澁川祐子さんが、日本だからこそ生まれた「弁当という名の小宇宙」と題して掲載している。中々、面白い。弁当を持って、今の時期、赤梅白梅を観賞しよう。
以下、要約し記す。
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職場に手製の弁当を持参する「弁当男子」が流行ったのは2009年のこと。さまざまな食材を駆使し、漫画やアニメなどのキャラクターを描く「キャラ弁」にいたってはブームが過熱し、弁当の格差がいじめにつながる、衛生的に悪いなどの理由で禁止する幼稚園や保育園が出るなど物議を醸している。
手づくり弁当に限らず、「買う」弁当も、話題には事欠かない。手軽なコンビニ弁当や「ほか弁」から、豪華なデパ地下や老舗料亭の弁当、さらには特定のシチュエーションで食べる駅弁、空弁(空港で販売されている弁当)、速弁(高速道路のパーキングエリアで販売されている弁当)など、次々と新商品が売り出され、メディアに取り上げられる。
◎なぜ、これほどまで「弁当」にこだわるのか。
考えてみれば弁当は、調理したものを蓋つきの容器に詰め、「持ち運ぶ」ためのものである。手づくりの場合、多くは昼ごはん用として、学校や職場など家以外の場所で食事するためにつくられる(例外として、家にいる家族のためにつくる「お留守番弁当」なるものもある)。
食事を家の外に持ち運ぼうとした動機は、もとは畑仕事や旅など長時間食事ができない事態に備えるためだっただろう。さらに現代では、「節約のため」という経済的理由も大きいに違いない。
だが、弁当に対する日本人の並々ならぬこだわりは、そんな便宜上の理由だけでは説明できそうもない。では弁当のなにが、それほど人びとを惹きつけるのだろうか。
「弁当」はもともと食べ物と無関係だった
まずは「弁当」という言葉をたどってみると、そもそもは食べものとは関係なかったことが判明した。
荒川浩和著『宴と旅の器 辦當箱』(しこうしゃ図書販売、1990年)によれば、「弁当(辦當)」は、<本来は「分ち當(あ)てる」「豫(あらかじ)め用意して當てる」意と解され>、その初出は高野山に伝わる「高野山文書」だという。
「高野山文書」は1592(文禄元)年に発行されたもので、876(貞観18)年から1743(寛保3)年にわたる古文書をまとめたものだ。さらに荒川は、室町時代の辞書類にも、辦當の文字が散見されると指摘している(『携帯の形態 旅するかたち』INAX、1993年)。
弁当」の文字が食べものと紐づけられたのは、近世以降のことだ。
1603(慶長8)年に発行された『日葡辞書』には「Bento(ベンタウ 便当 弁当)」との記載があり、解説には一種の箱で引き出しがあり、食物を入れて携行するものと記されている。
1712(正徳2)年頃に成立したとされる寺島良安著の百科事典『和漢三才図会』には、「樏子(わりご)」という項目に、「行廚(こうちゅう)」という見出しがあり、<今弁当と云う>と記されている。
「樏子」については後述するが、「行廚」とは、もともと持ち運び容器全般のことを指す言葉だ。解説には「郊外で人を饗応する際、人数分に配当して、うまく事を弁じる、だから弁当というのだろうか」といったことが書かれている。
つまり、単に「区切って分ける」「あらかじめ用意する」といった意味の言葉が、「時代を経て食べものを前もって用意して配すること」、さらには「そのときに使われる容器」を指す言葉にまで転じていったのである。
そこで「行廚」とはどんなものだろうと、添えられたイラストを見ると、椀や折敷などがセットされている様子が描かれている。
これを見るかぎりでは、どうやらいまの弁当箱とはずいぶん違う。しかも次項には「食盒(じきろう)」とあり、似たような箱らしきものが描かれている。こうなると俄然、持ち運ぶ容器に、当時どれだけの種類があったのかが気になってくる。
◎おにぎりの原型、平安時代に現る
「弁当」という言葉が登場する以前にも、もちろん人びとは食べものをなんらかの形で持ち運び、食べていた。
古く奈良時代には、「強飯(こわいい)」と呼ばれる蒸したもち米を乾燥させた「糒(ほしいい)」という携行食があり、これを袋に詰め、必要なときに熱湯で戻して食べたとされる。
