龍の声

龍の声は、天の声

「ODA本当の国益につながるODA供与とは?」

2015-01-31 10:06:45 | 日本

古森義久さんが「ODA本当の国益につながるODA供与とは?」についての論文を掲載している。
以下、要約し記す。



◎ODA新大綱とは

日本の政府開発援助(ODA)が他国の軍隊を支援できるようになる。このODAの新政策に朝日新聞が難色を示した。だが、軍と名のつく存在を徹底的に忌避する朝日新聞の主張は、日本の国益という概念を軽視していると言わざるを得ない。過去の日本のODAが中国によってさんざん軍事転用されてきた現実さえも見ていない。

日本政府が、既存のODA大綱に代わる新たな「開発協力大綱」を決定することとなった(参考:「政府開発援助(ODA)大綱の見直しについて」外務省)。この「ODA新大綱」はこれまで禁じてきた他国の軍隊への支援を災害救助など非軍事分野に限って認め、日本の「国益の確保に貢献」することを初めて明記する。

日本政府はこの“解禁”により、中国の軍事的脅威に悩むベトナム、フィリピン、あるいはミャンマーなどの軍への巡視艇供与や、軍人の日本留学受け入れを計画しているという。日本の集団的自衛権の行使容認で、周辺の海上輸送路がさらに重要となるインドネシア、シンガポールなどへの安全保障がらみの援助強化も伝えられる。


◎ODA供与で自国の国益を求めてはいけないのか

安倍政権が推進するこうしたODA新政策に対して、朝日新聞(2015年1月9日付)は「他国軍支援解禁」を批判する記事を掲載した。「ODA軍事転用の恐れ」という見出しを付け、日本の援助がたとえどのような国でも軍に提供されたり、軍事に転用されることは好ましくないという主張を展開した。「日本が送った船が紛争に使われたり、支援によって整備した空港や道路を軍が利用したりするケース」が想定されるという。

その論調には、中国の軍事的脅威にさらされている東南アジア諸国の対抗策も、「軍」だからあってはならないという発想が見てとれる。東南アジア諸国の軍隊への支援が、中国への抑止という意味で日本の安全保障に寄与するという基本を否定するのである。要するに、日本にとっての敵性国家も同志国家も区別しないのだ。

また朝日新聞は同じ記事で、日本が自国のODAを自国の国益に寄与させることにも批判をぶつけていた。「日本の利益だけを追求して、本来の目的であるはずの貧しい国の経済成長がなおざりにされる」のはけしからん、という批判だった。日本の公的資金の使用に日本自身の利益を求めてはならず、貧しい他国の経済成長を優先せよ、という主張である。

さらには「国益を露骨に出した援助に援助の先輩国の日本が寄ってしまっている」からよくない、とも述べていた。意味の不明な主張だが、つまり、日本のODAは自国の国益を求めてはいけないという極論だと言えよう。


◎軍事用にも使われる鉄道、道路、通信回線

ところが朝日新聞のこうした主張は、日本が中国に供与した巨額のODAが中国側によってさんざん軍事利用されてきた事実を無視している。

従来のODA大綱は軍事的用途を禁じていたが、現実には相手国の事情でいくらでも軍事目的に利用されるのだ。しかも中国の場合、日本からのODAを、日本に対する軍事的脅威の増大に活用してきたのである。

私は産経新聞中国総局長として2年余り中国に滞在していたとき、日本の対中ODAについてかなり詳しい取材をして報道した。当時、中国がODAを軍事転用した実例として以下のケースがあった。いずれも1990年代から2000年代にかけての事例である。

・日本は、台湾海峡に面する福建省の鉄道建設に67億円のODAを供与した。福建省には中国人民解放軍の部隊やミサイルが集中的に配備され、その移動には常時、鉄道が使われてきた。台湾の李登輝総統(当時)は「日本の対中ODAも結構だが、福建省内の鉄道建設だけはやめてほしい。台湾への軍事攻撃能力の向上に直結するからだ」と懸念を述べていた。

・2001年までに、中国全土の電化鉄道の40%は日本のODAで建設された。戦時に、人民解放軍の兵員や兵器の移動に鉄道が極めて重要な役割を果たすことは、解放軍総後勤部(補給や輸送を担当)が公式に強調してきた。

・日本は2001年までに、中国の高速道路建設に総計2500億円のODAを提供し、延べ2000キロ、12本の高速道路を開通させた。解放軍当局者は公式論文で、南京~上海間などの高速道路には砲弾やミサイルの被弾に対する強度があり、軍事基地や軍事空港との連結、軍事管理施設への即時切り替え、軍用機の滑走路や軍用ヘリ発着場への即時転用、などの用途が見込めることを強調していた。

・日本のODAによって、2000年までに蘭州からチベットのラサまでの延長3000キロの光ファイバーケーブルが建設された。敷設の工事には人民解放軍部隊が動員され、解放軍の通信用に使われている。ケーブル網の軍事目的使用は、日本側には公式に通知されていなかった。

・日本は2000年までに内陸部の貴州省に合計約700億円のODAを供与し、鉄道、道路、電話網など経済インフラの建設に寄与した。貴州省は中国全土のなかで最も軍事産業が集中している拠点の1つである。戦闘機製造工場や軍用電子機器工場群が立ち並ぶほか、中国最大のアルミニウム工場や製鉄所群が中国の軍事力増強に大きく貢献してきた。日本のODAはこの軍事産業の強化につながった。


◎軍事部分だけを禁じるのは現実的に困難

以上は、日本から中国への巨額なODAの使途としては氷山の一角だと言える。いかに日本側がODAの軍事転用の禁止を説いてみても、経済援助の幅広い使途や効用のなかで、軍事部分だけを禁じるのは到底無理な話なのだ。

そもそも相手国の対日政策がどんな内容なのか、相手国の国力や軍事力の強化が日本にどんな利害をもたらすのか、また個別のODA供与が相手国で具体的にどう使われるのか、こうした諸点を十分に検証したうえでODAは供与すべきだ。そうした検証があって初めてそのODAが日本の国益に沿うものかどうか判断できるのである。

それにもかかわらず、朝日新聞は日本のODAについて、いかなる名目でも「軍事」への関わりを悪と見なし、そのうえで日本の国益の追求をも否定する姿勢を見せる。そうした主張をする論者たちには、軍事転用を禁止してきた日本の過去のODAがいかに中国の軍事力増強に役立ったのか、上記の実例を改めて突きつけたいところだ。


<了>











「八田與一と、KANO」

2015-01-30 09:15:55 | 日本

1月24日から封切りになった「KANO~1931海の向こうの甲子園~」。わが輩は、知人に言われて26日に観賞した。この映画の上映時間は、実に3時間の長さであるが、館内は凄い感動の渦につつまれた。
是非、観賞して欲しい。実に素晴らしい。

また、八田與一の農業開発に関しても、この際、話しておきたい。
台湾にとって、なくてはならない、素晴らしい人物である。

昭和初期の台湾にとって、驀進する日々、隆盛を極めた日々が、姿が目に浮かぶ。

以下、概要をきす。



「KANO~1931海の向こうの甲子園~」

日本統治下の1931年、台湾代表として全国高校野球選手権に出場し、準優勝を果たした嘉義農林学校(通称:嘉農=かのう)野球部の実話を描いた台湾映画。日本統治時代の台湾を舞台にした作品で大ヒットを生み出した。1929年、嘉義農林学校の弱小野球部に、日本人の監督・近藤兵太郎がやってくる。甲子園進出を目指すという近藤の下、厳しい練習に励む部員たちは、次第に勝利への強い思いを抱くようになる。そして31年、台湾予選大会で大躍進し、常勝校を打ち負かして台湾代表チームとして甲子園へ遠征した嘉農野球部は、決してあきらめないプレイスタイルで日本中の注目を集める。



「八田與一とは」

八田與一(現在の字体では八田 与一、はった よいち、1886年2月21日 – 1942年5月8日)は、日本の水利技術者。日本統治時代の台湾で、農業水利事業に大きな貢献をした人物として知られる。
丁度、1930年に


◎生い立ち〜台湾へ

石川県河北郡花園村(現在は金沢市今町)出身。1910年(明治43年)に東京帝国大学工学部土木科を卒業後、台湾総督府内務局土木課の技手として就職した。台湾では初代民政長官であった後藤新平以来、マラリアなどの伝染病予防対策が重点的に採られ、八田も当初は衛生事業に従事し、嘉義市・台南市・高雄市などの各都市の上下水道の整備を担当した。その後、発電・灌漑事業の部門に移った。八田は28歳で当時着工中であった桃園大圳の水利工事を一任されたが、これを成功させ、高い評価を受けた。当時の台湾はまさにこういったインフラ建設のまっただなかで、水利技術者にはおおいに腕のふるいがいのある舞台であった。31歳のとき、故郷金沢の開業医で後に県議なども務めた米村吉太郎の長女・外代樹(とよき)(当時16歳)と結婚した。


◎嘉南大圳

1918年(大正7年)、八田は台湾南部の嘉南平野の調査を行った。嘉義・台南両庁域も同平野の区域に入るほど、嘉南平野は台湾の中では広い面積を持っていたが、灌漑設備が不十分であるためにこの地域にある15万ヘクタールほどある田畑は常に旱魃の危険にさらされていた。そこで八田は民政長官下村海南の一任の下、官田渓の水をせき止め、さらに隧道を建設して曽文渓から水を引き込んでダムを建設する計画を上司に提出し、さらに精査したうえで国会に提出され、認められた。事業は受益者が「官田渓埤圳組合(のち嘉南大圳組合)」を結成して施行し、半額を国費で賄うこととなった。このため八田は国家公務員の立場を進んで捨て、この組合付き技師となり、1920年(大正9年)から1930年(昭和5年)まで、完成に至るまで工事を指揮した。そして総工費5,400万円を要した工事は、満水面積1000ha、有効貯水量1億5,000万m3の大貯水池・烏山頭ダムとして完成し、また水路も嘉南平野一帯に16,000kmにわたって細かくはりめぐらされた。この水利設備全体が嘉南大圳(かなんたいしゅう)と呼ばれている。


◎台湾総督府復帰〜殉職

1939年、八田は台湾総督府に復帰し、勅任技師として台湾の産業計画の策定などに従事した。また対岸の福建省主席の陳儀の招聘を受け、開発について諮問を受けるなどしている。

太平洋戦争中の1942年(昭和17年)5月、陸軍の命令によって3人の部下と共に大洋丸に乗船した與一は、フィリピンの綿作灌漑調査のため広島県宇品港で乗船、出港したが、その途中、大洋丸が五島列島付近でアメリカ海軍の潜水艦グレナディアーに撃沈され、八田自身も死亡した。沒後贈正四位勲三等。


◎八田の銅像と墓

日本よりも、彼が実際に業績をあげた台湾での知名度のほうが高い。特に高齢者を中心に八田の業績を評価する人物が多く、烏山頭ダムでは與一の命日である5月8日には慰霊祭が行われている。また、現在烏山頭ダムにある八田の銅像はダムの完成後の1931年(昭和6年)に作られたものである。住民々意と周囲意見で出来上がったユニークな像は、固辞していた八田本人の意向を汲み一般的な威圧姿勢の立像を諦め、工事中に見かけられた八田が困難に一人熟考し苦悩する様子を模し、碑文や台座は無く地面に直接設置された。その後国家総動員法に基づく金属類回収令の施行時や、中華民国の蒋介石時代に日本の残した建築物や顕彰碑の破壊がなされた際も、地元の有志によって守り隠され続け、1981年(昭和56年)1月1日に再びダムを見下ろす元の場所に設置された。

今は台座上に修まる銅像の経過や、八田が顕彰される背景、業績もさることながら、土木作業員の労働環境を適切なものにするため尽力したこと、危険な現場にも進んで足を踏み入れたこと、事故の慰霊事業では日本人も台湾人も分け隔てなく行ったことなど、彼の人柄によるところも大きく、エピソードも多く残されている。
中学生向け教科書『認識台湾 歴史篇』に八田の業績が詳しく紹介されている。2004年(平成16年)末に訪日した李登輝台湾総統は、八田の故郷・金沢も訪問した。2007年5月21日に陳水扁総統は八田に対して褒章令を出した。また馬英九次期総統(当時)も、2008年5月8日の烏山頭ダムでの八田の慰霊祭に参加した。翌年の慰霊祭に参加し、八田がダム建設時に住んでいた宿舎跡地を復元・整備して「八田與一記念公園」を建設すると語った。2009年7月30日に記念公園の安全祈願祭、2010年2月10日に着工式が行われ、2011年5月8日に完成した。完成式典には、馬英九総統や八田の故郷・石川県出身の森喜朗元首相が参加した。記念公園は約5万平方メートルだが、約200棟の官舎や宿舎のうち4棟は当時の姿に復元された。宿舎は一般公開されている。
顕彰事業は妻・外代樹にも拡大され、2013年9月1日、八田與一記念公園内に外代樹の銅像が建立された。








