龍の声

龍の声は、天の声

人生を一新させる方法

2011-03-31 13:48:51 | 日本
人生を一新させる方法

第一印象をよくし、若く!感じが良くなり!人生を一新させよう。

<目のマサージ法>
①目の周りの血流をよくすることにより、目力が強くなり、明るくなり、相手に好印象を与える。
②方法は、両の指先で鼻から両外へ両目の周りをまわすように1回、2回目にはそのまま指先をこめかみまで持って行き、耳の横をとおり、両の首のうなじへと血流を流すようにマッサージを行う。毎日、30秒間繰り返し行う。

<30秒間で第一印象をよくする方法>
①最初の言葉は半音上げる。後はゆっくり話す。
②全員に3秒間のアイコンタクト
③自分のいい点は最初に言う。

<聞き上手の方法>
①身体を相手に向ける。
②相手と同じような動きをする。
③話すスピードを相手のリズムに合わせる。
④上手い相槌を入れる。
⑤日常的に、30間で自分をアピールする訓練をする。

震災と国の変化

2011-03-30 16:30:30 | 日本
震災と国の変化

〔1〕ビルの崩壊
建築基準法が1981年に変わった。それまでのビル建築の方法は、例えば、8階建てのビルでは3階までの鉄骨の柱は太くしてあるが、4階以上の柱は継ぎ足しのように細くして作ってきた。よって阪神大震災のときのように、大きな地震がくると、柱のつなぎ部分(4階部分)に負担が大きくかかり、その部分だけが潰れる形になった。現在は法改正により、地階から屋上階まで同じ太さの鉄骨の柱となり、地震時には左右前後に揺れるが、中間階が潰れたりビルが倒れたりすることはない。また、2階立てマンションには居住する場合は2階がよい。万一のとき、1階は天井の梁等々が落ちてきて圧死する可能性がある。


〔2〕原子炉事故からの安全圏
広瀬 隆著「原子炉時限爆弾」(H22.8発行)は、今回の東北関東大震災での福島原発放射能漏れをわかりやすく予測している。参考になる。
政府は、福島原発の放射能漏れや爆発への安全避難圏を20㎞圏・30㎞圏としている。一方、在外国のアメリカは80㎞圏・フランンスは100㎞圏とした。
そこで首都東京を中心とした全国の原子力発電所までの距離を調べてみた。茨城の東海村までは約150㎞圏・福島までは約230㎞圏・静岡の浜岡までは約200㎞圏・新潟の柏崎までは約300㎞圏である。アメリカやフランスの安全圏よりもさらに距離が離れている。今回の福島原子炉事故に関しても、首都東京はまったく問題がない地域だ。政府は原発施設をつくるにあたり、首都防衛のための安全圏の基準を決めているのか?


〔3〕これからの政治及び政治家のあり方
戦後の高度経済成長の中での政治及び政治家は、地元や業界団体等々への富の配分(道路・橋・ダム等々の建設)をおこなうものであった。しかし赤字国債900兆円を上回る今日、これからの政治及び政治家は、負の分配を如何に全国各地におこなうのか。国民に現状をよく理解させ、負の分配をうまく行い、国民とともに将来の夢を語り、実行できる政治家が必要となる。
そのためには、政治家としての本来の役割をしっかり自覚し、「富の分配から負の分配へ!負の分配から自立ある国創りへ!」と観の転換をはかり、今までのように口先ばかりではなく、現実に実行しうる覚悟がいる。価値観の転換が重要である。


〔4〕負の分配から自立ある国創り!
「富の分配から負の分配へ!負の分配から自立ある国創りへ!」これを如何にして成しうるのか?これを成しえたモデル国はドイツである。ベルリンの壁が壊れ、東西ドイツが統一した。しかし東ドイツの持つ膨大な負債を、ドイツは統一国家としてかかえた。この負の分配を如何なる方法で国民にわかりやすく伝え、理解させ、実行し、国家としての自立を成しえて来たきのか。わが国は大いに学び研究する必要がある。

炉心溶融とは、

2011-03-30 13:31:16 | 日本
炉心溶融とは、

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


炉心溶融(ろしんようゆう)、メルトダウン(英語: meltdown)とは、

原子力発電所で使用される原子炉の炉心にある核燃料が過熱し、燃料集合体または炉心構造物が融解、破損することを指す原子力事故。最悪の場合は原子炉圧力容器や原子炉格納容器、原子炉そのものが破損され、放射性物質が周囲に拡散することも想定される。


