龍の声

龍の声は、天の声

「弁当という名の小宇宙」

2016-02-29 07:53:04 | 日本

澁川祐子さんが、日本だからこそ生まれた「弁当という名の小宇宙」と題して掲載している。中々、面白い。弁当を持って、今の時期、赤梅白梅を観賞しよう。
以下、要約し記す。



職場に手製の弁当を持参する「弁当男子」が流行ったのは2009年のこと。さまざまな食材を駆使し、漫画やアニメなどのキャラクターを描く「キャラ弁」にいたってはブームが過熱し、弁当の格差がいじめにつながる、衛生的に悪いなどの理由で禁止する幼稚園や保育園が出るなど物議を醸している。

手づくり弁当に限らず、「買う」弁当も、話題には事欠かない。手軽なコンビニ弁当や「ほか弁」から、豪華なデパ地下や老舗料亭の弁当、さらには特定のシチュエーションで食べる駅弁、空弁(空港で販売されている弁当)、速弁(高速道路のパーキングエリアで販売されている弁当)など、次々と新商品が売り出され、メディアに取り上げられる。

◎なぜ、これほどまで「弁当」にこだわるのか。

考えてみれば弁当は、調理したものを蓋つきの容器に詰め、「持ち運ぶ」ためのものである。手づくりの場合、多くは昼ごはん用として、学校や職場など家以外の場所で食事するためにつくられる(例外として、家にいる家族のためにつくる「お留守番弁当」なるものもある)。

食事を家の外に持ち運ぼうとした動機は、もとは畑仕事や旅など長時間食事ができない事態に備えるためだっただろう。さらに現代では、「節約のため」という経済的理由も大きいに違いない。

だが、弁当に対する日本人の並々ならぬこだわりは、そんな便宜上の理由だけでは説明できそうもない。では弁当のなにが、それほど人びとを惹きつけるのだろうか。
「弁当」はもともと食べ物と無関係だった

まずは「弁当」という言葉をたどってみると、そもそもは食べものとは関係なかったことが判明した。

荒川浩和著『宴と旅の器 辦當箱』(しこうしゃ図書販売、1990年)によれば、「弁当(辦當)」は、<本来は「分ち當(あ)てる」「豫(あらかじ)め用意して當てる」意と解され>、その初出は高野山に伝わる「高野山文書」だという。

「高野山文書」は1592(文禄元)年に発行されたもので、876(貞観18)年から1743(寛保3)年にわたる古文書をまとめたものだ。さらに荒川は、室町時代の辞書類にも、辦當の文字が散見されると指摘している(『携帯の形態 旅するかたち』INAX、1993年)。

弁当」の文字が食べものと紐づけられたのは、近世以降のことだ。
1603(慶長8)年に発行された『日葡辞書』には「Bento(ベンタウ 便当 弁当)」との記載があり、解説には一種の箱で引き出しがあり、食物を入れて携行するものと記されている。

1712(正徳2)年頃に成立したとされる寺島良安著の百科事典『和漢三才図会』には、「樏子(わりご)」という項目に、「行廚(こうちゅう)」という見出しがあり、<今弁当と云う>と記されている。

「樏子」については後述するが、「行廚」とは、もともと持ち運び容器全般のことを指す言葉だ。解説には「郊外で人を饗応する際、人数分に配当して、うまく事を弁じる、だから弁当というのだろうか」といったことが書かれている。

つまり、単に「区切って分ける」「あらかじめ用意する」といった意味の言葉が、「時代を経て食べものを前もって用意して配すること」、さらには「そのときに使われる容器」を指す言葉にまで転じていったのである。

そこで「行廚」とはどんなものだろうと、添えられたイラストを見ると、椀や折敷などがセットされている様子が描かれている。

これを見るかぎりでは、どうやらいまの弁当箱とはずいぶん違う。しかも次項には「食盒(じきろう)」とあり、似たような箱らしきものが描かれている。こうなると俄然、持ち運ぶ容器に、当時どれだけの種類があったのかが気になってくる。


◎おにぎりの原型、平安時代に現る

「弁当」という言葉が登場する以前にも、もちろん人びとは食べものをなんらかの形で持ち運び、食べていた。

 古く奈良時代には、「強飯(こわいい)」と呼ばれる蒸したもち米を乾燥させた「糒(ほしいい)」という携行食があり、これを袋に詰め、必要なときに熱湯で戻して食べたとされる。

平安時代になると、食の多様化とともに、持ち運びの道具にも広がりが出てくる。たとえば、「屯食(とんじき)」と呼ばれるおにぎりの元祖が登場したのも平安時代だ。屯食は儀式などに際して、木の葉に包んで下級役人に配られた。防腐効果のある竹の子の皮や笹にくるんだおにぎりの原型は、すでにこの頃からあったのだ。

また同じ時代、弁当箱の原型ともいうべき持ち運び用の器が登場している。
その1つが『和漢三才図会』に登場する「樏子(わりご)」だ。一般には「破子、破籠」と書いて「わりご」と読む。破子は、檜の薄い板を用いた浅い箱で、中にはおかずとごはんを分けられるように仕切りもつけられていた。これがのちに、「面桶(めんつう、めんつ)」「めんぱ」「わっぱ」などと呼ばれる、曲げものを使った弁当箱へと発展していく。

破子はいわば1人用の弁当箱だったが、儀式や宴席用に際して大人数の料理を運ぶ用の「行器(ほかい)」と呼ばれる運搬具も現れた。行器は、角形のものもあるが多くは円筒形で、3本の反った脚がついているのが一般的であり、2個1組で使われることが多かった。

以来、持ち運び容器は1人用と大人数用の両側面を持ちながら、さまざまな形に発展していく。


◎江戸時代、アウトドアの必需品だった「提重」

1人用の持ち運び容器は、もっぱら実用のために使われた。旅や戦のほか、農山漁村などでの仕事に持っていくものは、自然素材を使った簡素なものが多く、先述の破子(わりご)、面桶(めんつう)やめんぱ、わっぱのほか、ワラやイグサを織った「苞(つと)」や「柳行李(やなぎごうり)」など、その土地にある素材を使ってつくられた。

また、江戸時代には武士の通勤用の弁当「手持(たじ)弁当」も登場する。木製の小箱に、ごはんやおかずを入れる丸形や角形の重箱がコンパクトに収められた持ち手つきのもので、無地の漆塗りのものが主流だった。武士が手ずから提げて出勤したのではなく、昼時に奉公人が届けに行くのが通例だった。

ひるがえって大人数用の持ち運び容器はというと、中国から入ってきた「食籠(じきろう)」が加わり、手の込んだ瀟洒(しょうしゃ)なものになっていった。

食籠は、円形や方形、六角形などの蓋付きの容器で、一段のものから、重ね、また入れ子のものまで形状はさまざまである。漆や蒔絵を施したものが多く、室町時代頃より唐物として珍重された。

これがのちに、日本ならではの角型の重ね容器「重箱」につながったとされる。さらに重箱は持ち手つきの「提重(さげじゅう)」となり、酒宴に必要な徳利や盃、皿などが機能的に組み込まれ、精緻な細工が施されたものがつくられた。

ここで再び先に引いた『和漢三才図会』を見直してみよう。
「食盒」の項目には、三重にも四重にも積み重ねた精美なもので、舟で遠出したり、野遊びしたりする際に必ず用いる器だと書かれている。

何のために大人数用の持ち運び容器が発展したのか。その背景には、室町時代から「遊山」、つまりアウトドアでの遊びが盛んになったことが大きく関係している。

江戸時代前期から中期にかけての浮世絵師、西川祐信が描いた「繪本眞葛ヶ原」の「蛍がり」と題する絵には、舟の右端に提重の収め箱、そして人びとの輪の中心に食べものらしきものが入っている重箱が見てとれる。このように花見や紅葉狩りなど四季折々にふれ、人びとは提重を持って行楽にいそしんだのである。

ほかにも安土桃山時代に大きく花開いた茶の湯文化にともなって登場した「茶弁当」と呼ばれる茶道具一式を備えたものや、歌舞伎など観劇の幕間に食べる「幕の内弁当」などが登場したのも近世だ。

近世の「持ち運ぶ」は、娯楽と深く結びつき、中身も容れものもどんどん遊び心が凝らされていったのである。


◎梅干しで穴が空いていたアルミ製弁当箱

持ち運び容器の変遷を追うに、近世が用途の多様化に伴って形や装飾を極めていった時代だとすれば、近代から20世紀までは、素材の広がりによって機能性を追い求めていった時代だったと言えるかもしれない。

いまも昔ながらの弁当箱として存在しているアルミニウム製の弁当箱は、1897(明治30)年頃から製造されるようになった。ただ、アルミニウムは酸化しやすいため、梅干しを入れているとそのうち錆びて穴が開いてしまう。そんな欠点を補うべく、アルマイト加工を施した弁当箱もほどなくして誕生する。

当時の新聞広告を見てみると、いろんな弁当箱が開発されていることが分かる。たとえば、1902(明治35)年9月15日付東京朝日新聞には<漆塗りと違い臭気なく御飯の腐敗する事なし>と謳い、瀬戸引きの弁当箱が宣伝されている。

翌1903(明治36)年5月17日付の同紙には、<アルミニューム製文庫型辦當箱>の広告が掲載されている。ちなみに文庫型とは、深くて大きい通称「ドカ弁」と異なり、スリムで小さい弁当箱のことを指している。

また同年6月2日付同紙では、アルミニウム製の組み立て式の弁当箱といったものも見受けられる。これは食べ終わった後にバラバラにして持ち帰れるというものだ。

『vesta』1995年1月号に掲載されている「特許資料にみる明治時代の弁当箱」と題する記事(近藤雅樹・筆)では、蒸気を送り込むパイプがついたものや、アルコールランプがついたもの、湯切がついたものなど、奇想天外な弁当箱がいくつも紹介されている。これらはいずれも、温かいままご飯を食べたいという願望をどうにか実現させようと苦心したものだ。

以来、戦後しばらく経つまでアルマイト製は弁当箱の主流を保ってきたが、一度だけ不遇の時代を経ている。それは1941(昭和16)年に発令された金属類回収令によって供出の対象になり、世間から姿を消したのである。代わりにベニヤ板を使った代用弁当箱などが使われた。

戦後の流れを簡単に追うと、1950年代になって汁もれ防止のパッキンつきの開発が進むとともに、プラスチック製品も徐々に出回るようになった。

1960年代半ばには、魔法瓶の構造を応用したジャー式の保温弁当が登場。さらに1970年代半ばには、「ほか弁」やコンビニ弁当が誕生し、弁当は「家でつくって外で食べる」だけでなく「外で買って家に持ち帰る」ようにもなったことを付け加えておきたい。

最近はと言うと、汁気の多いものも入れられるシリコン製や、錆に強いステンレス製、保温または保冷に適したタイプといった新商品が登場する一方、昔ながらのわっぱや漆塗りの弁当箱も根強い人気を誇っている。

だが、ここ数年の変化を見るに、これまでの機能を改良したり、軽く薄くしたりするに留まり、もはや形や機能の大きな変化は見られない。その代わりか、21世紀は中身の見た目へと人びとの注目が移ってきているのではないだろうか。


◎物理的制約から誕生する「小宇宙」

弁当の見た目へのこだわり。それは、「松花堂(しょうかどう)弁当」に象徴されているように思う。

松花堂弁当とは、十字に仕切った四角い箱に、煮物、焼物、造り、ごはんなどを形よく盛りつける弁当のことだ。その起源は、江戸時代初期の僧侶で茶人であった松花堂昭乗(しょうかどう・しょうじょう)が、農家にあった仕切りつきの種入れ箱に目を留め、これをヒントに茶会で使う煙草盆や絵具箱をつくったことにさかのぼる。

それを昭和初期、のちに「吉兆」の創始者となる湯木貞一が茶会の席で料理を盛るのに用いたことから、松花堂弁当と呼ばれるようになったという。

四角く区切られた狭い空間に、彩りよく旬の食材を盛り、季節を写し取る。海外の弁当事情も調べてみたが、世界中に弁当はあれど、そこまで見た目に凝るのは日本ぐらいだ。それはなぜなのか。


◎器は縁高で四角く、なかには仕切り。かぶせ蓋がつく

伝承料理研究家の奥村彪生は、農文協編『聞き書 ふるさとの家庭料理 19巻 日本のお弁当』(農山漁村文化協会、2003年)の中で、日本で弁当文化が発達した理由として

以下の2点を挙げている。
第一に冷めても味が変わりにくい粘りの強いジャポニカ米が主食であったこと。第二に焼もの、煮もの、和えものといったおかずが中心で、とくに煮ものはダシのうま味が効いているうえ、冷めたほうが味が染み、保存性も高まること。さらに付け加えるなら、汁気が少ない料理が多いことも、詰めやすさの一因といえるだろう。

そうした食材や調理法によるところももちろんのことながら、近世の行楽弁当の影響が色濃く残るからこそ、現代にいたるまで日本ではかくも多様な弁当文化が育まれてきたのではないかと、私は考えている。

風光明媚なところで大勢と囲む弁当は、どうせなら舌だけでなく、目でも楽しめるものが望ましい。そんなハレの日の弁当の姿は、いまでも花見や運動会などの行事に引き継れている。

 おまけにデパ地下や料亭に行けば、お手本ともいうべき見目麗しい弁当がずらりと並んでいる。そう考えると、キャラ弁ブームは、いかにも日本ならではの現象なのだろう。
 持ち運ぶがゆえに、物理的な制約が生まれる弁当という器。そこにいかに小宇宙を構築するか。たとえ出来上がった弁当の見た目が違っていても、やっていることの本質は遠い昔と変わりがないのだ。













「軍艦島(端島)で思ったこと」

2016-02-28 07:48:45 | 日本

菅家一比古さんから『言霊の華第三六七号』が来た。
以下、要約し記す。



昨日、大浦諏訪神社の今村宮司ご夫妻の御案内で、長崎市の沖合にある軍艦島に見学に行って参った。

軍艦島は正式には端島(はしま)と言い、良質な石炭が採れ有名だった。
2015年7月、「明治日本の産業革命遺産」の一つとして世界文化遺産に登録されたことで、広く世界に知られるようになったのをご存知かと思う。
東西160メートル、南北480メートル、周囲1,200メートルの小さな島である。 島と言うよりも岩礁と言った方が正しい。
小さな無人島の岩礁に炭鉱の採掘が始まってから昭和49年の閉山まで、約80年の歴史を刻んだ。この小さな島に五千人以上の人々が暮らし、保育園も幼稚園も、小、中学校も総合病院もあった。
人口密度は東京の9~10倍で世界一。人々は女性も子どもも、お年寄りも普通の生活を営んでいた。島あげてのお祭り、そう、神社が岩礁の小高い丘にあった。端島神社である。
お祭りも島全体でやるのと、地区ごとに行われるのと両方である。島あげての運動会、マラソン大会、コンサート、演劇、大正5年に全国で初になるRC構造、鉄筋コンクリート作りの8階建てのアパート、高層鉄筋コンクリート(RC)のアパート、学校、病院等が30棟以上も林立していた。
ビルの屋上を利用して緑化推進、青空農園も盛んで、ダストシュートも備わっていた。

生活も豊かだった。給料は普通のサラリーマンの倍以上。しかも家賃、光熱費、共益費合わせて、たったの8円(昭和30年代、40年代)。もう既に全国に先がけ、テレビ、冷蔵庫、洗濯機の普及率100%で日本一。
労使の対立無し、80年の歴史で犯罪発生率ゼロ。信じられるのか?
五千人の人口に対し駐在警察官はたったの二人。それも暇で暇で仕方なかったそうである。牢屋(ろうや)はあることはあるけれど、犯罪で入った者はゼロ、泥酔した酔払いが一時的に入るだけ。
喧嘩はしょっ中あったらしい。しかし、犯罪に至ることはなかった。

私は軍艦島ミュージアムの映像やパネル写真に、夥(おびただ)しい数の子どもたちの、屈託ない明るく楽しそうな笑顔と、大人の男女のやはり明るい爽やかな笑顔を見て、感動と言うよりも郷愁と言うべきか、あるいは、それは「懐かしさ」とでも言うべきものを感じた。
その思いが今、この時点でも消えることがなく続いている。軍艦島(端島)は日本そのもの、日本の縮図だったのだと思えてならない。

軍艦島が閉山して皆が島を去っていく時、家族の別れのように皆泣いたと言う。六畳一間に家族が暮らし、小さな島に五千人以上の人々が共に助け合い励まし合って生きていた。

狭い日本の国土、狭い平地、狭い農地、お互いが家族のように助け合って生きてきたのが、本来の日本であった筈。軍艦島はそれを現代を生きる我々日本人にメッセージしている。

そして、朝鮮人の強制徴用、強制労働など、あれは真実ではないと実感した。









「成功の定義」

2016-02-27 07:26:01 | 日本

松本守正さんのブログ「成功の定義」について記す。


成功とは価値ある目標に向かって一歩一歩前進していく過程である。

目標に向かって出来ることを一歩一歩確実にやっていく。
その積み重ねが目標へたどり着く。

歩む中でやらなきゃいけないこと、「決意」と「決断」文字通り決める!ということ。
そして、決める為に何かを断つ。
成功を邪魔する弱さや甘えなど捨てるものを決めて断つ!ということである。

『成功とはあなたの決意ひとつ』
泣き言なし!
言い訳なし!
待ったなし!

