」について語っている。実に素晴らしい内容で学ぶところが多々ある。
以下、要約し、2回にわたり記す。



〔1〕ヨセフ・トルンペルドールという人物

日露戦争のころのユダヤ人の存在について話をする。ユダヤ人の銀行家でヤコブ・シフという人物は、日本がロシアに勝利することを願って多額の資金援助を日本にした。その一方で、ロシアが勝つために日本と戦ったユダヤ人もいた。それがトルンペルドールだった。同じ戦いだが、ユダヤ人はどちらの側にも存在した。

このトルンペルドールは、ユダヤ人にとって聖書時代の英雄であるモーセやダビデ王、以来の英雄ともいうべき人物である。

トルンペルドールが日本人と戦った体験や大阪の高石にあったロシア人捕虜収容所で捕虜として過ごした体験生活が、彼をイスラエルの建国運動に駆り立てる大きなきっかけとなった。

当時のロシアでは、ユダヤ人が医者になることはできなかった。だが歯医者にはなれた。それでトルンペルドールは歯医者になった。だから彼には教養があった。それで彼は捕虜収容所でユダヤ人のみならず、そこにいたすべての兵士にロシア語の読み書きを教えた。兵士の多くは無学文盲だった。彼はユダヤ人だったが、彼が片腕を失いながらも、戦いをやめず、拳銃だけを持って最後まで戦い抜いたという武勇伝は広く知られていた。だから他の兵士たちも彼には一目置いていて、彼は指導者として尊敬されていたので、皆、彼に従った。

人間は捕虜生活のような特殊な状況に置かれると、その人の原点に立ち返ろうとする。そしてトルンペルドールも「真のユダヤ人とは何か」という問いを持ち始める。そのことを追求するために、当時捕虜のなかには900人ほどのユダヤ人がいたが、その同胞たちとともにユダヤ教の伝統的な儀式やお祭りを行ない始める。トルンペルドールはとくに信仰熱心な家庭に育ったわけではないし、いわゆる宗教家と呼ばれるユダヤの掟を厳格に守ってきた人間もなかった。

だが、その彼が中心になって、ユダヤの民の出エジプトを記念する「過ぎ越しの祭り」を捕虜たちと行なったのである。その祭りに欠かすことのできない「マッツァ」と呼ばれる「種入れぬパン」を、当時神戸にあったユダヤ人コミュニティーからわざわざ取り寄せる。そのために彼は覚えたての日本語を駆使して収容所の担当者と交渉した。また、それを当時の日本の政府は許可する。そのようにして他民族の習慣にも理解を示して協力した日本政府もすごいと思う。そのような日本という国の対応からも、トルンペルドールは国というものの良さを感じたのだと思う。そして、自分たちユダヤ人が自由に暮らせる日本のような国をもちたいと思ったのではないだろうか。そして、そのトルンペルドールの活動にはユダヤ人捕虜が一致協力する。

ところが、トルンペルドールがシオニズム、つまりユダヤ民族の祖国を建国するためにイスラエルに帰ろうという声を上げたときには、多くのユダヤ人が、「自分たちの国だって? 2000年前になくなったものを再建するなんて狂気の沙汰だ」といって反対する。当時の多くのユダヤ人には自分たちの国をもてるなどという考えはまったくなかった。とくに捕虜にとっては、「自分たちはいま、極東の日本の捕虜になっているような状況だ。それに自分たちはロシア兵である。そのわれわれが2000年前に失った土地に還って、国を再建するなんてありえない」という気持ちだった。だから、イスラエルの建国という点に関しては、ユダヤ人のなかにもトルンペルドールに反発する者が多くいた。

でも、トルンペルドールは戦士である、武道家である。自分の信じた道をまっしぐらに突き進んだ。そしてユダヤ人捕虜たちに祖国の必要性を訴え続けた。その結果、祖国の再建という志を共にする同志250人とともに、日本の収容所におけるシオニズム(イスラエル建国運動)組織を立ち上げることに成功した。そこから米国のユダヤ人たちに手紙を送ったりして、「自分たちと志を一つにして、ユダヤ人国家の建国のために協力してほしい」という呼びかけをした。

ロシアではユダヤ人であるがゆえに散々差別されながらも、ロシア軍兵士として必死で戦うが片腕を失い、挙げ句の果てには戦争に負けて日本の捕虜になってしまった。そのようなどん底の状態だったが、トルンペルドールの胸の中には、「ユダヤ人の国を創ろう。そのことのために自分の身を捧げよう」という理想が燃え上がった。

彼は日本という国から大きな影響を受けたと思う。彼は全身全霊を挙げて戦った戦いに敗れた。日本に負けた。そういう意味でも日本に対する尊敬の念があったと思う。日露戦争の様子を伝えた当時発行されたユダヤ人の新聞に、「旅順における日本兵は、第一陣が全滅すると第二陣が続き、それが全滅しても第三陣が駆けつける。そのように屍を乗り越えて攻め続けた結果、ついに旅順は陥落した。日本人の戦いぶりは素晴らしい!」と報じている。

それを見てもわかるように、トルンペルドールがいた旅順港における日本軍の戦いというものは凄まじいものだった。彼は勇者だから、きっとそのような日本兵の戦いぶりには、敵であっても感銘を受けただろうと思う。

その一方で、日本は捕虜に非常に寛大だった。収容所内では自由な活動が許されていたし、ロシアのような宗教による差別もなく、信仰の自由が保障されていた。そして何よりも日本人は他では迫害しか味わってこなかった自分たちユダヤ人を、他のロシア人と分け隔てなく尊重してくれた。

おそらく日本人のなかにも、片腕を失ったにもかかわらず戦い続けていたトルンペルドールを尊敬する心というのがあったと思う。

日本の武士道とトルンペルドールに共通する点は、『葉隠』という本のなかに「武士道とは死ぬこととみつけたり」という言葉があるが、つまり武士道というのは、大いなるもののために生命を懸けるということだと思う。かつて日本人は自分よりも大いなるもののため、つまり祖国のため、天皇陛下のために生命を懸けて生き、死んでいった。それはトルンペルドールの最期の言葉、「国のために死ぬことはよいことだ」という思いに通じると思う。

日本で捕虜になる前は、他の多くのユダヤ人と同様、トルンペルドールにはユダヤ民族の祖国という思いはなかった。彼にとっての国はロシアだった。ユダヤ人であるというだけで虐げられるロシア。それでも彼はユダヤ民族としての名誉に懸けて、ロシア兵として懸命に戦い続けた。片腕を失っても戦い続けた。

しかし、敗れて日本で捕虜になった。その日本で彼は国、祖国ということに目覚めたのである。それは事実である。実際、彼はユダヤ人の建国運動を日本で始めたからである。それが日本の武士道や日本という国の姿の影響であることは明らかである。なぜなら、それ以前のトルンペルドールにはそのような発想はなかったから。彼はロシア兵だから、捕虜の期間を終えたらロシアに帰国することはわかっていた。でもそこからイスラエルの地に帰還して、建国運動を始めるんだということがハッキリしたのである。

トルンペルドールは、日本軍と戦い、日本社会と接するうちに、大国ロシアは武力に劣る小国日本になぜ負けたのか、民族の力がどこから生まれるのかを考え、一つの結論に到達する。日本国民の高い士気と規律、そして組織力が小国日本の勝因である。これがその結論であった。弱小民族にも生存する権利がある。弱小であっても、目的を貫き通す強い意志と組織力があれば必ず立ち直れるとトルンペルドールは確信するに至ったのである。そして、所内に学習班を作り『ユダヤ的生き方』(YevreskayaZhijn)を編集し、ユダヤ系兵士用の教材に使った。

1912 年、トルンペルドールは、サンクトペテルブルグ大学を卒業すると、イスラエ
ルの地へ移住した。彼が活動するのはこの後の時代であるが、民族の生存権を守るには、武力のみならず国民の士気、規律、組織力が必要とする認識は、そのあと誕生するイスラエルのバックボーンの一つになった。








「卵黄油の作り方」

2014-05-28 09:14:20 | 日本

卵黄油の効用には、不整脈や動悸などの心臓の不調、更年期や自律神経の不安から解放された体験談の実例がたくさんあるある。
卵黄油を自分で作るにはどうしたらいいか、作り方から原料の卵選びまで、そのコツとポイントを細かく伝える。
煙やニオイがたくさん出るすので、屋外で作ることを勧める。

①卵をボウルに割り入れる。
・卵油作りをする場合は、白身が入らないように丁寧に黄身だけ取り出すので、殻は使いません。ボウルに卵を割り入れて下さい。殻や指に当って破れてしまった黄身は使いません。

②手を使って黄身だけを丁寧に取り出す
・指と指の間を黄身が落ちない程度に開き、黄身だけをすくい出す。そうすると、指の隙間から白身がスルスルッと落ちる。白身が全部落ちるまで左右の手で行ったり来たりさせて、最後に黄身についているカラザも取り除く。一度に黄身は1つずつ取り出していく。

③白身が入らないことが大切。
・きれいに白身とカラザを取った黄身は、直接フライパンに入れていく。カラザを取るときに黄身の袋が破れてしまうことがあるので、その場合はこぼしてしまう前に急いでフライパンに入れる。万が一、白身がフライパンに入ってしまったら、キッチンペーパーできれいに拭き取る。

④火加減の調整
・最初はフライパンが温まるまで強火。木べらで炒り卵を作る要領でかき混ぜていくと、黄身が固まってスクランブルエッグのようになってくる。ここで火を弱め、とろ火から弱めの中火くらいの間で調整する。コンロのカロリーや外気温などの条件によって、同じ火の大きさでも火力が違うので注意する。フライパンの中の様子を見ながら、加減する。

⑤ひたすら細かくする。
・黄身を切るように根気よく小さくしていく。弱火で20~30分ほど炒っていくと1cm~5mmほどのサラサラとした黄色い塊になってくる。ここで煙が出るようなら火が強すぎるので、さらに弱める。ここまで細かくなったら、今度はすりつぶすように(裏ごしをするような感じで)木べらで、さらに細かくする。

⑥目標はコーヒー豆を挽いたくらいの色と細かさ。
すりつぶして細かくなったものから水分が完全に飛んで、きつね色になってくる。ここで黄色い状態のものは、まだ水分が残っているので、まんべんなくきつね色になるまで続ける。やがてきつね色から茶色の顆粒状になってきたら、細かくする作業はここまで。あとは、全体にまんべんなく熱がまわるように、ゆっくりと混ぜていく。ここまで45分~1時間位。

⑦煙が出るほどにゆっくり混ぜる。
・茶色が濃くなってくると、煙もだんだんと濃くなってくる。茶色から黒に近づいてくると煙もスゴイことに。煙が出れば出るほど、さらにゆっくりと混ぜる。料理上手な人ほど煙が出てくると、どうしても無意識に一生懸命混ぜてしまうので要注意。卵油が出ない失敗の原因は、ここで混ぜすぎている場合がほとんどである。混ぜ方が速いと熱が逃げてしまい、ここから進行しなくなってしまう。また、煙がたくさん出るのでビックリして火を止めてしまい、そこで失敗したと思って諦めてしまう人もいる。