「米海軍の高出力レーザー兵器開発の実態②」

2015-01-29 07:48:41 | 日本

【4】 レーザー兵器の各種目標に必要な出力

レーザー兵器の目標としては、次のようなものが挙げられる。

(1)ペルシア湾で使用が予想されるイランがすでに入手している多数の小型ボートの群れ

(2)多くの国家や非国家主体に拡散しているロケット弾

(3)米海軍艦艇に対する情報収集、目標情報の収集、攻撃などに使用できる無人機

(4)ヒズボラが2006年にイスラエル艦艇に使用したとされ、国家のみならず非国家主体にも拡散している対水上巡航ミサイル

(5)中国が開発している対水上弾道ミサイル
弾道ミサイルについては、直接無能力化することはできないレーザーでも、追尾、画像撮影などにより、わが方の弾道ミサイル防衛能力を高めるために使用できるであろう。

なお、光線の質(BQ)も無能力化の重要要因だが、BQは照準能力により左右される。その他のレーザーの威力を左右する要因としては、次のようなものがある。

●大気中の吸収、散乱、撹乱
●目標の表面でレーザーが動揺する度合いを示す、微小震動
●レーザーに対する抗堪性を左右する目標の設計特性
目標に応じて無能力化に必要とされるレーザー兵器の出力には、以下の段階がある。
●10kWの出力レベルでは、1~2マイルの短距離の硬化されていない無人機
●数十kWでは、無人機と一部の小型ボード
●100kWでは、無人機、小型ボート、ロケット弾、砲弾、迫撃砲弾
●数百kWでは、上記目標のほか、有人機、一部のミサイル
●メガワット級では、上記のほか、射程約10マイル内の超音速対水上巡航ミサイル、弾道ミサイル


【5】 レーザー兵器の種類の特性と開発の現状

(1) ファイバー型SSL
ファイバー型固体レーザーは、近く配備される予定であり、安価である。熱管理も容易で、艦艇への負担は少ない。信頼性は高く、光学的調整は必要がない。構造も単純である。出力は100kW以上に増加されBQも良好である。ただし、メガワット級の出力レベルに達する潜在力はないとみられている。スウィート・スポットに近く、スラブ型よりも眼への被害は少ない。

しかし、FELに比べると、射程が短く眼への危険性は高い。

この型は現在試験中のLaWS(レーザー兵器システム)で使用されている。米海軍は、この型のレーザーを無能力化、電子光学センサーの妨害、無人機対処、電子光学センサー誘導式ミサイルの対処、レーダ追尾能力の向上などに使用する計画である。またLaWSはそのまま搭載するか、既存のCIWSに追加装備する予定である。

LaWSは2009年から試験が開始され、これまで無人機との交戦試験に12度成功している。2014年には100Kw以上に出力が上げられ、今後さらに出力を増大させる予定になっている。

2014年夏から「ポンセ」に搭載され、作戦環境下での試験を実施中である。なお、CIWSへ追加装備するマウント型LaWS配備に要する費用は、1基約1700万ドルと見積もられている。

このほか、米海軍は対空機関砲に追加装備する約10kwの出力の戦術用レーザー兵器システム(TLS)も開発している。小型ボート対処と正確な追尾を目的としている。TLSは、2013年に数km離れた地上と海上において、数機の無人機の撃墜試験に成功したと報じられている。

(2) スラブ型SSL
スラブ型固体レーザーは、射程がファイバー型の3倍あり、105kWが実現されている。BQは良好で、早期配備が予定されている。熱は多いが、対処は可能である。FELよりも艦艇への負担は少ない。

しかし、複雑な光学系を使用し、信頼性に劣り、整備コストもかかる。眼への危険性が大きい。

スラブ型のレーザーは、海上レーザー・デモンストレーション(MLD)により開発中であり、2009年に出力15kWのスラブ型を7本組み合わせて、105kWの出力試験に成功している。2011年には小型ボートに対処可能な出力のレーザー兵器を艦艇に搭載している。スラブ型レーザーは技術突破なしでも600kWまで出力を上げられると公表されている。

しかしメガワットにするのは容易とは見られていない。

(3) 自由電子レーザー(FEL)
FELは波長を調整することができ、同じ装置で10kWからメガワット級への出力増強が可能である。スウィート・スポットに波長を合わせることができ、眼への害はない。排熱の管理も必要がない。

しかし、装置が巨大でコストかかり、艦艇にもまだ配備の予定はない。FELを振動や衝撃から保護し、低温装置が必要になる。

FELは、車載や航空機用にするには大きすぎるため、海軍のみで開発が進められている。FELは波長の調整が可能で、スウィート・スポットに合わせられるため、水分などの多い海上用のレーザーに適している。またメガワット級への増強も可能である。

14.7kWのFELが開発済みであるが、まだ作戦環境下での試験は行われていない。2015年度までに出力100kWのFELを開発する予定である。

ただし、当面はFELの出力を上げることよりも、まず技術的問題を実験室内で解決することに努力することになっている。

(4) 今後の課題
以下の諸点が今後の課題として残されている。
●出力の向上とBQの改善
●連続生産に適し、艦艇搭載、作戦時の使用、整備に数年間耐えられること
●目標発見、追尾、照射など、兵器システムとして完成すること
●艦艇の電源や冷却システム、戦闘システムとの統合


【5】 今後の展望

「接近阻止・領域拒否(A2/AD)戦略」の打破を目指し国力を挙げて取り組むべき革新的兵器

レーザー兵器は、指向性エネルギー兵器(DEW)の1種だが、その他のDEWとして、高出力マイクロ波(HPM)兵器などがある。

2012年6月に、米海軍のDEW計画グループは、DEWに関する見通し、戦略、予定表についての報告書を作成した。その中では、DEWが「革新的(game changing)ないくつもの利点を持つ」と、極めて高く評価されている。以下はその概要である。

軍の将来の戦闘能力は最新の効果的な技術を迅速に取り入れるか否かに左右されるが、DEWはそのような革新的技術となる潜在力を持っている。陸海空、宇宙、サイバー空間などあらゆる戦闘空間において、DEWは、重大な影響を及ぼす潜在力を持っている。

特にDEWは、極めて速い交戦時間、安価な交戦費用、本質的に無限の弾倉、トータルの装備化費用の安さなど、革新的な利点をいくつも持っている。

DEWの致命的な、あるいは非殺傷的な各種の能力は、実験室でも野外でもすでにいくつもの試験により実証されている。出力が向上すれば、超音速巡航ミサイルにも対処でき、任務に応ずる致命度を選択することもできるようになるであろう。

また今後は、DEWの見通しと戦略、予定表、科学技術的評価、研究開発を各軍種、エネルギー省など関係国家機関を挙げて行うこと、必要な予算を確保すること、DEWが非国家主体にも使用されることを予期しDEWへの対抗手段やDEWについての政策や交戦規定の検討を進めることも勧告されている。

さらに、上記報告文書では、DE技術は、投資に対する長期的なリターンを保証するだけではなく、「接近阻止・領域拒否(A2/AD)戦略など、高まりつつある脅威に対する司令官達の差し迫った作戦上の要求にも応じ得る、重大な利得をもたらすであろう」と明言されている。

このように、日本の防衛にとり最も深刻な脅威となっている中国のA2/AD戦略を打破しうる可能性を持っていることが明言されている。

日本としても、科学技術力の総力を挙げてこのDEWの研究開発、配備に向けて、尽力すべきであることは言うまでもない。そのための、予算や人材についても、国家資源を傾けて取り組む必要がある。


<了>









「米海軍の高出力レーザー兵器開発の実態①」

2015-01-29 07:47:12 | 日本

矢野義さんが、2014年7月31日付の『海軍の艦載用対水上・対空・対ミサイル防衛レーザー: その背景と議会にとっての課題』と題する米議会報告(CRS; R41526)について掲載。その中では、公開情報に基づく米海軍の高出力レーザー兵器の開発の実態が詳細に記述されている。
以下、要約し2回にわたり記す。



【1 】報告書全般要約

現在の開発段階では、今後数年で射程1マイル程度の一部の対水上・対空目標に対処可能な艦載型の高出力レーザーの配備が可能になった。
その後数年でさらに強力な艦載型レーザー兵器の配備が可能なところまで来ているとされている。

国防省は3種類の水上艦艇用レーザー兵器を開発している。
すなわち、ファイバー型個体レーザー(solid state laser: SSL)、スラブ型SSL、および自由電子レーザー(free electron laser: FEL)である。

米海軍は、ドック型輸送揚陸艦「ポンセ」にレーザー兵器システム(Laser Weapon System; LaWS)を搭載し、今年の夏からペルシア湾で作戦環境下での試験を行っている。2020年度又は2021年度に初期作戦段階(IOC)になることが予定されている。

米議会には、3種類のうちいくつの種類のレーザー兵器を開発するのか、また艦艇の設計と取得に及ぼす影響をどう見るかという課題が問われている。


【2 】レーザー兵器の利点

(1)1発当たりの限界費用が安価
艦載レーザー兵器は、水上、航空、弾道ミサイル目標に対し、1発当たり1ドル以下という極めて安価な費用で対処できる。

従来の海軍の短距離防空ミサイルは1発数十万ドル、長距離のミサイル迎撃用ミサイルは数百万ドルかかった。

この1発当たりの限界費用の劇的な低下という利点により、レーザー兵器は、安価で大量に装備できる小型ボート、無人機(UAV)、あるいは対艦巡航ミサイル、対艦弾道ミサイルの集中攻撃に対して、予算的に可能な範囲での防御を可能にする。

(2)無尽蔵に近い弾倉
水上艦艇はミサイル発射管に限られた数の迎撃ミサイルを搭載しているが、搭載したミサイルを撃ち尽くせば、再装填のため戦列を一時離れなければならない。近接防御火器システム: CIWS)も、弾丸を撃ち尽くすと再装填の時間が必要になる。

しかしレーザー兵器の場合は、電力源と冷却に必要な燃料がある限りは、無限に連続発射が可能である。このためレーザー兵器により、艦艇に搭載された迎撃ミサイルやCIWSの能力を超える、多数の目標に対する防御が可能になる。

(3)迅速な交戦時間
レーザー光線は瞬時に目標に到達するため、迎撃のための未来位置を計算する必要がなく、目標の特定部位を狙い続けることもできるため、数秒間で目標を無能力化できる。別の目標への変換も数秒以内で可能である。

このような迅速な交戦時間は、ミサイル、ロケット弾、砲弾、迫撃砲弾などの脅威に曝される、陸地に近い地域での交戦時に特に重要になる。

(4)極めて機動力に富む目標にも対処可能
レーザー光は、一部の巡航ミサイルのような極めて機動力に富む目標の追尾、連続照射に使用できる。

(5)正確に交戦でき、二次被害のリスクを大幅に低減可能
レーザー光の照射範囲は直径数インチと、極めて精度が高い。また直進するため、砲弾やミサイルと異なり、目標を逸れても地上に落下してくることはない。特に港湾地域の作戦では、二次被害を局限することが求められるが、レーザー兵器はそれを可能にする。

(6)その他の用途にも使用でき、段階的対応が可能
レーザーは目標を破壊できるだけではなく、発見・監視、非殺傷攻撃、電子光学センサーの妨害などにも使用できる。

そのためレーザー兵器は、警告のための妨害、能力喪失に至らない限定的損害の付与、無能力化まで段階的な対応が可能になる潜在能力を有している。


【3】 レーザー兵器の限界

(1)光線の直進性
レーザー光線は直進するため、その線上の交戦に限定され、通視の利かない目標に対しては攻撃できない。また通視を遮られた場合も目標を攻撃できなくなる。高波で見えなくなる小型ボート、あるいは低空から接近する目標は通視が利かない。

ただし、レーザー兵器の場合は、瞬時に正確な攻撃が可能なため、これまでの兵器に比べれば、より遠距離から対処が可能になる。

通視外の目標の発見、誘導のため、衛星や航空機などにより空中に反射鏡を浮かべる方法も考えられる。しかしそれには費用と技術が必要となり、また反射鏡を搭載した衛星なども損害を受けることになる。

(2)大気による吸収、散乱、撹乱と全天候性の欠如
大気中の水分、砂、埃、煙、その他の汚染物質などにより、レーザー光線は吸収、散乱され、大気の撹乱により光線の焦点が逸らされる。大気中の水分による吸収は艦載される場合に特に問題になる。

「スウィート・スポット」と呼ばれる特定の電磁波周波数の波長のレーザー光線は、大気中での吸収が大幅に減少する。

レーザー光線は、伝達効率を上げるため、スウィート・スポットの近くか同じ波長に設計されるが、距離とともに大気による吸収の影響が大きくなる。補償光学により、観測された外乱に対しレーザー光線を迅速に微調整できるが、レーザーは雨や霧の中ではうまく作動せず、全天候性には欠けている。

(3)熱ブルーミング(Thermal blooming)
レーザー光線を一定時間特定の点に照射し続けると、光線が通過する大気が高温になり、レーザーの焦点を逸らし、レーザーの目標に対する無力化能力が減衰する。その影響は、レーザー出力が上がるほど、大きくなる。

この大気中の熱発生により、同一の視線上を、こちらに向け直進してくる目
に対する効力にも限界が生ずる。

これらの目標に対しては、従来のミサイルやCIWSがより効果的であろう。これまでのレーザー兵器の試験は、横行目標に対してなされ、まっすぐこちらに向かってくる目標には試験されていないため、今後検証が必要になる。

