龍の声

龍の声は、天の声

「富」

2017-04-30 06:39:32 | 日本

松本守正さんのブログ「富」について記す。



「富」とはお金で買えないものをどれぐらい持っているかである。

お金で「家」は買えるけれど
「家庭」は買えない

お金で「時計」は買えるけれど
「時間」は買えない

お金で「ベッド」は買えるけれど
「快適な睡眠」は買えない

お金で「本」は買えるけれど
「知識」は買えない

お金で「名医」は買えるけれど
「健康」は買えない

お金で「地位」は買えるけれど
「尊敬」は買えない

お金で「血」は買えるけれど
「命」は買えない

お金で「セックス」は買えるけれど
「愛」は買えない

ひとりでも多くの仲間と「豊かな人生」を築きたいと思っています。













「波長の法則」

2017-04-30 06:38:26 | 日本

松本守正さんのブログ「波長の法則」について記す。



何かを心に強く思う時、その思いはエネルギーを生み出します。

それは波長となって、同じ波長のものを引き寄せます。

「類は友を呼ぶ」のです。

あなたが出会う人、今のあなたと同じ波長の人です。
人は自分と同じ波長の人としか出会えません。

まず自分自身が明るくポジティブな波長を出すことです。
すると自然に出会う人が変わってきます。

いい波長を出す為のポイントは3つ。

「思い」

「言葉」

「行動」

この全てを明るく、前向きにしていれば、波長は高まります。

高い波長は必ずいい結果を運んでくるのです。

周囲に集まるのは、すべて自分の波長が呼び寄せる人たちなのです。














「自分と向き合う」

2017-04-30 06:37:06 | 日本

「自分と向き合う」について記す。



「状況を好転させるには」

自分を知り、自分を変えなければ、状況はかわりません。

逆にいえば、自分を変えればどんな困難な状況でも、好転していくのです。

今の状況はあなたが自分で呼び寄せたものであって、大切なのは自分のどういうところが返ってきたのか、それを注意深く内観(精神統一により、自分の心理状態を観察すること)することです。

自分自身を知ること、自分に気づくことが必要です。

今の状況は、その気づきを促す為に起こっているのかもしれないのです。

「間違っているよ」 「軌道修正が必要だよ」 ってメッセージをあなたは受け取っているのでしょう。















「学び」

2017-04-29 06:46:04 | 日本

松本守正さんのブログ「学び」について記す。



学習することの意義を考えてみましょう。

学ぶ=真似る 真に心を汲み取る事です。

『習う』とは・・・

ひな鳥が99回飛ぶことに挑戦し、100回目に羽ばたいた事から「羽」に「白」で「習」

99回だから「白」という文字。

白=真っ白。素直。

だから素直にただひたすらに・・・の姿勢で挑むことです。

何事もあたりまえに成功するまでやり続ける気持ちが非常に大切なのです。

また、悲しみがあるから喜びがある。

苦しい事を経験するから楽しさが倍増するのです。

裏切られるから、人の有り難さがわかります。

学習にも大切な事は、夢であり目的であることをわすれないで、頑張りましょう!














「第一印象の大切さ」

2017-04-29 06:44:59 | 日本

松本守正さんのブログ「第一印象の大切さ」について 記す。



「一目ぼれ」といいますが、第一印象がその人のイメージを決定づけ、のちのちまで尾をひくことは日常よくありますね。

初対面の人に対して、基本的なイメージを作り上げるまでは、30秒とかからないそうです。

そして一度作られた印象は容易に変わらないで、それからあとのその人の評価をかなりの程度まで決定してしまいます。

第一印象が大切ということは、服装をはじめとする外見のイメージが大切になってきます。

その他、正しい敬語・丁寧な言葉づかい・ハキハキした返事など、人と接する時の、ごく常識的なマナーを守ることです。

なかには、人と話していても、視線が定まらずあっちキョロキョロ、こっちキョロキョロと落ち着かない様子の人がいますが、これでは初対面から相手に不安感・不信感を与えてしまいます。

相手の目を見てまっすぐ話かけることが大切ですが、視線というものは、より良い第一印象をつくるうえでとても重要な要素です。

好感度アップを目指しましょう!!