泣き言積もった人生には永遠に幸せはこない。
たった一度きりの人生に挑戦しよう!
自分の人生は自分で作りあげてゆくものだから!!






「人間的魅力」

2016-02-27 07:24:43 | 日本

松本守正さんのブログ「人間的魅力」について記す。



服装も魅力的な服を着た方がいい。
体型も魅力的な体型の方がいい。
お金持ちはお金より自分の体が大切だということをよく知っている。
魅力とは形から入っていく。

自分の考え方に魅力があるか。
自分の発してる言葉に魅力があるか。
自分の行動に魅力があるか。
自分の表情に魅力があるか。
自分の姿勢に魅力があるか。

魅力的な人の話は聞くが魅力のない人の話は聞かない。
同じ商品を売れる人と売れない人との差は魅力の差である。
どんなに魅力的な商品でも魅力のないあなたが売るから売れない。
売れる営業マンは魅力がある。

お金を追っかけるより魅力を養う。
魅力あるところにお金も人も物を集まってくる。








「明るい人生に」

2016-02-27 07:23:56 | 日本

松本守正さんのブログ「明るい人生に」です。


・お金=成功ではないこと。
・常に物事を前向きに考え、夢を持っている人。
・過去のこと、終わったことをいつまでもグチグチ考えてても仕方がない。
・人に対して物に対して全ての物事に対して感謝できる人。
・感謝される人間よりもまず感謝できる人間になろう!に全力をあげる。

この事を忘れずに日々成長していきたいですね!!








「子は親の鏡」

2016-02-27 07:23:08 | 日本

松本守正さんのブログ「子は親の鏡」について記す。


けなされて育つと子供は人をけなすようになる。
遂げ遂げした家庭で育つと子供は乱暴になる。
不安な気持ちで育てると子供も不安になる。「かわいそうな子」と言って育てると子供は惨めな気持ちになる。
子供を馬鹿にすると引っ込み思案になる。
親が他人を羨んでばかりいると子供も人を羨む様になる。
叱りつけてばかりいると子供は「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう。
励ましてあげれは子供は自信を持つようになる。
広い心で接すればキレる子にはならない。

誉めてあげれば子供は明るい子に育つ。
愛してあげれば子供は人を愛するようになる。
認めてあげれば子供は自分が好きになる。
見つめてあげれば子供は頑張り屋になる。
分かち合うことを教えれば子供は思いやりを学ぶ。
親が正直であれば子供は正義感のある子供に育つ。
優しく思いやりを持って育てれば子供は優しい子に育つ。
守ってあげれば子供は強い子に育つ。
和気あいあいとした家庭で育てば子供はこの世はいい所だと思えるようになる


◎子供の5つの願い-

・愛されたい
・認められたい
・人の役に立ちたい
・自由になりたい
・誉められたい

どんな時代も子供から尊敬される親でなければならないと思う。
その為にはいつも寛大な心で、子供の価値を認め、理解して、個性を尊重してあげることが大切である。
そしてしっかりとした後ろ姿を見せていけるかどうかが一番問われるのではないでのか。











「女性とは」

2016-02-27 07:22:09 | 日本

松本守正さんのブログ「女性とは」について記す。


男性の方に、女性の心理、女性は男性と違う生き物だということについて書く。
女性の言語能力は非常にたくみで発達している。
なんと1日、6000-8000の言葉を発し、また言葉にならない、ギャーとかワァーとかを、3000-4000回発するという。
ボディランゲージ 8000-10000回。
合計20000回!

その点男性は8000回だということらしい。

また女性への誉め言葉だが、「お似合いですね」では全然喜ばないそうで、「かわいい」という言葉が女性の心理をくすぐり、一番喜ぶ言葉だそうである。

昔から"女心と秋の空"というが、移り気で変わりやすい。
その為、女性が流行をつくり、流行が大好きだということである。
まさしく花から花へと…♪。

そして女性の興味は、半径10メートル以内だという。
男性の皆さんに、女性はこういう生き物だと思って頂いたら分かりやすい。

最後に…
「女性はさまざまな種類の愛情を与えてくれるが、どんな愛情の中にも、必ず母性愛というものが含まれている。」 by ニーチェ











「マイタケとは、」

2016-02-26 07:52:58 | 日本

ガン、HIV、糖尿病、血圧降下など「マイタケ」の効果は絶大である。
以下、「マイタケ」について学ぶ。



マイタケ(舞茸、学名:Grifola frondosa、英:Hen of the Woods)は担子菌門トンビマイタケ科のキノコ。食用として馴染み深いキノコである。中国語名は「灰樹花」。


◎生態

マイタケは世界中の暖温帯から温帯北部にかけて分布し、ナラ類、カシ類、シイ類といったブナ科樹木の大木の根株で心材に寄生して白色腐朽を引き起こす木材腐朽菌である。白色腐朽を起こした宿主心材にはオレンジ色の幅1-2mm幅の縞模様が生じる。
子実体は塊を形成し成長する。しばしば直径50cm以上、重さ10kg以上にも達する巨大なものも見られる。日本列島では秋(9月下旬から10月上旬)頃に宿主樹木の根元に毎年ではないものの、幾年にも亘って繰り返し発生する。子実体の形状は太い柄から何回にも亘って分枝し、その先端にへら状の小型の傘を群生するマイタケ型と呼ばれるタイプである。傘の裏には白色の細かい管孔が群生し、その内面に非アミロイド型の胞子をつける。


◎食材としての利用

マイタケは、旨みが強く、また歯切れも良く、基本的に生食以外ほとんどの調理法でおいしく食べられる。炒め物、鍋料理、天ぷらなどによく利用される。ただし、マイタケプロテアーゼというタンパク質分解酵素を多く含むので、茶碗蒸しに生のまま用いると固まらなくなる。従って、茶碗蒸しに入れる場合は、この酵素を熱で失活させるため、数分間加熱してから用いるとよい。逆にこの性質を利用し、細かく刻んだ生のマイタケを肉にまぶしてから調理することで、固い肉も軟らかくなり旨みが増す。
煮物、吸い物や卵とじなどには、料理そのものの色に影響を与える(黒っぽい色になる)ことから、料理店では慎重に取り扱いが行われる。また、少量のマイタケをごく少量の塩をまぶして炙り熱燗の日本酒に入れて、マイタケのエキスを引き出して飲む「マイタケ酒」なるものもある。


◎歴史

今日の日本では非常になじみ深い食用キノコの一つとなっているが、人工栽培が盛んになる前は南関東の照葉樹林地帯以南では食習慣は一般的ではなかった。
落葉広葉樹林帯では古くから貴重な食用菌であり、子実体発生木の希少性と食味の良さのみならず、一旦得られた時の収穫量の多さ、発生木さえ把握していれば時をおいて何年にも亘って確実に収穫できる性質が相まって、このキノコの価値を高めた。周期的に子実体が発生するミズナラなどの大木は採集者によって秘密にされ、家族にもその場所を明かさなかったと言われる。そのため北国の深山のキノコのイメージが強いが、暖地においてしかも都会の公園のシイの大木にも発生することが知られている。名前の由来は、野生の大きく育った子実体の姿がまるで人々が集まって群舞しているようであるからだという説と、野生の子実体を発見した人々がその喜びのあまり舞いあがったからという説がある。

「今昔物語集」にはキノコを食べて一時的な精神異常を来して舞い踊った人々が出た事からそのキノコを舞茸と呼んだとの記事が見られるが、これは今日言われるところのマイタケではなく、フウセンタケ科のオオワライタケやシロシビンを成分に持つヒトヨタケ科のワライタケ、ヒカゲタケなどの幻覚性キノコであろうと考えられている。『今昔物語集』においても「今日のマイタケではそういう事は起こらない」と記しており、物語中のマイタケと今日のマイタケが混同されている。

岩手県の一地方では、山の神の祭事の折に収穫しその際に三度舞を舞って採るという慣わしがあった。


◎栄養価

栄養学的にはビタミン類やミネラル、食物繊維に富み、特に亜鉛、ナイアシン、ビタミンDを多く含む。食物繊維を構成する多糖類βグルカン、マイタケDフラクションの一部は身体の免疫力を高めるなど、さまざまな効果があるとする研究もなされている。このため、マイタケから抽出したエキスをもとにした健康食品やサプリメントも多数販売されている。一部に「ストレス沈静作用」や「認知症に効果がある」などの話があるが、人間での科学的なデータは不足している。


◎注意点

国立健康・栄養研究所によれば、「血糖値に影響を与える作用がある」との報告と、「低血圧のリスクがある人、あるいは降圧薬の服用をしている場合は注意が必要」としている。
キノコアレルギーによりアナフィラキシーショックを起こす場合がある。
加熱は必須で、生食により食中毒を起こす場合がある。


◎栽培と流通

現在市場に出回っているものはほとんどが人工栽培のもので、野生のものはごく少量である。現在でも野生のものは、その希少性から高価で「幻のキノコ」と言われ、マツタケと同等かそれ以上に珍重されている。
シイタケやエノキタケなどと比較し、マイタケは害菌に対する抵抗性が低く、原木に直接種菌を接種しても菌が蔓延せず人工栽培は容易ではなかった。しかし、1970年代半ば頃に子実体を形成しやすい系統の選抜と原木殺菌後の育成方法の研究が日本各地で行われた結果、人工栽培方法が確立された。最初に栽培が行われた頃は、原木栽培(短木殺菌栽培法)で生産されたが、1990年代頃から菌床栽培方法が普及し安価な菌床栽培によるものが広く流通している。
菌糸体の成長温度は5-35℃、最適温度範囲は25-30℃。子実体の発生温度は18-22℃、生育適温は15-20℃。菌糸はpH4.4-4.9 で良好な成長を示す。オガクズの粒径、育成および発生段階の二酸化炭素濃度、湿度、光量、光の波長は発生量と品質に影響する重要な要素である。マイタケは他の栽培キノコと異なり、培養温度と原基形成温度帯が重なっているため、菌床(ほだ木)毎の成長度合いは不均一になる。酸素要求性が高く、二酸化炭素濃度の上昇を避ける必要があり、とくに原基形成以降は二酸化炭素濃度が 2,000ppm 以上になると、収量、形状に著しく影響する。
2010年(平成22年)に日本では43,446トン、326億円が生産された[6]。


◎原木栽培

原木は落葉広葉樹で、主にミズナラ、コナラのほか、アカシデ、イタヤカエデ、ヤマザクラが利用される。 シイタケの原木栽培方法とは異なり、原木を 10-30cm に切断しポリ袋などに入れ加熱殺菌(滅菌)した後、冷却し種菌を接種する方法が用いられる。暗く湿度を高くした育成室で十分に育成し、菌が蔓延した木を直射日光を避け「水はけの良い林間」や「日除けをした畑」に埋め込む。埋め込みは発生させようとする1ヶ月前までに行うのが良いとされ、天然の周期にあわせ子実体を発生し梅雨期や秋に収穫を行う。埋め込みを行い、万一害菌感染をしてしまった場合は、直ちに該当するほだ木を取り除き消石灰を蒔く。一方、地中への埋め込みをせず、空調管理された室内で発生させる方法もある。


◎菌床栽培

「袋栽培」「ビン栽培」各々に適した品種がある。広葉樹のオガクズを原料とするが、菌糸伸長阻害物質を除去するため、加水堆積を施してから使用する場合もある。シイタケ廃ホダ木のオガコ、コーンコブミール、ビールのしぼり粕など食品副産物も利用する。栄養源は、コーンブラン(トウモロコシの胚芽を取り除いた後に残った部分)、フスマ、乾燥オカラ、ジュースしぼり滓、ハトムギなどが配合される。 栽培は滅菌及び空調管理されたクリーンルームで行われる。

含水率を64%前後に調整、栽培容器に通気性を考慮しつつ堅く充填し滅菌。
冷却後に清浄度が保たれた環境で種菌を接種。
培養室は24℃前後、湿度65%前後で暗黒。この際、呼吸による培地温度や二酸化炭素濃度の変化に注意し管理する。
35-40日が経過して菌糸体の蔓延後、点灯により原基形成を促す。
原基に凹凸が形成され子実体発生が近い物から、17℃前後、湿度90%程度の発生室に移動して子実体を生育させる。
育成環境に関する多くの項目は、使用原料、生育者、菌株により異なり特許や実用新案が成立している。


◎流通

一般に市場に多く出回っている菌床栽培品は天然採集品と比べると歯切れや風味に乏しいが、原木栽培品の食味は天然採集品に匹敵する。菌床栽培でも菌糸の蔓延した菌床を森林土壌に埋設して栽培するとかなりの品質の向上が認められるが、天然採集品と同時期のみの子実体発生となり温度管理等による周年の計画的出荷が不可能になるため生産方法としては一般的ではない。しかし、こうした高品質栽培品を観光客に採集させる季節的イベント開催によって高収益を目指すキノコ栽培業者もある。


◎近縁のキノコ

マイタケと同属の菌に日本固有種でマイタケより発生時期が10日ほど早く、色が白または黄白色のシロマイタケ Grifola albicans Imaz.が知られている。肉質がマイタケよりももろく、歯切れはよくない。またかつては同じGrifola属とされていたが今日は別属に分類されている菌に、次の2種が知られている。
トンビマイタケ Meripilus giganteus (Pers.: Fr.) Karst. はミズナラなどのナラ類に多いマイタケに対してブナに寄生することが多い。子実体はマイタケ型ではあるが半円形の大型の傘を広げる。成熟するにつれて硬くなる傾向があるが、秋田県では乾燥した成菌をきりたんぽの出汁としてよく利用する。
チョレイマイタケはブナ林、ミズナラ林或いはこれらの伐採跡地の地下10cm程の所に宿主の根に沿って固い菌核を形成し、ここから、あるいは宿主から直接マイタケ型の子実体を生じる。この菌核は猪苓と呼ばれ日本薬局方に収録されている生薬である。
また、これらと近縁ではないがトンビマイタケによく似た子実体を形成する菌にミヤマトンビマイタケ科 Bondarzewiaceae に属し広葉樹の材につくオオミヤマトンビマイタケ Bondarzewia berkeleyi (Fr.) Bond. et Sing. と針葉樹の材につくミヤマトンビマイタケ Bondarzewia montana (Quel.) Sing.がある。これらは成熟して硬くなる前の幼菌の時期に食用になる。


◎マイタケ、生 100 gあたりの栄養価
・エネルギー     67 kJ (16 kcal)
・炭水化物      2.7 g
・食物繊維      2.7 g
・脂肪        0.7 g
・飽和脂肪酸     0.07 g
・一価不飽和脂肪酸  0.12 g
・多価不飽和脂肪酸  0.13 g
・タンパク質     3.7 g