⑧サラサラからシットリへ変化
・煙が濃くなってくると、コーヒーの粉のようにサラサラの状態だったのが、黒くシットリしてきて、やがてベタベタした泥のような状態になってプクプクと泡立ってくる。ここまできたら、もう混ぜるのをやめて卵油がにじみ出てくるのをひたすら待つ。やがて黒い液体が泥状のところからジワジワと見えてくる。ここまで1時間15分~1時間45分位。

⑨待望の卵油がにじみ出てくる瞬間
グツグツと煮えたような状態になって卵油がにじみ出てきたら、フライパンを30度ほど傾けカスを高い方に引き上げる。高い方の下に火が当たるようにフライパンを移動させ、遠火になった分だけ火力を強くする(中火~強火)。ボンベに熱が伝わらないよう、フライパンの位置には気を付ける。(爆発しないように!)モウモウとした煙とともに、フライパンの低い方に真っ黒いエキス卵油がたまってくる。

⑩煙に負けずに卵油を絞り出す。
・木べらを使ってフライパンの底にカスをギューっと押しつけると、ジワ~っ、上下を返しながら絞り続けるとさらにジワ~っと卵油がにじみ出てきて、フライパンの低い方にたまってくる。非常にたくさん煙が出るが、火を弱めてしまうと卵油が出るのも止まってしまうので、煙に負けないで頑張ってしぼり続ける。

⑪火を止めてカスを捨てる。
・十分に卵油が出たら火を止め、カスを捨てる。火を止めるとすぐにカスが溶岩のようにガチガチに固まってしまうので手早く行う。カスは非常に熱いので、十分に注意。

⑫熱いうちに卵油をこす。
・ロート状にした油こし紙を乗せた耐熱ガラス容器を用意する。できたての熱いうちに卵油を注ぎ、カスを取り除く。フライパンから油こし紙に注ぐときは、ゆっくり過ぎるとフライパンの裏に卵油がまわってこぼれてしまうので、慎重になりすぎないように手早く注ぐ。

⑬卵油の完成
・油こし紙から卵油がガラス瓶の中に自然に落ちてくるが、カスがたくさん入っていると時間がかかる場合がある。できたての卵油はとっても熱いので、ヤケドをしないように注意。最後の一滴が落ちたら、油こし紙を取り除きキチンと蓋をして充分冷ましたら、卵油の完成。保存は室温で、陽の当らない冷暗所や戸袋などで大丈夫。冷蔵庫に入れる必要はない。数年はそのまま保存が可能。

⑭飲む時はカプセルに入れて。
・用意するものは、ゼラチンのカプセルとスポイト。薬局に行くとゼラチンのカプセルを売っている。今はインターネットでも買える。サイズは♯0(0号)。スポイトは文房具屋さん、または100円ショップに売っている。カプセルはフタと本体に分けられるようになっているので、本体の方に口切りいっぱい卵油を入れ、カチッという感触があるまでギュッとフタをして密閉する。


※卵の選び方
昔、農家の庭先で飼われていた鶏が産んでいた卵、というのが選び方の基準になる。イメージとしては浮かんでくると思うが、以下、大切な点を5つにまとめる。

1)平飼いで大地の上で育てている。
2)薬を使わないで育て、エサも無添加のものを与えている。
3)草など自然のエサを食べ、天然水を飲んでいる。
4)陽を浴びて風に当っている。
5)オスも一緒に飼っている。

地元に、このポイントをクリアしている卵があれば、実際に見学に行って自分の目で確かめてみるのもよい。デパートやスーパー、インターネットなどでいい卵を見つけた時は、電話をして確認。愛情をもって昔ながらの養鶏をしているところでは、エサや飼い方などについて自信を持っているので、一生懸命に説明してくれて見学もOKだったりする。

昔ながらの飼い方でオスも一緒に飼っていれば、有精卵が産まれる。オスの数の方が少ないので、すべてのメスと交尾するわけではないから、一部は無精卵になる。オスと一緒に飼っている鶏の卵でも「有精卵」とは書いていないこともあるので、表示だけに頼らないで確認する。

有精卵は産まれるとすぐに卵の中で成長を始める。新鮮な卵で卵油作りをするのは、成長とともに卵黄の成分が失われないうちに卵油にする。鶏が卵を産んでから24時間以内に卵油を作るのが理想的である。











「梅肉エキスの作り方」

2014-05-28 09:12:34 | 日本

<効用>

梅の果肉をすりおろし、しぼった汁を、じっくり煮詰めて作る「昔からの家庭薬」である。疲労回復・食あたりなど万能薬として重宝する。


<用意するもの>

・青梅(若くて青く固いもの)
・おろし器(陶器製かセラミック製)
・ボール(ガラス製かホーロー製)
・もめんの布
・鍋(土鍋かホーロー製)
・木じゃくし
・殺菌した保存容器


①青梅は、丁寧に水で洗い、水気を充分にきっておく。おろし器で、青梅の果肉を皮付きのまますりおろす。

②もめんの布に、すりおろした果肉を入れ、汁をしぼる。

③梅のしぼり汁を、鍋に移し、火にかける。最初は弱めの中火にかけ、全体が温まってきたら弱火にして、加熱する。

④黄色いアクを、丁寧にすくいとり、時々、木じゃくしで混ぜながら弱火でじっくり煮詰める。

⑤表面に光沢が生まれ、黒くトロリとして、木じゃくしでスジがひけるようになったら
火を止める。

※あら熱がとれたら、保存容器に入れる。常温で長期間保存できる。







「日本の包丁の歴史」

2014-05-27 09:18:04 | 日本

澁川祐子さんが「日本の包丁の歴史」について書いた論文があった。
以下、要約し記す。


料理をしている時間というのは、その大半が下ごしらえに費やされている。材料を切り分けたり、薬味をすりおろしたり、下ゆでしたり。しかも手を抜くと、ばっちり味に反映されたりするから、あなどれない。煮たり焼いたりする段階までくれば、あとは火の扱いに気をつけて、味つけをするだけ。下ごしらえさえ済めば、料理は8割がた完成したも同然である。そして下ごしらえのなかでも、とりわけ避けては通れないのが「切る」作業である。
タマネギを使って肉じゃがを作るなら、くし切りに。ミートソースなら、みじん切り。サラダだったら、できるだけ薄くスライス。作る料理によって、種々の材料を適当な大きさに切り分ける。

よく「切れる包丁より切れない包丁の方が危ない」と言うが、その包丁を持つまでは「いやいや、やっぱり切れる包丁は怖いでしょ」と思っていた。だが、新しい包丁を使ってみて、その考えを撤回せざるをえなかった。

トマトにすっと刃が入っていく。きゅうりの輪切りもトントンと軽妙に薄く切れる。清々しい切れ味に、遅まきながら「切れる包丁とはこういうことか」と合点し、「切る」のが楽しくなった。

さて、「切る」道具の歴史を見てみる。

人類史上、最も古い「切る」道具は石器である。それから時代とともに青銅、鉄、鋼へと素材が移り変わっていくのは、世界共通の流れである。青銅は軟らかく、もともと「切る」道具には向いていない。鉄は青銅よりも硬いが、すぐにさびて刃先が丸くなってしまう。鋼は鉄に炭素を加えた金属で硬さや耐久性に優れており、鋼を手にしたことで、「切る」道具は格段に進化した。

日本で最初に包丁の祖先らしきものが現れるのは、奈良時代である。奈良の正倉院には、「刀子(とうす)」と呼ばれる料理用の小刀が保存されている。片刃で、柄から刃が突き出ている「アゴ」とよばれる部分がなく、どちらかと言えば日本刀みたいな形である。また同じ頃、まな板も「切机」と呼ばれて大陸から伝わっている。
平安時代ともなると、刀子は食材によって使い分けられ、料理道具としての性格を強めていく。平安時代に編纂された『延喜式』の内膳司の条項には、1年間で77枚の刀子が計上されており、カキの殻を割ったり、アワビを切ったりするための専用のものが記されている。

「包丁(ほうちょう)」という名が登場するのは、平安時代後期になってからである。包丁はもともと「庖丁」と書いていた。「庖」は、台所を意味する「厨(くりや)」と同じ意味。「丁」は、馬の世話をする「馬丁」、庭を手入れする「園丁」といった言葉があるように、使用人を指す語であった。つまり、「庖丁」とは、厨房の仕事に従事する者、つまり料理人のことを指していた。「庖丁」が使う刀を「庖丁刀」と呼んでいたのが、室町時代になり「庖丁」と略して呼ぶのが定着した。ただし、「庖丁」は魚や鶏などを切るものに使われ、野菜を切るものは区別して「菜刀(ながたな)」と呼んでいた。

一方、まな板は、メインのおかずを意味する「真菜(まな)」に由来するとされる。本来は魚や鶏などを調理する切机が「真菜板」と呼ばれ、一般名称になっていった。当時は床の上に座って作業をしていたため、脚つきのまな板が用いられていた。まな板から脚が消えるのは、流しやガス台といった近代的な台所が導入されてからだ。

こうして「切る」道具が確立されてくるにつれ、今度はパフォーマンスとしての包丁さばきが注目されるようになってくる。

室町時代の絵巻には、「まな箸」と呼ばれる長い箸を左手に持ち、右手で日本刀型の包丁を持って、鶏や魚をさばいている様子が描かれている。こうして客の目の前で数十種類にもおよぶ見事な切り方を披露することで、包丁の技は磨かれていった。

江戸時代になり、武家社会から町人社会へと移り変わると、肉や魚を切る「庖丁師」、野菜を切る「割肴師(きざみさかなし)」といった専門の料理人が登場する。

さらに戦国時代に培われた刀鍛冶の技術が発展し、江戸時代の中期には大阪府の堺や、兵庫県の三木、福井県の武生など包丁の一大産地も生まれた。現在も使われている出刃包丁(魚や鶏をおろす)、菜切包丁(野菜用)、柳刃包丁(さしみ用)といった形が登場するのも江戸時代である。

様々な食材によって包丁を使い分けるのは、ヨーロッパも同じである。ただ、和包丁は両刃よりも片刃が多いという特徴がある。

両刃とは、刃の断面を見たときに、両側面にほぼ同じ角度の刃がついているもの。片刃とは、片方だけに刃がついているものだ。同じ角度で研いだ場合、片刃の方が鋭角にでき、食材に対する刃の角度も微妙に調整できる。それに対して両刃は、食材に対してまっすぐに刃が入り、左右同じように切れるという特長がある。

片刃の刺身包丁で生の魚を引くように切ると、薄くきれいな刺身が出来上がる。つまり、片刃の多い和包丁とは、切り口の美しさを追求して発展したものである。

一方、洋包丁は両刃が基本だ。料理をテーブルの上でナイフとフォークを使って切り分けて食べるため、調理段階で使われる刃物は肉や魚を解体する意味合いが強い。そのため、押して切るのに適した両刃が用いられるようになったのである。

また、日本では包丁とセットで語られるまな板が、洋包丁を使う地域では必須ではないことも付け加えておきたい。

欧米では、空中でナイフを使いながら、食材を直接鍋のなかに切り落とすことをよくやる。煮込んだり焼いたりするのであれば、それほど切り方にはこだわらないのである。しかも先述したように、食べる段階でナイフとフォークで切るため、調理段階で細かく切り分ける必要がないことも、まな板を使わない一因だ。