「13の言葉」

2017-04-29 06:41:53 | 日本

松本守正さんのブログ「13の言葉」について記す。



「人のつながりに、忘れることのできない、13の言葉」


○自由・・自分が本当にやりたいことをやれているかどうか

○生きる・自分の生き様をシンプルに語れるか?

○死・・・死を考えることは、今の生き方を考えるということです

○善・・・自分の日々の行いと繋がっていなければ、何の意味もない

○悪・・・道徳的な悪と根本的な悪、2つの悪が存在する

○時間・・時間で測ることができない時間こそ、真の時間

○疑う・・考えるきっかけは、疑うこと

○無・・・全てのものが充ちている、究極のリアリティ



「神=無」


○自覚・自分自身を分かることは、どういうこと?

○経験・「体験」と「経験を区別。経験こそが人間にとって本質的なもの

○体・・伸び縮みする体

○意志・目的へのこだわりを外すこと

○もの・ものにこそ、本当の自分が映しだされる


言ことだま霊 時空旅人別冊より












「天皇退位特例法案の骨子全文」

2017-04-28 06:09:05 | 日本

4月26日、衆参両院正副議長が各党に示した退位特例法案の骨子全文は以下の通り。


<天皇の退位等に関する皇室典範特例法案骨子>


【第1 趣旨】

この法律は、天皇陛下が、昭和64年1月7日の御即位以来28年を超える長期にわたり、国事行為のほか、全国各地への御訪問、被災地のお見舞いをはじめとする象徴としての公的な御活動に精励してこられた中、83歳と御高齢になられ、今後これらの御活動を天皇として自ら続けられることが困難となることを深く案じておられること、これに対し、国民は、御高齢に至るまでこれらの御活動に精励されている天皇陛下を深く敬愛し、この天皇陛下のお気持ちを理解し、これに共感していること、さらに、皇嗣(こうし)である皇太子殿下は、57歳となられ、これまで国事行為の臨時代行等の御公務に長期にわたり精勤されておられることという現下の状況に鑑み、皇室典範第4条の規定の特例として、天皇陛下の退位及び皇嗣の即位を実現するとともに、天皇陛下の退位後の地位その他の退位に伴い必要となる事項を定めるものとすること。


【第2 天皇の退位及び皇嗣の即位】

天皇は、この法律の施行の日限り、退位し、皇嗣が、直ちに即位するものとすること。


【第3 上皇】

1 退位した天皇は、上皇とするものとすること。
2 上皇の敬称は、陛下とするものとすること。
3 上皇の身分に関する事項の登録、喪儀及び陵墓については、天皇の例によるものとすること。
4 上皇に関しては、2及び3の事項のほか、皇位継承資格及び皇室会議の議員資格に関する事項を除き、皇室典範に定める事項については、皇族の例によるものとすること。


【第4 上皇后】

1 上皇の后(きさき)は、上皇后とするものとすること。
2 上皇后に関しては、皇室典範に定める事項については、皇太后の例によるものとすること。


【第5 皇位継承後の皇嗣】

この法律による皇位の継承に伴い皇嗣となった皇族に関しては、皇室典範に定める事項については、皇太子の例によるものとすること。


【第6 付則】

1施行期日
(1)この法律は、一部の規定を除き、公布の日から起算して3年を超えない範囲内において政令で定める日から施行するものとすること。
(2)(1)の政令を定めるに当たっては、内閣総理大臣は、あらかじめ、皇室会議の意見を聴かなければならないものとすること。

2法律の失効
この法律は、この法律の施行の日以前に皇室典範第4条の規定による皇位の継承があったときは、その効力を失うものとすること。

3 皇室典範の一部改正
皇室典範の付則に、皇室典範の特例として天皇の退位について定める天皇の退位等に関する皇室典範特例法は、皇室典範と一体を成すものである旨の規定を新設するものとすること。

4上皇に関する他の法令の適用

(1)上皇に関しては、次に掲げる事項については、天皇の例によるものとすること。
ア 刑法の名誉に対する罪に係る告訴及び検察審査会法の検察審査員の職務
イ アの事項のほか、皇室経済法その他の政令で定める法令に定める事項