(4)飽和攻撃
レーザー兵器は同時に1目標しか対処できず、目標無力化に数秒、その後の目標返還にも数秒を要する。1基のレーザー兵器の対処能力には上限があり、それを超える数の目標による同時または連続攻撃による飽和攻撃には対処できない。

ただし、この限界は、複数のレーザー兵器を搭載することにより緩和できる。

(5)硬化目標と対抗手段
出力の小さいキロワット(kW)級のレーザー兵器は、シールド、溶発耐熱材料、高反射材、高速回転などの対抗手段により、照射されたエネルギーを吸収、発散、反射させたり、照射点を逸らすことにより、レーザーの効力を弱めることができる。

小型の船は煙幕などによりレーザーの透過を減衰できる。ただし、対抗手段には費用がかかり兵器の重量も増加する。また、煙幕などを張ればポートの操縦者も周りが見えなくなるであろう。

(6)航空機や衛星に対する二次被害
レーザー光線は発射後は直進し続けるため、上空に向け発射された場合、衛星や航空機に損害を与えるおそれがある。

(7)搭載する艦艇への負担
レーザー兵器を搭載すれば、艦艇の空間を占拠し、重量積載能力を消耗し、レーザー発生電源や冷却に電力を消費する。レーダを横行する場合の影響も考慮しなければならない。

これらの要因は、艦艇にレーザー兵器を搭載する場合に、配置など艦艇の設計に大きな影響を与える。
















「改憲・夏の陣 日本はなぜ憲法を改正できなかったのか②」

2015-01-27 07:54:23 | 日本

◎立憲主義を前提とする憲法観

もう一つ、憲法改正に立ちはだかる大きな壁に、アカデミズムやジャーナリズムにおける進歩主義勢力の存在があげられる。この頃、リベラル思想や社会主義的な思想が、学生や市民の間に広い支持を得ていた。憲法学では、東大教授の宮沢俊義氏が「8月革命説」(日本は1945年8月にポツダム宣言を受諾した段階で、主権は天皇から国民に移った。日本国憲法は、国民の代表による議会で審議され可決されたのだから、GHQの押しつけではなく、国民自ら選びとった、とする説)を唱えたのをきっかけに、戦前の国家、軍隊に対するアレルギーと戦争に対する深刻な反省とあいまって、アカデミズムのメインストリームを形成していたのである。

憲法9条の改正論で知られる小林節・慶大教授がと護憲派の水島朝穂・早大教授が、「世界」2013年7月号誌上で対談しているが、小林教授が〈権力の行使がある限り、権力者を縛って乱用を予防する憲法が必要になるのです〉と述べたのに対し、水島教授は〈憲法が権力者を制限する機能を持つという点で二人は完全に一致しました〉と応じている。

9条の改憲では対立する2人に共通しているのは、憲法の根幹は立憲主義であり、憲法は公権力を規制する道具である、とする憲法観だ。この憲法観は、「人権は天与の自然権」とする「社会契約説」に通じ、いまも憲法学の主流といってよい。

他方、最近では、ごく一部だがドイツ国法学の「国家法人説」や「国家有機体説」に立つ学者の間で、憲法はコンスティテューション(政治的統一体としての国家の構造や組織)の訳語であって、その国の国柄に沿った統治の基本レールと解釈すべき、と主張する人たちも出てきた。その根底には、近代西欧で生まれた「天賦の普遍的な人権」と「社会契約による国家の成立」というルソーの思想と、それに基づいた設計主義的な憲法観に対する疑念がある。


◎国民の間に広がりつつある改正の気運

1991年、ソビエト社会主義が崩壊し、東西冷戦が終結すると(このとき日本はまだバブルの絶頂期だった)、日本社会も、いわゆる左右(進歩主義対保守主義、あるいは社会民主主義対自由民主主義)をへだてる分水嶺が取り払われ、さらにバブル経済が崩壊すると、価値観がいっきに多様化した。イデオロギーによる峻別は通用しなくなったのだ。とりわけ保守派に混乱を生み出したのが、アメリカ型市場原理=グローバルスタンダードだった。市場主義による規制緩和は、かつての日本の伝統的ルールや日本型成長システムを根底から壊すものだった。

これにともなって親米保守、反米保守、民族保守と、保守の側に亀裂ができ、憲法改正の考え方も、日米同盟を深化させるための憲法改正、あるいは対米従属から脱却するための自主憲法の制定と、それぞれ軸足の置き方に違いが生じることになった。しかしグローバリズムの到来が、日本に対して国際社会の一員としての自立を迫っていたことは間違いなく、この頃には、憲法改正はすでにタブーではなくなっていた。

世論調査でも、憲法改正に賛成する声が反対を上回るようになった。読売新聞が1980年代から実施している「憲法」世論調査では、1993年の調査から賛成派が過半数を超えるようになった(2008年だけは反対派が僅差で上回り、直近の2014年の調査では賛成42%、反対41%とほぼ並ぶ結果となった。読売新聞2014年3月14日付)。

各新聞社をはじめ学者、民間団体からも独自の憲法改正試案があいついで発表され、2000年には衆参両院に憲法調査会が設置された。学識経験者を参考人として招き、現行憲法の制定の経緯や各条文の問題点の洗い出し、世界の憲法についての研究・視察がおこなわれ、半世紀を経た憲法が時代にそぐわなくなった側面が明らかにされた。


◎集団的自衛権と憲法9条との整合性をどうとるか

憲法第9条をめぐっては、湾岸戦争をきっかけに国連平和協力法(PKO法)が成立(1992年)、1990年代なかばには日米安保再定義により日米同盟の深化が議論されるようになるなど、長い間、政府解釈で封印されてきた集団的自衛権の行使についても見直しすべきだという声が高まってきた。その背景には、冷戦時代に抑え込まれていた部族・民族対立が噴出し、世界各地で地域紛争が勃発するという安全保障環境の変化がある。

これにともなって国際貢献が叫ばれるようになり、国内が活動の舞台だった自衛隊は、PKO法の成立以来、アンゴラ、カンボジア、モザンビーク、コソボなど世界各地の国連平和維持活動に参加するようになった。世界各国の安全保障観を変える事件が起きたのは、まさにこうしたときだった。2001年9月11日、アメリカの中枢都市を襲った反米イスラム勢力による同時多発テロである。

アメリカはその元凶が、イスラム原理主義を信奉するアルカーイダ勢力と、これを支援するイラクにあるとして、翌10月、国連安保理の決議を待たずに、アルカーイダの拠点であるアフガニスタンをただちに攻撃。2003年3月には、イギリスやオーストラリアなど有志連合を募り、イラク戦争に踏み切った。世界の国土防衛における仮想敵は、国家からテロ集団に移ったのである。

2001年のアフガン作戦の遂行にあたっては、自衛隊がテロ特措法に基づいてインド洋で各国戦艦への給油作業を展開。自衛隊の海外派遣部隊は、派遣地でジャパニーズ・アーミーとして軍隊の扱いを受けることになった。ここにいたって自衛隊はすでに憲法第9条が禁じた戦力であり、“解釈改憲”では整合のとれない存在であることが明白になった。

一方、この10年間でGDP(国内総生産)と国防費を約4倍に膨らませ、G2時代(米中2国による世界秩序)を見据えるかのような、中国の東アジアへの野心的な海洋進出も見逃せない。尖閣諸島の領海・領空を脅かす中国、核とミサイル開発を続けながら日本を威圧する北朝鮮――東アジアの緊張の高まりが日米同盟と自衛隊への依存度をかつてないほど高めているのも事実だ。

こうした内外の安全保障環境の変化を背景に、第一次安倍内閣のときに急浮上したのが、日米同盟を強化するための集団的自衛権の行使容認と、まずは憲法改正手続きのハードルを低くするという「96条先行改正論」だった。

集団的自衛権は、これまで歴代内閣において「わが国は集団的自衛権を保有しているが、国際紛争を解決する手段として武力の行使を禁止している憲法第9条にかんがみると、行使できない」という考えが政府解釈として踏襲されてきた。この政府解釈を変更し、想定されうる緊急なケース(類型)では、集団的自衛権行使を容認すべき、と考えたのが第一次安倍内閣だった。安倍首相は私的諮問機関として有識者による安保法制懇(安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会)を立ち上げ、容認に向けて議論を始めた。しかし、首相の病気辞任によって解釈を変更するにはいたらなかった。

このテーマは第二次安倍内閣にも引き継がれた。解釈変更に積極的な外務省出身の小松一郎氏が内閣法制局長官として異例の任命を受けるなど、政府解釈変更への布陣がなされ、安保法制懇による見直しが進められた。


◎「憲法改正の高い壁」とは何か

憲法第96条では、憲法改正の発議には「衆・参各議院の総議員の3分の2以上」が賛成しなければならないとしている。ということは、国会議員の3分の1が反対ないし棄権すれば、発議すらできないことになる。憲法改正に見えない高い壁が存在する――いい換えれば、国民が改正を望んでも、国会が自らその道を閉ざしているというわけである。こうして2007年、第一次安倍晋三内閣が成立させたのが、「日本国憲法の改正手続に関する法律」(国民投票法)だった。

第一次安倍内閣が国民投票法案を提出したのは、まずは国民の間に憲法のあり方について広く議論を喚起するという点にあった。憲法第96条には、国会で発議された改正案を国民が承認するには「投票において過半数の賛成が必要」であるとは規定されているが、それは投票総数の過半数なのか、有効投票の過半数なのか、といった細則までは明記されていない。国民投票法では、これを有効投票の過半数と明記。また国民投票に参加できる年齢を、世界の趨勢にあわせて18歳以上にし、幅広い世論形成を求めた。このとき同法の施行までに3年間の凍結=準備期間を設定したのは、成人を20歳以上としている民法や、選挙権を20歳以上に与えている公職選挙法との整合を待つためだった。

しかし、その後民主党政権が成立、国民投票法は3年が過ぎても関連法令の整備が進まず、放置されたため、2012年に成立した第二次安倍内閣では、各党に呼びかけて国民投票法改正案の準備を進め、2014年4月、自民、公明、民社など与野党7党が「法施行の4年後に投票年齢を18歳以上で確定する」という改正案を国会に上程した。しかし、投票年齢との整合性を取るための民法や選挙法など関連法令の整備は、今後に先送りされた。

それでも、この国民投票法改正によって、自民党内には改憲に向けた歩みが「一歩前進した」と評価する見方がある。「3分の2の壁は帝国憲法を受け継いだものであって、GHQが日本を再武装させないために課したものではない」「アメリカ憲法にも『連邦議会は両議院の3分の2以上が必要と認めるときは、この憲法に対する改正を発議する』と3分の2のハードルがある。それでも憲法改正がおこなわれている」とする議論も出てきて、96条先行改正論は色あせてきているのが現実だ。じっさい、直近の選挙で、衆議院、参議院とも自民党が圧勝し、3分の2のハードルの壁が低くなっている。


◎「緊急事態」条項に賛否――改正への険しい道程

自民党は2012年4月に憲法改正草案を発表。「憲法改正の発議」については、衆参各議院の総議員の「3分の2以上」を「過半数」とし、改正のハードルを低く設定した。さらに、天皇を国家元首として明記、国旗は日章旗、国歌は「君が代」、国防軍の保持、集団的自衛権の行使、緊急事態条項を追加するなど、改正案は、これまでの憲法論議を踏まえたものとなった。この自民党案に対して、とくに安全保障については異論が続出した。

森英樹・名古屋大学名誉教授(憲法学)は、自民党が「緊急事態の章」を新設したことにとくに注目し、次のように述べている。

〈「大規模自然災害」などのときは、政府に権限を集中させ、基本的人権を停止し、法律を制定しなくとも政令で国民を国の指示に従わせたりする規定が盛り込まれている。震災があり、不安定な朝鮮半島情勢や中国との尖閣諸島問題など東アジアの「軍事的緊張」も高められてきた。これらを「緊急事態」で一括しても、国民の支持を得られると考えたに違いない。その陰で、この草案は自衛隊を「国防軍」に変え、非常権限を政府に集中させる方向を打ち出した。自民以外の改憲主張も同じだ。震災を奇貨とした「震災便乗型」「惨事便乗型」ともいうべき新手の改憲論だ〉(東京新聞2012年5月3日付)
一時的にせよ国家権力が強大になることについて、立憲主義の立場からの批判である。

反対に、西修・駒沢大学名誉教授は、自民党の改憲草案発表に先立って、〈私が1990年初頭から2011年末までに新しく制定された98カ国の憲法を調べたところ、緊急事態対処規定を設けていない憲法は皆無であった。(中略)一時的に権力を執行府に集中させ、人権を必要最小限、制約して、憲法秩序の維持を優先させることは、立憲主義の原則と何ら矛盾しない〉(産経新聞2012年3月5日付)と、「緊急事態条項」の創設を擁護した。

この自民党の憲法改正案は、逐条的に形式を整えた改正案として現段階では唯一といってよい。他の政党の改正案は部分的なものでしかなく、前政権与党だった民主党も、もともと憲法観に大きな違いのあるグループが糾合して結党に党内にいたったという経緯もあって、条文改正案にまではとうていたどりつきそうもない。