ちなみに中華包丁は、厳密には地方や目的によって厚みや形に微妙な違いがあるが、両刃でやや重みがあり、幅広なものが基本形である。中国料理は包丁一本で何でも調理してしまうとよく言われるように、一本で薄切り、そぎ切り、細切り、ぶつ切りができ、側面を使ってつぶしたり、切った食材を乗せたりすることもできる。

そうした切り方ゆえに、中国のまな板は、丸太を輪切りにしたものを用いる。これは日本のもののように木の繊維にそった薄い板を用いたのでは、中華包丁を振りおろしたときに刃が繊維に食い込んでしまい、すぐにまな板が傷んでしまうからだ。包丁だけでなく、その刃を受けとめるまな板もまた、切り方によって異なる形をしているのである。

このように、「切る道具」は、その土地、その土地に見合った調理法、食材によって発展してきたのである。明治時代に西洋料理が入ってきて、料理が多様化するとともに、包丁が姿を変えたのも必然だったと言える。

明治時代から大正時代にかけて、家庭に必ずある包丁と言えば、菜切包丁と出刃包丁だった。それが西洋料理の普及に伴い、昭和ともなると、洋包丁の牛刀と和包丁の菜切包丁とをかけ合わせ、肉、魚、野菜に使える「文化包丁」が誕生する。文化包丁は、菜切包丁の角ばった先端を斜めに落としたものだが、さらにその角をカーブさせたものが「三徳包丁」あるいは「万能包丁」と呼ばれる、現在最も普及している包丁である。

こうして日本の「切る道具」は食材によって様々に使い分けるものから、一本化されていくかのように見えが、現代の台所は、果たしてどうだろう。

家庭で魚をおろさなくなり、肉を解体しなくなって久しいが、近年「切る」作業の省略はますます進んでいる。スーパーやコンビニの棚に並ぶカット野菜。1人分ずつ個別包装されたチンするだけのお惣菜。包丁がなくても、食事ができる時代がすでに到来している。

いつの日か、人々が慣れ親しんだ包丁という「切る」道具を手放すときが来るのだろうか。だが、そうは思わない。たとえ刃の形が変わったとしても、きっとその存在自体はなくならないだろう。なぜなら、人々が自らの手で食べる楽しみを求める限り、古代から人類が使い続けてきた最もシンプルな調理法は必ずやついてまわるものだから。






「徒然」

2014-05-27 09:17:05 | 日本

◎長尺で 長さを測れぬ浅はかさ 鯛を逃がした 目出度いおんな


◎子育て
こどもと過ごす毎日は、楽しいことばかりじゃない。
小さな事で悩み、迷い、自分に言い聞かせる。
それでもやっぱり、この笑顔に救われて、
今日も一日を終えることができる。
子育ては毎日が、泣いて笑っての繰り返し。
何気ない毎日さえ愛おしく思える。


◎口車 阿呆がつかう 専用車


◎冬の水 一枝(いっし)の影も 欺かず


◎志
・春風や 闘志いだきて 丘に立つ
・士は別れて三日(さんじつ)なれば、即ち当に刮目(かつもく)して相待つべし
・嗟乎、燕雀安くんぞ 鴻鵠の志を知らんや
 (ああ、えんじゃく いずくんぞ こうこくのこころざしを しらんや)


◎泣かせるのは、夜だけにせよ


◎土光敏夫
従業員は、三倍働け!
役員は、十倍働け!
俺は、それ以上働く。


◎隅田川

・屋形船 小雨にぬれる 宵の口 かじとる先に 月もおぼろか

・ともがらと ひと夜の酒と思いつつ 遥かいにしえ 蘇るいま

・何事も 何人(なんぴと)いえども 時超えて 互いに磨く 輪廻のうちに






「十八史略とは、」

2014-05-26 08:31:39 | 日本

「十八史略(じゅうはっし りゃく)」は、元の曾先之によってまとめられた中国の子供向けの歴史読本。三皇五帝の伝説時代から南宋までの十八の正史を要約し、編年体で綴っている。

十八史編集
1.『史記』- 司馬遷
2.『漢書』- 班固
3.『後漢書』- 范曄
4.『三国志』- 陳寿
5.『晋書』- 房玄齢 他
6.『宋書』- 沈約
7.『南斉書』- 蕭子顕
8.『梁書』- 姚思廉
9.『陳書』- 姚思廉
10.『魏書』- 魏収
11.『北斉書』- 李百薬
12.『後周書』- 崔仁師
13.『隋書』- 魏徴・長孫無忌
14.『南史』- 李延寿
15.『北史』- 李延寿
16.『新唐書』- 欧陽脩・宋祁
17.『新五代史』- 欧陽脩
18.「宋鑑」(以下の2書をひとつと数える)
o『続宋編年資治通鑑』- 李熹
o『続宋中興編年資治通鑑』- 劉時挙


最も古い刊行時期は至治年間(1321年 - 1323年)である。曾先之がまとめたものは2巻本だが、その後、明の陳殷によって帝王世紀や朱子学の書を元に注釈を加えられ、現在と同じ7巻本となった。さらに明の中期、劉剡が(朱熹の『資治通鑑綱目』に従い)三国時代の正統王朝を魏から蜀とするなどの改変を行なった。

陳殷は中国の歴史を簡単に理解するために正史(次項参照)の中から記述を抜き出して作られたものと述べているが、現在の研究では『資治通鑑』などからの抜き書きも多いことが判明している。野史(勅選書以外の民間人によって書かれた歴史書)も多く取り入れられている。特に北宋・南宋に関しては曾先之の在世中に『宋史』が完成しなかったため、野史類や著者・関係者の保有する記録類に頼るところが大きかったと考えられている。

その内容、性格は、子ども用の教科書というところであり、今の日本で言えば「日本歴史ものがたり」といったふうなもので、歴史上の有名な話はたいがい拾ってある。アンチョコのような本だから寿命も短い。今の中国にはもうないし、曾先之と言う名前も残っていない。

日本には室町時代初期に伝来したと伝えられる。江戸時代には初心者用のものだということは分かっていたが、明治以降、漢文教科書に多く採用されると、左伝や史記のようなスーパークラスの古典籍との区別がわからなくなってしまった。一時は爆発的な流行となったが、東洋史の新たな通読書が登場してからは尻すぼみとなっていった。その後は歴史書としてではなく、経営者やビジネスマン向けの啓発や哲学を紹介するための本として出版されることもあった。

中国文学者の高島俊男は、中国では古くから子供向けの書籍であることが正しく認識されていたが、日本人はこれを典拠たりうる歴史書と勘違いしてきたと批判している

戦後に陳舜臣の『小説十八史略』が人気を博したが、これは『十八史略』で扱われている範囲の時代を小説化したものであり、創作した部分も多く、別の書というべきものである。








「貞観政要⑤」

2014-05-25 10:56:12 | 日本

◎国家安泰の道

・房玄齢
「奥深い宮殿の中で蝶よ花よと育てられた幼君は世間を知らず国の治め方も知りません。次代で政治が混乱するのはこれが原因です」
太宗「功臣の子孫はろくな才能もないのに祖先の働きで大官に任ぜられぬくぬくと贅沢に耽る手合いが多い。君主は幼弱、臣下も無能とあれば国家を維持することはできない」

・太宗
「後継者について太子とその他皇子の処遇に対し法によってはっきりとしたケジメをつけたい。また、昔から嫡出であろうと庶出であろうとしっかりとした後継者に恵まれなければ結局国を滅ぼしてしまう。この機会にあらためてそちたちに太子並びに諸王の補佐役として能力人格にすぐれた人物を選び出してほしい。さらに、同じ王の下に長く仕えさせては情が移り、やがては『わが主君を天子に』などと思いもよらぬ野心が芽生えてくる。それぞれの王府への勤務は4年を限度とする」

・太宗
「すぐれた智者は相手の意見に左右されない。中程度の智者は相手しだいでどうにでも変わってしまう。どんな人物を相手に選ぶかが重要な問題になってくる。今いちばん心を悩ましているのは太子教育である。ところが師傅(守役)の選定は古来から難しいとされてきた。周の成王は召公・周公の二人の師傅をはじめとして賢人が側に仕えていた。彼らから立派な教えを聞いて仁徳を身につけたので聖天子となることができた。秦の胡亥は師傅の趙高から法家の教えを叩き込まれ、即位するや功臣や親族を次々と手にかけて暴虐の限りを尽くしあっという間に滅びていった」

・太宗
「古来帝王の子は皆奥深い宮殿に生まれ成長するにつれてわがままな人間に育ち国を危殆に陥れわが身さえ保てなくなる。私はわが子の将来を考えて今から厳しく教育していきたいと思う。王珪は長年私に仕え、剛直で忠孝の念に篤いところを見込んで、わが子・泰の師傅に任命することにした。泰にも『王珪を父とも思って尊敬し、心して励むように』と言ってほしい」

・太宗
「昔わが子に胎教を施した母がいたが、私はわが子にそこまでできなかった。しかし太子を定めてからはできるだけ機会を見ては教育に努めている。『今食しているものはすべて人民が汗して作るものだから、農繁期に人民を使役に駆り立ててはならない。さもないといずれは食事にも事欠くようになるぞ』『馬は人の代わりに働いてくれるものだから、痛めつけてばかりいないで時には休息させなければならない。そうすればいつまでも人間のために働いてくれる』『舟は君主、水は人民である。水はよく舟を浮かべるが時にはひっくり返したりする。そなたもいずれは君主となる身。人民を侮ってはならない』『この木は曲がりくねっているが、きちんと縄墨をあてればまっすぐな木材になる。同様に無道な君主でも臣下の諫言を聞き容れれば立派な君主になれる。これは殷の傅説の言葉だがそなたもよく噛みしめるがよい』」

・魏徴
「昔、後漢の明帝がわが子を王に封じようとしたとき、『わが子を私の兄弟と同列に処遇することはできない。わが子の領地は兄弟である楚王、淮陽王の半分でよろしい』と語ったそうです。史書はこの話を美談として伝えています。天子の姉妹を長公主、天子の娘を公主と呼ぶのは娘である公主よりも姉妹の長公主を尊んでいるからにほかなりません。天子も人の子、娘可愛さの気持ちはわからぬでもありませんが、かような差別待遇はいかがかと思われます。公主の嫁入り支度を長公主のときよりも手厚くすることは道義に反したことでありましょう」

・魏徴
「漢・魏の時代から今日まで、公の場における親王の序列は三公の下位と決まっています。今、三品といえば正三品の六尚書、従三品の九卿にあたります。このような国家の重臣が道で親王に会ったからといっていちいち下馬して礼をするなど古来例がありません。しかも、その儀に及ばぬことは法令ではっきり規定されています。即刻やめさせるべきです。殷の時代は兄の次は弟が継ぐ定めでした。ところが周代以降は必ず長子を世継ぎとする習わしとなりました。これは妾腹の子に付け入るスキを与え、無用の混乱を招くことを恐れたからです。一国の君主たる者、この辺の事情をじゅうぶんにお考えください」

・太宗
「昔から、立派な事業を成し遂げた君主でも、途中からおかしくなってしまう者が多い。たとえば漢の高祖である。当時太子の地位にあった嫡子の孝恵帝は穏やかな性格で孝心の厚い人物だったが、愛妾の子の可愛さに惑わされた高祖はこれを廃立しようとしました。また蕭何と韓信は高祖を助けて漢帝国の礎を築いた功臣であるが、蕭何は後に些細な罪で獄につながれ、韓信もまたさしたる理由もなく地位を下げられた。その他の功臣、たとえば黥布なども、それを見て不安に駆られ、ついに反逆を企てるに至った。このように漢の高祖は晩年になってからわが子や功臣に対して道理に外れた振る舞いに及ぶようになっていた。これがもう少し続けばやがて国を滅ぼすハメになったことは明らかではないか。私は天下が平和に治まっているからといって、いささかも気を緩めず、つねに滅亡に至らぬよう気を引き締め、終わりを全うしたいと考えている」