概要

原子力発電は、高純度のウランなどで燃料物質を作りそれらを臨界状態になる位置に接近させて設置し核分裂反応をゆるやかに起こさせ、その時に核物質(燃料棒)が核分裂反応によって熱くなることを利用して水を沸騰させて高圧蒸気を作り、その高圧蒸気でタービンを回転させ発電機で発電する(この時、原子炉で発生した蒸気を再度水に戻すためや、使用済みの核燃料を冷やすための間接的な冷却水(3次冷却水)が大量に必要となり、通常原子力発電所は海や川の近くに設置される)。

緊急時や点検時など原子炉を停止する場合は、核燃棒の間に制御棒といわれる高密度の放射線遮蔽物を置くことで、核反応を停止して制御するが、この時燃料棒はすぐには冷たくならないため、しばらくの間は冷却水を余熱除去系ポンプを使用して冷却水を循環させて炉心を冷却し続ける必要がある。

ところが何らかの原因で余熱冷却系の水の循環に不備が起こったりするなど炉心の冷却を怠ると、臨界を終えていても、燃料棒の高い余熱のために原子炉容器内で制御棒や燃料棒自体を溶かしてしまう現象が置きる。これを炉心溶融と言う。この炉心溶融は、通常一時冷却水から炉心が露出することで起こる。

炉心溶融が起こった後に想定されることは、冷却処理が取れなければ、核燃料の膨大な熱エネルギーによって原子炉容器や原子炉格納容器、原子炉建屋などの構造物も関連する爆発や火災で破壊され、最終的には外部に放射性物質を大量に放出する恐れがある。また、軽水炉においては、溶けた燃料棒が冷却水に落ちると冷却水が激しく蒸発し、水蒸気爆発が起きる可能性もあり、連鎖的にプラントの被害が大きくなる。最悪の場合には放射性物質を大量放出する危険があるため、原子力発電において想定しうる最も過酷な事故とされる。

映画「チャイナ・シンドローム」の作中では、アメリカの炉心溶融が連続して起きて原子炉や地殻を溶かし、地球の反対側の中国まで溶かす「チャイナ・シンドローム」が発生するという表現がジョークとして用いられた。このため炉心溶融自体をチャイナ・シンドローム(China Syndrome)と呼ぶこともあるが、炉心溶融が発生した場合に、必ず原子炉熔解が起きるわけではない。


過去の炉心溶融

この節は現在進行中の事象を扱っています。記事の内容は最新の情報を反映していない可能性があります。

現在までに世界で正式に確認される炉心溶融事故は3件ある。

1966年 エンリコ・フェルミ炉
1979年 スリーマイル島原子力発電所事故
1986年 チェルノブイリ原子力発電所事故




春の日の
やさしき陽射しが震災を
受けし遺族の
こころつつむ

「天地正大の気」の意義

2011-03-29 22:14:09 | 日本
「天地正大の気」の意義  田中忠雄老師講義


「天地正大の気」は、弘化2年(1845年)11月、水戸藩の藤田東湖が隅田川河畔の陋屋に幽閉され言語に絶する苦難に身を置きながらも、我が日本という国の美しさと歴史上の現れた生気とを深い感動をもって詠い上げたものである。