そんななか、4月10日、衆院憲法審査会は、国民投票法改正案の審議に入った。ただ、憲法審査会が開催されたのは2013年11月28日以来のことで、議論は遅々として進捗していない。憲法改正への道のりは、いぜん遠い。



<了>








「改憲・夏の陣 日本はなぜ憲法を改正できなかったのか①」

2015-01-26 09:05:45 | 日本

敗戦から今日までの改憲をめぐる経緯がよくまとまっている論文を見つけた。
以下、要約し、2回にわたり記す。



◎世界で14番目に古い日本国憲法

日本国憲法は、第2次世界大戦が終わって2年後(1947年)に施行されて以後、一度も改正されることなく、67年を迎えた。戦後日本では、この憲法を明治憲法(大日本帝国憲法)と区別する意味で、“新憲法”と呼んできた。だが、いまやこの憲法は、成文憲法を持つ世界188カ国のなかで14番目に古い憲法となった。しかも、それらの古い憲法は、どれも改正されているので、日本国憲法は、改正されていない、世界でもっとも古い憲法ということになる。現憲法が明治憲法同様、「不磨の大典」(不磨は不朽の意、旧憲法は1890年の施行以後、一度も改正されなかった)といわれるゆえんである。


◎なぜ日本国憲法は、改正されないのか。

現憲法は、明治憲法第73条の改正手続きにしたがって改正されたものだ。ただし、その改正草案は、第2次世界大戦の勝者である連合国、とりわけアメリカの意向が色濃く反映されていた

占領軍(連合国軍総司令部=GHQ)の最高司令官・マッカーサー元帥は、敗戦国日本の憲法をつくり変えるにあたって、草案を作成するGHQの若手スタッフに、(1)天皇に戦争責任を負わせないかわりに、政治的実権を与えないこと、(2)国家の主権的権利としての戦争を永久に放棄させること、(3)封建的な社会制度を廃止すること、という三つの原則を貫くよう指示した。目的は、欧米が主導する世界秩序に、日本が二度と逆らうことのないよう、国の骨組みと国民の意識を変えることだった。

その意図がもっとも明確に表れているのが、憲法第9条の「戦争の放棄」である。マッカーサー元帥は、「国権の発動」としての戦争や「紛争を解決する手段」としての戦争だけでなく、「自衛のための」戦争を、さらには「戦力の保持」と「交戦権」さえ否定した。狙いは、それまでの日本の国のかたちを解体することにあった。

改正案は、1946年6月に昭和天皇の臨席のもとに枢密院で可決され、第90回帝国議会(衆議院と貴族院で構成)に上程された。衆議院では、第9条第2項に「前項の目的を達成するため」という文言を挿入し、自衛権の発動に道を開いた「芦田修正」など、わずかな修正が加えられたものの、8月にほぼ政府の改正案(=GHQ草案)どおりに可決された。さらに10月の貴族院の可決をもって帝国憲法の改正手続きを終了し、11月3日に新憲法として公布された。


◎同じ敗戦国の西ドイツが59回も憲法改正したわけ

1907年に結ばれたハーグ陸戦条約(日本は1911年に批准、翌12年に「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」として公布)には、第43条で「占領地の法律の尊重」が掲げられている。占領地の権力を掌握した占領者が、自らの意に沿う法律を被占領国に押しつけることを戒めた条項だ。この条約にしたがえば、かりに他国軍の占領下で一時的に憲法が制定されたとしても、主権の回復がなされれば、国民の意思による新しい憲法がつくられるのがふつうということになる。

日本と同じように敗戦国となったドイツでは、連合軍の占領下に、州ごとに憲法がつくられた。しかし、1949年、英・米・仏軍の占領地域にドイツ連邦共和国(西ドイツ)臨時政府が樹立されると、西ドイツ政府は各州憲法を破棄し、ドイツ連邦基本法(憲法)を制定した。基本法と名付けたのは、占領下のドイツが東西に分断されていて(東ドイツにソ連軍が、西ドイツに英・米・仏軍が駐留し、ベルリンも壁で分断されていた)、西ドイツ政府首脳の頭の中に「ドイツが一つになる前の、まだ暫定的なもの」という思いがあったからだ。

だが、自由主義陣営に占領された西ドイツは、完全に主権を回復した1955年以降も、基本法を廃棄して新憲法を制定することをしなかった。かわりにまず1956年に基本法を改正した。そして徴兵制を導入するとともに、ドイツ連邦軍を編成して本格的な再軍備をおこなった。連合国を刺激しないようにとの配慮もあったが、大きな理由は、社会主義国、ソビエト連邦の傘下にある東ドイツを置き去りにできなかったこと、もう一つは、東西冷戦(米・ソ対立)を背景に、西ドイツはソ連の軍事的脅威にさらされていたからである。同じ年、西ドイツは北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。1990年、ようやく東西ドイツが統一されるが、その後も新憲法を制定せず、基本法を順次改正して今日にいたっている。

ドイツ基本法は、1956年に再軍備を明記して以後、緊急事態条項の追加(1968年)、予算・財政改革のための改正(1969年)など、西ドイツ時代だけでも35回、東西ドイツの統一のときと、その後を合わせると、改正は2013年までじつに59回に及ぶ。新憲法を制定せずに、改正を積み重ねることで自前の憲法につくりかえていったのである

そのほかの国では、アメリカ合衆国憲法(1788年制定)が制定以来18回(戦後6回)、フランス憲法(第4共和国憲法と第5共和国憲法)が27回、イタリア憲法(1947年制定)は16回の改正を経験している。
なぜ日本は主権回復と同時に憲法を改正しなかったか

1951年、日本は戦後処理を決める講和会議で単独講和を選択し、自由主義陣営に属すことになった。1952年4月にサンフランシスコ講和条約が発効、日本は主権を回復。このとき同時に結んだのが、米軍の駐留継続を認める日米安保条約である。自主憲法制定の機会があったとすれば、このときだったが、吉田茂首相は頑としてこれを受けつけなかった。戦後復興の眼目を経済復興に定めていたからである。

当時の世界は、米国(自由主義=西側)ソ連(共産主義=東側)の対立を背景に、米ソどちらの陣営に属すかによって、その色分けができていた。朝鮮半島では韓国と北朝鮮が衝突、米軍と中国・ソ連軍を巻き込んで、朝鮮戦争が勃発した(1950年)。共産主義勢力のアジア進出を警戒した米国は、このとき、終戦直後の日本を弱体化するこれまでの政策を変更し、反共(反ソ連、反中国)の砦として育成する方針を決めた。日本に講和条約締結をすすめるいっぽう、再軍備を強く要請したのである。しかし、吉田茂首相は、警察力強化のための警察予備隊隊(のち保安隊、自衛隊に発展)の創設こそ認めたが、本格的な再軍備は「やせ馬に重い荷物を負わせるようなもの。日本は国力を養うことが先決」として反対した。

これが、のちに国防より経済を優先する「軽武装国家」論(吉田ドクトリン)として、巷間流布されることになる。しかし、その本心は違っていたともいわれる。再軍備について吉田は、自著『世界と日本』(中公文庫)のなかで、次のように省みている。
〈それ(再軍備の拒否)は私の内閣在職時代のことだった。その後の事態にかんがみるにつれて、私は日本防衛の現状に対して多くの疑問を抱くようになった。(中略)経済的にも、技術的にも、はたまた学問的にも、世界の一流に伍するようになった独立国日本が、自己防衛の面において、いつまでも他国依存のまま改まらないことは、いわば国家として未熟の状態にあるといってよい〉

このとき吉田が危惧したのは、後に続く保守政権が経済成長路線に傾斜するあまり、独立国としての自立心を喪失することだった。その後の1955年、自由党と民主党という二大保守政党の合同によって、自由民主党が誕生する。このとき結党の精神である「党の使命」に謳われたのが、「自主憲法の制定をはじめとする独立体制の整備」である。一方、社会主義政党もこれに対抗、諸派が合流して日本社会党を結成する。掲げられたスローガンは「護憲と再軍備反対」だった。保守対革新の二大政党による「55年体制」の成立である。


◎国会で固定化した「賛成2・反対1」の構図

この両政党が激突した最初の国政選挙が、1958年、第一次岸信介内閣のもとで実施された第28回衆院選挙であった。76.99%という異常に高い投票率のなか、公約に「自主憲法の制定」を掲げた自民党が、定数467のうち287議席(議席率61.5%)を獲得。これに対して、「護憲」の社会党は166議席(議席率35.5%)。自民党は圧勝したとはいえ、憲法改正発議に必要な3分の2を超える議席獲得にはいたらなかった。日本国憲法は、帝国憲法73条と同じように、96条の改憲規定で「3分の2の壁」が設定されており、容易に改正できないようにしてある硬性憲法であることが改めて認識されることになった。

その2年後(1960年)、国論を二分した日米安保条約の改定がなされ、経済成長が軌道に乗ると、日本社会は急速に安定志向に向かうようになり、国政選挙では、政権与党の自民党(「総資本」の代表)対社会党(「総労働」の代表)+野党の議席率は、つねに2対1で推移するようになった。いい換えれば、政権が安定するかわりに、自民党は憲法改正を発議できる国会議席の3分の2以上を獲得できないまま、「55年体制」が固定してしまったのである。

さらに日本国憲法の改定を念頭に1956年に発足した政府の憲法調査会(会長:高柳賢三・東大名誉教授)が、8年に及ぶ長い調査期間を経て、1964年、改憲についての特段の結論を出さないまま最終報告書を提出すると、政府・自民党の自主憲法制定への情熱も急速に冷め、政権運営の軸足を、社会インフラの整備など高度経済成長路線へと移すようになった。

もう一つ、終戦後から高度成長期にかけて、国民のなかに護憲=反戦平和という考え方が浸透していたことも見逃せない。その中心を担ったのが、GHQの民主化政策で奨励された労働組合の力だった。組合は民間企業だけでなく、教育現場や現業公務員においても組織された。

日本の雇用者数は、終戦後は1100万~1200万人で推移していたが、経済成長、人口増加とともに増大していった。1957年には2000万人を超え、1966年には3000万人を突破した(その後も増加して1978年に4000万人、1986年に5000万人を超え、1997年に5400万人台に達してからほぼ横ばいに)。このうち労働組合の組合員数は、1947年に569万人だったのが、1954年には609万人、1961年836万人、1965年1015万人と右肩上がりで上昇し、1973年には1200万人台を突破した(その後は横ばいから減少に転じ、現在は980万人程度)。

これらの労働組合を糾合して労働運動のナショナルセンターとなったのが総評(日本労働組合総評議会)だった。総評は、1950年に365万人の労働者が加盟して発足した。春の賃上げ時期には、全労働者の代表として経団連や日経連などの経営者団体と中央交渉をおこない、総資本対総労働の闘いを演出した。政治的には、日本社会党支持を運動方針に明記し、反戦平和の活動に力を入れた。賃上げ交渉の場では「昔陸軍、いま総評」と恐れられ、政治の場では「憲法改正反対、第9条を守れ」と主張する有力な勢力となった。







「改正相続税について」

2015-01-25 11:44:46 | 日本

2015年1月1日、改正相続税がスタートした。今回の大きな改正点は基礎控除額(非課税枠)の縮小である。相続税といえば、これまで一部の資産家に課されるイメージが強かった。相続税の基礎控除額が大きく、一般庶民には無縁の話だったからだ。従来の基礎控除額の算出は「5000万円+(1000万円×法定相続人数)」。たとえば、夫婦と子供2人の世帯で世帯主が亡くなって相続が発生すると、法定相続人は、世帯主の配偶者と2人の子供の3人で、基礎控除額は8000万円となり、家・建物、現金、預金、株など遺産の合計が8000万円以下なら相続税はゼロだった。

国税庁の発表によると、2013年に亡くなった約126万8000人のうち、遺産が相続税の課税対象となった人は5万4421人で、全体の4.3%(課税対象の総額は約11兆6253億円で、申告税額は約1兆5367億円)。100件の相続の発生に対して、納税が必要になるのはそのうち4件という、ごく少ない割合だった。

しかし、今回の改正で、基礎控除額が「3000万円+(600万円×法定相続人)」に引き下げられた。相続人が配偶者と子供2人の場合、基礎控除額は4800万円。すでに自宅のローンを支払い終え、老後の資金として退職金をささやかに運用している人なら、ほとんどが対象になりそうな額だ。財務省は、今回の改正で相続税が課税される人の割合は6%台になると見込んでいる。2013年3月、相続税増税を盛り込んだ税制改正法案の成立後、証券会社や銀行などが主催する相続税関連セミナーに、ごくふつうの家庭をもつ元サラリーマンが殺到したのも、いまや相続税は一般庶民も逃れられない税であるという認識と、節税対策への切実な思いからだといってよい。


◎地価高騰が招いた相続の悲劇

わが国の相続税は、日露戦争の戦費調達を目的に、開戦の翌1905年(明治38年)1月1日に公布され、4月1日に施行された。当初は臨時的な特別税法だったが、明治政府の財政困窮によって恒久化されていった。