・太宗
「神仙(不老長寿)など戯言であり、この世に実在しない。秦の始皇帝は天子にありながら神仙にうつつを抜かした。方士(神仙を求めた道士)どもの言葉を信じて童数千をつけて東海の島に派遣したが、秦の苛政を嫌ってそのまま逃げられてしまった。始皇帝は海岸に立ち尽くして方士の帰りを待ったがいっこうに戻ってこない。やむなく都へ帰還する途中、沙丘で病にかかり死んだ。また漢の武帝も神仙にとりつかれて自分の娘を方士に嫁がせたが、のちに道術に効き目がないことがわかってその方士を誅殺した。


◎兵は凶器

・太宗
「兵は凶器である。万やむをえざるときに用いるものだ。古来いたずらに兵を弄んだ者はいずれも滅んでいる。たとえば(五胡十六国時代の)前秦の苻堅がそうだ。自らの強大さをたのみ東晋を一呑みしようと百万の軍を動員したが、返り討ちにあってあっというまに滅んだ。隋の煬帝も高句麗攻略へ毎年兵を徴発したので人民の恨みを買い匹夫に殺された。軽々しく兵を動員するなどもってのほかだ」

・太宗が太子に書き与えた『帝範』の中でこう述べている。「軍備は国家の凶器である。いかに大国といえど戦に明け暮れては人民が疲弊して国家の滅亡を招く。いっぽう国内が平和に治まっていても戦いを忘れてしまえば侵略の危険にさらされて外敵の侮りを受ける。軍備は全廃すべきではないが、さりとてやたら行使してはならない。それゆえ農閑期に軍事訓練を施して戦意の高揚を図り、三年に一度大演習を催して軍紀を正すのである。昔、越王勾践は敵に挑む蛙の盛んな敵愾心に学んでついに宿敵呉を滅ぼし覇業を達成した。反対に、徐の偃王は軍備を捨てて顧みなかったためついに国を滅ぼした。これが両国の命運を分けたのである。孔子も『軍事訓練を施さない人民を戦争に駆り出すのはむざむざ死地に追いやるようなものだ』と語っている。これが軍事の鉄則である」

・太宗
「昔の君主の治世を見るに、賢良の士を任用して仁義に則った政治を行なった国はよく治まり、小人を任用してデタラメな政治を行なった国は滅びている」
魏徴「宰相の李克が魏の文侯にこう語ったそうです。『呉はしばしば戦ってしばしば勝利を収めています。しばしば勝てば王は得意満面となりしばしば戦えば民力は底を尽きるでしょう。真っ先に滅ぶのは呉に決まっています』」

・太宗
「帝王の中には死後の虚名を博すために領土の拡大に血道をあげた者がいた。その結果己の身になんの益もなかったばかりか人民を塗炭の苦しみに陥れた。私は仮に己に益があっても人民を苦しませることは断じてしないつもりだ。まして己の虚名のために人民を苦しめるなど問題にならない。今、康国の服属を許せば、今後康国に危難が降りかかったとき兵を出して救援に駆けつけなければならない。しかし康国は幾万里の彼方にあり、動員された将兵の労苦は並大抵ではあるまい。己の虚名のために人民にさような労苦を強いるのは私の望むところではない。康国の服属は聞き届けるわけには行かない」

・太宗
「北方異民族に対して2つの策がある。一つは兵十万を差し向けて討伐しことごとく虜にして禍根を立てば今後百年にわたって北辺の憂いを絶てるだろう。もう一つは仮に向こうから和を請うてくるならそれと婚姻関係を結ぶことだ。私はいやしくも人民の父母のようなもの。人民のためなら姫一人を惜しんではいられない。異民族の風習として妻の権力が絶大なものがあるという。姫がかの地で子を産めばその子は私の外孫である。ならば中国を侵すことはしないだろう。この策をとれば今後三十年間は北辺にも平和が保たれるはずだ。この二策のうちいずれをとるべきか」
房玄齢「隋末の大乱によって人口は半減し人民もまだその痛手から回復しておりません。また兵は凶器、国を滅ぼす元であって聖人の慎むところです。和親の策こそ天下万民の幸いでありましょう」





<了>








「貞観政要④」

2014-05-24 08:57:27 | 日本

◎諫言を容れる

・魏徴
「明君は広く臣下の進言に耳を傾け、暗君は寵臣の言葉しか信じないものです。聖天子の堯・舜も垣根を払って賢者を求め、広く人々の意見を聞いて政治に活かしました。ですから堯・舜の治世では恩沢があまねく万人に及び、巧言を弄する者どもに惑わされなかったのです」

・魏徴
「国が危殆に瀕したときはすぐれた人材を登用しその意見によく耳を傾けますが、国の基盤が固まってしまえば必ず心に緩みが生じます。そうなると臣下も保身に走り、君主に過ちがあっても諌めようとしません。こうして国勢は日ごとに下降線をたどり、ついには滅亡に至るのです。国が安泰なときこそ心を引き締めて政治に当たらなければなりません」

・太宗
「私は弓の奥義を極めたと思っていたが、先日手に入れた良弓を弓作りの名人に見せたところ芯が歪んでまっすぐ飛ばない弓だと言われた。群雄を倒してきた弓についてさえ理解がじゅうぶんでなかった。まして政治に関しては天子となって日も浅いので弓以上に理解不じゅうぶんのはずだ」
そうして高級官僚に命じて交替で宮中に宿直させてともに語り合い、人民の生活実態や政治の得失を知るように努めたのである。

・太宗
「閣僚として登用しているそちたちの責任はこのうえなく重い。私の詔勅がもし適切でなければ遠慮なく意見を申し述べるべきだ。しかし近頃私の意に逆らうまいと指示したことをそのまま受け入れるだけでいっこうに諫言してくる者がいない。まことに嘆かわしいことだ。ただ署名して下部に流すだけならバカでもできる。わざわざ人材を選りすぐってそれらのポストに据える必要はない。重ねて言うが、今後詔勅に適性を欠く点があればどんどん意見を述べてほしい。私の叱責を恐れて知っていながら口を閉ざすなど許されない」

・太宗
「国を治める心構えは病気の治療と同じである。快方に向かっているときこそいっそう用心して看護しなければならない。つい油断して医師の指示を破れば命取りになる。天下が安定に向かっているときこそ最も慎重にしなければならない。安心と気を緩めれば必ず国を滅ぼすことになる。天下の安危は天子の私にかかっている。だからつねに慎重を旨とし、たとえ称賛されてもまだ不じゅうぶんだと自戒する。しかし私一人の努力だけではいかんともしがたい。そこでそちたちを私の耳目としてきた。どうかこれからも心を一つにして政治に当たってほしい。これは危ういと気づくことがあれば隠さず申し述べよ。君臣の間に疑惑が生じ、お互いが心に思っていることを言い出せないようなことにでもなれば国を治める最悪の害となるだろう」

・太宗
「日の出の勢いにあった天子にも日暮れがくるように決まって滅亡の途をたどっている。その原因は臣下に耳目を塞がれて政治の実態を知ることができなくなるからだ。忠臣が口を閉ざし、諂い者が幅をきかせ、しかも君主自らの過ちに気づかない。これが国を滅ぼす原因なのだ。人民は天子が立派な政治を行なえば明君と仰ぐが、無道な政治を行なえばそんな天子など捨てて顧みない。畏れるべきは人民である」

・太宗
「孔子が子路に向かって『国が危機に陥っているのに誰も救おうとしない。これではなんのための臣下だ』といっているが、まことに君臣の義として臣下なら主君の過ちを正さなければならない。そちたちは己の信じるところをはばからず直言して政治の誤りを正してほしい。私の意に逆らったからといってみだりに罰しないことをあらためて申し渡しておく。ところで近頃朝廷で政務を決裁する際ときどき法令違反に気づくことがある。『この程度のこと』とあえて見逃しているのであろうが、天下の大事はすべてこのような小事に起因している。捨て置けば大事となったときには手のつけようがなくなり国家が危機に陥るのだ」

・太宗
「自分の姿を映そうとすれば鏡を用いなければならない。君主が自らの過ちを知ろうとすれば必ず忠臣の諫言によらなければならない。もし君主が暴虐を尽くし臣下が誰一人諌めようとしなくなったら国を滅亡させてしまうだろう。国を失えば臣下もその家を全うすることができなくなる。政治の実態をよく見届けて人民を苦しめていることがあれば遠慮なく苦言を呈してほしい」

・太宗
「どんな明君でも奸臣を任用すれば立派な政治を行なうことはできない。またどんな賢臣でも暗君に仕えればりっぱな政治を行なうことはできない。君主と臣下は水魚のようなもので、呼吸が合えば国内は平和に治まる。私はご覧のとおり愚か者だが幸いにもそちたちがよく過ちを正してくれる。どうか今後とも天下の泰平を実現するため、遠慮なく直言してほしい」

・太宗
「昔から天子には己の感情のままに振る舞う者が多かった。機嫌のよいときは功績のない者にまで賞を与え、怒りに駆られたときは平気で罪の無い者まで殺した。天下の大乱はすべてこれが起因である。私は日夜そのことを思い出している。どうか気づいたことがあれば遠慮なく申し述べてほしい。またそちたちも部下の諫言は喜んで受け入れるがよい。部下の意見が自分の意見と違っているからといって拒否してはならない。部下の諫言を容れられない者が、どうして上司を諫言できようぞ」

・魏徴
「古人も『信頼されていないのに諫言すれば粗探しする奴と思われる。しかし信頼されているのに諫言しないのは給料泥棒だ』と言っています。しかし、沈黙を守る者にも理由があるのです。意志の弱い者は心で思っていても口に出せません。平素お側に仕えたことがない者は信頼のないことを恐れてめったなことは口に出ません。地位に恋恋としている者はせっかくの地位を失うのではと積極的に発言しようとしません。皆が皆ひたすら沈黙を守っていいなりになっているのはそのためです」

・魏徴
「先日、温彦博を通じて陛下から『人の疑惑を招かないよう気をつけよ』と賜りましたが、まことにけしからん仰せです。私は今まで君臣は一心同体であると聞いておりますが、うわべを取り繕って人の疑惑を招かぬようにせよなどという話を聞いたことがありません。君臣こぞってそのような心がけで政治にあたっているとすればわが国も先が見えたと言わざるをえません」

・魏徴
「良臣とは自らが人々の称賛に包まれるだけでなく、主君も明君の誉れを得しめ、ともに子々孫々まで繁栄します。忠臣とは自らは誅殺の憂き目に遭うだけでなく、主君も極悪非道に陥り国も家も滅びただ『かつて一人の忠臣がいた』という評判だけが残ります」

・劉キ
「臣下が上書したとき少しでもあやふやなことがあれば、陛下はその者を呼びつけて厳しく叱責なさいます。上書した者はただ恥じ入るばかりです。これではあえて諫言しようとする者などいなくなるでしょう」
魏徴「古来、上書とは手厳しいものです。手厳しくなければ主君の心を動かすことはできません。手厳しさは己のためにする非難に似ています」

