龍の声

龍の声は、天の声

 第6話「惜別、永遠の別れ」

2024-06-30 10:22:32 | 日本

残された貴重な時間を意義あるものに。そんな思いの一日だったような松本中尉は、テキパキと行動し、夜は「駒我家」の小父さん等に、お別れの挨拶をとのことで、「坊や、一緒に来いよ」と呼ばれ、私は一緒に駒我家へと向った。

お店は空襲の影響か閑散として、芸奴連中のお姉さん達も談笑にふけりながら、手持ちぶささにたむろしていた。そこへ松本中尉が顔を出した途端、こぞって驚いた様子で、今日は来る日じゃないのに・・。来るべきときが来たことを、皆、感じていた。
しばらく奥の部屋で叔父と語り合っていたが、松本中尉馴染みの美和子の案内で、奥の四畳半の部屋へ通された。

松本中尉はあぐらをかき、うつむいて貧乏揺すりをし・・。しばらく沈黙が続き、やっと口を開いた。「俺・・、俺・・、明後日、飛ぶことになった・・。」と言った途端、美和子は畳にうつ伏して、大声を上げ、体を震わせ、泣き叫んだ。私はここに居るべきではないと、ソッとラムネを片手に抜け出した。日ごろからおとなしい芸奴と言われていた美和子さん。その狂乱ぶりには周りが驚いていたようだった。

男と女。相寄る二つの魂。結ばれることのない束の間の愛。外では、しとしとと無常の雨が円窓を濡らしていた。




 第5話「慟哭!出撃命令下る」

2024-06-29 06:11:32 | 日本

青空が広がる朝、突然、松本中尉がやってきた。
父「ありゃー、どぎゃんしたとですか?今日は」 
父は何かある!と感じたのか、奥の部屋に松本中尉を招きいれた。いつも夕方と思いながら「いよいよ・・」という感じは拭いきれなかった。私は、耳をそばだてて聞き入ったり、様子を探ったり、母が目頭を拭いながらお茶を運ぶ姿に、どうやら出撃命令が下った模様が窺い知れた。
「小父さん、いよいよ沖縄へ飛ぶことになりました。いろいろとお世話になりました。」こんな内容の言葉だったように思う。いよいよ松村中尉ともお別れか・・と思うと寂しさが込み上げてきた。やがて両親との話も終わった。

そして、私の顔を見ると、「おお、坊や、試し切りでもやるか!」と持ってきた軍刀を抜き、庭先の桜の木に、孟宋竹(もうそうだけ)を立てかけ、正眼に構えて、一気に振り落とした。しかし、竹は半分しか切れず、刃こぼれした軍刀を見つめながら「なまくらじゃのう」と呟いていた。

今度は「坊や、山に行こうか?」と誘われたので、私は後に続いた。道中、「坊やともいよいよお別れだな・・。明後日、沖縄へ飛ぶことになったんだ・・」私は何と応えたらよいか、只々うなずくだけであった。松本中尉「ところでどうだい、学校は?」と問いかけられた。私は戸惑いながら、「ハア、空襲ばっかで授業はなかとです・・」消え入りそうな声で応えると、「そうか、ごめんな。飛行機さえあればアー・・」 後は、お互いに言葉が途切れてしまった。

やがて頂上に着き、本明川と諫早駅を臨む景色を眺めていたとき、松本中尉が急に、「坊や、ここで待っててくれないか・・」と言い残すと、そそくさと茂みの中へ入って行った。5分・・20分・・。時間が過ぎていく。私は、もしや?割腹?・・いやあ、そんな筈はない。居ても立ってもおれなくなり、不安を胸に、私も後を追った。かなり奥へ入り込むと、何やら泣き声のような声が聞こえてきた。そこで見た光景は・・・。

「俺はあした死ぬんだ。母ちゃん・・、母ちゃんよオ・・・、母ちゃん死ぬんだよオ・・、サイナラ・・、母ちゃんよオ・・、サ・イ・ナ・ラ・、母ちゃん・・、オウ・・」

正に、狂った猛獣の如く、木という木を、メッタ切り、絶叫し、号泣し切りまくる姿は、あの冷静でリーダー格だった松本中尉さんも、とうとう狂ってしまったのか??と子供心に衝撃と恐怖の光景であった。藪の隙間から見た光景は、軍人・松本中尉から想像も出来ない姿であり、地べたにひれ伏して母の名を呼び続ける姿は、邪気のない子供・・、人間松本中尉・・、いや、松本義人の真実の裸の姿があった。