◎ビタミン
・ビタミンA相当量   (0%) (0) μg
・β-カロテン      (0%) 0 μg
・チアミン (B1)    (22%) 0.25 mg
・リボフラビン (B2)  (41%) 0.49 mg
・ナイアシン (B3)   (61%) 9.1 mg
・パントテン酸 (B5)  (16%) 0.79 mg
・ビタミンB6     (5%) 0.07 mg
・葉酸 (B9)      (15%) 60 μg
・ビタミンB12    (0%)  (0) μg
・ビタミンC     (0%)  0 mg
・ビタミンD     (23%) 3.4 μg
・ビタミンE     (0%)  0 mg
・ビタミンK     (0%)  0 μg


◎ミネラル     
・カルシウム     (0%)  1 mg
・鉄分        (4%)  0.5 mg
・マグネシウム    (3%)  12 mg
・リン        (19%) 130 mg
・カリウム      (7%)  330 mg
・ナトリウム     (0%)  1 mg
・亜鉛        (8%)  0.8 mg


◎他の成分
・水分       92.3 g


◎単位
・μg = マイクログラム
• mg = ミリグラム
・IU = 国際単位
・%はアメリカ合衆国における


◎成人栄養摂取目標 (RDI) の割合。
・100g中の食物繊維
・炭水化物   2.7 g
・食物繊維総量 2.7 g
・水溶性食物繊維0.3 g
・不溶性食物繊維2.4 g











「バングラデシュ人民共和国④」

2016-02-25 07:55:40 | 日本

◎地理

バングラデシュの地図。

バングラデシュの国土の大部分はインド亜大陸のベンガル湾沿いに形成されたデルタ地帯である。このデルタ地帯を大小の河川やカールと呼ばれる水路が網の目のように走っている。沼沢地とジャングルの多い低地であり、ジャングルはベンガルトラの生息地として知られる。北をヒマラヤ山脈南麓部、シロン高原(メガラヤ台地)、東をトリプラ丘陵やチッタゴン丘陵、西をラジュモホル丘陵に囲まれ、南はベンガル湾に面している。東部や東南部に標高100~500メートルの丘陵が広がる。

ヒマラヤ山脈に水源を持つ西からガンジス川(ベンガル語でポッダ川)、北からブラマプトラ川(同ジョムナ川)が低地のほぼ中央で合流し、最下流でメグナ川と合流して、流域面積173万平方キロメートルものデルタ地帯を作っている。デルタ地帯はきわめて人口密度が高い。バングラデシュの土壌は肥沃で水に恵まれることから水田耕作に適しているが、洪水と旱魃の双方に対して脆弱であり、しばしば河川が氾濫し多くの被害を及ぼす。国内の丘陵地は南東部のチッタゴン丘陵地帯(最高地点:ケオクラドン山、1230m)と北東部のシレット管区に限られる。

北回帰線に近いバングラデシュの気候は熱帯性で、10月から3月にかけての冬季は温暖である。夏季は3月から6月にかけて高温多湿な時期が続き、6月から10月にかけてモンスーンが襲来する。ほぼ毎年のようにこの国を襲う洪水、サイクロン、竜巻、海嘯といった自然現象は、一時的な被害にとどまらず、森林破壊、土壌劣化、浸食等を引き起こし、さらなる被害を国土に対して及ぼしている。

国内最大の都市は首都であるダッカである。通常ダッカと呼ばれているが、ベンガル語を正式に読むと促音は入らず「ダカ」である。他の主要都市はチッタゴン、クルナ、ラジシャヒである。チッタゴンの南に位置するコックスバザールは世界最長の天然のビーチとして知られる。


◎行政区分

◎行政区画

最上位の行政単位は、6つある管区である。それぞれ中心となる都市の名が付けられている。しかし、管区には実質的な機能はなく、その下にある県 (Zila) が地方行政の主位的単位となる。2005年1月現在、64県が存在する。県の下には郡(ウポジラ)が置かれ、その下にいくつかの村落をまとめた行政村(ユニオン)がある。
クルナ管区
シレット管区
ダッカ管区
チッタゴン管区
バリサル管区
ラジシャヒ管区


◎経済

IMFによると、2013年のバングラデシュのGDPは1,413億ドルであり、一人当たりのGDPは904ドルである。国際連合による基準に基づき、後発開発途上国と位置づけられている。2011年にアジア開発銀行が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は国民の75%を超える約1億1800万人と推定されている。

同国はガンジス川の氾濫により涵養された、世界有数の豊かな土地を誇り、外からの侵略も絶えなかった。「黄金のベンガル」と言われていた時代もあり、膨大な人口と労働力を持っていることから経済の潜在能力は高いが、洪水などの自然災害の影響で現在では貧困国の一つに数えられる。

バングラデシュは内外問わずに援助を受けているにもかかわらず、過剰な人口や政治汚職などによって未だに貧困を脱しきることが出来ないでいる。バングラデシュの発展を阻害しているものとしては、多発するサイクロンやそれに伴う氾濫などの地理的・気候的要因、能率の悪い国営企業、不適切に運営されている港などインフラの人的要因、第一次産業のみではまかない切れない増加する労働人口などの人口要因、能率の悪いエネルギー利用法や十分に行き渡っていない電力供給などの資源的要因、加えて政治的な内部争いや崩壊などの政治的要因が挙げられる。


◎農業

人口の62%は農業に従事し、国民の7割以上が農村に住む。主要農産品はコメおよびジュート(コウマ・シマツナソ)である。コメの生産量は世界第4位で、かつ生産量も年々微増している。国連食糧農業機関(FAO)によると穀物自給率は90%を超え、特に米に関しては消費量のほぼ全てを自給している。

バングラデシュの稲は雨季前半に栽培されるアウス稲、雨季後半に栽培され収穫の中心となっているアマン稲、乾季に栽培されるボロ稲の3種に分かれる。気候的に二期作や三期作も可能であるが、乾期にはガンジス川の水位が低下するため、行える地域は限られていた。しかし、井戸の普及や改良種の普及により、特に乾季のボロ稲の農業生産が大幅に拡大し、それにつれてアウス稲やアマン稲の生産も増加を示した。それによって、二期作や三期作の可能な地域も増加して米の生産量が大幅に増大した。これがバングラデシュにおける「緑の革命」といわれる農業生産の近代化促進である。緑の革命は国家政策として行われたが、緑の革命は農家の設備投資支出の増大を強いた。一方で生産量増大はその負担を埋めるまでにいたらないという問題を抱えている。

ジュートは農産品として最も重要な輸出品であるが、1980年代以降化学繊維に押され重要性は下がってきている。ジュートに次ぐ輸出農産品は紅茶であり、紅茶の名産地として知られるインドのアッサム州に隣接する北部シレット地方において主に栽培されている。19世紀には藍の世界最大の産地であったが、化学染料の発明と普及により生産は激減した。


◎繊維工業

繊維工業の発展は、経済成長によって繊維生産が不振になり始めた韓国や香港からの投資をきっかけに、1970年代に起こり始めた。近年では中国の労働コスト上昇に伴い、バングラデシュの廉価な労働コスト(月給が中国の1/3)が注目されており、繊維製品等の軽工業製品の輸出は増大している。これにより、ようやく軽工業が発展し辛うじて経済発展の緒に就いたと言える。膨大な人口と繊維産業の成長が評価され、NEXT11の一角ともなった。現在、バングラデシュの輸出の80%は繊維製品によって占められている。チャイナ+1の製造国として非常に注目を集めており、大手繊維メーカーなどの進出が多く行われている。


◎労働力輸出

バングラデシュの貿易収支は輸入品より輸出品のほうが少なく、常に大幅な赤字となっている。これを多少なりとも埋めるのが、外国に出稼ぎに行った労働者たちの送金収入である。1997年には出稼ぎ労働者は総計40万人を超えた。出稼ぎ先はイスラム教国が多く、最大の出稼ぎ先はサウジアラビアで出稼ぎ労働者の3分の2を占め、クウェートやアラブ首長国連邦などの湾岸諸国にも多く労働者が向かっている。東では、マレーシアやシンガポールに多い。日本でも、1万人ながらも在日バングラデシュ人が存在する。


◎NGO

ダッカなど都市部ではNGO、農村部ではグラミン銀行による貧困層への比較的低金利の融資を行なう事業(マイクロクレジット)が女性の自立と貧困の改善に大きな貢献をしたとして国際的に注目を集めている。2006年にはグラミン銀行と創設者で総帥のムハマド・ユヌスは「貧困層の経済的・社会的基盤の構築に対する貢献」を理由にノーベル平和賞を受賞し、バングラデシュ初のノーベル賞受賞者となった。また、2008年にはインターネット網が農村、学校等にまで広げられ、大々的にこれを祝った。NGO が多く存在する中でも筆頭がBRACK(Bangladessh Rural Advancement committee バングラデシュ農村向上委員会ブラック)である。BRACKは1972年設立、すべての県に事務所を置き、農村や都市の貧困層を対象に活動している。


◎洪水

バングラデシュの殆どの耕作地域は雨季に河川の溢水により水に沈む。時折耕作地域だけでなく、土盛りして高台にしている住宅地や幹線道路も浸水被害を受ける。こういった大洪水が「ボンナ」と呼ばれ、破壊と災厄をもたらすものとみなされる一方で、毎年起こる程度の適度な洪水は「ボルシャ」と呼ばれ、土壌に肥沃さをもたらし、豊かな漁場とありあまるほどの水、豊作をもたらす恵みの存在と考えられている。ボンナが発生するとアウス作、アモン作の生産量に悪影響があるが、近年大洪水となった2004年および2007年でも10%程度のアモン生産量の減少にとどまっている。このほかに河岸侵食による土地流出も過去には深刻な被害をもたらしていたが、近年のインフラ整備により、改善されてきている。


◎鉱業

バングラデシュは鉱物資源に恵まれない。唯一ともいえる資源が天然ガスである。1908年に発見される。その後英国統治時代にも開発が続けられ、独立以後は外国資本による生産分与方式(PS方式)で進められた。政府は1970年代より天然ガス資源の探査、生産を推進し、1984年のバクラバードガス田(チッタゴン)操業開始をはじめ、17のガス田を開発した。1997年には全国を23鉱区に分け、企業入札が実施された。2003年時点の採掘量は435千兆ジュール。現在(2008年)12のガス田、53の井戸から日量13億立方フィートの生産可能となっている。ガス田はジャムナ川より東側に分布しており、パイプラインで輸送されている。現在ボグラ市まで達している。埋蔵量(『オイル・アンド・ガス・ジャーナル』2002年4月の記事)は、生産中及び確認・確定埋蔵量は、28.8兆立方フィート。アジア地域では、マレーシア80兆、インドネシア72兆に次ぐ埋蔵量。埋蔵量については種々の試算方式があり、それぞれに大きな開きがある。ガスの消費は、発電で約50%、約40%が工場で、約10%が個人世帯・商業で利用されている。ガス管敷設距離の延長に伴い個人用消費が伸び、最近の10年間で年率10%を超えている。


◎通貨

通貨単位はタカ。レートは1米ドル=77.92タカ(2013年8月22日現在)。


◎労働力

雇用は貧しく、失業率はネパールとほぼ同じで、40%を超えるほどである。産業別の労働人口比率は、2007年のデータで農業が62.3%、サービス業が29.4%、鉱工業が8.3%であり、近年の急速な繊維産業の成長により工業化が進む現在においても、未だ本質的には農業国である。しかし、貧富の差や農地面積に比して人口が多すぎるため、農地だけで充分な生計を立てられる世帯は4割程度に過ぎず、残りの6割は小作農や日雇い労働者として生計を立てている。近年ではグラミン銀行などが進めるマイクロ・クレジットの拡大や経済成長によって貧困層の一部に生活向上の兆しがあるものの、貧困は未だ深刻な問題となっている。

労働人口は(2002年)4,630万人である。


◎交通

デルタ地帯にあり縦横に水路が張り巡らされている地形であるため、道路はあまり発達していない。代わりに、舟運の可能な水路は3800kmに及び、バングラデシュの輸送に重要な位置を占めている。雨季と乾季では水位が違い、陸路と水路の利用に大きな差が出る。主要貿易港は海港である東部のチッタゴンである。他に海港としては西部のチャルナ港が大きく、またダッカやボリシャル、ナラヤンガンジなどには規模の大きな河港がある。


◎道路

アジアハイウェイ1号線が北部からダッカを通って西部国境まで通じている。


◎鉄道

鉄道は国営鉄道であるバングラデシュ鉄道によって運営され、総延長2706kmで、ブラマプトラ川を境に軌間が違い、ブラマプトラ以西は1676mmの広軌、ブラマプトラ以東(ダッカやチッタゴンも入る)は1000mmの狭軌である。広軌路線が884km、狭軌路線が1822kmである。


◎空運

空港はダッカのシャージャラル国際空港やチッタゴンのシャーアマーナト国際空港などがあり、シャージャラル国際空港に本拠を置く国営航空会社ビーマン・バングラデシュ航空やユナイテッド・エアウェイズなどの航空会社が運行している。バンコク、コルカタ便が主である。国内線はチッタゴン、ジェソール、シレットの空港があるが、不安定で利用は少ない。


◎人口

バングラデシュは、シンガポールやバーレーンなどの面積の小さい国を除くと世界で最も人口密度の高い国である。1平方キロメートルあたりの人口は2012年現在で1173人になり、しばしばインドネシアのジャワ島と比較される。人口爆発が社会問題となっているため、政府は1992年より、人口調節を推進して人口の増加を抑えようとしており、一定の成果を上げつつある。1992年に4.18あった合計特殊出生率は2001年には2.56に、2011年には2.11まで減少している。
人口増加率は独立当初3%を超え、3.4%(1975年)だったが、2.02%(1995年)、2.056%(2007年推計)、1.26%(2008/2009年)と急激に減少してきている。近年は南アジアで最も人口増加率の低い水準の国となっている。


◎言語

ベンガル語が公用語である。文字はデーヴァナーガリーに似たベンガル文字を用いる。ベンガル語に加え、英語も官公庁や教育機関で使用されており事実上の公用語である。住民はベンガル語話者であるベンガル人がほとんどで、人口の98%を占めている。その他に、ウルドゥー語を話す、ビハール州などインド各地を出身とする非ベンガル人ムスリムが2%を占める。他に、南東部のチッタゴン丘陵地帯にはジュマと総称される10以上のモンゴロイド系先住民族が存在する。ジュマの総人口は100万人から150万人とされる。


◎宗教

イスラム教(en:Islam in Bangladesh)が89.7%、ヒンドゥー教が9.2%、その他が1%である。その他の宗教には仏教、キリスト教などが含まれる。バングラデシュはイスラム教徒が多数派であるが、ヒンドゥー教徒の人口割合もかなり高く、両者は平和裏に共存している。また、パハルプールの仏教寺院遺跡群に見られるように、以前は、仏教が大いに栄えていたため、現在でも、一部の地域では、仏教が信仰されている。どの宗教を信仰しているかという点も重要だが、それ以上に、同じベンガル民族であるという意識の方が重要視され、両者は尊重しあっている。このような意識はインド側の西ベンガル州でも同様に見られる。


◎衛生状態

国民の大多数は土地を所有せず、あるいは洪水の危険が高い低湿地にすんでおり、衛生状態はきわめて悪い。このため、水を媒介として、コレラや赤痢などの流行がたびたび発生している。こうした状況を改善するため、国際機関が活動を行っている。特に飲用水の衛生状態の改善のため、井戸の整備を独立後に進めてきたが、多くの井戸が元来地層中に存在したヒ素に高濃度に汚染され、新たな問題となっている。多くのヒ素中毒患者が発生しており、人口の4分の1以上がヒ素中毒やヒ素による発癌の危険にさらされていると考えられている。


◎教育

教育制度は小学校5年、中学校5年、高校2年の5-5-2制である。識字率は53.5%(2009年)。義務教育は小学校5年のみである。就学率は2000年には95%に達し、それにつれて識字率も徐々に上昇してきたものの、児童の中退率が3割に達し、また授業や教育環境の質が低く児童の学力が向上しないなどの問題がある。