日本の税制が一変したのは、第2次大戦後の1949年、コロンビア大学のカール・シャウプ博士を団長とする税制調査団が来日し、「日本税制報告書」(シャウプ勧告)をまとめてからだ。財閥等への富の集中を防ぐため累積的取得税を採用すべき、とするシャウプ勧告を受け、相続税・贈与税に関しても、1950年に最高税率を90%とする累積課税方式が施行された。累積的取得税とは、一生涯の贈与と遺産相続分をすべて合算して、累進税率で課税するという、逃れることのできない租税形態のことである。しかし、このシャウプ勧告に沿った相続税は3年後に廃止され、その後は法定相続分課税制度の導入や基礎控除額の引上げ、最高税率の引下げを含む税率構造の見直しが繰り返されてきた。

バブル崩壊直後の1994年の改正では、基礎控除額が「5000万円+(1000万円×法定相続人数)」に引上げられた。地価の急騰にともなって急増した相続税の対象者を抑制するための措置であった。背景には、銀座の一等地にある文具の老舗・鳩居堂の社長が、莫大な相続税負担を悲観して自殺したり、日本画家・奥村土牛の四男の奥村勝之氏が、「相続額を減らすために遺品の素描を焼かざるを得なかった」(『相続税が払えない』ネスコ刊)など、相続をめぐる悲劇の続出があった。首都圏では、相続が発生するたびに宅地が分筆されて売られ、街並みを一変させた。

ところが、バブル崩壊後に地価が下落したものの、基礎控除の引下げは行われなかった。このため、相続税を納める人が100人当たり4人という少ない状況が生まれ、相続税収は1993年の2兆9000億円をピークに漸減していったのである。


◎なぜ税収が激減したのか

シャウプ税制の基本理念は、直接税中心主義にあった。シャウプ勧告が直接税に重点を置いたのは、国民が課税に負担を感じ、納税することで、税の使途に関心を持つと同時に、納税意識を高められると考えたからだといわれる。税には、所得税や法人税などの直接税と、酒税やたばこ税、消費税などの間接税があって、一般に間接税は収入にかかわらず徴収されるので、事業意欲や勤労意欲を削ぐことがないとされる。

その後も、直接税を中心とした税制が続いたが、とりわけ税収の柱となる所得税には、つねに脱税という善良な納税者にとっては由々しき不公平がつきまとった。税務当局が実際の課税所得の何%を捕捉しているかを「捕捉率」と呼ぶが、サラリーマンの捕捉率はほぼ100%に近いのに対して自営業者は5割、農家にいたっては3割程度というのが現実だった。また所得税や法人税による税収額は、そのときの景気に大きく左右されるという問題も抱えていた。そこで、こうした直接税重視の弊害を少なくするために1989年に導入されたのが消費税である。

消費税導入直後は、折からのバブル景気も手伝って、基幹税である所得税の税収は1989年の21兆4000億円から1991年の26兆7000億円まで伸び続けた。「65(ロクゴー)脱却」(昭和65年=1990年に赤字国債発行をゼロにする)といわれた財政健全化目標も達成し、「日本は財政の優等生」と賞賛された。しかしバブル崩壊後、所得税収は坂道を転げ落ちるように激減、この10年は15兆円前後で推移している。かつて15兆円あった法人税収入も、リーマンショック後は10兆円を下回った。消費税は10兆円前後で推移しているものの、全体の租税収入はプライマリーバランスにはほど遠い状況だ。1990年代以降に日本の税制が税収調達能力を失った主な要因を、神野直彦・東京大学名誉教授は「度重なる減税政策にある」と指摘する。

〈政策的減税つまり税制改正による減収は1992年度から1995年度にかけて9800億円にも達しているのです。さらに1996年度から1999年度までを見ると景気が回復し、年度平均で4853億円の自然増収があったにもかかわらず減税政策が強力に進められていきました。同時期には自然増収を打ち消して余りある年度平均で2兆1382億円という大減税が実施されていくのです。法人税減税も形振り構わず税率を引き下げ、租税特別措置も拡大するという減税が実施されていきます。こうして所得税・法人税という基幹税を崩しながら、一般消費税の増税を図ろうとしたため、租税調達能力を大幅に喪失してしまったと言うことができます〉(『税金 常識のウソ』文春新書)

減税によって経済を活性化し、結果的に税収の増加を図る、というのが一連の政策の目的であったが、現実には狙いどおりにはいかなかった。


◎高齢者の資産を子・孫世代に移す

所得税・法人税の調達能力が低下し、さりとて国民の強い反発を招きかねない消費税増税に踏み切れないなか、租税調達機能の回復・強化の伏兵として注目を集めてきたのが、相続税とこれを補完する贈与税だった。

現時点では、相続税が国の歳入に占める割合は3%程度とごくわずかだ。だが多くの高齢者が多額の金融資産を保有している現実を考えると、将来、相続という資産移転が大規模かつ継続的に行われていくことは十分予測できる。総務省の「家計調査報告(貯蓄・負債編)」によれば、2人以上世帯の家計貯蓄総額の約66%を、世帯主が60歳以上の世帯が占めている。また日銀の資金循環統計によれば、2014年9月末の家計金融資産残高は1654兆円。今後10年間で相続によって500兆円の資産移転が起こるとの予測もある(宮本佐知子・野村資本市場研究所主任研究員)。多額の資産が相続や贈与によって若い世代に移転することで、経済は活性化する--相続税増税の一番の狙いである。

2014年12月30日、政府・与党が策定した「2015年度税制改正大綱」では、改正の目玉として法人税改革(初年度の実行税率は2.51%下げ、下げ幅は2年で3%台を目指す)とともに、父母らの贈与で住宅を取得した場合の贈与税の非課税枠を、2015年に1500万円(省エネ住宅の場合)、2016年10月から3000万円に拡充するとしている。いうまでもなく、消費税が10%に上がるタイミングで、住宅市場が冷え込まないようにするための措置だ。

また2015年4月から、結婚・妊娠・出産・育児にかかる費用(物品の購入ではなく、たとえばベビーシッター代など)を一括贈与された場合、1000万円まで非課税にする制度も始める。ただし、贈与を受けた者が50歳になった時点で、消費しきれずに口座に残っていたら、その残高に課税され、贈与した祖父母や親が亡くなったときも、口座に残高があれば相続税がかかる。つまり相続税が上がれば上がるほど、親世代から子世代への資産の移転が進むという仕組みだ。しかも、使いきれなければ結局課税されるわけだから、消費したほうが得ということになる。「お金を使わなければ損」な税制にすることで、高齢者が保有する豊富な資金を流動させ、経済活性のバネにするというわけである。


◎日本の相続税は高いのか

日本の相続税が国際的に見て高いか低いかは、国によって控除や軽減の条件が異なるため一概にはいえない。ただ、課税価格3億円の場合で比較すれば(グラフ参照)、日本の相続税負担率はイギリスより低く、ドイツやフランスより高い。アメリカは別格に低いが、連邦税のほかに州ごとに異なる率の課税があり、どこに住むかによってかなり違う(ちなみに、アメリカとイギリスは「遺産税」方式で、まず故人の遺産に課税し、納税後に残ったものを相続人に分配する)。

アメリカでは2001年、ブッシュ政権の大型減税政策の一環として遺産税の段階的縮小と廃止が決まり、2010年にいったん税率がゼロになった。ブッシュ減税はここで失効する予定になっていたため、オバマ政権下の2011年には遺産税も復活、現在は2001年当時よりも縮小した形で継続されている。

相続税を廃止した国の一つにスウェーデンがある。地価が高騰して負担が大きくなりすぎたのと、富裕層の海外逃避を招いたのが主な理由だった。廃止にこぎつけられたのは、税収に占める相続税の割合が1%未満と低く、廃止の影響があまりないと判断されたからだった。

相続税は廃止すべきだとする議論は日本にもある。たとえば、渡部昇一・上智大学名誉教授は、死後に私有財産をとりあげて国民に再分配する相続税は、「財産権は、これを侵してはならない」と定めた憲法29条違反であり、むしろ相続税をゼロにして富豪を育てたほうが経済の活性化に貢献する(富豪はお金を使う)という。そもそも、稼いだお金にはすでに所得税を支払っているのに、それが蓄積した財産に相続税を課すのは二重課税ではないかとの疑問を抱く人は多い。

一方、評論家の和田秀樹氏のように、相続税の税率は100%であるべきだと主張する論者もいる。財産は一代限り、そのほうが“無能な2代目社長”のような存在は淘汰されるし、高齢者が資産を貯め込むこともなく、消費され、その結果、経済は活性化する、という考え方だ。

どちらも極端な議論ではあるが、今回の相続税増税は、後者の狙いに近い。実効はあるのか、それとも国民の重税感が増すだけなのか、結果が見えてくるのは数年後になる。











「農協ってそもそも何?」

2015-01-25 11:43:53 | 日本

農協について学ぶ。


Q:政府が農協改革に取り組むけど、農協ってそもそも何?

A:農業協同組合(農協=JA)は農家同士の助け合いのために作られた組織である。農協は農家が作ったコメや野菜などを集めて販売している。集めることで、数量や品質がまとまり、有利に販売することができる。一方で、農家は農機具や肥料などを農協を通して共同購入している。これも農協が数量をまとめることで農家の人に良い資材を安く提供するのが目的である。


Q:JAバンクやJA共済(きょうさい)というのも見聞きしたことがあるけど?

A:農協は、貯金の受け入れやお金の貸し付けをする信用事業、人や建物や車に対する補償をする共済事業など、農家だけでなく一般の人々の暮らしに関わるような業務もやっている。スーパーマーケットやガソリンスタンド、介護施設といった事業も手掛けており「ゆりかごから墓場まで」と言われるほど幅広い事業を展開している。農協以外に民間の金融機関のない地域など、農協が住民の生活基盤の一部となっている地域もある。


Q:農協の歴史は古いの?

A:1947年に農協法が制定され、その後、各地に設立されました。一時は1万3000を超える農協があったが、戦後の経済混乱で経営が悪化する農協が相次いだ。そこで強力な指導組織の確立が必要とされ、54年の農協法改正で中央会制度が導入された。全国農業協同組合中央会(JA全中)は、経営が悪化した農協に改善を指導したり合併を進めたりするなど成果を上げた。現在では地域農協は699まで減少している。


Q:農協の組織はどうなっているの?

A:市町村にある地域農協の上に都道府県の組織があり、その上に全国の組織がある3段階の構造である。JA全中はJAグループを代表する機関で、農協法に基づき経営指導や監査の権限を持っている。JA全中はグループの各組織から賦課金(ふかきん)というお金を集めて運営費を賄っている。今年度予算では収入約116億円のうち約78億円が賦課金である。収入の使い道は人件費が約23億円、監査に関する費用が約17億円、指導に関する費用が約10億円。このほか、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)対策などにも使われている。


Q:農協はどうして改革が必要なの?

A:農協は農家のための協同組織だが、農家でなくても、農協に一定の出資金を払って住宅ローンや生命保険などの商品を利用している住民も多くいる。非農家の組合員の割合は年々増えており、農協法が制定された当時とは状況が大きく異なっている。地域農協の多くは農産物販売などの経済事業が赤字で、信用と共済の金融事業が黒字。つまり本業である農業ではもうかっていない。農家は農協に対し、農産物の販売力強化と肥料などの資材価格引き下げを求めている。地域農協が主役となり、農産物販売などでいかに利益を上げ、組合員に還元(かんげん)していけるかが今後の課題である。


Q:改革で何が変わるの?

A:安倍晋三政権は補助金や規制を見直し、農業を競争力と魅力ある産業に変えようとしている。農協改革だけで、日本の農業が急に良くなるわけではないが、農畜産物の生産や販売で大きな役割を果たしている農協には大胆な改革が必要である。


Q:今後の焦点は?