うつ伏して、力尽きたか?松本中尉はやおら立ち上がり、我に返ったか「お~い、坊や!どこにいる?」私を探している様子。出て行っても大丈夫かな?とためらいながら薮の中から顔を出した。「お~、ごめんな!」の一言で安心し、私はトボトボと山道を下りて行った。私には、衝撃が大きかったので交わす言葉もなく、只ひたすら黙々と家路へと向った。

若さ、夢、青春、人生の全てを大義に殉じた若鷲たち。しかし、母の前には邪気のない子供・・。如何に母の存在は偉大であろうか!永遠の崇高の愛である。それにしても、「母ちゃん!俺はあした死ぬんだア・・。母ちゃん!・・」の絶叫は、今でも耳にこびりついて離れない。






 第4話「台湾出身の特攻隊志願兵 西考寺中尉の悲話」

2024-06-28 05:55:44 | 日本

残暑厳しいある夏の午後。縁側で西考寺中尉さんらと談笑していた。
父は、「西考寺さん、西考寺って名前は珍しかね。お寺の名前ごたる。」と聞くと、障子越しに聞いていた松本中尉が「実は、彼の実家はお寺なんです。その実家が米軍の空襲に遭い、ご両親を亡くしてるんですよ。それで親の敵討ちと言うわけで、特攻を志願している。ところで、小父さん、実は彼のことで相談があるんですよ。」と話を切り出した。

実は、西考寺中尉には日本人の許婚が居て、しばらくの間、身柄を預かって欲しい・・との旨の内容であった。両親は二つ返事で了解し、その日から我が家の一員として起居を共にすることとなった。彼女の名前は、河野千代子さん。山口県仙崎の出身、高等女学校を出た才女で大変理知的で明るく可愛いお嬢さんと言う感じの女性だった。戦時中、若い男女が二人きりで自由に外を歩けなかった時代である。週に一回の我が家での逢引は束の間でも、それはそれは貴重な幸せのひと時であったことだろう。

明るく振舞う千代子さんは、ハタキでバタバタと掃除をしながら、いつもハミングするのは「山の人気者」~ヤーマの人気者 それはミルク屋・・・~。と歌声が響く。すると私のところに千代子さんがやってきて、「またお父さんに怒られちゃった!」と首をすくめる。父の言い分は、つまり「軍歌ならいざ知らず、軟弱な歌は時節にあわん」という考えだ。私にはすごく新鮮に聞こえたので、「仲々よか歌ばい、余り千代子さん責めんで」と父に反抗したのだった。千代子さんは、私を弟のように可愛がってくれ、兄弟もいなかった私にとっては姉のように慕った。

そんな暗雲垂れ込める日々のある日のこと、西考寺中尉といよいよ別れを告げる日がやってきた。
空襲も日増しに激しさを加え、我々一家も父の郷里、佐賀へ疎開を急ぐこととなった。合わせて数日前、沖縄方面へ飛びたったとされる西考寺中尉の話をどう千代子さんに切り出してよいものやら、両親は悩んでいたのであった。

ひたすら愛する西考寺中尉の無事帰還を信じて待つ、千代子さんにどう伝えるか、困惑していたようだが、現実は現実として思い切って奥の座敷へ千代子さんを招き、切り出した。
父は「千代子さん、大変つらくて言いにくい話で残酷な話じゃが、西考寺中尉さんは最早帰って来んばい。ご存じの通り、空襲も激しくなるけん、我々も田舎に疎開することに決めました。千代子さんも一度、仙崎の実家に戻られ、西考寺中尉を待っとったらどうですか?」
母も「その方がよかよか」