◎文化

食文化としては大量にとれる米を主食とし、ガンジス川流域や海岸、汽水域などで大量にとれる魚も重要な蛋白源となっている。演劇や詩作もさかんである。


◎世界遺産

バングラデシュ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件、自然遺産が1件存在する。

シュンドルボンはインドとバングラデシュ南西部に渡るマングローブ林の湿地域で、バングラデシュがその3分の2を占める。ベンガルトラをはじめ稀少生物種が生息し、自然環境を保護するため、人間の居住は禁止されている。


◎祝祭日
・3月26日  独立記念日
・4月14日  ベンガル新年


<了>










「バングラデシュ人民共和国③」

2016-02-24 08:46:45 | 日本

◎歴史(近代まで)

現在バングラデシュと呼ばれる地域には、古くから文明が発達した。現在のバングラデシュはベンガル地方の東側にあたる。紀元前4世紀のマウリヤ朝から6世紀のグプタ朝まで数々の王朝の属領であった。仏教寺院からは紀元前7世紀には文明が存在したことが証明され、この社会構造は紀元前11世紀にまで遡ると考えられるがこれには確実な証拠はない。初期の文明は仏教およびヒンドゥー教の影響を受けていた。北部バングラデシュに残る遺構からこうした影響を推測することができる。

8世紀の中葉にパーラ朝がなり、仏教王朝が繁栄した。12世紀にヒンドゥー教のセーナ朝にとってかわられた。13世紀にイスラム教化が始まった。16世紀にはムガル帝国の元で、商工業の中心地へと発展した。11世紀(セーナ朝の時代)から16世紀(ムガル帝国に編入されたのは1574年)の間はベンガル語が発達した。この頃に、ベンガル経済の成長に伴って密林の多かった東ベンガルに開発の手が入り、イスラム教徒を中心に開発が進められていった。16世紀後半になって東ベンガルではイスラム教徒が多数派となっていった。また、17世紀半ばにはムスリムの農民集団が目につくようになっている。


◎イギリス領時代

15世紀末にはヨーロッパの貿易商人が訪れるようになり、18世紀末にイギリスの東インド会社により植民地化された。この東インド会社によって、イギリスは支配をベンガルからインド全域に拡大した。このイギリスの統治期間中、ベンガルは何度も深刻な飢饉に襲われ、膨大な人命が失われた。ベンガルの東部・西部から綿織物やコメの輸出が盛況を呈し、17世紀の末には、アジア最大のヨーロッパ向け輸出地域となり、大量の銀が流入し、銀貨に鋳造され、森林地帯の開拓資金に投下された[10]。東インド会社は支配をインド全域に拡大していき、その中心地域となったベンガルの繁栄は続いた。「黄金のベンガル」と讃えられるようになったのはこの時期である。

やがてインドの他地域同様、バングラデシュでも民族運動(1820年代からフォラジと呼ばれる復古主義的な運動)がさかんになっていった。これを食い止めるため、イギリスはベンガルのインド人勢力の分断を意図し、1905年にベンガル分割令を発布し、ベンガルをヒンドゥー教徒中心の西ベンガルとイスラム教徒中心の東ベンガルとに分割した。1906年ダカでムスリム連盟の創立大会が開かれた。この措置は両教徒の反発を招き1911年に撤回されたものの、両宗教間には溝ができ、やがてインドとパキスタンの分離独立へと繋がっていく。当時、東ベンガルではベンガル人としての意識とムスリムとしての意識が並存していたが、1929年全ベンガル・プロジャ党(ムスリム上層農民を支持基盤とした)が結成され、1936年の農民プロシャ党に発展した。1930年代にはベンガル人意識が一時後退し、ムスリムとしての意識が高揚していった。1940年のムスリム連盟ラホール大会でベンガルの政治家フォズルル・ホックがパキスタン決議を提案した。1943年、大飢饉が起こり150万~300万人の死者を出した。1946年8月コルカタ(旧カルカッタ)暴動でムスリムとヒンドゥーが衝突し、4000人以上の命が失われた。


◎インド領東ベンガル

そんな中で英領インドは1947年に独立を達成したものの、宗教上の問題から、ヒンドゥー教地域はインド、イスラム教地域はインドを挟んで東西に分かれたパキスタンとして分離独立することになり、東ベンガル(英語版)(1947年 - 1955年)はパキスタンへの参加を決めた。


◎パキスタン領東パキスタン

両パキスタンが成立すると、現在のバングラデシュ地域は東パキスタンとなった。しかし両地域間は人口にはさほど差がなかったものの、経済や文化の面では違いが大きく、さらに国土はインドによって1000km以上も隔てられていた。このような違いはあちこちで摩擦を起こした。まず最初に問題が起きたのは言語の違いだった。ベンガル語でほぼ統一された東に対し、西がウルドゥー語を公用語にしたため対立が起きた。この問題はベンガル語とウルドゥー語の両方を公用語にすることで決着がついたものの、政治の中心になっていた西側に偏った政策が実施され、1970年11月のボーラ・サイクロンの被害で政府に対する不満がさらに高まった。1970年12月の選挙で人口に勝る東パキスタンのアワミ連盟が選挙で勝利すると、西パキスタン中心の政府は議会開催を遅らせた上、1971年3月には軍が軍事介入を行って東パキスタン首脳部を拘束した。これによって東西パキスタンの対立は決定的となり、東パキスタンは独立を求めて西パキスタン(現パキスタン)と内乱になった。バングラデシュ独立戦争である。西側パキスタンと対立していたインドが東側パキスタンの独立を支持し、また第三次印パ戦争がインドの勝利で終わった結果、1971年にバングラデシュの独立が確定した。


◎独立・ムジブル・ラフマン政権

独立後はアワミ連盟のシェイク・ムジブル・ラフマンが首相となった。インドからの独立以前から、イスラムを旗印とするパキスタン政府と先住民族の折り合いは悪く、ジュマ(チッタゴン丘陵地帯の先住民族)はパキスタン編入をそもそも望んでいなかったために緊張状態が続き、バングラデシュが1971年に独立するとこの状況はさらに悪化した。このため先住民族は1972年にチッタゴン丘陵人民連帯連合協会(英語版) (PCJSS) という政党を作り、翌年からPCJSS傘下のシャンティ・バヒーニー(英語版)とバングラデシュ軍とが戦闘状態に入った。内戦や洪水による経済の疲弊により、1975年にクーデターが起きムジブル・ラフマンが殺害される。


◎ジアウル・ラフマン政権

その後、軍部からジアウル・ラフマン(英語版)少将が大統領となった。1979年以降バングラデシュ政府の政策によってベンガル人がチッタゴン丘陵地帯に大量に入植するようになり、チッタゴン丘陵地帯におけるジュマとベンガル人の人口比はほぼ1対1となった。


◎エルシャド政権

1981年に軍内部のクーデターによりジアウル・ラフマン大統領が殺害され、1983年12月にフセイン・モハンマド・エルシャド(英語版)中将が再び軍事政権を樹立した。1988年には、チッタゴン丘陵地帯のカルナフリ川(英語版)上流のカプタイ・ダム(英語版)に国内唯一の水力発電所(230MW)建設したことにより10万人近い住民に立ち退きを強制し、うち2万人がミャンマーへ、4万人がインドへそれぞれ難民として移住している。
エルシャド政権は民主化運動により1990年に退陣。


◎民主化

1991年3月の総選挙で、中道右派勢力バングラデシュ民族主義党 (BNP) がアワミ連盟 (AL) を破り、BNP党首のカレダ・ジアは同国初の女性首相に就任した。1991年に総選挙が行われて以降は、民主的に選挙で選出された政府が統治している。5月10日、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領の指示による Operation Sea Angel で被災地への人道支援が行なわれた。チッタゴン丘陵地帯紛争は20年続いたのち1992年に休戦、1997年には和平協定が結ばれたものの、根本的な問題は残ったままであり、対立は続いている。

1996年の憲法改正により前最高裁判所長官を長(首相顧問)とする非政党選挙管理内閣 (Non-Party Care-Taker Government) が導入された。この制度は、現職内閣が選挙活動に干渉したり、投票結果を操作したりする職権乱用防止のためであり、議会解散の後に任命される。1996年6月の総選挙では、今度はALが勝利し、シェイフ・ハシナが同国2人目の女性首相に就任した。

2001年10月1日に行われた総選挙では、BNPなどの野党連合が与党ALに大差をつけ勝利しカレダ・ジアが首相に返り咲いた。経済建設を重視し、穏健な改革を訴え、都市市民らの支持を集めたとされる。


◎軍政

2002年9月6日に予定されていた大統領を選任する投票は、立候補者が元ダッカ大学教授のイアジュディン・アハメド1名のみだったため無投票当選となった。

2006年10月、軍の圧力でカレダ・ジア率いるBNP政権は退陣し、アハメド選挙管理内閣(暫定政権)が発足した。暫定政権は汚職の撲滅やイスラム過激派対策に取り組んでいる。2007年1月11日には総選挙が予定されていたが政党内対立で情勢が悪化。総選挙は2008年に延期された。イアジュディン・アハメド大統領は、非常事態宣言を発令すると共に全土に夜間外出禁止令を出した。

2008年12月29日に行われた第9次総選挙では、選出対象の299議席中、シェイフ・ハシナ元首相の率いるアワミ連盟が230議席(得票率48.06%)を獲得し、国民党などからなる「大連合」が300議席中262議席で圧勝した。2009年1月6日、ハシナ党首が首相に就任した。前与党のBNPを中心とする4党連合は32議席に激減した。投票率は、87%の高率。


◎元首

旧イギリス植民地としてイギリス連邦に加盟するが、共和政体であるため総督を置かず、元首は大統領である。国家元首である大統領は、原則として、儀礼的職務を行うだけの象徴的地位である。任期5年で、国民議会において選出される。大統領は、首相と最高裁判所長官の任命以外は、首相の助言に従い行動する。ただし、議会と政府が対立し政治的混乱が起きた際は、議会を解散し、暫定政府を発足させる権限がある。


◎行政

行政府の長である首相は、議会選挙後に、勝利した政党の党首を大統領が任命する。内閣の閣僚は、首相が選び、大統領が任命する。
バングラデシュの貧困の一因として、政府のガバナンス(統治能力)の低さがあげられることがある。汚職がひどく、2011年の腐敗認識指数は2.7で世界120位に位置し、2003年の1.2よりかなり改善されたものの未だ低位にいることには変わりない。また地方行政が特に弱体であり、これにより、行政が上手く機能していない。それを補助する形で、各種NGOが多数存在し、開発機能を担う形となっている。特に、アジア最大といわれるNGOの「BRAC」や「グラミン銀行」などが規模も大きく著名である。


◎立法

議会は、一院制で、Jatiya Sangsad(国会)と呼ばれる。全300議席。任期5年で小選挙区制選挙によって選出される。また、立法に女性の意見を反映させるため、正規の300議席とは別に、女性専用の30議席が用意されていたが、2001年5月に廃止された。
民主化後、総選挙ごとに政権が変わるが、選挙による政権交代が定着してきている[13]。とはいえ、議会政治を担う政党に問題が多い。選挙はおおむね公正なものとされるが、政党や政治風土には問題が多い。各政党は配下に政治組織を持ち[15]、選挙ごとに彼らを動員して選挙を繰り広げる。選挙終了後、敗北した政党はストや抗議行動に訴えることがほとんどで、しばしば暴動へと発展する。
「バングラデシュの政党」も参照


◎軍事

軍隊は志願兵制度であり、兵力はおよそ14万人。バングラデシュ軍はPKOに積極的に人員を送っている。バングラデシュ軍は過去何度か軍事政権を樹立し、現在でも政治に大きな発言力を持つ。2006年にはBNP政権を退陣させ、アハメド選挙管理内閣を発足させた。


◎国際関係

南部の一部を除き大部分の国境を接するインドとは、独立戦争時の経緯や独立時の与党アワミ連盟が親インド政党だったこともあり独立当初は友好的な関係だったが、もともとムスリムとヒンドゥー教徒の対立がパキスタンへの編入を促した事情もあり、やがて関係は冷却化した。バングラデシュ民族主義党はやや反インド的な姿勢をとり、逆にアメリカや中国との友好関係を重視する傾向がある。

近年は中国の存在感が強まっており、中国からの輸出額は7年で4・5倍に増えた。インフラ整備の面でもバングラデシュ最大の港湾都市チッタゴンから首都ダッカに通じる幹線道路の拡幅工事は中国の支援の下、全長190キロの工事区間のうち70パーセントを中国企業が請け負っている。その他、発電所の建設や橋の整備等官民あげてバングラデシュへの関与を強めている。

ングラデシュは多くの難民を受け入れ、また送り出す国である。東パキスタンとして独立した時には両国内の非主流派の信徒がお互いに難民として流れ込み、またバングラデシュ独立時にもパキスタン軍の侵攻を逃れて100万人近いバングラデシュ人が難民となってインド領へと流れ込んだ。また、チッタゴン丘陵地帯では政治的緊張が続いており、この地域の仏教系先住民がインドへと多く難民として流出している。一方で、バングラデシュは南のミャンマーからムスリムのロヒンギャ人難民を多く受け入れている。

バングラデシュは貧困国であるため、世界各国から多額の経済援助を受け取っている。日本は最大の援助国の一つであるが、近年は援助額がやや減少気味である。他に、アジア開発銀行やアメリカ、イギリス、世界銀行、ヨーロッパ連合などからの援助が多い。













「バングラデシュ人民共和国②」

2016-02-23 09:15:05 | 日本

◎バングラデシュ在住日本人の感想

2007年に初めてバングラデシュを訪れてからもう7年になりました。
これだけ頻繁に行っているので、最近では同窓会で旧友と集まっても皆が僕はバングラデシュに住んでいるということを知ってもらえているようになりました。

そして決まって皆が「治安は良いの?」という質問を投げかけます。
何も知らない土地のことで真っ先に気になるのが治安についてなのでしょう。

ちなみに日本国外務省のウェブサイトでは、バングラデシュは「渡航の是非を検討せよ」というレベルに指定されています。
もちろん色々な基準でこの指針は作られていますが、これを鵜呑みにすべきでしょうか。

物事はある側面から観るだけでは十分に理解したとは言えません。
何事も多面的です。さらに、様々なことが複雑に絡み合っていますよね。
そんな治安に関する様々な事柄の一部をここに紹介したいと思います。

■人口密度世界一
バチカンなどの都市国家を除いて、バングラデシュは世界で最も人口密度が高い国です。
首都や都市部の市場に行くと、日本の夏祭りのような人混みが毎日見られます。
そして田畑ばかりの農村に行っても、ほとんどどこに行っても人が道を歩いています。
ゲームのように、人が降ってきたか湧いてきたかのように、まさに嘘のように人がどこにでもいます。

■外国人に興味津々 ■見つめてくる
バングラデシュ人は好奇心が旺盛です。
街中に何か変化があると、その強い好奇心から目をそらさず、じっとその光景を見て楽しみます。
バングラデシュではまだまだ外国人が珍しく、特に農村部では日本人と会うチャンスは一生に一度あるかないか、といった具合です。
肌の色が違うこと、ファッションが違うこと、ヘアースタイルが違うこと、メイクの仕方が違うこと、話す言葉が違うこと、立居振る舞いが違うこと…外国人はまさにバングラデシュ人にとって注目するに不足しない絶好の興味の塊です。
ですからどこを歩いても出現するバングラデシュ人たちは、私たち外国人を頭からつま先まで食い入るように見つめます。

■学校教育の中の日本
バングラデシュでは現在、ほとんどの子供たちが義務教育を受けられています。
そんな彼らが小学校で勉強する教科書の中に、なんと2ページも使って日本のことが紹介されています。
バングラデシュの独立を世界で最も早く認めた国が日本、バングラデシュを最も援助している国は日本、ニッポンは日の出ずる国、ということをバングラデシュ人たちは知っています。「何で日が昇る国なの?」とよく質問もされます。
さらには日本製の製品神話が未だとても強いです。SONYやPanasonic、SANYO、HITACHI、TOYOTA…知らない人はいないし、そんな素晴らしい製品を作る日本人を尊敬しています。
僕の友人が子供の頃、おじさんが池で泳いでいる時に腕にしていたCASIOの時計が池のどこかで外れてしまったそうです。その時、周辺の住民が血眼になってその時計を欲して探しまくった、という話をしていました。
ちなみにバングラデシュの公用語であるベンガル語でモーターバイクのことをHONDAと言います。YAMAHAやKAWASAKIなどのバイクももちろん走っていますが、それらは全てホンダと言います。