A:政府は6月に決定した規制改革の計画で「農協法上の中央会制度は、自律的な新たな制度に移行する」と明記した。来年の通常国会に農協法改正案を提出する予定である。JA全中は中央会に求められている役割や機能について議論を重ねている。安倍首相は「(農協)改革が単なる看板の書き換えに終わることは決してない」と述べており、中央会制度の廃止に強い意向を示している。











「夢に向かって」

2015-01-24 10:48:07 | 日本

松本守正さんのブログ「何かを成し遂げたいあなたへ」の中に「夢に向かって」について記されていた、なかなか素晴らしいので以下に記す。



夢を叶えるコツは非常にシンプルっだる。

☆感謝する
☆イメージする
☆めげない
☆諦めない
☆ドアをたたき続ける
☆自分を信じる
☆仲間を信じる
☆志を信じる

この道しかない!!
今日の問題で明日の夢をつぶすな!
人生は夢を実現する為にあるのだから!
"志あるところに常に道あり"
強い精神力で最高の人生の舞台をつくろう♪♪

いつもありがとう



「飄飄と風のように生きる」

2015-01-24 10:48:07 | 日本

菅家一比古さんから、「言霊の華」が届いた。
以下、要約し記す。



心の病とは執着することである。ものごとに拘る、囚われる、そして偏る。人間の好き嫌い、正しい、間違っているも。とうとう身動き不能に陥っている。

この執着から解き放っていったのが名僧と呼ばれた禅者達である。沢庵禅師も白隠禅師も一休禅師も良寛和尚も皆、飄飄(ひょうひょう)と風のように人生を吹き抜けていきた。どんなことをするのも自由であり、軽みを帯びていた。

執着の強い人は全てに重い。自分の思いどおりにならないことに怒りを覚え、人をついつい裁いてしまったり、自然を裁いたり、周囲を疲れさせる。

幼い頃より親に認められ、とくに母の愛に充分満たされた人は心に「穏やか」が息づいており、我執が少なく「分かち合い」が普通にできる。

禅者であった先程の名僧たちは「母なるもの」に出会った人々であった。宇宙、自然、み仏、神、全てが私をくるみ、包み込んでくれている存在であることを知っていた。元旦禊のたびに海の中で感じるのはそういう「母なるものの愛」である。いつの間にやらこの私も執着が少しずつ取れてきたように思う。

神の前に祈っているとき、涙が出てくることがないだろうか。「もったいない」「かたじけない」そして心から「ありがたいと」。そういう体験を積み重ねて生まれてきた言霊こそ「かむながら、ありがとうございます」であった。

敵も味方も善も悪も、好きも嫌いも皆、心の執着がつくり上げているものだったのである。










「神は沈黙などしていない」

2015-01-24 10:47:22 | 日本

菅家一比古さんから「言霊の華」が届いた。
以下、要約し記す。



「聞こしめすスメラミコト(天皇)」「見そなわすスメラミコト」「知ろしめすスメラミコト」という古代から続く言葉がある。天皇は聞いておられる、見ておられる、知っておられるという意味である。まさに神の本質を言い当てたものである。

真(まこと)を生きている者の至誠は、必ず天に届いている。否(いな)、一市井(いちしせい=普通一般)に生きている人々の苦しみや哀しみの同伴者でもある。

老齢、老体に鞭(ムチ)打って被災地を慰問される天皇、皇后両陛下。南太平洋の激戦地パラオ諸島を何としてでも慰霊したいという、そのお覚悟と信念。それが今年実現することになった。どれだけ英霊の霊魂(みたま)が癒され、安らぐことだろう。両陛下のお姿に神を見る思いである。

今年の元旦禊は奇跡的なものだった。天気予報では冬型の気圧配置が強まるため、全国的に大寒波が襲い大荒れになるというものであった。伊豆下田では大晦日の深夜、風雨と雷が荒れ狂っていたので「ああ龍神が活発に動いているな」と直感し、元旦禊は初日の出はおろか、これまでに無い厳しいものになると覚悟を決めていた。

ところが、早朝浜に出てみると、すっかり晴れ上がっり風も無く波も穏やか。そして皆で鳥船を終え海に入っていくと、やがて美しいこれまで見たこともないような初日が現われた。参加者の中には号泣する人もいた。その時は南伊豆だけが晴天圏内だったのである。

禊が終わってから一時間後、寒風が吹き始め、寒いのなんの。この時はっきりと神の御意思と愛、慈悲をこの肌で感じ取ったのであった。

ミラクル(奇跡)から始まった新年。きっとミラクル続きで終わる一年となることだろう。神(天)は沈黙などしていない。聞いておられる(我々の祈りを)、見ておられる(我々の行為を)、知っておられる(我々の思いと願いを)。だから何も心配は要らない。信じて行うだけである。神々は生きて働いておられる。全託して感謝して前進して参ろう。










「オグ・マンディーノの名言集④」

2015-01-23 07:57:34 | 日本

◎忍耐がなければ成功できない。
忍耐はあなたにとって、そしてあなたとともに生きてゆかなければならない者たちにとって、満ち足りた心の安らぎをもたらす鍵である。

◎忍耐は心の安らぎをもたらす鍵。
あなたはそばに来て停まり、富と名誉と権力へのたやすく迅速な旅を提供しようと申し出る馬車は、すべて疫病のように避けなさい。人生はその最盛期においてすら、さまざまな厳しい条件にさらされる。誘惑によって、あなたは破滅するかもしれないのだ。歩きなさい。あなたは歩けるのだから。

◎近道を求めようとしないことの大切さ。
忍耐によって運命を支配できることを学びなさい。忍耐をすればするほど、あなたに返ってくる報いが確かなものとなることを知りなさい。いかなる偉大な業績も、忍耐強く努力し、待ち続けた結果としてもたらされるのである。

◎忍耐の大切さ。
あなたを罵り、わずかな報酬のためにどうしてそんなに熱心に働くのかと尋ねる人々を哀れに思いなさい。少なく与える者は、少なく受け取るのである。他人の事業のために働かなければならないとしても、あなたの努力を減らそうという誘惑にのってはならない。

◎少なく与える者は、少なく受け取る。
嫌々ながら働くこともできるし、感謝しながら働くこともできる。人間らしく働くこともできるし、動物のように働くこともできる。しかし、賛美することができないほど卑しい仕事はなく、魂を吹き込むことができないほど品位を下げる仕事もなく、活気を呼び起こすことができないほど退屈な仕事も存在しない。

◎どう働くかは選ぶことができる。
日々の仕事に熱心に取り組みなさい。その働き方があなたの未来を決定する。あなたは怠惰な人生を送るために創られたのではない。日の出から日没まで一日中食べ続けたり、飲み続けたり、遊び続けたり、愛し続けたりすることはできない。仕事はあなたの敵ではなく友なのだ。もし労働と名のつくあらゆるものに携わることを禁じられたら、あなたはひざまずいて一日も早い死の訪れを乞い願うだろう。

◎仕事は敵ではなく友。
達成計画や期限なしの目標を設定することは、目標自体を設定しないにも等しい。

◎目標には計画や期限が必須。
私たちはみんな最終的に、心が注意を向けているものになる。なんであれ、同じことを頻繁に繰り返していると、そのうちにそれを信じるようになるのだ。

◎繰り返し行うと、人はそれを当たり前だと信じる。
テレビの奴隷になっては絶対にいけません。カウチポテト族と呼ばれる人たちは、現代人に特有のもっとも狡猾な悲しい方法で、知らず知らずのうちに自殺を図っているのです。

◎テレビの奴隷になるな。
わしらが不幸なのは、自分を敬う気持ちを失ってしまったからです。自分を敬う気持ちを失ってしまったからです。わしらはもはや、自分がかけがえのない奇跡であること、神の特別の創造物であることを信じていないのである。

◎私たちはすべてかけがえのない存在であるということを忘れない。
絶望は恐怖の子供です。わしらが過酷な人生の問題に対処できるという自信を失うと、それは誰にでも訪れます。

◎絶望は恐怖の子供。
最も困難な仕事は、一回きりの爆発的なエネルギーの発散や努力ではなく、最善を尽くして日々努力し続けることによって達成されることを覚えておいてください。

◎偉大な成果は日々の努力から生まれる。
成功のカギは、潜在意識という私たちの神秘的なもう一つの心に、繰り返し適切な肯定的暗示を与えることである。

◎成功の鍵は繰り返し肯定的な暗示を自分に語りかけること。
『敗北』それがなんだと言うのでしょう。少しばかり勉強させてもらっただけであり、よりよいものへの第一歩に過ぎないのです。失敗しないのは、頭から何もしない人だけです。人は間違いや失敗を通して最高の教訓を得るのです。

◎失敗との付き合い方。
サミュエル・スマイルズは19世紀末に『自助論』というタイトルで最初の成功本を書きました。その中で「人は常に成功より失敗から多くを学ぶ」と述べています。人間はどうすればうまくいかなくなるかを知ることによって、うまくいく方法に気づくものです。そしてまったく失敗しない者は、一見損失に見える事態を利益に転じるときの心の高ぶりを永久に知ることがないのです。ゲームにしろ人生にしろ、チャンピオンの座を勝ち取るのは、逆境を乗り越える術を学んだ者なのです。

◎トップの座を勝ち取るのは逆境を乗り越えた者だけ。
敵に怒りの炎を燃やすのは、ネズミを一匹退治するために家を焼くようなものです。誰もあなたが幸福になったり、全力を尽くしたりするのを邪魔することはできません。あなたが邪魔していいと許可を与えない限り。

◎誰もあなたの幸福を邪魔することはできない。
目覚めたときに自分がみじめに感じられる朝は、日の光を入れて音楽のボリュームを上げたら、あとはただ朝刊を取り上げるだけでいいのです。朝早くは一面は見ないこと。さもないと枕の下に潜り込んで隠れたくなります。かわりに訃報が載ったページを開くのです。たとえあなたがいらだちや不信感や不安など、いろいろな問題を抱えていようとも、できるものなら喜んであなたと居場所を取り換えるに違いない人々の名がずらりと並んでいます。朝気分がはずまないときは、試してみてください。きっと私に感謝したくなります。

◎憂鬱な朝を感謝にかえる。
あなたは神の特別な創造物なのです。行いであれ、ものであれ、努力であれ、親切であれ、あなたが源となっている事柄には、何ごとも全力投球してください。お茶を濁すようなことがないよう。小さなことをおざなりにするのは、大成しない人や可もなく不可もない並みの人間だけです。

◎ベストを尽くすことの効用。
この人生という難しいゲームには、戦果が上がるようにプレーするためのルールがあります。しかし、それはあくまでゲームです。あまりまじめくさってやるものではないゲームであることを忘れないでください。

◎人生にあまり真面目になりすぎない。
あなたの笑い声が聞かれない日くらいわびしいものはありません。朗らかな笑いはどこの家でも明るい日差しのようなものだから。例え多忙を極めていても、幸せな面を表にあらわさずに一日を送ることのないようこころがけたいものです。ほほ笑むたびに、そして笑うとなおさら人生に貴重なひとときが加わります。

◎人生をより良いものにする。
誰であれ人に会ったら「夜中12時にはこの世を去る」そんなつもりになって、いままでとは違った態度で接する。それは極めて簡単である上に、それと引き換えに人生が永久に変わるのです。ぜひ試してください。

◎人生を永久に好転させる。
今日から出会う人は皆、友達も敵も、愛する人も見ず知らずの人も、夜中の12時までに死んでしまうものとして接しよう。どれほどわずかな接触しかなくても、一人一人に精いっぱい理解と愛情を示し、見返りは期待しない。相手はあなたの優しさにどう反応するでしょうか。あなたがこれまで他人から受けたことがないほど思いやりやいたわり、協力的な態度や愛情を示すはずです。あなたの人生はこれでもういままでと同じではなくなります。




<了>















「オグ・マンディーノの名言集③」

2015-01-22 08:22:58 | 日本

◎真の宝物とは。
人間の真の価値は、人が追い求め、獲得しようとする物質的なものからどれだけ解放されているかによって測られる、ということを理解しなさい。人生の偉大な恵みはすでにあなた自身の中にあるか、あるいはあなたのすぐ手の届くところにある。あなたが探している宝物に気づかずにつまずいて通り過ぎる前に、真実に対して目を開きなさい。

◎人間の真の価値は、どれだけ物質的なものから解放されているかによって測られる。
幼かったころのあなたと今のあなたはなんと違っていることだろう。あなたは何も持たずにこの世に生まれてきた。だが、年を重ねるにつれ、安全のためと言いながらあまりにも重い手荷物でがんじがらめになっている。そのため、あなたの人生の旅は楽しみというよりも罰のようなものとなった。荷を軽くしなさい。今日この日からすぐ。

◎人生の荷を軽くしなさい。
あなたが望むとおりに創り出せるものとして手元にあるのは、「今」というこの時間だけなのだ。明日への心配が今日という日に影を落とすのを許してはならない。起こりもしないうちから、悪しきことを予期することほど馬鹿げたことはない。決して起こらないかもしれないことを思い煩って瞬時を無駄にしてはならない。

◎手元にあるのは「今」しかない。
行動しなさい。行動なくして変革はない。

◎行動なくして変革なし。
もしあなたの求めているものが、仕事ではなく、豊かに時を過ごすための余暇であるなら、勇気を奮い起こして行動しなさい。行動すればするほどもっと行動できるようになり、忙しくなればなるほどますます多くの余暇を楽しめるようになる。

◎忙しくなればなるほどますます多くの余暇を楽しめるようになる。
誰もあなたの代わりに行動してくれる人はいない。あなたが立てる計画も、あなたが立ちあがって、自分を今のままの状態にとどめておこうとする力との闘いを開始するまでは、怠け者が見る夢にすぎない。行動を起こすことは常に危険を伴うものだが、座したまま人生の幸運が膝の上に転がり込んでくるのをじっと待つことは、失敗のありかを自ら大声で知らせているようなものである。

◎誰も代わりに行動してくれる人はいない。
勇気を奮い起こしなさい。行動と悲しみは永遠に相容れないものであることを知りなさい。筋肉が緊張し、指が掴み、足が動き、頭が目前のやるべきことで占められている時は、自分を哀れんだり、後悔の念に苛まれたりしている暇はない。行動はいかなる傷をも癒す香油のようなものである。