すると、うつむいていた千代子さんは頭を上げ、毅然とした態度で口を開いた。「イヤです。私は一人残っても西考寺を待ちます。西考寺は必ず私の元へ戻って来ます!必ず!」と言い切るや、身体を震わせていつまでもいつまでも泣きじゃくるのだった。傍らの母も慰めようもなく、もらい泣きしていた。
飛び立ってから相当時間も経った。もう二度と再び戻ってはこないとは思いたくない。例え事実であっても信じたくない。そんな思いであったろう千代子さんの心中を察するに、私も子供心に、「お姉ちゃん、辛いだろうな・・」と涙があふれてしょうがなかった。

この世に男と女がいてめぐり合う。純粋な若い二つの愛が、時代という名の大波に漂い押し流される。個人の叫びなど届くはずもない。非情なる現実。希望の光も見出せない。夢も見てはいけない。この世は残酷地獄。もう言葉も見当たらない、将に暗黒の時代であった。今は、「どうか、西考寺さん!千代子さん!天国で幸あれ。そして安堵を」と、心から祈ります。








第3話「料亭 駒我家でのエピソード」

2024-06-27 05:46:54 | 日本

「おーい、トンカツ!トンは何処にいるんだよ」ふらふらとかなり酩酊した状態で、山本中尉の怒号が辺りに響く。やがて怒号は泣き声に変わり、周りの人を捕まえては、すがるようにトンカツの行方を探し求めるのであった。
通称「トンカツ」とは、芸奴・秀勝。目の大きな色気のある芸奴である。山本中尉は、この秀勝にぞっこん惚れ込んでしまっていたのだ。
叔父もホトホト困り抜いていた様子で、秀勝を押入れに隠そうとしたり、離そうと試みたりしたが上手く行かず、結局、リーダーの松本中尉に相談したのであった。
「この戦時下で、軍人として国を守り、アメリカと戦ってもらわねばならない身、ましてや帝国海軍が女にうつつをぬかしては困るんだ!他の軍人に対しても士気にも関わる問題であり、惚れたハレタの状況ではない!」と。だが、叔父の心配をよそに、益々、山本中尉の恋情は燃え盛るのみであった。

状況をよく理解していた同僚で、しかも仲が良かった松本中尉もとうとう堪忍袋の尾が切れたらしく、ある夜、料亭の裏庭に山本中尉を呼び出しした。
「おい!山本!俺がこれから何を言わんとするか分かってるだろうな。貴様、それでも帝国海軍の軍人か?この時期に、女にうつつをぬかす時か!俺たち軍人は女に惚れちゃいけねえんだ。それくらい分かっているだろう。おい、山本!眼を覚ませ」と言って、「バシッ!」と平手打ちのビンタの音がとどろいた。

私は、木陰に身をひそめ、一部始終、息を呑んで見つめていた。ドスの効いた松本中尉の声に、山本中尉もヘタヘタと地べたにしゃがみ込み、子供のようにいつまでも泣きじゃっくっていた。やがて松本中尉に抱きかかえられて風呂場へと向っていった。ハンサムな山本中尉の顔にはアザで腫れぽったく、叔母が一生懸命にメンソレタームを塗ってあげていた、そばで松本中尉が心配そうに目を向けながら、手酌で一杯やっていた。







第2話「大村海軍特別攻撃隊隊員」

2024-06-26 07:52:23 | 日本

海軍の特攻基地は、現在の長崎空港である。明日の命も知れぬ若鷲たちが、毎週休みに大村からやってくる。叔父が諫早の中心地で「駒我家(こまがや)」という料理屋を開いていて、芸者さん等が居て賑わっていたのだった。私の家は諫早駅に近いということもあり、駒我家で遊んで酔いつぶれて夜中に我が家になだれ込む・・といったコースであった。多いときには、15~20人ものカッコいい海軍将校がきた。松本中尉をリーダー格とする、将校服に短剣がよく似合う若鷲将校達ばかりであった。