・魏徴
「宰相は陛下の名代というべき立場です。どの事業に関しても『知らない』では済まされません。事業には予算が絡んでいます。陛下のなさることが道理にかなっているのならその完成を図るべきであり、もし道理に外れたことであれば取り掛かっていても陛下に中止を進言するべきです。これこそ君が臣を使い、臣が君に仕える道です」


◎公平な裁判

・太宗
「賞と罰こそは国家の重大事である。功ある者を賞し、罪ある者を罰する。これが適正に行なわれれば功なき者は退き、悪為す者は後を絶つ。それ故賞罰はあくまでも慎重に行なわれなければならない。血縁があるからと功臣と同じ恩賞を与えるわけにはいかない」

・太宗
「国政に臨み、法を適用するにあたって、ひいきがあってはならない。隋討伐の旗を挙げてから今日まで武勲を立てた者は多い。ここで一人罪を許せば彼らに対してすべて法を曲げなければならない。断固として許さないのはそのためである」

・太宗
「死んだ者は生き返らない。だから法の適用はなるべく緩やかにすべきだ。ところが今の法官は古人が『棺桶を売る者は毎年疫病が流行するのを臨む。他人が憎いからではない。棺桶がたくさん売れるからだ』と語ったように、やたらと苛酷な取り調べを行なって己の成績を上げることばかり考えている。彼らに公平で妥当な裁判をさせるにはどうすればよいか」

・王珪
「まず、公平で人柄の良い人物を法官に任じ、その裁きが適切なものなら俸禄を増して黄金を下賜することです」

・太宗
「昔判決を下すにあたって、必ず三公以下の重臣にその是非をただした。現在であれば大尉、使徒、司空の三公・従三品の九卿がこれにあたる。そこで今後は死刑に相当する罪は中書、門下両省の四品以上の高官および六部の長官ならびに九卿の合議によって決定することにしたい。こうすれば無実の罪に泣く者は後を絶つだろう」
こうして四年経ったがその間死刑に処せられたのはわずか二十九人。刑の執行はほとんど見られなくなった。

・戴冑
「長孫無忌殿が帯刀したまま参内したことと、監門校尉がそれをうっかり見逃したことは過失という点ではまったく同じです。そもそも臣下が天子に対して『間違いました』では通りません。法律にも『天子に湯薬、飲食、舟船を奉る際、誤って規定に反したものは死刑に処す』とあります。陛下がもし無忌殿の勲功を考慮されて減刑のご処置をされるのであればもはや我ら司法官の関与するところではありません。しかし、法によって処断されるのであれば無忌殿の減刑には納得できません。校尉が罪を犯したのは無忌殿に原因があります。法に照らせば無忌殿のほうが罪が重いのです。また過失という点ではまったく同じです。ところが一方は死刑、一方は死刑を免れるでは著しく公平を欠いたご処置かと思います」

・戴冑
「法は国家の大いなる信義を天下に公布したものです。これに対し、陛下の言はその時々の喜怒の感情を現したものにすぎません。陛下はいっときの怒りにかられて死刑を布告しましたが、後にその非をお気づきになり、犯人の処罰を法の手に委ねました。とりもなおさず小さな怒りを抑えて大いなる信義を守ることであります。今、怒りに任せて法を曲げるようなことがあれば陛下のために惜しみても余りあることと言わなければなりません」

・魏徴
「かつて隋に仕えていたとき盗難事件が起こりました。煬帝はさっそく盗賊の逮捕を命じて疑わしい者をすべて引っ捕えて激しい拷問を加えました。拷問に耐えかねて罪に伏した者が二千余人、そのすべてが死刑の判決を受けました。しかし張元済が疑問を抱き、念のために数名を自ら取り調べました。すると彼らは厳しい取り調べに耐えかねて偽りの自白をしていたのです。そこですべての容疑者についても再審査をしたところ白黒はっきりしないのはわずか9人で、他はすべて無罪であることが判明しました。しかし役人は誰一人この事実を申し述べて煬帝の判決を覆そうとしませんでした。無実の二千人は残らず死刑になりました」

・皇后
「昔、斉の景公も愛馬を死なされたとき係の役人を殺そうとしました。それをみて宰相の晏嬰が景公に願い出て景公の代わりに役人の罪状を数え上げました。『そなたは3つの罪を犯した。第一に主君の愛馬の世話を任されながらむざむざ殺してしまった。第二にたかが一頭の馬のために主君に人一人を殺させて主君に人民の恨みを集める。第三にそのことを諸侯が知ったらわが国を軽んじるようになる』。これを聞いた景公はその役人を許しました。この話は陛下もご存知でしょう」

・太宗
「甲を作る者は矢に射抜かれないような強固な甲をつくろうとする。矢を作る者は強固な甲でも射抜く鋭い矢をつくろうとする。どちらも己の職分に忠実であろうとしているからだ。しかし法官は人の罪を暴くことで栄達し声望も上がるものだ。法の執行がとかく苛酷なものになりはしまいかと心配でならない」

・太宗
「国の法令は単純明快であるべきだ。一つの罪を数カ条にわたって記載してはならない。そこに付け込む輩も現れるだろう。手心を加えてやろうとすれば微罪の条項を適用し、重罪に陥れようとすれば重罪の条項を適用する。また、しばしば法令を変更するのは世道人心の不安を招くから、一度定めた法令はやたりに変えてはならない。法令を制定する際にはよく実態を調査し規定漏れの生じないよう注意することだ」








「貞観政要③」

2014-05-23 06:37:21 | 日本

◎人材登用

・太宗
「政治を安定させる根本は人材を得ることにある。先日来賢才の推挙を命じてきたがいまだ一人も推薦してこない。天下の政治は一刻もゆるがせにできない重大事である。どうかその苦労を私と分かち合ってほしい。古来明君と呼ばれる者は当代に人材を求め、相手の器量に応じて使いこなした。殷の高宗が夢のお告げで傅説を知り、周の文王が渭水のほとりで(太公望)呂尚に出会ったような奇蹟を頼みにしてはならない。どんな時代にも人材はいるはずだ。我らのほうがそれに気づかないだけではないのか」

・魏徴
「人材の見分け方は古来から難しいとされています。それ故古人は官吏の任免に際しては慎重にその成績を検討して適不適を判断しました。今、陛下が人材を求めようとするならやはり事細かにその人物の行動を調査する必要があるでしょう。相手が立派な人物であると確認したうえで登用すれば、仮にたいした仕事ができなくても単に能力不足というだけで大きな害にはなりません。もし誤って悪人を登用したら、その人物がやり手であればあるほど計り知れない害毒を流すでしょう。乱世ならそんな人物でもよいかもしれませんが、治世であれば能力・人格を兼ね備えた人物を登用しなければなりません」

・魏徴
「人を知るのは賢者であるが己を知るのは明智の者であると古人も語っています。人を知ること自体容易ではなく、まして己を知ることは至難の業です。暗愚な者たちはとかく己の能力を鼻にかけ自分を過大評価しています。立候補に任せて人物を探すのはおやめください」

・魏徴
「私どもが人を推薦する際にはいつもその人物の長所と短所を詳しく申し上げてきました。凌敬についても、長所は学識があって諫言をよくすること、短所は贅沢好きで利益をむさぼること、と申し上げたはずです。彼はまだ私どもがあげた長所をまだ発揮しておりません。現状起こっている短所のみを見て私どもを詐欺師扱いしますが承服いたしかねます」

・太宗
「私は国政にあたってなによりも公平を旨としてきた。房玄齢、杜如晦の両名を重職に任じているのは昔の勲功のためではなく能力を買っているからにほかならない。昔、蜀の二代目・劉禅はうつけ者、斉の文宣は気狂いじみた振る舞いが多かったが国はよく治まっていた。それは劉禅は諸葛孔明を、文宣は楊遵彦を厚く信頼して政治を任せたからである」

・太宗
「私は毎晩人民の生活に思いを馳せて寝付けないことがある。私が任じた地方長官がよく人民に気を配っているのか心配でならない。私は奥深い宮殿の中に住んでいるので地方のことまでは目が行き届かない。そこで地方は長官に委任しているのだが、天下の治乱は実は長官の双肩にかかっている。だから地方長官にはとりわけすぐれた人材を起用しなければならない」

・太宗
「流水が澄んでいるか濁っているかは源の良し悪しにかかっている。君主と人民の関係を河にたとえれば君主は源、人民は流水。君主自ら詐術を弄して臣下を試しておきながら、臣下にまっとうなことを期待するのは、濁った源をそのままにして流水を望むようなもの、どだい無理な話である。私はかねてから魏の武帝(曹操孟徳)はあまりにも詐術が多いので軽蔑の念を抱いている。人民を導く立場にある者としてはこのような策を採用することはできない」
・太宗「私は広く人材を求めて政治の立て直しにあたりたいと思い、すぐれた人物がいと聞けばすぐさま抜擢登用を図っている。ところが口さがない者どもが『近頃登用されている連中はいすれも重臣の縁故によるものだ』と語っているという。そちたちも何事につけ公平を旨とし、このような批判を招かぬよう気をつけてほしい。ただし、あらためて申し渡しておくが、肝心なのはあくまでも人材の登用である。古人も真に有能な人材とあれば親族でも仇敵でもためらってはならない。どしどし推薦すべきであると語っている。そちたちも子弟仇敵を問わず、見どころのある者は遠慮なしに推薦してほしい」

・太宗
「そちたちは君主である私の委任を受けて国政を担当し爵禄を食んでいるが、なによりも忠誠を旨とし、公平清廉であってほしい。さすれば身に禍を招くこともなく、末永く富貴を保てるだろう。わが身を不幸に陥れるのは利益を貪ろうとするからだ。それは餌を貪って人手にかかる鳥や魚と変わらない」

・魏徴
「昔、晋の予譲がかつて仕えていた智伯の仇を報いようと趙襄子を付け狙ったが捕まってしまいました。そのとき趙襄子は『そなたが以前仕えていた者たちは智伯によって滅ぼされたが、そなたは仇を報いるどころか智伯に仕えた。今智伯のために仇を報いようとするのはどういうことだ』と聞きました。予譲は『それまでは十人並みの待遇しか受けていないので十人並みに報いたまでだ。智伯は国士として遇してくれたので私も国士として報いるまでだ』と返しました。臣下の忠誠を期待するにはまず君主が相応の礼をもって臣下に遇しなければならないことがわかります」

・太宗
「昔から"至公"と称された者は、公平で思いやりがあって私心がなかった。聖天子として堯・舜が挙げられるが、堯の子・丹朱と舜の子・商均はいずれも不肖の子だった。だから堯も舜もわが子に天子の位を譲らなかった。また周の成王を補佐した周公旦は管叔・蔡叔の二人の兄弟が王室に背いたときに自分の兄弟だからといって容赦しなかった。我らの衣食はすべて人民に依存している。つまり人民はすでにわれらのためにじゅうぶん尽くしてくれているのだ。しかし我らの恩沢はいまだ下々まで行き渡っていない。今人材の登用を図っているのはほかでもない、民生の安定を図るためだ。登用にあたっては有能無能かが重要で、新参古参かは問題にならない。人間は初対面の相手でも親しく付き合えるものだ。長い付き合いだからといえど能力の劣る者を単に「古参だから」といって真っ先に登用するとはできない。その者どもが自分の能力を棚に上げて恨み言を並べているのはもってのほかだ」