◎悲しみを克服するには。
行動なき計画は消え去る夢にすぎないことを悟りなさい。心に抱く大望を天高く描くことをせず、何事も確信せず、失敗を恐れて行動に移すことがなければ、その望みが叶うことはない。潮が自分に向かって満ちてきているのを見ていながら、海に飲み込まれるまで眠りこける人を、浅はかでないと言えるだろうか。運命をより良い方向へと変えるチャンスが自分のところに来ているというのに、そのチャンスが隣の人に行ってしまうまで考え込む人を、愚かでないと言えるだろうか。行動のみが人生に力と喜びと目的をもたらす。

◎行動のみが人生に力と喜びと目的をもたらす。
かつてなかったほどの暗闇に閉ざされている時こそ、思い出しなさい。あらゆる失敗は成功への第一歩であり、偽りを発見することが真実への道を進むことであり、ひとつひとつの試練が過ちにつながる誘惑の芽を摘んでいくことを。そして、すべての逆境は、あなたが辿る平和と達成への筋道をほんの一瞬見えなくするものにすぎないことを。

◎失敗は成功の第一歩。
あなたの友とは誰か。逆境があなたを飲み込んでいる時こそ、真の友を数える最良の時である。

◎逆境こそ真の友を数える最良のとき。
あなたが格闘している相手は常にあなたの勇気を奮い立たせ、あなたの技量に磨きをかけることを知りなさい。あなたに敵対する者は結果的にはあなたの最良の助け手となるのだ。逆境はあなたの人生における雨のようなものである。冷たく、侘しく、薄情だ。だが、その雨の季節から、ユリやバラやナツメヤシやザクロが生まれる。灼熱の苦難に渇き、苦難の雨に浸された後、あなたがどんな偉大なものを生み出すか、それは誰にも予測できない。砂漠でさえ、嵐の後には花を咲かせるのだ。

◎逆境の持つ利点。
もしあなたの働きと、あなたの忍耐と、あなたの計画が、あなたに幸運を運んで来たら、引き潮に飲み込まれている人を探しだし、引き上げてあげなさい。あなたが他の人にしてあげたことが、やがてあなたに返ってくるのだ。あなたが受け取る愛を何より大切にしなさい。あなたが持っている黄金や健康が消えてしまってもなお久しく残るものは愛である。

◎逆境にある人を助けることの大切さ。
備えができていないと、命の周期、すなわち浜辺に寄せては返す大海の波のようなアップダウンの神秘的リズムが、あなたにとっての敵となり得る。満潮と干潮、日の出と日の入り、富と貧困、歓喜と絶望、これらすべての力はそれぞれの時を得て優位に成り立つものなのだ。偉大な業績が果てしなく続くかに思われる満潮時、その満ち潮に乗っている裕福な人を哀れみなさい。備えがなければ、災難に不意を突かれて破滅の叫びをあげることになる。常に最悪の事態に備えておきなさい。

◎常に最悪の事態に備えることの大切さ。
一年を超える長期の計画を立てるときは気をつけなさい。人生においては、戦争においてもそうであるように、長期にわたる計画が意味をなさなくなることがある。予測不可能な敵の動きにどう出くわすか、そして、それらの事態にどのように対処するかによって状況は違ってくるからである。

◎長期計画を立てるときの注意点。
陽光の中を旅する間に暗闇に備えなさい。いかなる状態も永遠に続くものではない。自然に四季があるように、あなたの人生にも四季がある。良かれ悪しかれ、あなたを取り巻く状況は永遠に続くものではない。

◎いかなる状態も永遠に続かない。
成功のためのあらゆるチャンスを捕えなさい。そして失敗したら、また挑戦しなさい。今日あなたの計画表を作成しなさい。そしてあなたの今のやり方をそのまま変えずに続けていたら、一年後、あなたがどんな状態にあるか自分自身に尋ねてみなさい。次に、富であれ地位であれ何であれ、一年後にその目標のどこまで達成していたいのか、それを決めなさい。さらに、そこに到達するために、これから先の十二か月間にあなたがなすべきことの計画を立てるのです。そして、その通りに実行しなさい。

◎今日あなたの計画表を作成しなさい。
あなたは人生から何を得たいのだろう?答えを出す前に、時間をかけてじっくり考えなさい。あなたが得るものは、あなたが探し求めるものだから。それは富なのか、権力なのか、愛に満ちた家族なのか。それとも心の平安か、土地か、尊敬か、地位か?あなたの目標が何であれ、それをしっかり心に留め、決して手放さないようにしなさい。

◎人生から何を得たいのか時間をかけてじっくり考えることの大切さ。
勤勉に働き、かのヨブよりも忍耐強いとしても、計画を立て目標を設定しない限り人並み以上に抜きんでることはできない。向かうべき目的地を持たずに錨を上げて出港した船は未だかつてなく、勝利のための戦略を持たずに出陣した軍隊も未だかつてない。やがて実を結ぶという確信なしに花を咲かせたオリーブの木もない。人生において目標を持たずに正しく前進することは不可能である。

◎目標を持たずに正しく前進することは不可能。
忍耐強く待つということなしに持ちこたえたり、ひとつのことをやり通せる人はいない。忍耐力は力である。あなたの精神を強固にするために忍耐しなさい。あなたの気質を和らげ、あなたの怒りを鎮め、あなたの嫉妬心を葬り去り、あなたの誇りを抑制し、あなたの舌を抑え、あなたの手を慎み深くし、やがて来たるべき時にあなたに値する人生に対してあなたの全身全霊を傾けるために、忍耐を心がけなさい。

◎忍耐は力。
「成功するためには優れた特質を備えていなければならない」と賢者は説くが、その特質も忍耐をともなわなければ役に立たない。忍耐なく勇敢であることは、あなたを死に至らしめるかもしれない。忍耐なく大望を抱くことは、あなたに約束された成功の可能性を破壊してしまうかもしれない。忍耐なく富を求めて格闘することは、あなたをその薄い財布からさらに遠ざけるだけである。忍耐なくひとつのことをやり抜くことは常に不可能である。











「オグ・マンディーノの名言集②」

2015-01-21 09:07:38 | 日本

◎あなたはこの世で最も稀な存在。
選択する力を賢く使いなさい。憎むより、愛することを選びなさい。泣くより、笑うことを選びなさい。破壊するより、創造することを選びなさい。諦めるより、忍耐することを選びなさい。人の噂話をするより、褒めることを選びなさい。傷つけることより、癒すことを選びなさい。盗むより、与えることを選びなさい。ぐずぐずするより、行動することを選びなさい。堕落するより、成長することを選びなさい。呪うより、祈ることを選びなさい。死ぬより、生きることを選びなさい。

◎自ら良い選択することの大切さ。
世界は常に、あなたが示す行動によってあなたの価値を決定するのだ。思考や感情を内面に秘めたまま表現しなければ、誰があなたの才能を測ることができようか。

◎自分の価値を決定するのは行動。
世の中には、試合に参加する少数の選手と、それを見守る多数の観客がいる。ここでいう観客とは、夢も目標も次の日の計画さえ持たずに日々をさまよう人々の群れだ。彼らを哀れむ必要はない。彼らは選択しないという選択をしたのだ。観客席から試合を観戦するのは安全である。どうあっても参加しない人は、つまずくことも、倒れることも、あざけられることもないのだから。あなたは選手なのだろうか?選手であるならばあなたに負けはない。勝てば勝利の果実を得るし、今日敗れたとしても、そこから貴重な教訓を学び、明日の流れを変えることができるのだから。

◎観客ではなく選手であれ。
常に求められる以上のことを成し遂げなさい。報いは必ず返ってくる。成功を勝ち取る唯一確実な方法があることを知りなさい。それは、「ひたすら努力する」ということである。もし成功のためこの代償を支払いたくないというのなら、満たされない不本意な人生を送る覚悟をしなさい。

◎ひたすら努力することの大切さ。
挑戦し続けなさい。止めてはならない。状況は変わるものだということを常に信じていなさい。心は重く、体は傷つき、財布は空で、慰めてくれる人もいない。それでも耐えなさい。太陽が必ず昇るように、あなたの不運の時にも必ず終わりがくることを信じなさい。常にそうであったし、これからも常にそうなのだ。

◎挑戦し続ければ不運の時にも必ず終わりが来る。
心にかかることを、今、行いなさい。それができるうちに。この忠告を肝に銘じておきなさい。悲しむためではなく、今日という日があなたの持つすべてであることを忘れないために。

◎今日という日が自分の持つすべてであることを忘れない。
野の植物や動物がどんなふうに生きているのか考えてみなさい。綿の木は、決してたった一個でさえリンゴを実らすことはできない。ザクロの木がオレンジを実らすことがあるだろうか?ライオンが空を飛んでみようとするだろうか?すべての生き物の中で人間だけが愚かにも本来のあり方以外のあり方で生きようとムキになる。そしてそのうちそのあり方が、自分に調和しないものであることを自分の人生そのものから宣告されるのだ。この不調和こそ人生における失敗を決定づけるものであり、もっと実りある職業はないかと、それを果てしなく追いかける人々の行き着くところなのだ。

◎ライオンが空を飛んでみようとするだろうか?
新しい人生に入っていくのを恐れてはなりません。崇高なことを成し遂げようとすると必ずリスクがともないます。リスクを負うのを恐れる者は、崇高なことを成し遂げようと期待してはなりません。

◎リスクを恐れてはいけない。
苦労に苦労を重ねて獲得したものこそ、最も長持ちするのです。自分で財産を築いた者の方が、相続した者より自分の財産を大切にするのと同じです。

◎苦労して得たものが最も長持ちする。
たったひとつの確かな成功の手段は、どんな仕事をしていようと、自分に期待されている以上の奉仕をすることなのです。それは歴史が始まって以来、成功した人たちすべてが従ってきた習慣です。したがって、自分自身を凡庸にさせておくための最も確実な方法は、支払いを受けている分だけの仕事をすることだといえます。

◎確実に成功する方法。確実に凡庸のままでいる方法。
これからの人生、二度と私を困らせない日が二日ある。一日は、失敗と涙に彩られたたくさんの愚行や敗北を引き連れた昨日。昨日は私の手の届かないところに永遠に過ぎ去ってしまったのです。もう一日は、落とし穴や脅威や危険が待ち構えている未知の明日。明日は私と一切関係がありません。なぜならまだ生まれていないのですから。

◎昨日と明日に囚われないことの大切さ。
二輪戦車の優秀な御者はその技能によって黄金と名声を得ることができる。だが、その人にイチジク狩りをさせれば餓死することになるかもしれない。誰もあなたに取って代わることはできない。このことを悟りあなた自身でありなさい。

◎自分に合ったことをすることの大切さ。
あなた自身でありなさい。たとえ全世界を欺くことができたとしても、本当のあなた以外の何者かになろうとすることは、何者にもならないより何千倍も悪い。他人を喜ばせるために、自分とは別物の何かに自分自身を引き上げようと、無駄な努力をするのはやめなさい。自分の虚栄心を満たすために偽りの仮面をつけてはならない。自分が達成したことを評価してもらおうと、躍起になってはならない。そうすればするほど、あなたそのものに対する評価が消えてゆく。

◎自分自身であることの大切さ。
他の何者かではなく、自分自身であるために努力しなさい。あなた自身であること、あなたがなれるものになること、それが幸福な人生の秘訣である。すべての魂は、異なった才能、異なった望み、異なった能力を持っている。

◎幸福な人生の秘訣。
今夜あなたが永遠に召されると想像してみなさい。今、涙を流しなさい。流せるうちに。あなたが先週、そして先々週、家族に一緒に過ごそうと約束して果たせなかった団欒の日のために。あなたがいつも黄金を探すのに忙しすぎて楽しむことのなかった愛と笑い声に満ちたその一日のために。今、あなたの家族はあなたがもたらした黄金に恵まれている。それは事実だ。だがその黄金のすべてをもってしても、彼らはあなたの束の間の微笑みすら買うことはできないのだ。今、涙を流しなさい。あなたの心臓がまだ動いているうちに。再びその香りをかぐことのない花々のために。再び行うことのない善行のために。再び訪ねることのない母親のために。再び聞くことのない音楽のために。再び癒すことのできない痛みのために。完成させることのできない仕事のために。そして、実現できない夢のために。

◎人生で大切なものを見つけるに。
我々は皆、生まれた瞬間から刻一刻と死に近づいている。このことを悟り、すべてのものごとを正しく把握すれば、あなたの目は開かれ、あなたを脅かす巨大な山もアリ塚にすぎず、あなたを貪り食おうとする獣もブヨにすぎないことを見通せるようになる。死をあなたの友として生き、決してそれを恐れてはならない。多くの人々は死を恐れるあまり、本当の意味で生きていない。

◎自分が死ぬということを忘れないことの大切さ。
心にかかることを、今、行いなさい。それができるうちに。死という現実が常に近くにあることを心に留めておきなさい。自分は永遠に生きるものではないという考えを常に保っていなさい。このことを認識しているだけで、夜の暗さを悲しみ嘆く代わりに、新たに訪れる一日一日の素晴らしさを味わうことができるというのはなんという人生の皮肉であろうか。