平安時代になると、食の多様化とともに、持ち運びの道具にも広がりが出てくる。たとえば、「屯食(とんじき)」と呼ばれるおにぎりの元祖が登場したのも平安時代だ。屯食は儀式などに際して、木の葉に包んで下級役人に配られた。防腐効果のある竹の子の皮や笹にくるんだおにぎりの原型は、すでにこの頃からあったのだ。
また同じ時代、弁当箱の原型ともいうべき持ち運び用の器が登場している。
その1つが『和漢三才図会』に登場する「樏子(わりご)」だ。一般には「破子、破籠」と書いて「わりご」と読む。破子は、檜の薄い板を用いた浅い箱で、中にはおかずとごはんを分けられるように仕切りもつけられていた。これがのちに、「面桶(めんつう、めんつ)」「めんぱ」「わっぱ」などと呼ばれる、曲げものを使った弁当箱へと発展していく。
破子はいわば1人用の弁当箱だったが、儀式や宴席用に際して大人数の料理を運ぶ用の「行器(ほかい)」と呼ばれる運搬具も現れた。行器は、角形のものもあるが多くは円筒形で、3本の反った脚がついているのが一般的であり、2個1組で使われることが多かった。
以来、持ち運び容器は1人用と大人数用の両側面を持ちながら、さまざまな形に発展していく。
◎江戸時代、アウトドアの必需品だった「提重」
1人用の持ち運び容器は、もっぱら実用のために使われた。旅や戦のほか、農山漁村などでの仕事に持っていくものは、自然素材を使った簡素なものが多く、先述の破子(わりご)、面桶(めんつう)やめんぱ、わっぱのほか、ワラやイグサを織った「苞(つと)」や「柳行李(やなぎごうり)」など、その土地にある素材を使ってつくられた。
また、江戸時代には武士の通勤用の弁当「手持(たじ)弁当」も登場する。木製の小箱に、ごはんやおかずを入れる丸形や角形の重箱がコンパクトに収められた持ち手つきのもので、無地の漆塗りのものが主流だった。武士が手ずから提げて出勤したのではなく、昼時に奉公人が届けに行くのが通例だった。
ひるがえって大人数用の持ち運び容器はというと、中国から入ってきた「食籠(じきろう)」が加わり、手の込んだ瀟洒(しょうしゃ)なものになっていった。
食籠は、円形や方形、六角形などの蓋付きの容器で、一段のものから、重ね、また入れ子のものまで形状はさまざまである。漆や蒔絵を施したものが多く、室町時代頃より唐物として珍重された。
これがのちに、日本ならではの角型の重ね容器「重箱」につながったとされる。さらに重箱は持ち手つきの「提重(さげじゅう)」となり、酒宴に必要な徳利や盃、皿などが機能的に組み込まれ、精緻な細工が施されたものがつくられた。
ここで再び先に引いた『和漢三才図会』を見直してみよう。
「食盒」の項目には、三重にも四重にも積み重ねた精美なもので、舟で遠出したり、野遊びしたりする際に必ず用いる器だと書かれている。
何のために大人数用の持ち運び容器が発展したのか。その背景には、室町時代から「遊山」、つまりアウトドアでの遊びが盛んになったことが大きく関係している。
江戸時代前期から中期にかけての浮世絵師、西川祐信が描いた「繪本眞葛ヶ原」の「蛍がり」と題する絵には、舟の右端に提重の収め箱、そして人びとの輪の中心に食べものらしきものが入っている重箱が見てとれる。このように花見や紅葉狩りなど四季折々にふれ、人びとは提重を持って行楽にいそしんだのである。
ほかにも安土桃山時代に大きく花開いた茶の湯文化にともなって登場した「茶弁当」と呼ばれる茶道具一式を備えたものや、歌舞伎など観劇の幕間に食べる「幕の内弁当」などが登場したのも近世だ。
近世の「持ち運ぶ」は、娯楽と深く結びつき、中身も容れものもどんどん遊び心が凝らされていったのである。
◎梅干しで穴が空いていたアルミ製弁当箱
持ち運び容器の変遷を追うに、近世が用途の多様化に伴って形や装飾を極めていった時代だとすれば、近代から20世紀までは、素材の広がりによって機能性を追い求めていった時代だったと言えるかもしれない。
いまも昔ながらの弁当箱として存在しているアルミニウム製の弁当箱は、1897(明治30)年頃から製造されるようになった。ただ、アルミニウムは酸化しやすいため、梅干しを入れているとそのうち錆びて穴が開いてしまう。そんな欠点を補うべく、アルマイト加工を施した弁当箱もほどなくして誕生する。
当時の新聞広告を見てみると、いろんな弁当箱が開発されていることが分かる。たとえば、1902(明治35)年9月15日付東京朝日新聞には<漆塗りと違い臭気なく御飯の腐敗する事なし>と謳い、瀬戸引きの弁当箱が宣伝されている。