・太宗
「誰しも生きていく限り学問を忘れてはならない。私は若かりし頃自ら軍を率いて各地に割拠する群雄を討ち平らげるのに忙しく書を読む暇がなかった。近頃ようやく国内も安定し、宮殿に腰を落ち着けられるようになったが、自分で書を手にする暇がないので侍従に読んでもらってそれを聞くことにしている。書とはまことにありがたいもので、君臣の道、父子の道、政教の道、いずれもその中に記されている。古人も『学問を知らない人間はデクノボウだ。政治に臨んでも有効適切な対策を
立てることができない』と語っているがそのとおりである。私は今、若い時代に書に親しまず戦争に明け暮れたことを大いに後悔している」

・王珪
「臣下たる者学識がなくては古人の言行を知ることができず、国政に任じて重責を果たすこともかないません。漢の昭帝のとき、ある男が宮中に乗り込んで『我こそは衛太子なり』と名乗りました。衛太子とは先帝の不興を買って追放された皇位継承権のある人物です。朝廷から重臣が派遣されましたが判断がつきかねました。そこへ雋不疑が駆けつけてくだんの男を獄へ投じました。彼によればこの処理は、春秋時代に起こったある事件の先例にならったということです。このような人物こそまさに得がたい人材であり、文字を記録するだけの小役人と同列に論ずることはできません」

・太宗
「五品官以上の高級官僚は厚遇を受けて所得もたいそうな額である。もし賄賂を受けたとしてもたかだか数万にすぎまい。それが露見すればただちに免職である。これでは金を大事にすることを知らないと言われても致し方あるまい。目先の利益に心を奪われて大きな損失を招くとはこういうことである。昔、魯の宰相・公儀休は魚が大好物だったが、人から魚を贈られても絶対に受け取らなかった。貪欲な君主は国を滅ぼし、貪欲な臣下は身を破滅させる。昔、秦の恵王が蜀を攻略しようとしたが蜀へ通じる道がなかったので軍隊を差し向けられなかった。そこで一計を案じ、石で大きな牛をつくり、その尻に金の玉を貼りつけ、国境付近に放置したところ、蜀の者どもはそれを見て石の牛が金を排便しているのだと思い込んだ。蜀王はこの石牛を領内に引きずり込んだ。秦はこの道を伝って攻めこみ、ついに蜀を滅ぼしたという」







「貞観政要②」

2014-05-22 07:18:58 | 日本

※貞観政要意訳

貞観政要を「仁義の政治」「欲望を抑える」「人材登用」「諫言を容れる」「公平な裁判」「国家安泰の道」「兵は凶器」に分類し記す。


◎仁義の政治

・太宗「兵器庫を充実させて外敵に備えることはゆるがせにできない。だが、今求めているのは政治に心を注ぎ民生の向上に努めることである。それこそが私の武器だ。隋の煬帝が滅んだのは兵器が足りなかったのではない。仁義を捨てて人民の恨みを買ったからである」

・太宗「林が深ければ鳥が棲み、川幅が広ければ魚が集まってくる。同様に、仁義をもって政治を行なえば人民は自然と慕ってくる。世の災害はすべて仁義のないところから生じる。そもそも仁義の道はつねに肝に銘じておかなければならない。一瞬の気の緩みが、やがて仁義を忘れさせてしまうのだ。これは食事と同じで、めんどうだからとやめてしまえば命すら危うくなる」

・太宗「昔、聖天子の舜が禹を戒めて『そなたが己の能力や功績を鼻にかけず謙虚に振舞えば、そなたと能力や功績を争う者はいなくなる』と語っているし、『易経』にも『傲慢を憎んで謙虚を好むのが人の道だ』とある。天子たる者、謙虚さを忘れて不遜な態度をとれば、仮に正道を踏み外したとき諫言してくれる者など一人もいなくなるだろう。私は言動を行なう際必ず天の意志にかなっているだろうか、臣下の意向に沿っているだろうかと自戒して慎重を期している。天はあのように高くはあるが下々のことによく通じているし、臣下はたえず主君の言動に注目しているからだ。だから私は努めて謙虚に振る舞いながら、さらに言動が天と人民の意向にかなっているかどうか反省を怠らないのである」

・太宗「大勢の女官を奥深い後宮に閉じ込めておくのは気の毒だ。隋の煬帝は飽くことなく子女を召し上げたので、後宮はおろか離宮や別館で飼い殺しにされた女が数知れなかった。しかしそんなに大勢の女官を召し抱えたところで掃除洗濯以外にはなんの使い道もないではないか。そこで私は後宮にいる女官たちを解放し、それぞれに幸せな家庭を築かせてやりたいと思う。宮中の経費削減になるばかりか、人民のためにもなるだろうし、女たちも人間らしい暮らしを送ることができるだろう」

・房玄齢「国史は君主が非道な振る舞いに及ばないようにとの願いから、善悪を記録するのであります。これを今陛下にお見せしないのは、陛下の意志によって記録の真実性が歪められることを恐れたからにほかなりません」

・宗「私が国史を見たいというのは、よからざる記録があればそれを知って将来の戒めともし、自らの反省の資ともしたいからにほかならない。ぜひとも現在の国史を編纂して提出してほしい」

『高祖実録』『太宗実録』各二十巻が完成し、太宗がそれに目を通した際、「六月四日事件」の記録にあいまいな表現が多かった。(武侯九年六月四日、当時秦王であった太宗が、兄の太子建成と弟の斉王元吉を自らの手で殺した。これにより太宗が皇帝となった経緯がある)。

・太宗「昔、周の宰相・周公旦は反乱を起こした弟の管叔・蔡叔を討伐して王室を安泰にした。また、魯の荘公のとき王位継承権をめぐって季友は兄の叔牙に死を選ばせているがこれで魯は事なきをえた。私のしたこともこれと同じであって、国家を安泰にして民生の安定をはからんがためであった。史官ため者、遠慮など無用と心得よ。事実をありのまま記録すればそれでよいのだ」

・太宗「なにごとにつけ、根本をしっかりと押さえなければならない。国の根本は人民であり、人民の根本は衣食である。その衣食を作るのは農耕だが、農耕の根本は農時を失わないことだ。農時を失わないためには人民を労役に駆り出さないようにしなければならない。やたらに軍を動かしたり土木工事を起こせば農時を奪うまいとしてもかなわぬこと」

・王珪「秦の始皇帝、漢の武帝はともに外に向かってしきりに大軍を動員し、内にあっては豪奢な宮殿を造営しました。そのためいたずらに民力を疲弊させ、ついに取り返しの付かない事態を招きました。二人とも民生の安定を願わなかったわけではありません。自ら実践することを怠ったのです。しかし人間の常として初心を貫きとおすことは甚だ困難です。なにとぞ陛下におかれましてはいつまでも初心を忘れず有終の美を飾るよう願い上げます」

・太宗「そのとおりだ。民生を安定させ、国を安泰させるかどうかは君主の心がけ一つ。君主は無為の政治を行なえば民生は安定し、逆に欲ばった政治を行なえば人民の苦しみはいや増すだろう。私は今後、政治に臨むときはできるだけ己の欲望を抑えて無為の政治に努めよう」

・太宗「言葉はこのうえなく重要なものだ。庶民においても一言でも他人の気にさわることを口にすれば相手はそれを覚えていていつか必ずその仕返しをするものである。いわんや君主たる者、臣下に語るときわずかな失言もあってはならない。たとえ些細でも影響するところ大であり、庶民の失言とは同列に論じられない。隋の煬帝が初めて甘泉宮に行幸した際、夜になっても蛍が一匹も現れなかった。そこで『灯りがわりに蛍を少々つかまえてきて宮中に放て』と勅命を下したところ、係の者はさっそく数千人を動員して車五百台ぶんの蛍を送り届けたという。蛍でさえこの有様、まして天下の大事となればその影響するところは計り知れない」


◎欲望を抑える

・太宗
「君主はなにより民生の安定を心がけねばならない。人民から搾取して贅沢な生活に耽るのは自らの足を食らうようなものだ。身の破滅を招くのはその者自身の欲望が原因である。いつも山海の珍味を食し音楽や女色に耽るならば欲望は果てしなく広がり、それに要する費用も膨大になる。そんなことをしていては肝心の政治に身が入らなくなり、人民を苦しみに陥れるだけだ。それに君主が道理に合わないことを一言でもいえば人民の心はバラバラになり怨嗟の声があがり反乱を企てる者も現れよう。私はそれを考えて極力己の欲望を抑えるように努めている」

・太宗
「隋の煬帝は宮中に美女を侍らせ宝物を山と積ませていたがそれでも飽きたりず際限なく搾取し、盛んに軍事行動を起こして人民を虐げた。その結果人民の反抗を招いてついに国を滅亡させたのである。その一部始終を私はこの目で確かめている。だから私は朝から晩まで怠りなく励み、ひたすら天下泰平を願い続けてきた。その努力が実って今では戦争もなく作物もよく実り人民の生活も安定している。国を治めるのは木を植えるようなものだ。木は根や幹さえしっかりしていれば枝葉は自然に繁茂するものである。君主が身を慎めば人民の生活も自ずから安定するはずではないか」

・魏徴
「新たな朝廷は必ず前代の衰乱からならず者を鎮圧し、人民は新たな天子を喜んで迎え入れこぞってその命に服します。天子の位というものは天から授かり人民から与えられるものです。しかしいったん天下を収めてしまえば気持ちが緩んで自分勝手な欲望を抑えられなくなります。人民が食うや食わずの生活を送っているのに天子の贅沢のために労役が次から次へと課されます。国家の衰退を招くのはつねにこれが原因です」

・チョ遂良
「奢侈に走るのは滅亡を招く元です。漆器で済めばいいですが、やがて金で食器を作るようになり、いずれはそれでも飽きたらず玉で作るようになります。ですから争臣は必ず初期症状の段階で苦言を呈するのです。末期症状を示すようになればあえて諌めたりはしません」
太宗「私は前王朝の歴史を紐解いているが、その中に臣下が諌めても『今さらやめるわけにはいかぬ』『すでに許可を与えてしまった』と聞き流していっこうに改めない、そんな話がよく出てくる。君主がこんな態度をとっていたのではあっと言う間に国を滅亡させてしまうだろう」

・魏徴
「陛下がこのたび洛陽に行幸されるのは、かつて陛下自ら遠征軍を率いて鎮撫にあたったゆかりの地であるからです。その安定を願い、土地の故老に恩恵を加えようとのお気持ちでありましょう。ところが城内の民にまだ恩恵を加えていないうちに宮苑官吏を処罰なさる。しかもその罪状たるや供奉が不じゅうぶんだとか食事の用意がなかったとか、いずれも取るに足らない事柄です。それをあえて処罰なさろうとするのは、陛下のお気持ちが足ることを忘れて奢侈に傾いているからにほかなりません。これではなんのための行幸であったのか理解に苦しみますし人民の期待に背くことにもなりましょう。隋の煬帝は巡視のたびに下々の者に命じて食事を調えさせ、それが意にそわなければただちに関係者を処罰しました。上の好むところ、下これを見習うとか。ために隋は君臣こぞって奢侈に流れ、ついに国を滅ぼしました。あまりの無道さに、天も隋を見限り、陛下に命じてこれに取って代わらせました。したがって陛下は今、なにごとにつけ気を引き締めて倹約を旨とし、子孫の良い手本とならねばならぬ立場にあります。ところが煬帝ごときのマネをされるとは。陛下がもし足ることを知って奢侈を戒めれば、これから先、子孫もまたそれを見習うでしょう。もし足ることを忘れて奢侈に走るようなことがあれば、今日に万倍する贅沢をしても飽き足りなくなりますぞ」