松本中尉は、福岡県の出身、寡黙で男らしく、俳優の高倉健を彷彿させるような将校で、他の将校の兄貴分の存在であった。私を一番可愛がってくれた。
山本中尉は、雪国新潟県の出身、長身でハンサム将校。色白で芸者に大変モテたようであった。そしていつ出撃命令が下るか、わからない状況の中で、彼の母親は、せめて1分1秒でも、息子の側にいたい、お世話をしたいという母の心情から、交通事情の悪い、ましてや戦時中のさなか、遠路新潟から何日間かかけて乗り継いで来られ、半年くらい我が家に滞在されて、毎週、息子の世話をされていた。その時、お土産としていただいた「おせんべい」の美味しかったことが今でも忘れられない。
西考寺中尉は、台湾出身、実家はお寺で、米軍機の空襲でご両親を亡くされ、親の仇とばかり特攻隊を志願された。日本女性で、女学生だった許婚のKさんとは、我が家がデートの場所でもあった。時代が時代だっただけに、外出も一才できず、今思うと可哀想なカップルであった。

戦況は、進軍の報より撤退気味の感じで、B29爆撃機やグラマン爆撃の波状攻撃は一段と激しさを増し、いつ「神風」が吹くんだろう?祈る毎日であった。





 喜多浩志翁の「少年時代の思い出」第1 話

2024-06-25 07:11:53 | 日本

 喜多浩志翁の「少年時代の思い出」第1 話

横田めぐみちゃん等、北朝鮮に拉致された同胞を救出すべく、因幡晃歌手の「めぐみ」の歌を作詞した作詞家 故、喜多浩志翁の「少年時代の思い出」第8話を記す。



第1話「日米開戦!昭和16年12月8日」

大本営発表「本、八日未明 西太平洋上に於いて、米英軍と戦闘状態に入れり・・・」と、朝から何やらけたたましくラジオが臨時ニュースを繰り返し放送している。
重苦しい雰囲気に包まれた大人たちは、「いよいよ戦争か・・」と慌しさの中に表情も固く、ラジオを囲んでニュースに聞き入っていた。

当時の私は北諫早国民学校の1年生。登校すると朝礼から四方拝に始まり、次は教育勅語と緊張の中で軍事色の強い儀式が毎日進められていた。いたるところに「鬼畜米英」とか、「欲しがりません、勝つまでは」とかのスローガンの下に戦意高揚の教育は、日をおうごとに激しさを増しっていった。あわせて音楽も軍歌1本。「勝って来るぞと勇ましく、誓って国をでたからにゃー・・」戦争へ戦争へと突入していったのであった。
あの帝政ロシアをわが日本国はやっつけたんだ。鬼畜米英なんかに負けるわけがない。わが日本には、最後には「神風」が吹くんだ!という自信を背景に進行していったのであった。片や報道では大本営発表形で報じられ、「敵機百機と遭遇、交戦しこれを撃墜 わが方の損害「若干」というニュースに一喜一憂、何故か子供心に「若干」ってどの位だろう?と気になったものである。














◎心身統一法で増す力

2024-06-23 08:25:12 | 日本

心身統一法によってその内容量をふやす力、
第一が体力
第二が胆力
第三が判断力
第四番目が断行力
第五番目が精力
第六番目が能力

この六つの力が生命の中に、その内容量を豊富にしていないかぎりは、どんなことをしても完全健康と完全運命を自分の人生のものにすることはできないのであります。

たとえ懐に一文もなくとも、これだけの六つの力が自分の生命のなかに内容量豊かになれば、

人生はこれさながら天馬空(てんばくう)であります。






◎因縁 中村天風翁

2024-06-22 05:27:43 | 日本

このたくさんの数多い人の中から知り合いになったということは、とうてい人智では究明することのできない、因縁という不可思議な幽玄微妙の作用のいたすところである。

しかるにこの因縁という不可思議な作用によって結ばれて、知り合う仲となったものを、己の気に食わぬとか、あるいは心に合致しないとか、彼にはこういう欠点があるとか、または与(くみ)しがたき習癖があるとか等々の理由をつけて批判排斥して、せっかく結ばれた因縁を無にするというのは、天意を冒とくする者というべきである。