(2)上皇に関しては、(1)の事項のほか、警察法その他の政令で定める法令に定める事項については、皇族の例によるものとすること。

(3)上皇の御所は、国会議事堂、内閣総理大臣官邸その他の国の重要な施設等、外国公館等及び原子力事業所の周辺地域の上空における小型無人機等の飛行の禁止に関する法律の規定の適用については、同法による規制の対象となる皇居及び御所とみなすものとすること。

5上皇后に関する他の法令の適用

上皇后に関しては、次に掲げる事項については、皇太后の例によるものとすること。

ア 刑法の名誉に対する罪に係る告訴及び検察審査会法の検察審査員の職務

イ アの事項のほか、皇室経済法その他の政令で定める法令に定める事項

6皇位継承後の皇嗣に関する皇室経済法等の適用

(1) この法律による皇位の継承に伴い皇嗣となった皇族に対しては、皇族費として、定額の3倍の金額を毎年支出するものとすること。

(2) 4(3)の規定は、この法律による皇位の継承に伴い皇嗣となった皇族の御在所について準用するものとすること。

7贈与税の非課税等

この法律による皇位の継承があった場合において皇室経済法第7条の規定により皇位とともに皇嗣が受けた物については、贈与税を課さないものとすること。

8意見公募手続き等の適用除外

次に掲げる政令を定める行為については、行政手続法第6章の意見公募手続き等に関する規定は、適用しないものとすること。

ア この法律による皇位の継承に伴い元号を定める政令
イ この法律の委任規定に基づく政令

9政令への委任

この法律に定めるもののほか、この法律の施行に関し必要な事項は、政令で定めるものとすること。

10国民の祝日に関する法律の一部改正

国民の祝日である天皇誕生日を「12月23日」から「2月23日」に改めるものとすること。

11宮内庁法の一部改正

宮内庁法の付則に、次の規定を新設するものとすること。

(1)宮内庁は、上皇に関する事務をつかさどるものとすること。
(2)(1)の所掌事務を遂行するため、宮内庁に、上皇職並びに上皇侍従長及び上皇侍従次長を置くものとすること。
(3)上皇侍従長及び上皇侍従次長については、国家公務員法第2条に規定する特別職とし、給与等所要の規定を整備するものとすること。
(4)この法律による皇位の継承に伴い皇嗣となった皇族に関する事務を遂行するため、宮内庁に、皇嗣職及び皇嗣職大夫を置くものとすること。
(5)皇嗣職が置かれている間は、東宮職を置かないものとするものとすること。
(6)皇嗣職大夫については、国家公務員法第2条に規定する特別職とし、給与等所要の規定を整備するものとすること。












「相撲甚句」

2017-04-27 07:48:20 | 日本

巣鴨拘置所で戦犯といわれた方々の前で、当時の呼び出し・多賀之丞さんが涙ながらに唄った名甚句。



『新生日本』
                                                           作詞・呼出し多賀之丞

(ハァー ドスコイ ドスコイ)
♪ハァーエー
        (ハァー ドスコイ ドスコイ)
世界第二の あの戦いも ヨー 
        (ハァー ドスコイ ドスコイ)

ハァー 遂に昭和の 二十年
 月日も八月 十五日
 恐れ多くも 畏(かしこ)くも
 大和島根(やまとしまね)の 民草(たみくさ)に
 大御心(おおみこころ)を しのばされ
 血涙(けつるい)しぼる 玉音(ぎょくおん)に
 停戦命令は 下りたり

血をもて築きし 我が国も
 無情の風に さそわれて
 今は昔の 夢と消ゆ
 されど忘るな 同胞(はらから)よ
 あの有名な 韓信が
 股をくぐりし 例(ためし)あり
 花の司の 牡丹でも
 冬はこも着て 寒しのぐ
 与えられたる 民主主義
 老いも若きも 手を取りて
 やがて訪る 春を待ち
 パッと 咲かせよ ヨーホホホイ
 