・王珪
「『管子』にこんな話が載っています。『郭の王は善を喜びながらそれを用いようとしませんでした。悪を憎みながらそれを退けられませんでした。これが郭の滅びた原因です』。横恋慕した女をわが物にするためにその夫を手にかけた盧江王が悪いことしたと陛下は認めているのに、彼の娘をお側にはべらせています。陛下のなされようはまさに悪を知りながら退けないことで、決して褒められたことではありません」

・太宗
「私はこう聞いている。『周も秦も天下を手中に収めた当初は同じだった。しかし周はひたすら善を行ない功徳を積み重ねた結果八百年にわたって存続した。秦は贅沢に耽り刑罰をかざして人民に臨んだ結果わずか二代で滅びた』。また『桀・紂は帝王だが匹夫に「お前は桀・紂のような男だ」と言えばこのうえない恥辱を受けたように思う。顔回・閔子騫は匹夫に過ぎないが帝王に「あなたは顔回・閔子騫のような人物だ」と言えばこのうえない褒め言葉だと思った』。帝王たる者、深く恥じるべきことである」

・太宗
「私は神経痛に悩まされている。この病気に湿気がよくないことは言うまでもない。だが、そちたちの願いを入れて高殿など造営すれば莫大な費用がかかるだろう。昔、漢の文帝が高殿を造ろうとしたが普通の家の十倍もの費用がかかることを知り中止してしまったという。私は文帝と比べて徳の点で遠く及ばないのに、使う費用は遥かに多いというのでは、人民の父母たる天子として失格ではないか」

・魏徴
「嗜好、喜怒の感情は、賢者も愚者も同じように持っております。しかし、賢者はそれをうまく抑えて過度に発散させることはしません。愚者はそれを抑えることができず結局は身の破滅を招くのです。陛下はこのうえなく深いご聖徳をお持ちになり、泰平の世にありながらつねに危難の時に思いを致して身を慎んでおられます。どうかいっそう自戒に努めて有終の美を飾られんことを願いあげます。さすればわが国は子々孫々にわたって長く陛下のご聖徳を被ることになりましょう」










「貞観政要①」

2014-05-21 07:31:27 | 日本

帝王学「貞観政要」について、5回にわたり学ぶ。



貞観政要(じょうがんせいよう)は、唐代に呉兢]が編纂したとされる太宗の言行録である。題名の「貞観」は太宗の在位の年号で、「政要」は「政治の要諦」をいう。全10巻40篇からなる。

中宗の代に上呈したものと玄宗の代にそれを改編したものと2種類があり、第4巻の内容が異なる。伝本には元の戈直(かちょく)が欧陽脩や司馬光による評を付して整理したものが明代に発刊されてひろまった「戈直本」と、唐代に日本に伝わったとされる旧本の2系がある。日本以外にも朝鮮・女真・西夏の周辺諸語に訳されるなど大きな影響を与えた。

『貞観政要』の日本への伝来は、遅くても平安時代であり、『日本国見在書目録』の中にも表れる。一条天皇の時代に惟宗允亮は『政事要略』の中で取り上げ、ほぼ同じ頃に大江匡衡は藤原行成から借り受けて書写し、寛弘3年(1006年)に一条天皇に対して進講している。また、安元3年(1177年)には藤原永範が高倉天皇に進講を行っている。鎌倉時代には北条政子が菅原為長に命じて和訳させ、日蓮もこれを書写した。江戸時代初期には徳川家康が藤原惺窩を召して講義させ、更に足利学校の閑室元佶に命じて活字版を発刊させてその普及に努めた。鎌倉幕府と江戸幕府が長年治世を保ちつづけたのも「貞観政要」の賜物だったようである。織田信長や豊臣秀吉は「守成」に疎くてほぼ一代で潰えたが、「守成」を旨とした徳川家康が江戸幕府を永らえさせた事実を見ても明らかである。明治天皇も侍講の元田永孚の進講を受け、深い関心を寄せた。

とくに「守成」に心を砕いたことがわかる書物である。「守成」とは「創業」と対をなす言葉で、立ち上げる「創業」に対して、権力を維持する「守りの政策」を指す。高度経済成長とバブル崩壊を経て「守成」が必要となる局面が減っている。だが、たとえば店を始めるのが「創業」であり、何年先も操業していくのが「守成」であるといえる。つまり「潰さないための政策」なのである。次代へとバトンを渡すためにも「守成」は不可欠と言える。

さて、太宗(李世民) たいそう(りせいみん)であるが、598~649 中国、唐の第2代皇帝(在位626~649年)であるが、太宗は廟号で、姓名は李世民。父は唐の開祖、高祖(李淵)。若いころから聡明で人望があつかったとされ、隋末の混乱の際、父に挙兵をすすめ、兄の李建成とともに父をたすけて隋の都大興(長安)を占領した。やがて煬帝の死により李淵は即位して唐をたてたが、そののちも李世民は群雄を平定し、統一に貢献した。こうした李世民の活躍と人望を、皇太子李建成と弟の元吉はうとんじるようになり、身の危険を察知した李世民は、機先を制して2人の兄弟を玄武門で殺害、兄にかわって皇太子となり、高祖の譲位ののち第2代の皇帝となった。

太宗は高祖にひきつづいて中央集権化につとめ、また、房玄齢、李靖、魏徴など多くの賢臣にめぐまれて民生の安定をはかったので、その治世は年号をとって「貞観(じょうがん)の治」と称された。太宗と群臣の問答集「貞観政要」は、帝王学の教科書としてのちまで愛読され、また太宗のもとにつどった学者や文人に命じて、「五経正義」や「梁書」など5王朝の正史をつくらせた。「晋書」にはみずから筆をいれている。また、書の名手だったことも知られており、王羲之(おうぎし)の書を熱愛した。

対外的には、東突厥以下周辺諸国を支配下におき、彼らから「天可汗」、つまり君主とあおがれた。そして、各民族に自治をさせる羈縻政策を確立し、一大帝国をきずきあげた。しかし、晩年の高句麗遠征には失敗し、病弱で凡庸な後継者、李治(のちの高宗)の問題とともに、晩年の太宗を大いになやませた。陜西省礼泉県に皇后長孫氏とともにほうむられた昭陵がある。


◎大要と背景

本書は、唐の太宗の政治に関する言行を記録した書で、古来から帝王学の教科書とされてきた。主な内容は、太宗とそれを補佐した臣下たち(魏徴・房玄齢・杜如晦・王珪[2]ら重臣45名)との政治問答を通して、貞観の治という非常に平和でよく治まった時代をもたらした治世の要諦が語られている。

太宗が傑出していたのは、自身が臣下を戒め、指導する英明な君主であったばかりでなく、臣下の直言を喜んで受け入れ、常に最善の君主であらねばならないと努力したところにある。中国には秦以来、天子に忠告し、政治の得失について意見を述べる諫官(かんかん)という職務があり、唐代の諫官には毎月200枚の用紙が支給され、それを用いて諫言した。歴代の王朝に諫官が置かれたが、太宗のようにその忠告を聞き入れた皇帝は極めて稀で、天子の怒りに触れて左遷されたり、殺されるということも多かったという。

太宗は臣下の忠告・諫言を得るため、進言しやすい状態を作っていた。例えば、自分の容姿はいかめしく、極めて厳粛であることを知っていた太宗は、進言する百官たちが圧倒されないように、必ず温顔で接して臣下の意見を聞いた(求諫篇)。また官吏たちを交替で宮中に宿直させ、いつも近くに座を与え、政治教化の利害得失について知ろうと努めた。そして臣下たちもこれに応えて太宗をよく諫め、太宗の欲情に関することを直言したり(納諫篇)、太宗の娘の嫁入り支度が贅沢であるということまでも諫めている(魏徴の諫言)。太宗は筋の通った進言・忠告を非常に喜び、至極もっともな言葉であると称賛し、普通の君主では到底改めにくいであろうところを改めた。

また太宗は質素倹約を奨励し、王公以下に身分不相応な出費を許さず、以来、国民の蓄財は豊かになった。公卿たちが太宗のために避暑の宮殿の新築を提案しても、太宗は費用がかかり過ぎると言って退けた。太宗を補佐した魏徴ら重臣たちは今の各省の大臣に相当するが、その家に奥座敷すら無いという質素な生活をしていた。私利私欲を図ろうと思えば、容易にできたであろう立場にいながらである。

このような国家のため、万民のために誠意を尽くしたその言行は、儒教の精神からくるといわれる。中国では儒教道徳に基準を置き、皇帝は天の意志を体して仁慈の心で万民を愛育しなければならないという理念があった。また臣下にも我が天子を理想的な天子にするのが責務であるという考えがあり、天子の政治に欠失がないように我が身を顧みず、場合によっては死を覚悟して諫めることがあった。

ゆえに本書は、かつては教養人の必読書であり、中国では後の歴代王朝の君主(唐の憲宗・文宗・宣宗、宋の仁宗、遼の興宗、金の世宗、元のクビライ、明の万暦帝、清の乾隆帝など)が愛読している。また日本にも平安時代に古写本が伝わり、北条氏・足利氏・徳川氏ら政治の重要な役にあった者に愛読されてきた。


◎編纂の動機

本書の編纂は呉兢によるもので、時期は太宗の死後40から50年ぐらい、つまり武則天が退位して中宗が復位し、唐朝が再興した頃である。呉兢は以前から歴史の編纂に携わっており、太宗の治績に詳しいことから中宗の復位を喜んだ。そして貞観の盛政を政道の手本として欲しいとの願いから、『貞観政要』を編纂して中宗に上進した。その後、玄宗の世の宰相・韓休(かんきゅう、672年 - 739年)がかつて中宗に上進したその書を高く評価し、後世の手本となるように呉兢に命じて改編して上進させた。以後、『貞観政要』が世に広まったのである。

中宗に上進した初進本は中宗個人を対象としたもので、天子が心得るべき篇(輔弼(ほひつ)篇や直言諫諍(かんそう)篇、第4巻参照)があり、玄宗への再進本は後世の手本とするものなので、太子や諸王を戒める篇に改められている。









「伝習録⑥」

2014-05-20 07:24:28 | 日本


⇒先生
心を抜きにして外に物があるのではない。親に孝行しようという一念が発せられたら、親に孝行するということが、とりもなおさず物と呼べる。
 
 
◎聞く
「止まるところを知るとは、至善はただ自身の心にあり、もともと外にはないことを知ることであり、その後に一つの志向ができるわけでしょうか。」


先生答え
「その通りだ。」
 

◎侃聞く
花園の草を抜いていたので、訊いてみた。
「天下の中で、どうして善は養いがたく、悪は去りがたいのでしょうか。」


先生答え
「養っておらず、取り去ってもいないだけだ。」
「それらの善悪の見方は、すべて自分の体を起点に考えているので、間違うだあろう。」
「天地の生成する意図は、草花を生ずるのと同じだ。善悪の区分などなかった。君は花を見て、花を善とし、草を悪とするが、草を利用するときは、また草を善とする。これらの善悪は、すべて君の好悪から出てきたものだ。これで誤っていることが分かろう。」