2024.6.20 今朝の霊夢 ◎今日も、ありがとうございます。

2024-06-21 07:05:11 | 日本

今日とは、過去の連続が今日である。

ありがとうございますとは、天地一才の物事に、出来事に、人々に、実相を直視(じきし)し、感謝することである。

その感謝の連続が自分の人生をより一層、深く、強く、明るく、好転させる。

嬉しいなー、
楽しいなー、
ありがたいなー❗️

感謝、感謝、感謝❗️

今日も、ありがとうございます。




2024.6.19 ジャガ芋作り

2024-06-20 06:06:16 | 日本

我が家のベランダのプランターで生まれて初めて作ったジャガ芋です。
小ぶりで数も少ないが、愛情がこもっているせいが、何となく心が通い可愛いいです。

一晩おいて、想いにふけり、明日の夜は肉じゃがでも作って食べようかな?楽しみです。

本当は、大きなジャガイモをたくさん作り、皆さんにおすそ分けしょうと思ってましたが、なかなか上手くはいかないものですね。
残念でした。

この秋にはもう少し立派なジャガイモになるよう頑張って作りますね。






「生活がすなわち修行」中村天風翁

2024-06-19 07:10:40 | 日本

すべての実行を、一時間二時間というような長い時間を行うことを修行の条件に思う必要はない。

人生修行のためと言って、貴重な人生の時間を犠牲にする必要はない。

もしそうしないとできないような方法であるならば不適当なものであると遠慮なく言いたい。

「心身統一法」の本領は、生活がすなわち修行という信条のものである。

日常の仕事を行いつつ安易に実行するのが理想なのである。

機会がある時に、一呼吸だけでも良いのである。

養動法は、クンバハカ体勢を基本に体に動きを与え、心と体を速やかに平静に整えるものである。

養動法はテレビを見ながらでも、椅子に座って仕事をしているときでも、簡単にできるので、ぜひ日常的に実践することをおすすめする。

基本的なやり方は、静かに座り両手を膝に置き、印は組んでも組まなくてもよいが、クンバハカ体勢をとって体で「の」の字を描くようにゆっくりと上体を揺動させる。

このとき激しく動かしたり、小刻みに揺すったりせず、また頭を振り回したりしないように、静かに動かす。

その効果として、神経の亢奮を鎮める、内臓の働きを高め、消化を促進する、運動不足を補う、など多くあるが、
気が塞ぎがちになる病気のときなどは、体調を整えるだけでなく、明るく積極的な方向に気分転換することができる。







◎病は忘れることで治る   中村天風翁

2024-06-18 07:19:17 | 日本

肉体は生きるための道具と考えてごらん。
頭が痛かろうが、けつが痛かろうが、脈が速かろうが、それは自分がそうなっているんじゃない、と。

自分の命を入れる入れ物に故障ができただけで、その故障はありがたいかな自然に心がそれから離れさえすれば治るようにできてるんだってことを、ありがたく感謝しなきゃだめだぜ。

消極的観念がなくなると、肉体のもってる自然作用がその場所をもとの健全な状態にするために働き出すようにできているんだよ。

病は忘れることによって治る。



◎まず気分から若返る 中村天風翁

2024-06-17 06:34:29 | 日本

年寄りじみたものの言いようや動作をできるだけしないように注意することである。
ものを言うときも、溌剌(はつらつ)とした気分で、丹田の力で、できるだけ勢いのある音声を発するようにし、立ちふるまいも活発にすることである。
いわゆる若返り法や健康法の効果をあげることの根本にはこれが必要である。
要するに、第一に必要なことは、まず気分から若返ることである。
すなわち精神を青年にすることである。
これが命の源泉である。





「鎌倉時代の奈良仏師  肥後定慶と維摩居士坐像」

2024-06-16 07:00:33 | 日本

鎌倉時代の仏師といえば運慶・快慶・定慶・行快の名が有名である。実は中世の仏像彫刻大きなうねりは彼らの周辺にいた奈良の仏師から始まり継承されていった。
初期の重要な仏師が定慶(じょうけい)である。明治以来の仏像研究のなかで比較的早くから注目されているが、師承関係不明で、名の「慶」字と作風から、運慶の父康慶一門の仏師と想像されるのみである。

興福寺東金堂の本尊薬師如来像の両脇に文殊菩薩(ぼさつ)像と一対で安置される維摩居士(ゆいまこじ)像は定慶の代表作である。像内銘により治承4年(1181年)の南都焼き討ちで失われた「堂舎之霊像」を、「仏師法師定慶」が建久7年(1196年)に再興したものとわかる。奈良・法華寺の奈良時代末期製作の維摩像の形を学んでいるが、康慶の興福寺南円堂法相六祖像を継承しながら、表情や衣文(えもん)の写実を徹底した作風に特色がある。定慶の作品の完成度は高く、運慶にも匹敵する実力がうかがわれるが、位置づけの手がかりとなる資料が少ない、謎の仏師である。活動が興福寺内にほぼ限定されており、興福寺専属の仏師であった可能性がある。(1196年、木造、彩色、玉眼、像高88.6センチ、興福寺蔵)