◎心にかかることを、今、行いなさい。
いかなる人をもその莫大な資産ゆえに羨んではならない。彼の荷物は彼にとってそうであるように、あなたにも重すぎるだろう。あなたはそうした富を得るために、彼のように健康や心の平和、誇り、愛、静けさ、そして時には良心までも犠牲にすることはできないだろう。払われた対価があまりにも大きいと、結局は大きな損失を出すことになる。あなたの生活を簡素にしなさい。最小の物で満足する者が最も豊かなのだ。

◎最小の物で満足する人が、最も豊かな人。
この世で最大の誤りは、金と財宝があなたの人生を喜びで満たすことができるという考えである。もし富が、あなたの荷物の一部になったらあなたは貧しくなる。なぜなら、その時あなたは、黄金を背負い、その重さに耐えきれなくなっているロバと変わらなくなるからだ。その荷は、死ぬまで降ろされることはない。あなたが大事にしている不要なものも、あなたが楽しむすべての楽しみも、この世から運び出せるものではない。それはあなたが夢から何も運び出せないのと同じである。富があなたの家の中に入ってくるのを認めてもいいが、あなたの心の中にまで入り込むのを決して許してはならない。

◎富が心の中にまで入り込むのを許してはならない。
愛と心の平和と幸福こそが真の宝物であり、これらは財宝や土地の広さや金貨の量によって、その価値が上がったり下がったりするものではない。もし黄金や絹や宮殿を所有することによって、あなたにとって当たり前になっている今の幸福が破壊されたとしたら、それらに何の意味があるだろうか。












「オグ・マンディーノとは、」

2015-01-20 07:55:42 | 日本

著書「地上最強の商人」で、世界的な超有名人「オグ・マンディーノ」(1923年~1996年)は、世界中で最も多くの読者をもつ自己啓発書作家と称されるアメリカの自己啓発書作家、小説家、講演家、編集者である。

高校卒業後の4年間を空軍で活躍したのち、生命保険会社に勤務した。その後、シカゴの「サクセス・アンリミテッド・マガジン」の編集長となり、1976年まで同社代表を務めた。そのかたわら、1968年に『地上最強の商人』を執筆し、作家としてデビューした。以後、『この世で一番の奇跡』など続々とベストセラーを発表し、著書は世界22か国で3600万部を売り上げた。


◎生涯

1923年12月12日、米国マサチューセッツ州ボストン市ボストン生まれ。両親はともに移民で、父はイタリア系、母はアイルランド系。 本名はAugustine Anthony Mandino。ハイスクール時代の学校新聞で「AUG」と署名した。書いてから変えたいと思い、発音どおり「OG」と綴りその後習慣になった。このことは「この世で一番の奇跡」で本人が語っている。

母の死、進学断念、軍隊生活、作家挫折、保険販売の仕事、生活破綻。マンディーノは母親から作家になることを勧められていた。高校で学校新聞の編集者になり、ミズーリ大学でジャーナリズムを学ぶことを目指して準備をする。

1940年の夏、まもなく大学入学という時、昼食をつくっている最中の母親が死去。この悲しい出来事が大学進学の夢、そして作家への夢を消してしまう。 マンディーノは、大学に進学するかわりに、製紙工場での勤務を始める。

1942年、アメリカ合衆国陸軍航空師団に入隊。第二次世界大戦中にB-24でドイツに30回特務飛行をする。メダルをいくつかもらい、無事母国に戻る。
軍隊時代に溜めたお金で、タイムズ・スクエアの少し外れのアパートを借り、作家としての実力を試すが、相手にされず。お金が底をつく。

生まれ故郷のニューイングランドに戻り、生命保険の販売の職につく。美しい女性との結婚、娘の誕生。しかし、生き地獄のような10年。借金、厳しき現状、時が過ぎると同時に、深い穴に落ち込む。現実逃避のためにアルコールの量が増える。妻子は去り、仕事、家をも失う。

古い車(フォード)に数少ない服を投げ入れ、国内を放浪。安酒を買う僅かなお金のために、雇ってくれるならどんな仕事でもつく。 クリーブランドでの初冬、質屋のウィンドウには29ドルのピストル。

「この銃が全てを解決してくれる。・・・それで鏡の中の惨めな敗北者を2度と見なくてもすむ」
自殺が脳裏をよぎる。 しかし、ピストルは買わず、気づいた時には、図書館の前。


◎人生の転機

その朝、ノーマン・ヴィンセント・ピール、ナポレオン・ヒル、エルバート・ハバード、マックスウェル・モルツ、ドロシー・ブランド・パーシー・ホワイトニング、ラッセル・コーンウェルなど、成功哲学の"偉大な巨匠"の本を読み始める。この朝を境に、マンディーノの人生は変わり始めた。

W・クレメント・ストーンの本と出会い、触発される。 彼の下で働きたくなり、アメリカ・コンバイン保険会社を探し、ボストン支社にて職につく。 クレメント・ストーンを探す最中にベティと出会い、結婚(1957年12月9日)。 一年足らずで優秀な業績をあげ、販売部長に昇進。 最初の担当地区は、メイン州北部。 実績を認められ,コンバイン社のシカゴの販売促進部へ。そこで保険販売の意欲促進に関する資料の作成に一年ほど携わる。

その後「サクセスアンリミテッド」誌へ。 ある月、ベン・ホーガン(交通事故から回復し、プロゴルファーとして勇敢にカムバック)の記事を書き、雑誌に掲載。ニューヨークの出版社から感銘の手紙。その中には、「本を書いたなら是非見せてもらいたい。」との言葉も。 その1年半後『地上最強の商人』出版。

1965年、サクセス・アンリミテッド・マガジン社編集長。
1972年~1976年、同社代表。
1976年から著作・講演を中心に活動。
1983年、全国講演者協会から講演者に対する最高の栄誉であるCPAE賞を授けられる。
1983年、ナポレオン・ヒル・ゴールドメダル賞の初受賞者となる。
1984年、"国際的な演説家の殿堂"入りを果たす(レッド・モトレイ、リチャード・デヴォス、ビル・ゴーヴ、カヴェット・ロバート、ノーマン・ヴィンセント・ピールなどについで14番目)[要出典]1989年3月3日、「オグ・マンディーノの日」アリゾナ市にて定められる。
70歳誕生日前、定期検診にて前立腺癌が見つかる。手術、トラブル、心臓切開手術。
1995年春、心内膜炎にて再入院。
1996年9月3日 急逝。





「オグ・マンディーノの名言集①」

◎もっとも困難な仕事は、一回きりの爆発的なエネルギーの発散や努力ではなく、最善を尽くして日々努力しつづけることによって、達成される。

◎絶対、絶対、絶対、絶対、絶対、絶対、あきらめるな!

◎たった一つのロウソクなどと考えてはなりません。すべての人が自分のロウソクに火を灯せば、真っ暗な夜を明るい昼に変えることができるのです。

◎なにを考えるにせよ、あなたは実際に考えているものになりうるんです。

◎屈しない人間は、決して負けることがないのです。

◎弱点は、逆境となるどころか、実際には自分のためになることがある。

◎どうして世界を変えようと、なさらないのです?

◎人間は、苦しめられて打ち負かされるとき、なにかを学ぶチャンスをえる。

◎隣人に救われることを、期待してはならない。

◎あなたを失敗に導いた不利な条件は、どこにあるのですか?
あるのはあなたの心のなかだけにすぎません。

◎たった一つの確かな成功の手段は、どんな仕事をしていようと、自分に期待されている以上の、奉仕をすることなのです。

◎私はこの場所をたった一度しか通らない。ここで私にできるよいこと、他人に示せる親切があれば、いまそれをやりなさい。それを先に延ばしたり、怠ってはいけない。なぜならこの場所を、もう一度通ることはないのだから。

◎あなたの人生の一日一日を、その日限りのものとして生きるようにしなさい。そうすれば、成功と幸せに、より近づくことができるでしょう。

◎活字化された言葉は、口で語られた言葉よりも、ずっと長く記憶にとどまる。

◎神が一つのドアを閉めたら、もう一つのドアが開きます。けっして希望を捨てないでください。

◎失敗と成功の分かれ目は、雑事に取り組むか否かであり、雑事を避ける人は失敗し、雑事に取り組む人は成功します。

◎生と死とについては手の施しようがないので、自分に割り当てられた期間に満足し、誇り高く、心穏やかに、名誉を尊び、愛情をもって、実りある人生を送るべきでしょう。

◎今日あなたに降りかかるかもしれない、災難の大半は、勇気をもってあたれば、たいてい、それに見合うか、それ以上の恩恵をもたらしてくれます。

◎失敗者と成功者のただひとつの違いは、習慣の違いにある。

◎行動なき夢は、消え去る夢に過ぎない。

◎真の幸せは自分の中にある、ということに気づきなさい。平和や安らぎや喜びを外部に捜し求めるために、時間を費やしたり努力したりしないように。

◎持つことや得ることにではなく、与えることに幸せがあるのだ、ということを忘れないように。

◎手を差し伸べなさい。分かち合いなさい。にっこりと笑いなさい。抱き合いなさい。

◎幸せは香水のようで、人にかけようとすると、自分にも数滴かかるのです。

◎弱者は、自分の思いに支配され、強者は、自分の思いを支配する。

◎究極の表現で言い表すとするなら、成功とは自分の個性を最大限に発揮することです。

◎大きなチャンスの到来を待ってはいけません。ごく平凡な機会をとらえ、それを大きなチャンスに変えていきなさい。

◎私は命ある限りがんばりぬく。なぜなら、今こそ、私は成功のための最大の原理を知ったからだ。その原理とは、「やり続けることが、勝利への道」ということである。

◎憎むより、愛することを選びなさい。泣くより、笑うことを選びなさい。人のうわさ話をするより、褒めることを選びなさい。盗むより、与えることを選びなさい。ぐずぐずするより、行動することを選びなさい。死ぬより、生きることを選びなさい。

◎「今すぐ出発する」これが答えである。

◎あなたには成功しなければならないという義務はない。ただ、自分自身に対して誠実でなければならないという義務があるだけだ。あなたが最善を尽くしたいと思うことに、全力投入しなさい。そうすれば魂の奥深くで自分が世界一の成功者であることを知るだろう。

◎成功を焦ってはならない。
野の百合でさえ自分の季節が巡り来る前に咲くことはないのだ。ひとつの石で瞬時に建てられたピラミッドなどあるだろうか?哀れむべきは忍耐力を持たない人々である。どんな傷も段階を経て少しずつ癒えてゆくではないか。

◎あなたの人生のゆく先を決定するのは、あなたがどんな仕事をするかではなく、「どのように仕事をするか」なのだ。金鎚の一振りに細心の注意を払わない者は、決して宮殿を建てることはできないだろう。

◎どんな仕事をするかより、どのように仕事するかが重要。
心は特殊な領域である。地獄から天国を創り出すことも、天国から地獄を創り出すこともできる。

◎心は地獄から天国を創りだすことも、天国から地獄を創りだすこともできる。
ゆりかごから墓場まで、あなたの一生涯の間に横たわるすべてのものには常に不確かさがつきまとう。ゆえにあなたの疑いや不安を笑い飛ばして前進しなさい。

◎疑いや不安を笑い飛ばして前進しなさい。
常に最善を尽くしなさい。今あなたが植えるものをやがて収穫することになるのだから。

◎最善を尽くすことの大切さ。
忍耐は苦いが、忍耐が結ぶ実は甘い。忍耐によって、いかなる逆境の中にあっても耐え抜くことができるし、いかなる敗北も乗り越えることができる。忍耐によって自分の運命を支配し、望みのものを手に入れることが可能となる。

◎忍耐は苦いが、忍耐が結ぶ実は甘い。
現在のことをしっかり考えなさい。災害について思い悩む人は、実際にそれが起これば二度も苦しむことになる。過去となったことを忘れ、未来については神に委ねなさい。神はあなたより遥かにずっと有能なのだから。

◎災害について思い悩む人は、実際にそれが起これば二度悲しむことになる。
人生は競争ではない。急がずに注意深く前進すれば、いかなる道もあなたにとって長すぎることはない。

◎人生は競争ではない。
微笑みをもって逆境に立ち向かい、屈服させなさい。逆境という状態が、永遠に続くことはあり得ないということを悟れば、あなたは世の多くの人よりも賢くなる。

◎逆境が永遠に続くことはない。
一生懸命、忍耐強く働き、目標をしっかり持っている人すべてが成功を勝ち取るとは限らない。しかし、少なくともこの3つの要素のうちどれかが欠けても成功を手にすることは不可能となる。

◎成功に必要な3つの要素。
逆境はあなたにとっての最も偉大な教師でもある。勝利から学べるものは少ないが、追い詰められ、苦しめられ、打ち負かされている時、あなたは大いなる知恵を得る。なぜなら、その時あなたにへつらう者は去り、それによってついに真の自分自身を知るからである。

[オグ・マンディーノの名言|逆境は最も偉大な教師]
人類の歴史が始まって以来、この惑星の上を歩いたことのある700億人の人間の中に、あなたとまったく同一の人物は誰もいないのです。この世の終わりまで、あなたのような人物は出てこないでしょう。あなたは自分のかけがえなさを知りもしなければ評価もしてきませんでした。しかし、あなたはこの世で最も稀な存在なのです。