藤田東湖の「天地正大の気」を勉強し、共に眉をあげ胸を張って、朗々と吟じたい。
これはこれ、維新への志気を鼓舞してやまない古今の絶唱である。

銘記せよ、本当の日本人となるには、日本人の祖先が歴代の天皇を中心として、次々に尊い生命を積み重ねて、わが大和島根を護ってきた事実を。

歴史は血湧き肉おどる魂の慟哭を以って学ばねばならないものだ。
必ず、声に出して、ゆっくりと読みすすみ給え。
しからずんば、言霊のひびきが魂に浸透しないであろう。



「天地正大の気」 


てんちせいだい き            すいぜん     あつ
天地正大の   気            粋然として神州に鐘まる。

ひい   ふじ がく             ぎぎ  せんしゅう そび
秀でては不二の獄となり、         巍々として千秋に  聳ゆ。

そそ  たいえい                         めぐ
注いでは大瀛の 水となり、        洋々として八州を環る。

は   ばんだ               しゅうほうとも ちゅうしがた
発しては万朶の桜となり、         衆芳与に    儔難し。

こ    ひやく てつ な          えいりかぶと た
凝っては百錬の 鐵と 為り、       鋭利鍪を   断つべし。

 <中略>

じんせんにしゅうせい           ひと  こ    したが
荏苒   二周星、             独り 斯の気の随うあり。

ああわればんし  いえど         あになんじ はな
嗟予万死すと   雖も、          豈汝と   離るるに忍びんや。

くっしん      ふ                  なん うたが
屈伸   天地に付す、           生死また何ぞ 疑わん。

    まさ   くんえん すす        また こうい は
生きては当に 君冤を  雪ぐべく、     復 綱維を 張るを見ん。

    ちゅうぎ  おに            きょくてんこうき   まも
死しては忠義の  鬼となり、        極天皇基を     護らん。 

宇宙・地球・人間の不可思議②

2011-03-29 01:20:23 | 日本
宇宙・地球・人間の不可思議②

<地球の内部構造は?>

大陸地殻    = 花崗岩
海洋地殻    = 玄武岩
表皮より660㎞  = 上部マントル
2900㎞ = マントル(鉄とマグネシュウムのケイ酸塩鉱物)
    5100㎞ = コア(外殻)= 液体
6400㎞ = コア(内核)= 5000℃


<宇宙で地球はたった1つの存在か?>
松井孝典氏は言う。

銀河系のスケールでは惑星系として、太陽系は普遍的ではない。
太陽系の中で、地球は普遍的ではない。
すなわち、
宇宙の中で地球は普遍的でなく、ただ一つの存在と言えるらしい。
地球と他の惑星との違いは、大気・生命・海・磁気圏があること。



<人間のDNA>

我々は、人間自身を細かく区切り、DNAにまで行き着いて、すべてを読み取った瞬間に「何のことはない、人間は特別でなく普遍的であることがわかった。
他の地球上の生命と何ら変わりはないという事を自ら証明してしまった。
私たちの生命情報がDNAの組み合わせで出来ている。
その組合わせで、他の生物になってしまったようだ。

自分は不可思議な世界に生きている。否、生かされている!



<不忍池・弥生(しのばずのいけ) H23.3.28>

春風まだ浅き不忍池  
蓮の湖上に水鳥遊ぶ
日は揚々としてふりそぞぎ
桜花のふくらみ いよいよ益す
嗚呼!われ独り
鳥鳴を肴に杯をかさねる
人生いずくんぞ青山ありや

鳳凰

宇宙・地球・人間の不可思議①

2011-03-27 23:01:43 | 日本
宇宙・地球・人間の不可思議①

<自分を取り巻く速度の不可思議>

・人間が歩く速度                   4㎞/h
・新幹線のぞみの速度                 300㎞/h
・地球が回る自転速度                 1,700㎞/h
・地球が太陽の周りを回る公転速度          107,000㎞/h      
・太陽系が銀河系の周りを回る公転速度        792,000㎞/h
・銀河系がアンドロメダ銀河に接近している速度     360,000㎞/h               

全宇宙には、この銀河が1000億個もあると言われている。

      

<何故、我々には地球や宇宙の回転スピードが感じないのか?>

運動している物体が、押されたり摩擦がかかる等、何らかの力が働くと速度は変化する。
速度が変化すると加速度がかかる。
スピードが速くなる加速度でも、遅くなるマイナスの加速度でも、我々はその変化を感じ取ってしまう。
また乗り物が途中で曲がったり、揺れたりすると、スピードは変化しなくても加速度が生じたように感じて動いていることが察知できるのだ。

だが、我々は生まれながらにして高速移動している地球に暮らしている。
今までのところ、自転も公転も銀河の動きも、強いブレーキがかかったことがなく、ほぼ同じ速度で運動を続けている。
そしてそこには慣性の法則が働いている。
だから乗客である我々には何も感じないのである。


自分は不可思議な世界に生きている。否、生かされている!