・侃聞く
「それなら、善も悪もないのでしょうか。」


先生答え
「善もなく悪もないのが、《理の静》のさまであり、善悪が出て来るのは、《気の動》のときのものだ。気に動かされなければ、無善無悪であり、これを至善という。」

・侃聞く
「仏教でも無善無悪を言いますが、どのように違っているのでしょうか。」


先生答え
「仏教は、無善無悪にこだわってしまい、一切の人事に関わろうとしないので、天下を治めることはできない。聖人の無善無悪は、『尚書』にいうように、ただただ好もうとか憎もうとかせずにして、気に動かされないのだ。そして王道にしたがい、至極に合致にするのだ。それは、とりもなおさずひたすら天理に自ずとしたがうものであり、『易』にいうように天地の道義を調整・完成させ、それに参与するものなのだ。」

・侃聞く
「草が悪でない以上、草は取り去ってはならないものなんですね。」


先生答え
「それでは、かえって仏教・老荘の考えになってしまう。邪魔であれば、取り去ってもかまわない。」

・侃聞く
「それでは、さらに好悪の感情を起こすことになります。」


先生答え
「好悪の感情を起こさないというのは、まったく好悪がないことではない。それだったら、知覚がない人間ではないか。起こさないというのは、ただ好悪がひたすら理にしたがっていることなのだ。一つも思惑を加えようとしないのだ。こうであれば、好悪の感情を起こしたことがないのと同じわけだ。」

・侃聞く
「草を取り去るのが、どうして、ひたすら理にしたがうことになり、思惑を加えないことになるのでしょうか。」


先生答え
「草が邪魔で、理としてやはり取り去るべきであれば、取り去るまでだ。たまたま取り去れなかったとしても、やはり気に掛けることもない。もし一つでも思惑を加えたら、心の本来のさまに障碍が生じ、気に動じることになるだろう。」

・侃聞く
「ということは、善悪は物自体には全くないということですね。」


先生答え
「君の心にあるだけだ。理にしたがえば善であり、気に動ずれば悪なのだ。」

・侃聞く
「つまり、物に善悪はないわけですね。」


先生答え
「心はそのようなもので、物もそのようなものだ。世の儒者は、このことを知らないばかりに、心を捨てて物を追おうとして、格物の学を見誤っている。一日中、外の物ばかり追い求め、義を取り繕おうとしている。生涯行っても本質を分からず、なれ行っていても本質を見極めることがないのだ。」

・侃聞く
「『大学』に好色を好むように、悪臭を嫌うようにという比喩がありますが、どうでしょうか。」


先生答え
「これは、まさにひたすら理にしたがっているのだ。天理としては、かくあるべきで、もともと私意によって好悪の感情をおこすことはないのだ。」

・侃聞く
「好色を好むように、悪臭を嫌うようにというのが、どうして私意でないのですか。」


先生答え
「それは誠意で、私意ではない。誠意とは、ただただ天理にしたがっているものだ。天理にしたがっていて、やはり少しも思惑・意思を加えない。だから、『大学』に、腹が立っていたり、強い好みがあると、正常さを保てないというわけだ。廓然大公(=からりとして公平)であって、やっと心の本来のさまなのだ。これが分かれば、未発の中も分かる。」


◎伯生聞く
「先生は、『草が邪魔であれば、理として取り去ればいい』と言われましたが、どうして、また体を起点に考えるのでしょうか。」


先生答え
「身をもって考えてみなさい。草を取り去ろうというのは、どんな心なのか。周濂溪が窓前の草を取り除かなかったのは、どんな心なのか。」





<了>








「伝習録⑤」

2014-05-19 07:13:30 | 日本

◎聞く
「道は一つしかないものです。古人が道を論じていますが、往々にして異なっています。道を求めるのにも要点はありますか。」


先生答え
「道には、場所・形態がなく、とらわれるべきものではない。文義にこだわっていると、かえって道を求めるのに遠ざかってしまう。今の人は天のことばかりいうが、その実、天を見たことはない。太陽・月・風・雷がそのまま天なのだというのは、いただけない。人物・草木は天ではないいうのも、いただけない。道は、とりもなおさず天なのだ。もし、このことを心にとどめておくことができれば、どんなものであれ、どんな時・ところであれ、すべてが道なのだ。人は、およそ各自の一隅の見解で道はこんなものに過ぎないと決めつけてしまうので、異なってしまうのだ。もし、心の内面に求めることを理解して、自己の心の本来的なさまが分かったなら、どんな時・ところであれ、道でないものはない。昔から今まで、始めもなく終わりもないし、他にどんな違いがあろうか。心は、とりもなおさず道であり、道は、とりもなおさず天なのだ。心を知れば、道を知り天を知るのだ。」

「諸君は、この道を直に見たいと思うなら、必ず心という場で体認すべきで、外に求めるまでもなく、やっとものにできるのだ。」
 
 
◎聞く
「物の名と形・規則なども、先に講究すべきでしょうか。」


先生答え
「人は、自分の心の本来のさまを完成しさえすれば、その働きは発揮できるのだ。もし、心の本来のさまを育て上げたなら、果たして未発の中を得、おのずと発しても節度にあたるという和を得るのだ。おのずと発揮しても必ず妥当なものになるのだ。もし、この本来の心がなければ、あらかじめ世上の多くの物の名と形・規則など講究しようとしても、自身とは無関係なもので、単なる飾りでしかなくなってしまう。その時その時になると、立ちいかなくなる。とは言っても、物の名と形・規則などすべて無視しろというわけではない。『大学』にいうように順序をわきまえさえすれば、道に近づくのだ。」

「人は、才能によって完成する。才能とは、その人がよくできるもののことだ。昔の、夔の音楽・稷の農事のようなものだ。彼らの資質はもとからこのようだったのだ。それらを完成するのには、やはり彼らの心の本来のさまを天理そのままにしなければならなかった。その発揮されたものは、すべて天理から発せられたもので、こうであって才能と言える。心が天理そのものに達すれば、やはり一芸だけに秀でたものではなくなる。夔・稷に仕事をかえさせても、当然うまくできたはずだ。」

「『中庸』に富貴な場にあっても、道に外れず、その富貴な状態で行い、患難な場にあっても、道に外れず、その患難な状態で行うというのは、すべて一芸だけに秀でたものではない状態のことなのだ。これは心の本来のさまを正しく育て上げたものだけができることなのだ。」
 
 
◎聞く
「心が外物を追い求めてしまいますが、どうしたらよいでしょうか。」


先生答え
「人君は、ゆったりとして穏やかにしていて、六官はそれぞれの仕事をこなして、天下は治まる。心が五官を統括するのも、これと同じようでなくてはならない。今、目で見ようとするとき、心がものの様態を追い求めたり、耳で聴こうとするとき、心が声を追い求めたりするというのは、人君が官吏を選ぶとき、吏部に好んでいすわったり、軍を整えようとするとき、兵部に好んでいすわるようなものだ。こんなことをしたら、人君の本質も失われようし、六官も皆仕事をできなくなってしまう。」
 
 
⇒先生
善念が発せられたら、それを感知して満たそうとする。悪念が発せられたら、それを感知して止めようとする。この知、満たそうとすること、止めようとすることは、志の働きだ。これは天性の聡明によるものだ。聖人だけが、このような特質があるのだが、学ぶ者は、このような特質を存しようと励まなければならない。
 
 
◎陸澄聞く
「色を好んだり、利を好んだり、名声を好んだりするのは、もとより私欲です。たとえば、とりとめもない思慮のようなものも、どうして私欲というのでしょうか。」


先生答え
「結局のところ、それらは、色を好んだり、利を好んだり、名声を好んだりするというのが根っこにあり、そこから出てくるのだ。自分で根っこをたぐっていくと分かる。たとえば、君の心中には盗みをしようとする思慮がないというのを必ず分かっているのはどうしてか。君には、もともとこのような心がないからだ。君が、もし、物・色・名・利を好む心が、すべて全く盗みをしようとしない心と同じように、みんな無くなってしまったら、すっかり心の本来のさまそのものになるのだ。とりとめのない思慮なんて見つけられまい。これが、とりもなおさず、『易』にいう寂然不動(=心の本体は、じっとして動かない)であり、とりもなおさず、『中庸』にいう未発の中であり、とりもなおさず、程明道のいう廓然大公(=からりとして公平)なのだ。そして、外界と接すれば自然とそのまま感応し通じ、自然と発して節度にあたり、自然と事物に対応するのだ。」
 
 
◎聞く
『孟子』の「志至り氣次ぐ」について


先生答え
「志が極まると、気もまた極まるということだ。志が極致となると、気が添い従うのではない。志を持てば、自然と気を養うことになるし、気を荒らしていなければ、また志を持つことになるのだ。孟子は、告子の偏りを救うため、このように両面から言ったのだ。」
 
 
◎陸澄聞く
「喜怒哀楽の未発の中と已発の和は、そのすべてをもともと常人は保つことができません。ある些細なことがあって、喜怒を表すような者が、普段は喜怒など表さないのに、その時になって、節目にあたっても、やはり中和と言えますか。」


先生答え
「一時のことであっても、もともと中和と言える。しかし、『中庸に』いう天下の大本・達道である中和とは言えない。人の性は、善だ。中和は、もともと人々が持っているものだ。どうして、ないといえよう。ただ、常人の心はすでに覆われていて、本来のさまがときどき現れるものの、結局は、明滅の間を行き来するだけで、すべての本来的なさまと、その働きではない。いつも中であって大本といえ、いつも和であって達道といえる。天下の至誠であってこそ、やっとこの大本を確立することができるのだ。」


◎聞く
「私は、中の意味について、まだはっきりしません。」


先生答え
「自身の心で体認しなければならない。言葉では教え諭すことはできない。中は、天理そのものだ。」

・聞く
「何を天理とするのでしょう。」


先生答え
「人欲を除ききれば、天理が見て取れる。」

・聞く
「天理をどうして中というのでしょう。」


先生答え
「偏ったところがないからだ。」

・聞く
「偏ったところがないとは、どんな様子ですか。」


先生答え
「明鏡のようだ。全体が明らかで澄みきっており、ほとんどわずかの塵も染みついていないのだ。」

・聞く
「偏ったというのは、人欲に染まったところがあるわけです。たとえば、色や利や名を好むなどに執着していれば、そこで偏ったさまが分かります。もし未発の場合、美色・名利にまだ執着してないわけです。どうして、偏ったところがあるのが分かるのですか。」


先生答え
「執着していないけれども、平時に色や利や名を好むという心が、もともと無かったわけではなかろう。無かったのではなかったのなら、あるといえる。あるのなら、偏りがないとはいえまい。たとえば、マラリアをわずらう人は、発作がおこらないことがあるけれど、病根をのぞかない限り、やはり無病の人とはいえまい。平時の色や利や名を好むというような全ての私心を、取り除き・洗い流して、もう一切残さないようにして、この心の全てのさまは、からりとして天理そのままになる。これでこそ喜怒哀楽の発していない状態の中であり、天下の大本なのだ。」