■警察が完璧には機能していない
これは一見、治安が悪いことの最大の要因の様に聞こえます。でもこれには別の側面もあるのです。
バングラデシュで泥棒や交通事故を起こした人がいたら、多くの場合警察に通報するよりも、周りの人々によって戒められます。たまに街中で人だかりが発生していて、見に行くと一人の人間に周辺の人々が殴り蹴り罵倒しているのです。
何があったのか聞くと「こいつが泥棒をしたから戒めてる」と口ぐちに教えてくれます。
バングラデシュ人は正義感が強く、曲がった行為を発見したら皆で戒めます。
一方警察に通報して逮捕してもらっても、警察に賄賂を渡せば何事も無かったかのように元の生活に戻れてしまうからです。
そんな正義の味方がどんな田舎でも、夜でも私たち外国人に注目してくれています。
※警察が全く機能していないわけではなく、特に外国人には親切に色々と面倒を見てくれます

■村社会
都市のアパートでは薄れてきましたが、首都でもトタン小屋の集合住宅があちこちにあり、そこでは村社会が未だとても根強いです。
その集合住宅ではキッチンやトイレ、水浴び場は共同でたくさんの家族が隣り合わせに集合して住んでいます。
テレビの音が隣の隣まで聞こえ、ガス台の取り合いで喧嘩が起こったり、噂話が面倒だったりと面倒臭いこともたくさんあります。
一方でよその家の子にご飯を食べさせたり赤ちゃんの面倒を見たりするので子供たちは人懐っこく、たくましく、視野が広く、乳児の母親も仕事に出たりできるので子育てがとても楽だと言います。
そしてそんな集合住宅では泥棒被害がほぼ皆無です。皆が皆の顔を知っているので泥棒も近づけないし、警戒すべき状況に気付いて大声をあげれば一瞬にして全住宅に情報が行き届きます。もしも泥棒をしようものなら何人に集団リンチされるかわかりませんからね。

そんなこんなで、私はこれまでバングラデシュで危険な目にあったことはありません。一度だけアパートの4階に住んでいた時、窓の鉄格子から棒を突っ込んで携帯電話を盗られたことはありますが…これは対策していれば防げます。
もちろん安全と言われる日本にも凶悪犯罪が後を絶たないように、どこの国にも悪事をしでかす人はいます。
ただ、完全な人間がいないように、完全な悪者もいません。

何も盗む気が無くても、もし誰もいない状況で一万円札が落ちていたらとってしまうかもしれないように、
そんな状況を作り出さないこともまた大切です。

特にバングラデシュはイスラム教徒が多い国で、立居振舞や服装の文化が日本と比べて大きく違います。
男女の対人距離はどんな風で、女性の表情はどんな風で、服装はどんなところに気を付けているのか。
そんなところを事前にきっちり調べて対策していないと自分が痛い目を見たり、あるいは現地の人を不快な思いにさせるかもしれません。

その国の人たちの力で道路や建物、食べ物、コミュニティは作られ、そんなところに飛び込む人はどんな振る舞いをするべきか、きっちり考える必要があるのではないでしょうか。








「バングラデシュ人民共和国①」

2016-02-22 07:08:12 | 日本

今後、大いに発展が期待される「バングラデシュ人民共和国」に関して、④回にわたり記す。


『「バングラデシュ人民共和国』


通称バングラデシュは、南アジアにあるイスラム教徒主体の国。イギリス連邦加盟国、通貨はタカ、人口1億5,250万人、首都はダッカ。

北と東西の三方はインド、南東部はミャンマーと国境を接する。南はインド洋に面する。西側で隣接するインド西ベンガル州とともにベンガル語圏に属す。

1971年にパキスタンから独立。バングラデシュはベンガル語で「ベンガル人の国」を意味する。都市国家を除くと世界で最も人口密度が高い国で、人口数は世界第7位。
ベンガル湾に注ぐ大河ガンジス川を有する。豊富な水資源から米やジュートの生産に適し、かつて「黄金のベンガル」と称された豊かな地域であったが、インフラの未整備や行政の非能率から、現在はアジアの最貧国に属する。近年は労働力の豊富さ、アジア最低水準の労働コストの低廉さに注目した、多国籍製造業の進出が著しい。


◎バングラデシュ人民共和国(People's Republic of Bangladesh)
平成27年12月1日

①面積
14万7千平方キロメートル(日本の約4割,バングラデシュ政府)

②人口
1億5,940万人(2015年10月、バングラデシュ統計局)、年平均人口増加率:1.37%(2011年3月、バングラデシュ統計局)

③首都
ダッカ

④民族
ベンガル人が大部分を占める。ミャンマーとの国境沿いのチッタゴン丘陵地帯には、チャクマ族等を中心とした仏教徒系少数民族が居住。

⑤言語
ベンガル語(国語)、成人(15歳以上)識字率:59.1%(2015年10月,バングラデシュ統計局)

⑥宗教
イスラム教徒89.7%、ヒンズー教徒9.2%、仏教徒0.7%、キリスト教徒0.3%(2001年国勢調査)

⑦略史
年月 略史
1947年8月14日 パキスタンの一部(東パキスタン)として独立
1971年12月16日 バングラデシュとして独立

⑧兵力
陸軍126,150人、海軍16,900人、空軍14,000人(The Military Balance 2010)


◎経済(単位 米ドル)

①主要産業
衣料品・縫製品産業,農業

②実質GDP
1,738億ドル(2014年、世界銀行)

③一人当たりGDP
1,110ドル(2014年度、バングラデシュ統計局)
(注)バングラデシュの会計年度は7月~翌年6月末。2014年度は、2013年7月から2014年6月末まで。以下、同様。

④経済成長率(GDP)
6.06%(2014年度、バングラデシュ統計局)

⑤消費者物価指数上昇率
7.35%(2014年度、バングラデシュ中央銀行)

⑥労働人口市場(2010年度、バングラデシュ財務省)
5,370万人 農業(48.1%)、サービス業(37.4%)、鉱工業(14.6%)

⑦GDP内訳(2014年度暫定値、バングラデシュ中央銀行)
サービス業(54.1%)、工業・建設業(29.6%)、農林水産業(16.3%)

⑧総貿易額(2014年度、バングラデシュ中央銀行)
(1)輸出 298億ドル
(2)輸入 366億ドル

⑨主要貿易品目(2014年度、バングラデシュ中央銀行)
(1)輸出
ニットウェア(46.2%)、既製品(ニットを除く)(36.0%)、革製品(3.8%)、ジュート製品(3.0%)、石油製品(3.0%)、冷凍魚介類(2.3%)、ホーム・テキスタイル(2.2%)
(2)輸入
綿花・綿製品(14.9%)、石油製品(10.9%)、機械設備(8.5%)、鉄鋼製品(5.3%)、機械機器(5.1%)、食用油(4.9%)、穀物類(4.5%)

⑩主要貿易相手国(2014年度、バングラデシュ中央銀行)
(1)輸出
米国、ドイツ、英国、フランス、イタリア、カナダ、日本
(2)輸入
中国、インド、シンガポール、マレーシア、韓国、日本

⑪海外(移住者、労働者等)からの送金
142.2億ドル(バングラデシュ中央銀行 2014年度)

⑫通貨
タカ

⑬為替レート
1米ドル=77.72タカ(2014年度平均、バングラデシュ中央銀行)

⑭経済概況
(1)2014年度(2013年7月-2014年6月)のバングラデシュ経済は、6.1%の経済成長率を達成した。背景として縫製品輸出や海外労働者送金の安定的伸長、比較的バランスの取れた産業構造、農業セクターの安定した成長といった要因があげられる。他方、縫製品輸出や海外労働者の海外送金に依存するところが大きく構造的に脆弱であるため、産業の多角化と電力・道路等の基礎インフラの整備が課題である。

(2)バングラデシュの財政は慢性的な赤字となっており(2013年度の財政赤字の対GDP比は4.4%、2014年度5.0%、2015年度5.0%と推移している。)、これを外国援助と国内銀行借入等で補填する構造となっている。これは、主に政府の徴税能力及び歳入基盤の脆弱性、また非効率な国有企業に対する財政による赤字補填に起因している。

(3)予算は主に一般予算(Revenue Budget)と開発予算(Annual Development Programme)により構成され、2016年度(2015年7月-2016年6月)予算案ではそれぞれ16,457億タカ、9,700億タカとなり、全体として2兆844億タカの対前年補正比27.6%増の拡張型予算となっている。2016年度予算案では全体の23.4%が社会開発、30.6%がインフラ構築事業に当てられ、社会開発分野においては、主に人間開発(20.4%)に、また、インフラ構築分野においては、農業・農村開発(13.9%)、運輸(8.9%)、電力・エネルギー(6.3%)に優先的に配分。


◎経済協力(単位 億円)

日本の援助実績(2013年度)
(1)有償資金協力  0(累計総額 9,456.49(E/Nベース))
(2)無償資金協力  40.86(累計総額 4,763.02(E/Nベース))
(3)技術協力    42.38(累計総額 685.25(JICA経費ベース))


◎二国間関係

①政治関係
経済協力関係を中心に友好関係が発展。極めて親日的な国民性。
1972年2月10日
日本側、バングラデシュを承認
1972年3月3日
バングラデシュ、東京に大使館開設
1972年7月1日
日本側、ダッカに大使館開設

②経済関係

(1)対日貿易(JETRO資料)(単位:百万ドル)
(ア)貿易額
2010年 2011年 2012年 2013年 2014年
輸出 373 564 719 889 908
輸入 1,022 1,072 982 873 1,129

(イ)主要品目(2014年)
輸出 既製服、ニット製品、皮革・同製品、はき物,織物用糸及び繊維製品,電気機器,革及び同製品・毛皮
輸入 鉄鋼,車両,一般機械,織物用糸及び繊維製品,電気機器

(2)日本からの直接投資(JETRO資料)(単位:百万ドル)
2010年 2011年 2012年 2013年 2014年
投資額 21.8 46.6 30.1 94.4 41.4

③文化関係
国費留学生の受入、文化無償協力の実施、青少年招聘事業など

④在留邦人数
986人(2014年10月1日現在)

⑤在日当該国人数
9,641人(2014年12月、入国管理局)

⑥要人往来

(1)往
年月 要人名
1975年 皇太子同妃両殿下御立ち寄り
1977年 鳩山外務大臣
1972、1977、1980年 早川特使
1980年 愛知政務次官
1983年 石川政務次官
秋田特使
1987年 倉成外務大臣
1989年 福田元総理大臣
1990年 海部総理大臣
1994年 三塚日・バ議連会長
1995年 柳沢政務次官
1996、1998、2000、2001、2002年 桜井日・バ議員連盟副会長
2000年 森総理大臣
2003年 桜井日・バ議員連盟会長代行
2004年 桜井日・バ議員連盟会長
2005年 常田農林水産副大臣
2005年 谷川外務副大臣
2005年 逢沢外務副大臣
2006年 桜井日・バ議員連盟会長
2006年 町村前外務大臣
2006年 麻生外務大臣
2008年 坂本日・バ議員連盟幹事長、西村同事務局長
2009年 橋本外務副大臣
2011年 山花外務大臣政務官
2012年 岡田副総理
2014年 岸田外務大臣
2014年 安倍総理
2015年 関経済産業大臣政務官
(2)来
年月 要人名
1973年(公賓) ムジブル・ラーマン首相
1978年(国賓)、1980年 ジアウル・ラーマン大統領
1985年(国賓) エルシャド大統領
1987年 チョードリー外相(第41回国連総会議長)
1989年(大喪の礼) チョードリー外相
1990年(即位の礼) マームド外相
1990年(LDCミッション) マームド外相
1991年(LDC東京フォーラム) ラーマン外相
1992年 アリ国会議長
1993年(外賓) ラーマン蔵相
1994年(公賓) ジア首相
1995年(LDCミッション) ラーマン外相
1997年 キブリア蔵相
ハシナ首相
1998年(外賓) アザド外相
2000年(小渕前総理葬儀、G8外相会談) アザド外相
2000年 チョードリー国会議長
2001年 カーン情報相
2002年(アフガン復興支援閣僚会合) カーン外相
2003年(外賓) カーン外相
2003年 アーメド法相
2005年(公実賓) ジア首相
2007年(ADB総会) イスラム財務担当顧問
2007年(外賓) チョードリー外務担当顧問
2009年 マームド首相特使(外務担当国務相)
2009年 ハミッド国会議長
2010年(公実賓) ハシナ首相、同行:ムヒト財相、モニ外相
2011年 ナヒド教育相
2011年 ムヒト財務相
2011年 カーン商業相
2012年 ラザック食糧災害相
2012年 カデル商業相
2012年 モニ外相
2012年 ムヒト財相
2013年 ムヒト財相,アザド文化相,リズヴィ首相顧問
2013年 シディック繊維・ジュート相
2014年 ラーマン中央銀行総裁
2014年 ハシナ首相
2014年 チョードリー国会議長
2014年 メノン民間航空・観光相
2014年 ナシド教育相
2014年 ナシム保健相
2015年 マームド水資源相
2015年 マンナン財務国務相,ラーマン中央銀行総裁
2015年 チョードリーIPU議長,マヤ防災管理相(防災会議出席)
2015年 パラク郵政情報通信IT国務相
2015年 カデル道路交通橋梁省相
2015年 チョードリーIPU議長
2015年 カマル計画大臣













「アーユルヴェーダとは、③」

2016-02-21 07:12:18 | 日本

◎サーンキヤ学派

世界を精神原理と物質原理に二分する、厳密な二元論を特徴とする(精神と肉体の二元論ではない)。精神原理としての「神我」(プルシャ, 純粋精神, 自己, アートマンとほぼ同意)と、物質原理としての「自性」(プラクリティ, 根本原質)の2つを世界の根源だと想定した。物質世界は全て自性から開展して生じ、思考器官(意)や自我意識(我慢)といった心も、精神ではなく物質であり、人間の身体の一器官にすぎないと考えられた。

アーユルヴェーダに影響を与えたサーンキヤの思想に、トリ・グナ説がある。世界が展開する前の自性は、サットヴァ(純質)、ラジャス(激質)、タマス(闇質)というトリ・グナ(3つの特性)が均衡した静止状態にある。神我の観照(関心、観察)によってラジャスの活動が起こると、トリ・グナのバランスが崩れて世界が開展(流出)する。開展の過程は図の通りである。一方、神我は一切変化しない。

「神我、自性、覚(大とも)、我慢、十一根(意・五知根・五作根)、五唯、五大」を合わせて「二十五諦」(二十五の原理)と呼ぶ。(「諦(Tattva)」は真理を意味する。)神我はそもそも解脱した清浄なものなので、輪廻から解脱するには、自らの神我を清めてその本性を現出させなければならない。そのためには、二十五諦を正しく理解し、ヨーガの修行を行わなければならないとされた。解脱のためのヨーガの実修は、サーンキヤ学派だけでなく、古代インド哲学・宗教のほとんどで行われていた。

六派哲学のひとつヨーガ学派は、サーンキヤ学派に大きな影響を受けている。現代のアメリカや日本では、アーユルヴェーダはヨーガと共に語られることも多い(ただし現代のヨーガの多くは、ヨーガの密教版ともいうべきハタ・ヨーガの系統である)。しかし、インドで人生の四目的とされる法(ダルマ)、財(アルタ)、愛(カーマ)、解脱(モークシャ)のうち、解脱は医学の説くところではなく[2]、アーユルヴェーダとヨーガはインドでは別々のものとみなされている。


◎ヴァイシェーシカ学派

ヴァイシェーシカ学派は、この世界が複数の構成要素(原子)から形成されているとする「アーランバ・ヴァーダ」(積集説)を代表する学派である。根本経典は、『チャラカ・サンヒター』と近い時代に成立したと考えられている。