東北関東大震災への現段階における復興の流れ

2011-03-26 21:09:28 | 日本
東北関東大震災への現段階における復興の流れ

<復興への流れ>
 
 第1段階 3~4月 ・陸上海底ともに遺体、瓦礫、ゴミ等々の応急処置
             どの場所に集積するのか、車両、重機の手配
 第2段階      ・防波堤、道路、電気、水道、等々のインフラへの応急処置
 第3段階      ・県市町村の役所による復興設計図にもとづき本格的な対応


<政府の動き>   

・復興への補正予算   
 第1次補正予算  4月中
 第2次補正予算  6月頃
 第3次補正予算  秋
          
・大災害基本法を準備中 
 「復興庁」を設置してすべての復興への発注件を集約させる。



※暴動や略奪が起きない日本に「人類最高の先進性」と中国人

NEWS ポストセブン 3月26日(土)7時5分配信

東北関東大震災の悲劇は海外でも詳細に報じられている。
原発事故に対する危機感も少なくないが、各国の報道に共通しているのは危機に際しても礼節を失わない日本人の精神力への称賛だ。
中国中央電視台(CCTV)は地震関連のニュースを24時間態勢で報道。
「秩序があって混乱はまったく見当たらない」としたうえで、
「徹夜して救援活動を行った」と対策指揮にあたる菅首相の姿を伝えた。
日頃の“反日姿勢”は影をひそめ、日本の社会や首相を称える姿勢が目立っている。

気になる中国人の反応だが、地震発生直後にはネット上に「天罰だ」「祝賀したいなあ」といった書き込みがあった。
しかしすぐに「中国人の恥だ」との批判が殺到し、「日本の地震を喜ぶなかれ」という声が主流に。
中国版ツイッター「微博」は、ビル内に足止めされた日本人の様子を紹介。
通行の妨げにならないよう階段の両脇に座る写真が掲載され「(マナーのよさは)教育の結果。国内総生産の規模だけで得られるものではない」とのコメントがついた。
この“つぶやき”は7万回以上転載され「中国は50年後でも実現できない」「とても感動的」「人類で最高の先進性がある」と反響が広まった。

「民間の広告ネットワークAC」のテレビ宣伝に感謝

2011-03-26 00:38:28 | 日本
「民間の広告ネットワークAC」のテレビ宣伝は誠に素晴らしい。

・日本は強い国!
・日本は一つのチームです。
・みんなでやれば乗り越えられる。
・あなたはどんな時でも一人じゃない。僕らがみんながついている。
・みんなが笑顔になれるように!
・みんなでやれば大きな力に!
・日本の力は団結力!
・強く強く!未来を信じて今一つになるとき。
・日本の力を信じてる。
・こころは見えないけれど こころづかいは誰にでも見える。
思いは見えないけれど 思いやりは誰にでも見える。
・挨拶するたび 友達ふえるね。
・優しく語れば 優しくこたえてくれる。
・忘れないで下さい。あなたの手で伝えられることが沢山あります。

「民間の広告ネットワークAC JAPAN」 会社員のご支援で活動をしています。

素晴らしい言葉ばかりである。
民間の広告ネットワークACは、これを徹底して報道している。


東北関東大震災後、日本はその復興にむけての励ましの流れの中で、日本本来の伝統的良さを取り戻しつつある。
この動きは、ただ単に被災地復興だけのものではない。
戦後の日本人が忘れていた日本人としての自信力の回復につながっている。
明るく国民が一丸となって底力を発揮して、本来の日本人の大和魂を復活しようとしている。
この報道により沢山の日本人の自信力が、今、目覚めつつある。

その意味では、今までのテレビの宣伝やマスコミはまったくつまらないものであった。
スイッチを入れれば必ずと言っていいほど、病気に関する宣伝、薬メーカーの宣伝、生命保険の宣伝、暗い事件ばかりの報道、等々が主流を占めていた。
見ているだけで暗くなる。
身体や心までもが異常になってきても不思議ではない。
毎日毎日、何十年間もこの種の報道でマインドコントロールされていては、しっかりとした日本が築けるはずがない。
日本人の自信力が回復するはずがない。

将に、日本人弱体化報道であったことが分かる。

民間の広告ネットワークACは、誠に素晴らしい!
ありがとう!
本当にありがとう!