ハァー 桜花 ヨー
        (ハァードスコイ ドスコイ) 











「日本統治時代の思い出を懐かしく語る台湾の人々」

2017-04-25 08:43:19 | 日本

◎現在も稼働する水力発電所と3人の殉職碑
 
台湾の南部は急峻な山々が聳え、多くの急流があることから、水力発電所が多数作られた。台湾の水力発言所は大半が日本統治時代に建設されたもので、今も11カ所が現役であるという。
 
高雄県の美濃(みのう)という小都市には、市街地から約6キロ離れた所に、竹子門(ツーツーメン)発電廠と呼ばれる水力発電所がある。明治42(1909)年、台湾では二番目、南部では最初に設けられた発電所である。
 
発電所の建物は、日本統治時代からほとんど変わっていないという。内部の設備も、戦前からのものだ。発電機はドイツから輸入されたもので、現在も動いている。
 
発電所の構内には3人の殉職した日本人職員の石碑が残されている。傍らの解説板によると、上利良造は明治43(1910)年、触電により殉職。青柳義雄は昭和2(1927)年に病死。山中三雄は水路に誤って転落、殉職し、昭和12(1937)年に碑が建てられた。
 
これらの石碑はいずれも工員たちによって建てられ、守られてきた。保存状態は良好で、大切にされている様が窺い知れる。
 
片倉氏に案内役を申し出てくれた古老は、「職務に対する真摯な至誠は何人たりとも否定できません」と静かに語った。そして「技術者というのは、そういった精神を何よりも大切にする人種です」と続けた。この老人もまた、台湾の山林を駆け巡った水道技師である。
 
なお、台湾の急峻な河川は、渇水時には水量が不足して、流域は水不足になる。以前は、この一帯も水不足に悩まされていたが、発電所が出来てからは、その水を灌漑用水として安定供給している。現在もここからの灌漑用水が利用されており、美濃は台湾でも指折りの農業地帯となっている。
 

◎この電話は今まで一度も壊れたことがない
 
台湾東北部を走る平渓線は、全線にわたって渓谷が続き、車窓の美しさで知られている。平日こそ閑散としているが、週末は行楽客で結構な賑わいとなる。
 
この路線は、一帯の炭鉱を経営していた台陽鉱業株式会社によって大正10(1921)年に敷設され、沿線で採掘される石炭の運搬に使われていた。昭和4(1929)年に台湾総督府に買収され、官営となった。
 
終着駅である菁桐(せいとう)駅は、かつてはいくつかの炭鉱があり、多くの坑夫が集まって、賑わっていたという。片倉氏は1997年にここを訪れた。
 
駅舎は昔ながらの木造和風建築だが、大きく庇(ひさし)が張り出して日陰を作り、また待合室には扉をなくして風通しを良くしていた。片倉氏が来訪記念に乗車券を買い求めると、助役らしい初老の駅員は、日本人が珍しかったのか、駅長室に招き入れてくれた。
 
案内された駅長室は、まさに日本の地方駅の雰囲気であった。黒光りする大きな金庫には「大正13年製造」と刻まれたプレートが嵌め込まれている。
 
埃をかぶった昔ながらの鉄道電話もあった、これも日本統治時代からのものだという。別の駅員が古電話を優しくさすりながら、小さな笑顔を見せた。そして、「この電話は今まで一度も壊れたことがない」と、あたかも自分のものであるかのように胸を張った。
 

◎お医者さんはハルヤマ先生という方でした
 
10年後に片倉氏は菁桐駅を再訪した。列車が駅の構内に差し掛かる直前に、線路沿いに朽ちかけた木造家屋を見つけた。片倉氏は線路伝いに歩いて、そこに向かってみることにした。近づいてみると、それはまさしく廃墟だった。柱は折れ、天井は抜け落ちている。
 
通りがかった老婆に声をかけてみると、ここは日本統治時代の診療所だったという。
 
老婆は当初、突然の日本語に緊張した表情を見せたが、しばらくすると、「お医者さんはハルヤマ先生という方でした」と教えてくれた。「よく覚えていますね」という私の言葉に、老婆は当然といった面持ちで、「お世話になりましたから、忘れません」と答えた。このやりとりを境に、私たちの会話はすべて日本語になった。
 