この学派では、「実体(実)・属性(徳)・運動(業)・普遍(同)・特殊(異)・内属(和合)」の6つのパダールタ(六句義、六原理、6つの範疇)を想定して世界を分析・解明しようとした。実体は、「四大と虚空、時間、方角、アートマン(我)、マナス(意)」からなり、四元素は直接知覚することのできない原子(極微)からなると考えた。原子が2つ以上結合して複合体となり、知覚できるものとなるが、これらの複合体は無常であり、破壊され変化する。パダールタは、さまざまな範疇を設定して詳細に分析され、世界の説明が試みられたが、こういった分析方法は『チャラカ・サンヒター』でも用いられている。


◎ニヤーヤ学派

インドにおいて、正しい論証方法・論理学は古くから研究され、『チャラカ・サンヒター』でも、医師の心得として「論議の道」が44項目にわたって分類・検討されている。ニヤーヤ学派の世界観は、その多くをヴァイシェーシカ学派に拠っており、独自性は論証方法の研究にある。インドの論理学は認識論と密接な関係にあり、ニヤーヤ学派も「正しい認識とはいかにあるべきか」をメインテーマとし、「直接知覚」「推論」「類比」「信頼できる人の教示・証言」の4つの認識方法を提示した。また、他者との論争において、推論は「主張(宗)」「理由(因)」「実例(喩)」「適合(合)」「結論(結)」の「五分作法」にしたがって立証されなければならないと考えた。論争では、それぞれが五分作法にしたがって論議・検討し、ある事柄が妥当だと確定した場合、真実が知られたといえる、とされた。


◎ユナニ医学

インドにイスラム教が伝えられたことで、アーユルヴェーダにはユナニ医学の要素が加わった。逆にユナニ医学には、多くのアーユルヴェーダ薬物が取り入れられている。

ユナニ医学はイスラーム勢力の拡大で広がり、ムガール帝国時代にその勢力は最高潮に達した。アーユルヴェーダとユナニ医学は、理論的に近いものがあり、対立するよりむしろ共存し、互いの知識・技術を取り入れあったようである。一般に、イスラム教徒が支配する都市部や宮廷、富裕層ではユナニ医学が中心となり、アーユルヴェーダは衰退したが、ヒンズー教徒が住む周辺部、貧しい人々の間で命脈を保っていた。アーユルヴェーダ復古主義者の間では、ユナニ医学は西洋医学と共に、アーユルヴェーダ没落の原因であるといわれるが、実際にはユナニ医学がアーユルヴェーダを生きながらえさせたと考えられている[2]。多民族・多宗教社会であるインドでは、現代医学、アーユルヴェーダ以外に、ユナニ医学、シッダ医学など様々な伝統医学・民俗療法が現在も行われている。


◎西洋近代医学

16世紀初めにインドに進出してきたヨーロッパ人たちは、アーユルヴェーダ・ユナニ医学共に原始的で未熟な医学として軽蔑した。しかし18世紀の終わりに、サンスクリット語で書かれたインドの伝統的学問がヨーロッパの学者の関心を集めると、サンスクリット語による医学書も注目された。

19世紀中ごろから近代教育が広がると、インドの伝統的な学者(バンディット)たちは自らの伝統に目覚め、復古主義的運動が起こった。西洋医学を教える大学がインドに開かれた後に、それに対抗する形でアーユルヴェーダの教育制度も整えられていった。それに伴い、家族や師弟を通した伝承は少なくなっていった。アーユルヴェーダは、愛国心の高まりとともに、「インド伝統医学」として復興・普及し、20世紀の独立運動と共にさらに盛んになった。

アーユルヴェーダの隆盛には、莫大な人口を抱え貧困層も多いインドでは、高額な西洋医学ですべての人の医療をまかなえないことも関係している。また、保守的な国民性のため、西洋医学になじめない人も多いという。


◎折衷主義と復古主義

西洋医学がインドに伝えられ、その有効性が示されると、アーユルヴェーダの医者は折衷派と復古派に分かれた。折衷派は西洋医学を取り入れた治療を行い、現代の機器を用いた診断も行う。一方復古主義者は、イスラムとイギリスの支配によってアーユルヴェーダは堕落したと考え、ユナニ医学・西洋医学を排して純粋なアーユルヴェーダに戻れば西洋医学に優ると主張する。

両者は激しく争っており、特にスリランカで顕著である。1957年に、スリランカの伝統医学委員会委員長であった自治大臣が暗殺されたが、これは狂信的なアーユルヴェーダ復古主義者の犯行だといわれる。


◎アーユルヴェーダ医師(BAMS)

現在インドでは現代医学で治療を行う医師の他に、アーユルヴェーダ医師の国家資格(Bachelor of Ayurvedic Medicine and Surgery, BAMS)がある。大学で学んで資格を取得すれば、開業して治療を行うことができる。アーユルヴェーダを教える大学はインドでは100を越え、大学院が併設された大学もある。BAMSの教育期間は、1年の研修を含めて5年半で、現代医学・アーユルヴェーダ両方を学ぶ。


◎スリランカ

スリランカには、紀元前3世紀にインドから仏教が伝わった際に、共にアーユルヴェーダが伝来したといわれる。その前にはデーシャチキッサという固有の伝統医学があり、アーユルヴェーダはこれと混ざり合って発展した。現在でもアーユルヴェーダと共有しないスリランカ固有の治療法は、デーシャチキッサの名で残されている。

イギリス統治下に西洋近代医学が導入され、広く普及した。アーユルヴェーダは国の支援を失って衰退したが、ナショナリズムの高まりで仏教や伝統文化と共に注目されるようになり、独立前の1928年に伝統医療委員会が設立された。1961年にはアーユルヴェーダ法が制定されて公的に医療として認められ、1980年には伝統医療省が設立された。スリランカは民族ではシンハラ人、宗教では仏教が多数を占めるが、多民族・多宗教の国家であり、伝統医療省ではアーユルヴェーダだけでなく、シッダ医学、ユナニ医学、デーシャチキッサなどの伝統医学も保護・発展の対象にしている。

スリランカは、イギリスの植民地支配から脱した8年後、少数民族タミル人を排除する「シンハラ唯一政策」(1956年)をきっかけに内戦状態に陥った。2009年に終結宣言がされたが、長期の内戦のために観光産業は振るわなかった。そのため、外資獲得の手段として、ホテルでアーユルヴェーダを行う外国人向けの医療ツーリズムが取り入れられ、観光客は年々増加している。

1972年以降、国立大学で教育が行われており、2008年の段階で国民の15%はアーユルヴェーダによる治療を受けている。現代医学を教える大学は8校あり、対してアーユルヴェーダは4校である。現代医学の医師は2万人、アーユルヴーダの医師は1万5,000人存在する。そのうち大学でのアーユルヴェーダ教育を受けた者は4,000人で、他には代々アーユルヴェーダを受けつぐ家の治療者や、寺院でアーユルヴェーダを受けつぐ僧などがある。アーユルヴェーダの治療が有効と思われるジャンルは関節炎、麻痺症状、狂犬病、蛇に噛まれた時の治療などであるが、伝統的なアーユルヴェーダ医の家には、それぞれ得意とする分野がある。また、半世紀前には占星術を用いた治療も行われたが、現在ではそういった知識を持つ治療者は稀だという[24]。治療の上で、現代医療とアーユルヴェーダが互いを紹介することも行われ、統合医療が目指されている。


◎日本

・仏教医学伝来から昭和まで
アーユルヴェーダで利用される薬物は、仏教と共に中国に伝えられ、7 - 8世紀頃には遣唐使らによって日本に伝来した。正倉院に伝わる薬物の中には、アーユルヴェーダ薬物を起源とするものが多数あると言われる。また、日本最古の医学書『医心方』(982 - 984)には、アーユルヴェーダに強い影響を受けた仏教医学が多少説明されている。ただ日本の医療は、5世紀初頭に中国医学が伝来して以来、漢方(和法)として独自に発展を遂げ、明治までそれが主流であった。現在でも漢方は代替医療として、医師、鍼灸師、柔道整復師らによって広く行われている。一方アーユルヴェーダが本格的に日本に紹介されるのは、鎖国の関係もあり大正になってからである。

日本でのインド医学の研究は、1921年(大正10年)に泉芳環「印度の医方及び薬物─ヘルンの図書の解説としてー」(仏教研究2巻4号)が研究誌に初めて掲載され、続いていくつかの論文が発表された。

・昭和以降の研究編集
昭和に入ってからは、大地原誠玄によるアーユルヴェーダ古典の翻訳「国訳古代印度医典チャラカ本集」(立命館大学1巻10~4巻3号までの7編)、「シュスルタ医学」(大乗13巻4号~14巻4号)が発表され、1941年(昭和16年)には、の大地原誠玄によるサンスクリット語から翻訳「ススルタ本集」が出版された。

本格的な研究は、1967年(昭和42年)のインド伝承医学研究会の設立に始まる。研究会設立後、研究会誌が発刊され、現在まで580編以上、3,400ページ以上にわたる多くの論文が書かれた。同研究会は、幡井勉(東邦大学医学部教授)、丸山昌郎(日本民族医学研究所)らによって設立され、1968年(昭和43年)にインド伝承医学研究調査視察団が丸山博(大阪大学医学部教授)、幡井勉、石原明、岡部索道ら9名がインドを訪問し、インドのグジャラート・アーユルヴェーダ大学[27]や研究所を視察した。翌年1969 年(昭和44年)には、丸山博教授が所属する大阪大学で、アーユルヴェーダセミナーが初めて開講された。

1970 年(昭和45年)には、丸山博教授らの呼びかけでアーユルヴェーダ研究会が設立された(会長:丸山博、事務局:大阪大学医学部衛生学教室)。幡井勉は、東洋伝承医学研究所、ハタイクリニックを設立し、アーユルヴェーダと現代医学医を統合して治療を行った。また、稲村晃江はグジャラート・アーユルヴェーダ大学に入学し、5年間の教学課程を修了し日本人として初めてインド国家認定アーユルヴェーダ医師として認められ、さらに大学院も修了した。

1980年代には、アーユルヴェーダ医師ウパディヤヤ・カリンジェ・クリシュナが、東洋伝承医学研究所の副所長として活動し、日本語のアーユヴェーダの教科書を著した。1994年には、東洋伝承医学研究所で、専門家向け・素人向けの2本立てでアーユルヴェーダの教育プログラムが開始した。

1985年(昭和60年)第7回日本アーユルヴェーダ研究会総会で、日本初のアーユルヴェーダの臨床応用としてクシャーラ・スートラ(痔瘻の治療)[28]の臨床成績が報告された[26]。1987年(昭和6年)には日本アーユルヴェーダ研究会にヨーガ療法の研究者も加わり、学術発表の範囲も大きく変化した。

・一般への普及と現状
1989年(平成1年)には、NHKで「中国・インド伝承医学」が放映され、一般に広く浸透した。1998年、アーユルヴェーダ研究会は日本アーユルヴェーダ学会(The Society of Ayurveda in Japan)に名称を改めた。

2008年(平成20年)、第30回日本アーユルヴェーダ学会総会が開催され、会長の稲村晃江(アーユルヴェーダ医師) の尽力で、日本アーユルヴェーダ研究会誌全37巻から優れた論文を抜粋した論文集が発刊され、過去の日本アーユルヴェーダ研究が集大成された。

日本アーユルヴェーダ学会は、日本の医療制度の中でアーユルヴェーダ医学の役割を明らかにし、広く治療をこなうために、「アーユルヴェーダの標準化と資格制度」に取り組んでいる[26]。現在日本においてアーユルヴェーダの国家資格は存在しないが、催吐法、催下法などのパンチャカルマ(浄化療法)、ネトラタルパナ(薬草オイルを点眼する眼の治療)のような点眼および目の洗浄、診断・薬剤の処方など、治療の多くは医行為に当たると考えられ[29]、医師がアーユルヴェーダを行う少数の病院でしか治療を受けることはできない(インドのアーユルヴェーダ医師の免許を持っていても、日本での治療には医師免許が必須である)。医師向けのアーユルヴェーダの教育機関もごくわずかしか存在せず、注目を集めつつあるとはいえ、日本では広く治療が行われているとは言えない。

アーユルヴェーダは、アメリカ経由で日本に紹介されたヨーガの人気に伴い、1990年代に一時的にブームとなった。現在日本では、その名を冠したマッサージサロン、エステティックサロンが多く存在する。こういったサロンでは、アーユルヴェーダのマッサージや、シロダーラー、薬茶など、ごく一部の療法を用いて施術を行っている。そのため、アーユルヴェーダは「インド式オイルエステ」などの別名で呼ばれることもあり、痩身マッサージやエステティックの一種だという短絡的な認識が広まっている。また、週刊誌で風俗マッサージ店がアーユルヴェーダを名乗るなどの記事もあり、本来の全体的な生命科学としてのアーユルヴェーダとは正反対の用例が数多くみられる。日本のサロンで行われるアーユルヴェーダは、その名に反してエステティックもしくはリラクゼーションの一種であり、伝統医療としてのアーユルヴェーダとは区別して考える必要がある。

アーユルヴェーダ薬物は、日本では健康食品や健康茶として徐々に人気となっており、そのほとんどは輸入に頼っている。しかし、薬事法違反の危険性があるような販売方法がされたり、薬食同源・方剤原理が忘れられ、単一の薬草だけの効果がアピールされるなど、様々な問題が生じている。また、漢方薬同様、現代医学の枠ぐみの中で薬効や処方が判断されてしまうことも多い。

日本にはアーユルヴェーダの研究施設はほとんどない。1999年に設立された富山県国際伝統医学センターでは、アーユルヴェーダを含めた世界中の代替医療が研究されていたが、2008年から研究は富山大学に移管され、センターは2010年に廃止された。




<了>







「アーユルヴェーダとは、②」

2016-02-20 09:37:00 | 日本

◎治療法

緩和療法緩和療法としては、睡眠時間や食事の改善、ヴィクリティ(ドーシャの増大)に対する煎じ薬、心を鎮めるための瞑想などが行われ、アーマ対策として運動やアグニの活性化が目指される。消化に関しては2つの治療があり、過剰なダートゥを減らす絶食療法と、不足したダートゥを補う栄養療法(滋養療法)がある。


◎食事

古典『チャラカ・サンヒター』でも、健康・病気の原因として食事が挙げられており、内容だけでなく、食事を楽しみ満足することも重要と考えられている。

食物や飲み物は、アーユルヴェーダ薬物と同じようにトリ・ドーシャ、トリ・グナのバランスに影響を与えると考えられている。薬効は、ラサ(味、味覚の対象)、ヴィルーヤ(性質)、属性(グナ)、ヴィパーカ(消化後の味)を総合して判断される[1]。ラサは五大のうち2つが結合したものとされ、甘(地大と水大)・酸(水大と火大)・鹹(塩味、地大と火大)・辛(風大と火大)・苦(風大と空大)・渋(風大と地大)の6つである。ヴィルーヤは、「熱性・冷性・どちらでもないもの」がある。属性は、「寒・熱・油・乾・重・軽・鈍・鋭」の8種類、または、これら8つに「滑・荒・固・液・軟・硬・静・動・微細・粗・粘凋(濁)・清澄(純)」を加えた20種類である。ヴィパーカは、消化の際に6つのラサが変化したもので、「甘、酸、辛」の3つである。食物のトリ・ドーシャやトリ・グナへの影響は、これらを考慮して判断される。増大したドーシャと反対の性質の食物をとり、同じ性質のものを避けることで心身のバランスの回復を目指す。ドーシャのバランスを改善するために、ヴァータが優勢な場合は胡麻油、ピッタが優勢な場合はギー(バターオイルの一種)、カパが優勢の場合は蜂蜜が与えられる。また、サットヴァを高める食物はドーシャのバランスの回復をもたらすため、米や牛乳などサットヴァの豊富な食物をとるよう勧めている。