十牛図~禅の悟りにいたる十のプロセス⑩~

2011-03-25 23:39:52 | 日本
十牛図~禅の悟りにいたる十のプロセス⑩~

第十、入鄽垂手(につてんすいしゆ)

すぐれた絶対の高い境地を体得しておりながら、その高い境地をすっかり忘れて破れ傘に身を包んで町の中へ、民衆の中へ飛び込んでゆくのだ。
衣や袈裟もすっかり脱ぎ捨てて素っ裸になって民衆の中へ飛び込んで、顔を見るやつ、一緒に飲むやつ、皆満足させてしまう。
皆に安心を得させてしまう。
町のおやっさんやら愚連隊やらが皆が感化されて悟りを開いてしまう。
触れる人が皆な救われていく。
それが「入鄽垂手」である。

大バカになってニタニタと笑っておるのだ。
その顔は、それは何とも言えん。
「笑い顎に満つ」だ。
アゴがはずれるほど笑う。
そういう笑いに触れたものが皆な善心に帰って仏性を自覚するのである。
人を敵視しない、誰とでも溶けあっていける。
その笑いには皆が感化されてしまう。
いくら顔が笑っておっても眼が笑わなかったら本当の笑いではない。
犬でもネコでも、まず人の眼を見る。
その眼が敵視している眼ならばなんぼ笑ってもついてはこない。
まず眼が笑うということは心が本当に笑っているということである。
奇跡を説くのではない。
ただ笑うだけだ。
ただ一緒に酒を飲むだけだ。
一緒に歌うだけだ。
すなわち、何を説教するでもなく、意見をするのでもなく、講釈をするのでもないが、
この人が民衆の中に入って、ニコーッと笑うだけで、つきあう者が皆、枯れ木に花が咲いたように人生に生き甲斐を感じてくるのである。





この天地がそのまま宇宙の本源であると徹するのである。
この世界が浄土であり、自分がこのまま仏であるという最高の悟りを開いたならば、その悟りをも捨ててしまって、悩める人、苦しめる人、そういう人たちのために社会のどん底へ飛び込んで、社会のすみずみまで、この浄土を皆に悟らせていかねばならん。この仏の光を皆に与えていかんといかん。

それが十牛図の一番最後の目的である!
                                〔了〕

十牛図~禅の悟りにいたる十のプロセス⑨~

2011-03-25 09:57:16 | 日本
十牛図~禅の悟りにいたる十のプロセス⑨~

第九、返本還源(へんぽんげんげん)

家の中で窓を閉めておったら、外に何があっても見えることはない。
お互いには六根門といって「眼耳鼻舌身意」という六つの窓があるが、
その窓を閉めて何も思うことのない鏡のような心であるならば、それが本来の清浄なところである。
そういう何もないところから、今度は窓を開けて外を見れば「水は自ずから茫々、花は自ずから紅なり」だ。
自分の心の内側を眺めると何もない。
その何もない心が見ざる聞かざる思わざるの殻を破って外の世界と一つになり、見る世界と見られる世界がまったく一つだと分かるならば「水は自ずから茫々、花は自ずから紅なり」で、自然の世界がありのままに真実である。
こういう世界が「返本還源」である。無一物中無尽蔵である。


十牛図~禅の悟りにいたる十のプロセス⑧~

2011-03-22 07:53:16 | 日本
十牛図~禅の悟りにいたる十のプロセス⑧~

第八、人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)

真っ赤に燃えた炉の上にはなんぼ雪を入れても溶けてしまう。
何もかも溶けてしまって、あとには何も残らない。
「よい」という雪が落ちても溶けてしまう。
「悪い」という雪が落ちても溶けてしまう。
迷いも悟りも、悪魔も仏も、何もかも溶けてしまう。
そういう境地が「人牛倶忘」というところである。
男でもなければ女でもない、若くもなければ年寄りでもない、金持ちでもなければ貧乏でもない、学者でもなければ無学者でもない、善人でもなければ悪人でもない。こういう世界がお互いの悟りの真っただ中にある。本来無一物だ。一円相だ。仏にあっても余ることなく、凡夫にあっても欠くることなし。「円かなること太虚に同じ」だ。
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十牛図~禅の悟りにいたる十のプロセス⑦~ 

2011-03-21 09:44:14 | 日本
十牛図~禅の悟りにいたる十のプロセス⑦~ 

第七、忘牛存人(ぼうぎゅうそんじん)