翌1903(明治36)年5月17日付の同紙には、<アルミニューム製文庫型辦當箱>の広告が掲載されている。ちなみに文庫型とは、深くて大きい通称「ドカ弁」と異なり、スリムで小さい弁当箱のことを指している。
また同年6月2日付同紙では、アルミニウム製の組み立て式の弁当箱といったものも見受けられる。これは食べ終わった後にバラバラにして持ち帰れるというものだ。
『vesta』1995年1月号に掲載されている「特許資料にみる明治時代の弁当箱」と題する記事(近藤雅樹・筆)では、蒸気を送り込むパイプがついたものや、アルコールランプがついたもの、湯切がついたものなど、奇想天外な弁当箱がいくつも紹介されている。これらはいずれも、温かいままご飯を食べたいという願望をどうにか実現させようと苦心したものだ。
以来、戦後しばらく経つまでアルマイト製は弁当箱の主流を保ってきたが、一度だけ不遇の時代を経ている。それは1941(昭和16)年に発令された金属類回収令によって供出の対象になり、世間から姿を消したのである。代わりにベニヤ板を使った代用弁当箱などが使われた。
戦後の流れを簡単に追うと、1950年代になって汁もれ防止のパッキンつきの開発が進むとともに、プラスチック製品も徐々に出回るようになった。
1960年代半ばには、魔法瓶の構造を応用したジャー式の保温弁当が登場。さらに1970年代半ばには、「ほか弁」やコンビニ弁当が誕生し、弁当は「家でつくって外で食べる」だけでなく「外で買って家に持ち帰る」ようにもなったことを付け加えておきたい。
最近はと言うと、汁気の多いものも入れられるシリコン製や、錆に強いステンレス製、保温または保冷に適したタイプといった新商品が登場する一方、昔ながらのわっぱや漆塗りの弁当箱も根強い人気を誇っている。
だが、ここ数年の変化を見るに、これまでの機能を改良したり、軽く薄くしたりするに留まり、もはや形や機能の大きな変化は見られない。その代わりか、21世紀は中身の見た目へと人びとの注目が移ってきているのではないだろうか。
◎物理的制約から誕生する「小宇宙」
弁当の見た目へのこだわり。それは、「松花堂(しょうかどう)弁当」に象徴されているように思う。
松花堂弁当とは、十字に仕切った四角い箱に、煮物、焼物、造り、ごはんなどを形よく盛りつける弁当のことだ。その起源は、江戸時代初期の僧侶で茶人であった松花堂昭乗(しょうかどう・しょうじょう)が、農家にあった仕切りつきの種入れ箱に目を留め、これをヒントに茶会で使う煙草盆や絵具箱をつくったことにさかのぼる。
それを昭和初期、のちに「吉兆」の創始者となる湯木貞一が茶会の席で料理を盛るのに用いたことから、松花堂弁当と呼ばれるようになったという。
四角く区切られた狭い空間に、彩りよく旬の食材を盛り、季節を写し取る。海外の弁当事情も調べてみたが、世界中に弁当はあれど、そこまで見た目に凝るのは日本ぐらいだ。それはなぜなのか。
◎器は縁高で四角く、なかには仕切り。かぶせ蓋がつく
伝承料理研究家の奥村彪生は、農文協編『聞き書 ふるさとの家庭料理 19巻 日本のお弁当』(農山漁村文化協会、2003年)の中で、日本で弁当文化が発達した理由として
以下の2点を挙げている。
第一に冷めても味が変わりにくい粘りの強いジャポニカ米が主食であったこと。第二に焼もの、煮もの、和えものといったおかずが中心で、とくに煮ものはダシのうま味が効いているうえ、冷めたほうが味が染み、保存性も高まること。さらに付け加えるなら、汁気が少ない料理が多いことも、詰めやすさの一因といえるだろう。
そうした食材や調理法によるところももちろんのことながら、近世の行楽弁当の影響が色濃く残るからこそ、現代にいたるまで日本ではかくも多様な弁当文化が育まれてきたのではないかと、私は考えている。
風光明媚なところで大勢と囲む弁当は、どうせなら舌だけでなく、目でも楽しめるものが望ましい。そんなハレの日の弁当の姿は、いまでも花見や運動会などの行事に引き継れている。
おまけにデパ地下や料亭に行けば、お手本ともいうべき見目麗しい弁当がずらりと並んでいる。そう考えると、キャラ弁ブームは、いかにも日本ならではの現象なのだろう。
持ち運ぶがゆえに、物理的な制約が生まれる弁当という器。そこにいかに小宇宙を構築するか。たとえ出来上がった弁当の見た目が違っていても、やっていることの本質は遠い昔と変わりがないのだ。