肥後定慶は、十三世紀前半に活躍した仏師である。慶派仏師であり、肥後定慶には師弟関係を示す文献史料はないものの作風的に運慶との関係が指摘されている。
肥後定慶に関しては、先行する運慶作例との比較を踏まえて検討した結果、次のようなことが言えた。
即ち、肥後定慶の大報恩寺准胝観音像や鞍馬寺聖観音像は、作風的に運慶の滝山寺聖観音像・梵天像の延長線上にあると考えられるということである。定慶の観音像が醸し出す「生々しい」という印象は、外来の宋代美術の影響によって生まれたものでもなく、定慶個人がこの時期に突然生み出した表現によって生じたものでもない。

定慶は、運慶の滝山寺諸像においてすでに行われていた、生身の人間のような感触を想起させる表現方法を受け継ぎ、その表現方法をさらに多様化させたととらえられる。仏像が生々しい印象を醸し出すということ自体に定慶の独自性があるのではなく、生々しい印象を醸し出す表現方法を多様化させたということに定慶の独自性があるといえる。

定慶は、大報恩寺准胝観音像や鞍馬寺聖観音像において、「目の前に生身の肉体を持った仏が立っている」と感じさせるような“臨場感”のある仏像を目指したと考えられるが、それを実現するための手段が運慶とは異なる段階に入っている。すなわち、運慶が、「頭からつま先までを肉体」と捉え、その肉体全体に筋肉の量感・柔らか味・ハリを感じさせる造形を行うことで、生身の肉体を想起させる仏像をつくりあげたのに対し、定慶は「肉体全体」の筋肉の表現には重点をおいていない。その代わり、顔面の内部に骨格を感じさせるような頬骨の表現を行ったり、あごを細くしたりすることによって、従来の丸い相好の仏像との差別化を図り、相対的に仏像の顔を人間に近い印象のものにした。つまり、「生々しさ」を感じさせる原因を、肉体全体ではなく顔に集約したのである。

大報恩寺像の段階では、まだ胴体の肉付けに起伏と弾力感があり、体部からも筋肉の感触を想像させる要素が残っているが、鞍馬寺像になると胴体の肉付けが平板になり、細さだけが印象付けられるようになっている。その代わり、鞍馬寺像では、あごの細さが増し、鼻梁も長くなって面長で細面の印象が一層強まっており、丸顔の仏像からはさらにかけ離れるという意味で、一層人間に近く感じられると言える。

端的に言えば、鞍馬寺像においては、肉体に関して「生々しさ」を感じさせる要素が、身体全体から顔のみへとシフトしたのである。肥後定慶は、先行する運慶作例の形だけではなく、滝山寺諸像に見られた「生身の仏に対峙する臨場感を作り出す」というコンセプトそのものを理解し受け継いだ。しかし、そのコンセプトさえ達成できれば肉体表現を仏像制作の核に据えることは必要ないと考えたことに、肥後定慶の独自性と次の時代への転換点があると言える。

肥後定慶は、目に見える形は大きく改変しつつも、運慶が生み出した造像コンセプトを理解し継承していたと考えられる。

※参考
・鎌倉国宝館長・半蔵門ミュージアム館長 山本勉(2023年7月26日)
・2004年度 大学院市長賞大学院 芸術学専攻 院2回生名取 美穂 







◎人間の大使命  中村天風翁

2024-06-15 07:02:28 | 日本

人間は、この世に病むために生まれてきたのでもなければ、また煩悶や苦労をするために
生まれてきたのでもない。

否、もっと重大な使命を遂行するために生まれてきたのである。

その大使命とは何かというと、「宇宙原則に即応して、この世の中の進化と向上とを現実化することに努力する」ということである。

すなわち、人間はこういう尊い大使命を遂行するために現象界に生まれてきたものなのである。