人生は金さえあればどんなことでもできる。
よいことをしようにも金がなくてはならん。
社会事業をしようにも金がなくてはならん。
一にも二にも金じゃ、金じゃと言うて金が出来てみると、さあ思うどおりに社会事業ができるか。
もう生活の不安はないのであるから充分に社会に貢献できるかというと、そうではない。
もう金に縛られている。
世の中のために金を集め自分の生活を安心するために金を集めたが、その金のあることが不安になってくる。
この金を盗られはせんか。
人にやるのが惜しくなる。
これでは何も出来なくなる。
何のことやら分からん。
法に二つはないのである。
牛をつかまえた我と、つかまえられた牛と、二つではないはずだ。
法を悟った我と悟られた法とが別々であったら偽物である。
人牛一如だ。
我と法とが一体になったところが悟りでなくてはならん。
法を求めてゆく修行を牛を尋ねると喩えたのである。
牛を仮に仏性として取り扱っただけである。
過去現在未来万劫を貫き、無限の空間を貫き、無限の時間を貫いていく光が仏性の光というものである。
仏性というものは実に閑暇なものである。
何も求めるものはない。
天地の間に求めるものは何もない。
腹が減ったら飯を食い、眠くなったら寝るだけだ。
人生の終点に着いた景色である。
目的のあるうちは、まだ人生の終点に着いてはおらん。
終点に着いたら遊ぶのである。
人生の終点に着いたら求めるものは何もない。
遊ぶだけだ。
「人もまた閑なり」だ。
あってもよし、なくてもよし、生きてもよし死んでもよし。
嬉しいこともよし悲しいこともよし、降ってもよし照ってもよし。
日々是れ好日だ。
お互いの魂が生まれてから旅に出て流浪しておったのである。
生まれてからどころではない。
無始劫来、世界が始まって以来、お互いの魂はルンペンをしておった。
それが今、仏のもとへ、我が家へ帰ってきたのである。
分別の世界をうろついて、あの人がいいのこの人が悪いの、損じゃ得じゃと言うておる。
世間の人は「悪し」の方は雲で、「善し」がお月さまだと思っておるが、それが間違いだ。
悪に対して善というのがあるのであって、その時の環境、その時の心境、その人々によって善悪と言うのは変ってくる。
定まったことではない。
「彼が是なりとするところは、則ち我が非なり、我が是なりとするところは則ち彼が非なり、共に是れ凡夫のみ」。
その善し悪しの雲をとってしまったところに、金の鉱石から出たように永遠に変らぬ光が現れるのである。





十牛図~禅の悟りにいたる十のプロセス⑥~

2011-03-20 11:41:29 | 日本
十牛図~禅の悟りにいたる十のプロセス⑥~

第六、騎牛帰家(きぎゅうきか)

諸行は無常だ。
すべてのものは動いていくものである。
この世に頼りになるものは何もない。
どうしても生死を解脱せんならんと言って座禅を修行されたが、その生死を解脱できると、また無常の世界に帰っていくのである。
しかし真実見性して、もとの無常の世界へ帰ってくると無常の世界が実相の世界になっている。
この動いていく生活の真っただ中が、そのまま涅槃寂静の浄土となっている。
どうしてももとへ帰ってこんと本物にはならない。
一回転の悟りである。
金が金鉱から精錬されると、その金はもう二度と鉱石には還ってはいかん。
一度精錬された純金は、たとえ何千年地下に埋めておいても光っておる。
その不変のところに金の値打ちがある。
そのように、一度悟りを開いて煩悩と悟りとを選り分けると、その悟りはもう二度と煩悩とは一緒にはならんのである。
世界の主人公になるということは世界中が我が家になることだ。
どこへ行っても遠慮がいらんということだ。
お釈迦さんがお悟りを開かれたのは世界の主人公におなりになったのである。
だからお釈迦さまはどこへ行っても食うには困らん。
どこへ行っても喜んで迎えられる。
どこへ行っても畏まって遠慮せんならんことはない。
そのように無心の人間が無心の牛に騎って我が家へ帰っていくのである。
実にのんびりとした風景だ。
人生の終点に着いた光景だ。
あれが欲しいこれが欲しい、あれもしたいこれもしたい、というのは人生の道中をうろついている人だ。
山のてっぺんに登ってしまったら、もう汗をかくこともない、登ることもない。
ただ青空を見、下界を見るだけだ。
下を見ると「まだ五合目だ」「七合目だ」と言って汗をかいて登っておる。
「ああ、ご苦労ですな。まだ上がありますぜ」と言うて引き上げてやりたいようなところじゃ。
まだ銭が儲けたいの、出世がしたいのと言っている人は五合目あたりでうろついてござるというようなものじゃ。
天下に何も求めるものはない。
何もかも求めなくても叶えられる。
我が家だから欲しいものを手当たり次第に取っても誰も怒る者はおらん。
求めなくてもすべてが与えられる。
そういう境地が「騎牛帰家」である。