◎薬物の処方

アーユルヴェーダの薬は、天然に由来する動植鉱物からなる薬物(生薬)が使われる。約2,000~2,500種の薬物があり、これらにはそれぞれ薬効(カルマ)があり、ドーシャやダートゥ、マラなどへの作用もそれぞれ決まっている。薬物は食物同様、ラサやヴィルーヤなどを総合して薬効が判断される。病気の原因はドーシャの増大・増悪であるが、症状と属性がある。治療は個々の患者の状態を考慮して、ドーシャのバランスを回復させる薬物、症状を治す薬物、反対の属性をもつ薬物が使われる。薬剤は単体で使われることもあるが、複合薬として処方(ヨガ)される場合が多い。人口の増大と伝統医療の普及で、世界的に薬物の乱獲と枯渇が問題になっている。 また、近年では一部の生薬が現代医学の視点から作用機序が研究されており、一例として産業技術総合研究所の動物実験にてアシュワガンダの強い抗がん作用が発見された。


<減弱療法>

◎減弱療法の段階と種類

アーユルヴェーダの減弱療法(浄化法)は、可能な限り身体に負担を掛けないように時間を掛けて行う。過剰なドーシャやアーマを身体外に排泄させるために1.前処置→2.中心処置→3.後処置の順番で施される。
・プールヴァカルマ
:前処置
・アーマパーチャナ
:アーマ(毒素)の消化法
・スネハナ・カルマ:油剤法
シローダーラー
:頭部の浄化、中枢神経の強壮、精神疾患などの治療
・アビヤンガ( Abhyanga )
:塗布するという意味で、オイルマッサージのこと。目的によって異なるオイルが使われる。
・ピリツイル
:スネハナカルマ + スウェーダナ・カルマ(発汗法のこと)。王様の治療法と呼ばれ、熱い数リットルのオイルを全身に振り掛けマッサージする。麻痺、リューマチなどの難治性疾患に効果があるとされる。
・エラキリ
:スネハナカルマ+スウェーダナ・カルマ。関節痛、リューマチに効果があるとされる。
ナバラキリ(スウェーダナカルマ):ナバラライス(薬米)と Bala などの生薬と牛乳を使用する
・プラダーナ・カルマ
:中心処置、パンチャカルマ
・ヴァマナ(催吐法・主に胃・肺・食道・喉の浄化を目的とする)
:Vaman
・ヴィレチャナ(催下法、下剤)
:Virechan
・バスティ(浣腸法)
:Basti
・ナスヤ(点鼻法・主に喉・頭部・顔面を浄化する事を目的とする)
:Navan、Nasya
・ラクタ・モークシャ(瀉血療法)
:Rakta Moksha
・パシュチャートカルマ
:後処置
・シャマナ鎮静法
:ドーシャのバランシングとアグニの正常化
・サンサルジャナ
:食餌療法
・ラサーヤナ
:不老長寿法。生薬や鉱物で作られた薬品を摂る。(Chavanapurash が有名)
・ヴァジーカラナ
:強精法。良い子孫を作る為の方法 ラサーヤナ同様、薬品を摂る。


◎アーユルヴェーダのマッサージ

アーユルヴェーダの治療では薬草療法が大きな位置を占めており、薬物を煎じた薬用油(タイラ)も治療に使用される。アーユルヴェーダにおけるマッサージはパンチャ・カルマの補助療法で、薬草療法の一種であり、7つのチャクラへの刺激も行われる。マッサージのベースオイルには、温かい胡麻油が使用される。胡麻油は皮膚に浸透しやすく、抗酸化作用が強いオイルで、塗布すると発汗が促進される。マッサージの手技はペルシャの医学やユナニ医学が取り入れられた歴史から、東洋・西洋のテクニックが混在し、日本伝統の手技と相通じる部分もある。次のようなマッサージが知られている。

アビヤンガ
:全身オイルマッサージで、過剰なヴァータを排出するためのバスティ(浣腸法)の前処置である。2人の施術者によって、左右同時に同じストロークでマッサージされ、ヴァータを大腸に集めるために、心臓から末端に向かって行われる。(これとは逆に、スウェーデンマッサージに代表される西洋のマッサージは、体液病理説(四体液説)を背景とし、体液の循環を促進するために末梢から心臓に向かって行われる。)アビヤンガの前には、食餌療法と緩和療法が必要である。

シローアビヤンガ:ナスヤの前処置で、頭部と顔のマッサージが行われる。脱毛を防いで育毛を促し、薬草オイルの種類によっては、頭部の緊張を緩和しのぼせや不眠を改善したり、肌の状態を良くする。

パーダビヤンガ
:足のマッサージで、足底にオイルをすり込むことで、血液循環の改善・内臓の活性化・足の機能の改善・緊張の緩和などが目指される。脚までマッサージすることで、腰痛や便秘を防ぐ。この後にシロダーラーや入浴をすると、さらに効果が高まる。

パンチャ・カルマの補助療法として薬用油(タイラ)を塗布する治療がある一方、「アーユルヴェーダ・マッサージ」と呼ばれるものの多くは、外国人向けにアレンジし直されたものである。インド・コーバラム海岸に滞在したアメリカ人ヒッピーたちがアーユルヴェーダに関心を持っていたことから、地元の若者がアーユルヴェーダの治療者から知識・技術を集め青空マッサージを始め、外国人向けの「アーユルヴェーダ・マッサージ」が行われるようになった。(当時コーバラムで医療といえばナダ・チキッツァ(地域の医療)であり、アーユルヴェーダの存在を村人は知らなかった。多民族・多宗教のインド伝統医療は、アーユルヴェーダに限られず多様である。)現在では、インドの外国人向け治療施設やヘルス関連施設でマッサージが教えられており、多くの外国人がインドで学び、自国に持ち帰っている。インドやスリランカなどで行われる医療ツーリズムでは、旅行者の目的はリラクゼーションや健康増進が主であり、マッサージが治療の中心で、1回のみ行われることも多い。1週間以上滞在する場合でも、期間や旅行者の嗜好に合わせて治療がアレンジされ、浣腸法や催吐法などの苦痛を伴う治療はあまり行われない。継続性もないため、抜本的な治療にならないことも少なくない。日本では、アーユルヴェーダを名乗るエスティックサロンなどで、オイルマッサージのみが行われることが多く、アーユルヴェーダとはインド式オイルエステであるという短絡的な認識が持たれている。


◎霊的な治療


根源的・霊的な面の治療の背景には『ウパニシャッド』などのインド思想があり、患者本来の力を引出し、宇宙の根源的なエネルギーを用いて、心身の調和を取り戻すことを目的とする。様々な方法が用いられるが、患者のアートマンの活性化を目指しており、治療者は援助に徹する。患者の生き方を変えるような根本的な治療のため、多くの場合時間がかかるが、短期間で劇的に効果が現れることもあるという。

占星術などで病気がカルマ(行為・行動)によるとわかった場合、悪いカルマ(業)をなくすために善行が奨励される。また、ジョーティシャ(インド占星術)でホロスコープを見て、悪い惑星の影響を考慮した薬草療法・マントラ(呪文)や宝石を使った治療も行われる。例えば、パンチャカルマを行う日時が、占星術によって決められることもある。ただし、マントラ(呪文)や宝石を使った治療は現在ではあまり行われず、占星術の知識を持つ治療者も僅かであるという[8]。根源的・霊的な治療としては、インド思想に基づく風水・ヴァーストゥ・シャーストラ、聖なる火を起こしてマントラを唱え、供物を捧げる治療の儀式・ヤギャ、聖典に由来する言葉であるマントラ、大宇宙と小宇宙(人間)の関係を視覚的に表現した聖なる図・ヤントラなども治療に使われる。


◎歴史、インド

バラモン教の経典「ヴェーダ」として、4つの主なヴェーダ『リグ・ヴェーダ』(紀元前15世紀頃?)、『サーマ・ヴェーダ』、『ヤジュル・ヴェーダ』、『アタルヴァ・ヴェーダ』があり、ヴェーダから生命に関する知識を集大成したウパ・ヴェーダが『アーユルヴェーダ』である。人類の初期の医学・薬学は呪術と結びついたものだが、こういった記述が見られるのは、『リグ・ヴェーダ』と『アタルヴァ・ヴェーダ』だけである。ウパ・ヴェーダは他に 『ガンダルヴァ・ヴェーダ』(歌舞学・芸術学)、『ダヌル・ヴェーダ(英語版)』(兵法・弓の科学)、『スターパティア・ヴェーダ』(建築学・都市設計)がある。サンスクリット語で書かれており、バラモンなど知的エリートの間で受け継がれた。

アーユルヴェーダの最古の文献としては、『アグニヴェーシャ・タントラ』(紀元前8世紀頃?)があったと伝えられる。『チャラカ・サンヒター』は、『アグニヴェーシャ・タントラ』を医師チャラカが改編したものといわれ、その作業は1 - 2世紀までには終わったと考えられている。『アタルヴァ・ヴェーダ』に医学に関する内容が多く、『チャラカ・サンヒター』は、『アタルヴァ・ヴェーダ』のウパンガ(副肢)とされた。4 - 5世紀にジャイナ教、仏教といった新しい宗教や、六派哲学が発展して医学に影響を与え、呪術と医学が切り離されて、経験的・合理的な医学が始まったと考えられる。これがチャラカ、スシュルタの名で纏められた医学体系である。『チャラカ・サンヒター』、『スシュルタ・サンヒター』、『アシュターンガ・フリダヤ・サンヒター』などの古典の段階で、医学体系として完成しており、これらの医学書は現在まで実用的なテキストとして参照されている。古典が現在でも重要視されているため、一見進歩が否定されているように見えるが、実際には中国医学の脈診や、ペルシャやギリシャ・アラビア医学(ユナニ医学)も取り入れられ、アーユルヴェーダの薬草類にはインド国外のものも取り入れられており、柔軟に折衷されている。『チャラカ・サンヒター』をサンスクリット語から翻訳したインド数学・インド占星術研究者の矢野道雄によれば、新しく取り込まれたものも、サンスクリット化されテキストに組み込まれると古代からあったものとして扱われるため、インドでは、『チャラカ・サンヒター』の段階では見られない脈診や水銀の内服も、インド起源と思われているという。


◎古典医学書の成立

西遊記のモデルになった玄奘三蔵は、正確な仏教経典を手に入れるために629年に陸路インドに向かい、645年に帰国した。当時のインドの仏教の状況や、仏教大学であるナーランダー大学で教えられた医学、六派哲学などを記録している。

アーユルヴェーダを代表する古典『チャラカ・サンヒター』(チャラカ本集)では、アーユルヴェーダはブラフマー神(梵天)によって最初に説かれ、幾柱かの神を介してインドラ神に伝えられた。そしてバラドヴァージャという仙人がインドラ神の元に赴き、教えを受けたと述べられている。『チャラカ・サンヒター』は『アタルヴァ・ヴェーダ』を根拠とし、三人の仙人が風、水、火について述べることで三元素を解説している。学術的には、『チャラカ・サンヒタ』ーは2世紀頃に成立し(文献と成立年代は矛盾しているが、不祥の太古、無限遠、未来を説明する場合であっても、便宜的に数字を置く慣行がある。仏教も同様である。)ダスグプタ博士は、哲学的な見地から『チャラカ・サンヒター』を分析し、第1巻(総論)第1章ではヴァイシェーシカ学派、第3巻(判断論)第8章ではニヤーヤ学派、第4巻(身体論)第1章ではサーンキヤ学派の思想が説明されていると説明した。

一貫して内科を扱う『チャラカ・サンヒター』に対し、クシャトリア(武士王族)と関係が深かったとされる『スシュルタ・サンヒター(英語版)』(スシュルタ本集)は外科も扱い、最終的な成立は3 - 4世紀と考えられている。神々からもたらされたとされ、ブラフマー神の化身と言われるカーシーの王ダンヴァンタリがスシュルタに話しかける形で医学が説かれる。両書とも基本理論に違いはなく、内科を重視しトリ・ドーシャの不均衡が病気を引き起こすと説明している。

古代インドの文献のほとんどは正確な年代が不明であり、アーユルヴェーダ最古の文献『チャラカ・サンヒター』『スシュルタ・サンヒター』の成立年代はわからず、相互に言及されていないため前後関係も不明である。その作者とされるチャラカ、スシュルタが生きた時代も不明であり、シュスルタなど紀元前6世紀とする説もあれば、紀元後4世紀とする説もある。ただし、『チャラカ・サンヒター』『スシュルタ・サンヒター』は特定の個人が書いたものではなく、多くの人間が関わって長い間改編され続け、現在の形になるまで10世紀近くかかったと考えられている。

のちに、両書を折衷した『アシュターンガフリダヤ・サンヒター(英語版)』(八科精髄集)がヴァーグバダによって書かれたが、これは読みやすい医書でインド国外まで広く普及した。またマーダヴァ (医者)(英語版)は、インド医学で初めて一つのテーマを専門的に論じた『病因論』(Rug-vinischaya, または『ニダーナ』)を書いた。これらの医学書は、時代・地域に合わせて注釈を施され、現在までアーユルヴェーダのテキストとして使われている。


◎古典に影響を与えた思想

紀元前5・6世紀頃から、バラモン教の祭祀至上主義を打ち破ろうと自由思想家達が活躍し、ヴェーダの権威を否定する仏教、ジャイナ教のような新宗教が起こり、ウパニシャッドの哲人たちが活躍し、4世紀頃には六派哲学が隆盛した。こうした時代の中で、医学から呪術性が排除され体系化され、アーユルヴェーダと呼ばれるようになった。『アタルヴァ・ヴェーダ』などに見られる呪術的な医療は、ウパニシャッドや六派哲学・サーンキヤ学派の二元論、ヴァイシェーシカ学派の自然哲学、ニヤーヤ学派の論理学の活用によって、呪術性を排したひとつの体系に整理されたのである。


◎ウパニシャッド

ウパニシャッド(奥義書)は、広義のヴェーダ文献の最後を構成する書物である。主なウパニシャッドだけでも13あり、紀元前500年前後の数百年間に成立したと考えられている。全ていずれかのヴェーダに属するとされ、ヴェーダ聖典を伝承する各学派によって伝えられた。

その基本思想は、多様で変化し続けるこの現象世界には、唯一の不変な実体(ブラフマン、梵)が本質として存在し、それが個人の本質(アートマン、我)と同じであるという「梵我一如」である。ブラフマンは客観的、中性の原理であり、それに対しアートマンは主体的・人格的な原理である。アートマンは元々「息」「気息」を意味し、転じて「生気」「身体」「自身」「自我」「自己」「霊魂」などを意味するようになった。ウパニシャッド哲学の全思想は、すべて梵我一如の概念の周辺で展開する。


◎六派哲学

4世紀にマガダ国から起こったグプタ朝の元で、世情は安定し豊かなインドの古典文化が花開いた。バラモン教(ばらもん教、婆羅門教, ヒンドゥー教の前身となる古代インドの宗教)が国教とされ、サンスクリット語が公用語として用いられた。(なお「バラモン教」は近代にヨーロッパ人がつけた造語で、元々バラモン教全体を指す呼称はなかった。)古来より伝わるバラモン教学が整備され、さまざまな学問の系統が確立し、スートラ(根本経典)がまとめられた[10]。インドの学問のほとんどは、輪廻からの解脱を目的とし、宗教と哲学がほとんど区別できない点に特徴がある。この時代の正統バラモン教の哲学学派には6系統があり、六派哲学と呼ばれた。サーンキヤ学派、ヴァイシェーシカ学派、ニヤーヤ学派は六派哲学に数えられる。











「アーユルヴェーダとは、①」

2016-02-19 09:08:12 | 日本

アーユルヴェーダについて学ぶ。



「アーユルヴェーダ」とは、端的に言えば、統合医療のことである。自己の生命力や治癒力を高め、自己の健康や病を回復させる医療である。
アーユルヴェーダについて学ぶ。


アーユルヴェーダ(Āyurveda)はインド大陸の伝統的医学である。ユナニ医学(ギリシャ・アラビア医学)、中国医学と共に世界三大伝統医学のひとつであり、相互に影響し合って発展した。トリ・ドーシャと呼ばれる3つの要素(体液、病素)のバランスが崩れると病気になると考えられており、これがアーユルヴェーダの根本理論である。