十牛図~禅の悟りにいたる十のプロセス⑤~ 

2011-03-19 12:38:20 | 日本
十牛図~禅の悟りにいたる十のプロセス⑤~ 

第五、牧牛(ぼくぎゅう)

牛をつかまえるにはつかまえたが、この牛がなかなか自分の思うように動いてくれない。
この牛をよく飼い馴らして我がものにせんならん。
それが「牧牛」である。
すなわち悟後の修行である。
自分が自分で牛を飼い馴らしていくのである。

一念が起こると、次から次へといくらでも念というものは起こってくる。
前の念が消えると次の念が起こり、それが消えるとまた次の念が起こる。
これを生死の迷いと言う。
社会の人は外で働いておるから、妄想を妄想と思わずに暮らしておるだけのことである。
しばらく座禅をしてみると、人間はいかに妄想が多いことか分かる。
これはいらざる余分の考えだ。
精神の浪費だ。
考えんでもいいことを考える。
モーターの空回り、電灯のつけっぱなしだ。
世界を眺める自分の心が覚であるか、迷いであるかによって、世界に真とか妄とかが出てくるのである。
自分がいつも真実でおれるということは念を捨てていくということである。
無念夢想という境地、無心という境地。
さまざまな妄想はその鏡の上に映る影である。
そこに真実をさがそうとしったって、そんなところに真実はない。
鏡のようにスカーッとした、本来無一物というところがお互いの本性である。
一人の人が見性をすれば、触れる人が皆、悟っていくのだ。
救われていくのだ。
それが衆生済度ということである。
念々無心、真っ直ぐにこの道を進んでいけばよいのである。
こういう境地を持続していくこと、正念相続していくことが、牛を飼っていくということである。
修行して悟りが開けた人さえも、こうして悟後の修行をしていくのである


十牛図~禅の悟りにいたる十のプロセス④~

2011-03-18 10:49:42 | 日本
十牛図~禅の悟りにいたる十のプロセス④~

第四、得牛(とくぎゅう)

境界というものはそれぞれ違うものである。
雀の境界は雀でなければ分からん。
鶏の境界は鶏でなければ分からん。
魚の境界は魚でないと分からん。
この寒いのに水の中で暮らしておるが、まあ気の毒なことじゃ。
可愛そうにせめてお湯の中へでも入れてやったらなどというたら、魚は死んでしまう。
魚の境界が人間に分かるはずはない。
この本来の面目という牛は、妄想煩悩の境界ではとてもではないが計ることはできん。
ええの悪いの、可愛いの憎いのと、そんな頭で、この仏性の牛を探ろうと思っても分かるもんではない。
煩悩即菩提だのと悟ったような口真似をして、女に会うたら女を抱き、酒に合えたら酒を飲むなんぞ、とんでもない不了見だ。
そんなところに悟りがあるものか。
酒が出ても飲むという意識も起こらない。
美人が前に来ても抱こうという意識も起こらなくなって、初めて牛が手に入る。
理知分別のありったけを尽くし、もう何も考えることがなくなって何も言うことがなくなった。
大馬鹿者になってしまった。
何を考えていいのやら、考えることもなくなってしまう。
そういう境地で初めて牛をつかまえることができるのである。
できてもできんでも真っ正直に無字三昧になっていく、たとえ一秒でも一分でもよい。
たった五分でもよい。
俺は三昧になったところへ行くのに妄想を払い三時間骨を折る。
三時間苦労して三昧になったのはたったの五分だ。
それでよい。
たったの五分であるが、それは永遠につらなる五分間である。
その五分間は永遠の仏だ。
どこで得入せんとも限らんのであるからいつでも精神を充実していること、三昧を持続しているということが大切である.