その名は寿命、生気、生命を意味するサンスクリット語の「アーユス」(Āyus)と知識、学を意味する「ヴェーダ」(Veda)の複合語である。医学のみならず、生活の知恵、生命科学、哲学の概念も含んでおり、病気の治療と予防だけでなく、より良い生命を目指すものである。健康の維持・増進や若返り、さらには幸福な人生、不幸な人生とは何かまでを追求する。文献の研究から、ひとつの体系としてまとめられたのは、早くても紀元前5 - 6世紀と考えられている。古代ペルシア、ギリシア、チベット医学など各地の医学に影響を与え、インド占星術、錬金術とも深い関わりがある。

体系化には、宇宙の根本原理を追求した古層のウパニシャッド(奥義書,ヴェーダの関連書物)が重要な役割を果たし、バラモン教・六派哲学に数えられるサーンキヤ学派の二元論、ヴァイシェーシカ学派の自然哲学、ニヤーヤ学派の論理学も大いに利用された。
インドではイスラーム勢力の拡大以降、支配者層や都市部でユナニ医学が主流となり、その隆盛はトルコ系イスラーム王朝のムガル帝国(1526 - 1858年)時代に最高潮に達した。一方アーユルヴェーダは衰退し、周辺部や貧しい人々の間に受け継がれた。20世紀初頭になると、イギリス帝国のインド支配に対抗するナショナリストや、欧米のオリエンタリストたちによって、アーユルヴェーダは「インド伝統医学」として復興し、西洋近代医学に対抗して教育制度が整備された。

アメリカでは、ニューエイジ運動(1970 - 80年代)で、アーユルヴェーダをはじめとする様々な伝統医学・ホリスティック医学が注目された。1998年にアメリカ国立衛生研究所(NIH)に国立補完代替医療センター(NCCAM)ができたことをきっかけに広まり、世界各地で現代医学を補完・代替する医療として利用されている。また、アーユルヴェーダに興味を持ったヒッピー達がインドに滞在した影響で、外国人向けにアレンジされたアーユルヴェーダ・マッサージが人気となり、現在では医療ツーリズムが隆盛している。インドでは、アーユルヴェーダ医師(BAMS)の資格は国家資格であり、現代医学と並んで治療が行われている。一方、商業化されたアーユルヴェーダの世界的な普及や、アーユルヴェーダ薬がサプリメントとして流通することで、様々な問題も起こっている。

※バンガロール・アーユルヴェーダエキスポのダンヴァンタリ象。ダンヴァンタリ(英語版)は、アーユルヴェーダの始祖とされるブラフマー神の化身。カーシーの王で、『スシュルタ・サンヒター』に登場する。

アーユルヴェーダは、心、体、行動や環境も含めた全体としての調和が、健康にとって重要とみる。このような心身のバランス・調和を重視する考え方を、全体観(holism)の医学という。古代ギリシャの医師ヒポクラテスに始まり、四体液の調和を重視するギリシャ・アラビア医学(ユナニ医学)や、陰陽・五行のバランスを重視する中国医学など、伝統医学の多くが全体観の医学である。

病気になってからそれを治すことより、病気になりにくい心身を作ることを重んじており、病気を予防し健康を維持する「予防医学」の考え方に立っている。心身のより良いバランスを保つことで、健康が維持されると考えた。具体的には、五大(5つの祖大元素)からなるヴァータ(風)、ピッタ(胆汁・熱)及びカパ(粘液・痰)のトリ・ドーシャ(3つの体液、病素)のバランスが取れていること、食物の消化、老廃物の生成・排泄が順調で、サプタ・ダートゥ(肉体の7つの構成要素)が良い状態であることが挙げられる。

また、古典医学書『チャラカ・サンヒター』では、生命(アーユス)は「身体(シャリーラ)・感覚機能(インドリヤ、五感)・精神(サットヴァ)、我(アートマン、自己、魂、真我)」の結合したものであると述べられており、身体や感覚器官だけでなく、精神面、さらに魂と表現されるような根源的な面が良い状態であることも健康の条件となる。特に食事が重要視されており、生活指導も行われる。睡眠や排泄、セックスなどの自然な欲求を我慢することは、病気につながるとして戒めている。

治療には大きく2つがあり、1つは食事、薬、調気法や行動の改善でドーシャのバランスを整える緩和療法(鎮静療法)、もう1つは増大・増悪したドーシャ(体液)やアーマ(未消化物)、マラ(老廃物)などの病因要素を排泄する減弱療法(排出療法, 浄化療法)である。減弱療法では、パンチャカルマ(5つの代表的な治療法、2種類の浣腸・油剤・下剤・吐剤)と呼ばれる治療法がよく知られている。根源的・霊的な面の治療として、ジョーティシャ(インド占星術)やマントラ(呪文)、宝石を使った治療がある。


<理論>
◎トリ・ドーシャ(三体液, 三病素)

トリ・ドーシャ説は、生きているものは全て、ヴァータ(風、運動エネルギー)、ピッタ(胆汁または熱、変換エネルギー)、カパ(粘液または痰、結合エネルギー)という3要素を持っており、身体のすべての生理機能が支配されているとする説である。ドーシャは五大(五大元素、五祖大元素、マハーブータ)で構成される。五大とは、土大(Pruṭhavī, プリティヴィーもしくはBhumi, ブーミ)・水大(Āpa, アープもしくはJala, ジャラ)・火大(Agni, アグニもしくはTejas, テジャス)・風大(Vāyu, ヴァーユ)の4元素に、元素に存在と運動の場を与える空大(Ākāsh, アーカーシャ, 虚空)を加えた5つで、古代インド哲学に由来する考え方である。ヴァータは風大・空大、ピッタは火大・風大、カパは水大・土大の組み合わせである。

ドーシャは、サンスクリット語で「不純なもの、増えやすいもの、体液、病素、病気の発生に基本的なレベルで関係する要素、病気を引き起こす最も根本的な原因」などを意味し、体液もしくは生体エネルギーを指す。その異常が「病気のもと」となるため、病素とも訳される。3つのドーシャは、さらに15のサブ・ドーシャに分けられ、それぞれに場所と機能がある。

ドーシャは正常な状態では生命を維持し健康を守るエネルギーであるが、増大・増悪すると病気を引き起こす。病気とは、15のサブ・ドーシャの機能の悪化による、トリ・ドーシャのバランスの崩れと考えられるが、一般にヴァータの増大・増悪は呼吸器系疾患、精神・神経疾患、循環器障害を、ピッタの増大・増悪は消化器系疾患、肝・胆・膵疾患、皮膚病を、カパの増大・増悪は気管支疾患、糖尿病や肥満、関節炎、アレルギー症状を引き起こすと考えられている。

ドーシャのバランスを崩す原因としては、体質、時間、日常生活、場所、天体が挙げられ、特に体質(プラクリティ)が重視される。人間は個人により、先天的・後天的に各ドーシャの強さが異なり、性格や体質の違いとして現れる。体質は個性であると同時に、その人の病気へのかかり安さも意味する。アーユルヴェーダでは、各人の体質に合わせた食事、生活、病気の治療法があると考え、指導や治療を行う。

ドーシャは1日のなかで、6時から4時間ごとにカパ→ピッタ→ヴァータの順で変化のサイクルがある。また1年のなかでも(インドの季節では)、春はカパが増悪、夏はヴァータが増大、秋はピッタが増悪、冬はカパが増大する。インドには雨季があるが、雨期にはヴァータが悪化、ピッタが増大する。人の一生の中でも、カパは若年期(0~30歳)に、ピッタは壮年期(30~60歳)に、ヴァータは老年期に増えやすい。その人の体質上偏っているドーシャが増えやすい時期・時間に、ドーシャのバランスを崩しやすいと考えられる。また、食べ物や日常の行動などでも、ドーシャの量は変化する。

現在のアーユルヴェーダではドーシャは3つとされるが、外科が取り入れられた古典『スシュルタ・サンヒター』では、第4の体液として血液が挙げられている。この「血液・粘液・胆汁・風」がペルシャ経由でギリシャに伝わり、「血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁」を人間の基本体液とする四体液説の基になったともいわれる。


◎トリ・グナ(三要素、三特性、三徳)

サーンキヤ学派の特徴の一つにトリ・グナ説があるが(後述)、この理論は他への影響が大きかった。トリ・グナが拮抗し互いにバランスを取ることで、自然界の諸現象や、人間の心身の状態、性格の違いなどが生まれると説明された。トリ・グナは、アーユルヴェーダでは心の状態を左右するものと考えられ、トリ・ドーシャ説と関連付けられ重視された。アーユルヴェーダでは、心が身体より上位だと考えられており、トリ・ドーシャの内にトリ・グナが含まれていると喩えられる。

ドーシャは、「同じ性質のものが同じ性質のものを増やす」という法則で変化する。動性を持つラジャスが増加すると、怒りやイライラがつのり、動性を持つドーシャであるヴァータとピッタを増加させる。安定性・惰性を持つタマスが増加すると、怠惰になり精神活動は停滞し、カパを増加させる。このように、ラジャスとタマスの増加は、心身に悪影響を及ぼす。

一方、トリ・グナのひとつであるサットヴァは純粋性を持ち、ドーシャ(不純なもの)を増大させることはない。サットヴァの増大はトリ・ドーシャのバランスを安定させ、精神的には愛情や優しさ、正しい知性、心身の健康をもたらす。


◎サプタ・ダートゥ(七構成要素)

ダートゥ(Dhatu)は身体を構成する要素で、食物が消化されることで生じる。ドーシャとは違い目に見える物質であり、身体に形を与える[8]。この質が健康状態に深く関わると考えられており、その質が優れていることをサーラと言う。摂取した食物は消化されてダートゥが作られ、そのダートゥの一部から別のダートゥが作られる。生成の順序は次のとおりである。

・ラサ
:乳糜、にゅうび。身体に栄養を与える体液。機能は「滋養」
・ラクタ
:血液組織。機能は「命の維持」
・マーンサ
:筋肉組織。機能は「塗り包む」
・メーダス
:脂肪組織。機能は「潤滑」
・アスティ
:骨組織。機能は「形を保つ」
・マッジャー
:骨髄組織。機能は「充填」
・シュックラ
:生殖組織。機能は「繁殖」

以上の順で、食物から組織が作られる。これらのダートゥを変換するためにはアグニ(消化の火)が働く。

アグニ(消化の火)が正常に働いていれば、食物はうまく消化されてオージャス(活気、活力素)が生み出され、生き生きとした健康な状況となる。オージャスはサプタ・ダートゥの髄質で、各ダートゥの生成過程で少しずつ作られるが、シュックラ(生殖組織)ができる段階で一番多く生成され、心臓に蓄積される。オージャスと共に、マラ(汗、尿、便、爪、髪などの排泄物)が生成される。アグニが正常に働かないとアーマ(未消化物, 毒素)が生成され、排泄に異変が起きる。アーマは粘着性が強く、体内のスロータス(経路、通路)を閉塞させて病気を引き起こす。

また、トリ・ドーシャはサプタ・ダートゥに依存している。ヴァータはアスティ(骨組織)に、ピッタはラクタ(血液組織)に、カパはそれ以外のダートゥに左右される。アスティが減少すると空間が増えるため、ヴァータが増え、ラクタが増加するとピッタが増え、それ以外のダートゥが増加するとカパが増える。


◎アシュターンガ(八科目)

白内障の人の目。『チャラカ・サンヒター』では、jabamukhi salakaという歪曲した特殊な針を使った、白内障の治療法が説明されている。

ナーガールジュナという人物は、大乗仏教を創始したナーガールジュナ(2世紀)が高名であるが、インドの伝承では医学書『スシュルタ・サンヒター』の改訂者とされ、インドでは僧としてより医師・錬金術師・呪術師として知られる。Moriz Winternitzは、仏教、タントラ(密教)、医学、錬金術の4人のナーガールジュナの存在を想定している[13]。実在の錬金術師ナーガールジュナ (錬金術)(英語版)(10世紀)は、『ラサラトナーラカ』(Rasaratnakara )など多くの錬金術書を著した。

古典『チャラカ・サンヒター』では、医学は八科目(アシュターンガ)からなると述べられ、現代でも同じように8つに分類されている。


◎治病医学

・内科(Kāya-chikitsā, カーヤ・チキツァー)
:身体全般における病気の治療。婦人科も含まれる。
・小児科(Kaumāra-bhṛtya, クマーラ・ブリティヤー)
:産科も含まれる。
・鬼人学(Bhoot-vidyā, ブーダ・ヴィディヤー)
:精神科学。現代でいう精神病は、魔物が憑りつくことで起こると考えられていた。
・鎖骨より上部の専門科(Śālākya-tantra, シャーラーキャ・タントラ)
:頭と中心とする鎖骨より上部の治療で、特殊な針などの器具を用いるため「特殊外科学」と呼ばれた。眼科・耳鼻咽喉科・歯科も含まれる。
・外科(Śhalya-chikitsā, シャーリャ・チキツァー)
:異物の摘出。腫瘍の治療。
毒物学(Agada -tantra, アガダ・タントラ):毒物・体毒・誤った食べ合わせによる異常に関する治療法。


◎予防医学

・不老長寿法(Rasayana-tantra, ラーサーヤナ・タントラ)
:老年医学、健康延命法。化学的・錬金術的な処理を含む。
・強精法(Vājīkaraṇa tantra, ヴァーヂーカラナ・タントラ)
:催淫剤と性的若返りの研究。

このように8科目を数えるようになったのがいつなのかははっきりしないが、原始仏典やジャイナ教の経典に、毒物学・不老長寿法・強精法を欠く五科目を列挙したものがあるという。


◎インド錬金術と医学

インドは古代から中国と交流があったが、仏教が中国に伝わる過程でさらに関係が深くなり、中国の錬金術(錬丹術)が伝えられ、インドでも発展したと考えられている。錬丹術は道教の不老長寿法の一種で、水銀が含まれる鉱物・丹砂(硫化水銀)を主原料とする丹薬の服用などが行われた。

インドの不老長寿法・ラサーヤナ (医療)(英語版)にはインド錬金術が含まれる。元々は薬草学であり、古典『チャラカ・サンヒター』の段階では、鉱物薬は限定的にしか使用されず、水銀の内服もなかった。中国錬金術の影響で、水銀や鉱物薬を扱う錬金術も含まれるようになったと考えられている。ラサーナヤという言葉は、薬草学だけでなく、錬金術や、錬金術で作られた霊薬も指すようになり、ラサまたはラサーヤナ(生命の薬草霊薬)、マハーラサ(金の薬草霊薬)、サットヴァ(金の水銀霊薬)、サルヴァ・サーットヴィカ(金の総合的鉱物霊薬、賢者の石)などの用語が生まれた。ただし、水銀には毒性があるため、中国同様、中世後期には水銀を用いた錬金術は衰えた。


◎診断

医者は、自らの五感による直接知覚(プラティヤクシャ)、推論(アヌーマナ)、信頼できる人の教示・証言(シャブダ)に拠って患者の状態を認識する。(参考:ページ下部・ニヤーヤ学派)診察は次のステップで行われる。

視診(ダルシャナ)
触診(スパルシャナ)
問診(プラシュナ)

視診には、舌診(ジフワ・パリクシャー)、眼球の検査(ネトラ・パリークシャー)、肉体的特徴の観察などがあり、触診には、脈診(ナーディ・パリークシャー)などがある。トリ・ドーシャ説は体液病理説的な考え方であるため、ユナニ医学同様、脈診と共に糞便検査(マラ・パリークシャー)、痰などの排泄物の観察も重んじられた。聞診(聴覚・嗅覚を用いた観察)、皮膚の検査、爪の検査なども行われる。プラクリティ(体質・気質)、ヴィクリティ(病気の性質)、サーラ(組織要素の状態の良さ)、サンハティ(またはサンハナナ、体格)、ムラマーナ(身長などの測定値)、サットヴァ(意志の強さ)、サートミヤ(摂生の度合い、ライフスタイル)、ヴァヤハ(年齢)も詳しく把握され、総合して診断を下す。

脈診は、右手の人差し指、中指、薬指を使って行われ、患者が男性の場合は右手、女性の場合は左手の脈が診られる。ヴァータの状態は人差し指、ピッタは中指、カパは薬指で感じられ、脈を感じる深さによって、患者のドーシャの先天的なバランスと現在の
状態を判断する。