老婆の日本語は、当初は若干のたどたどしさを含んでいたが、話しているうちに流暢になってきた。小学校を卒業する前に終戦を迎えたというので、日本語による教育はわずか数年間ということになる。
 
しかし、両親や兄弟が日本語を常用していたため、家庭内で戦後も日本語との接点が保たれた。老婆は今もNHK衛星放送で大相撲やのど自慢を観るのが何よりもの楽しみだと笑っていたが、突然真顔になって、「一度でいいからのど自慢を台湾でやってくれないものかね」と迫られた。
 
(同上)ハルヤマ先生は終戦で日本に引き揚げ、再び、この地を訪れることはなかった。そしてそれから60年以上の歳月が過ぎ、小学生だった少女は、齢80に手が届く老婆になった。
 
彼女にとっての「日本」は、多くの台湾の老人たちと同様、終戦を機に封印されてしまった。それでも、若き日々の思い出は決して色褪せることがない。老婆はしばらくして「もうきっと亡くなっているでしょうね」とつぶやいた。
 
(同上)発車の時刻が迫り、片倉氏が慌てて列車に乗り込むと、警笛がなって、ディーゼルカーは菁桐駅を離れた。窓の外を見ると、孫を抱いた老婆が手を振っていた。
 
現在もこの木造駅舎は健在だが、最近の行楽ブームを受けて、ここにも多くの行楽客が訪れるようになっている。
 
 
◎台湾人と日本人とがともに過ごした日々
 
台湾での郷土史ブームは、台湾人としてのアイデンティティを求める心とつながっているように思える。「自分たちは、大陸の中国人とは違う。台湾に生まれ、育ってきた台湾人だ」という意識が、「自分探し」の旅としての郷土史ブームの原動力になっているのではないか。
 
そして、台湾各地に残る歴史遺産を訪ねてみれば、そこかしこに見つかるのが、1895(明治28)年から大東亜戦争後の1945(昭和20)年までの半世紀の日本統治時代のものである。
 
台湾の若い世代にとって、この時代の遺産を辿ることは、自分たちの祖父母の生きた姿を思い出すことなのだろう。
 
そして、そこには我々日本人の祖父母の足跡も残っている。かつて台湾人と日本人とが、この地でともに過ごした日々があった。ともに力を合わせて、鉄道を敷き、橋梁を建設し、水力発電所を設け、灌漑水路を堀り、診療所で人々の健康を守った。
 
「日本帝国主義による植民地支配」などという空虚な概念では掬いきれない、喜びや悲しみに満ちたそれぞれの人生があったのである。
 

『台湾の声』 http://www.emaga.com/info/3407.html















「切迫する北朝鮮ミサイルの危機」

2017-04-25 08:43:19 | 日本

「切迫する北朝鮮ミサイルの危機」日本が全弾迎撃できる可能性は何%か?
世良光弘さんが週プレNEWSに掲載している。
以下、要約し記す。

強硬な米トランプ政権に追いつめられた北朝鮮の3代目指導者・金正恩は、すでに日本へ向けたミサイルの発射スイッチを握っているかもしれない。

忘れてはいけないのが、これは「国家の危機」という曖昧なものではなく、個人個人の命の危機だということ。知るべきを知り、生き延びるには?


◎5発を全弾迎撃できる可能性は約85%

「アメリカが我々に少しでも手を出したなら、すぐに全面戦争に発展する。朝鮮半島有事の際は、日本に最も大きな被害が及ぶだろう」

4月18日、北朝鮮の宋日昊(ソン・イルホ)・日朝国交正常化交渉担当大使は記者団にこう述べた。「被害」とは、もちろん日本に向けられた200発以上の弾道ミサイルのことだ。

核実験を実行すれば、ためらわず軍事攻撃を行なうと明言する米トランプ政権。それに反発し、核実験の準備を進める北朝鮮。もはや、極限まで追いつめられた金正恩がいつ本当にミサイルを撃ってもおかしくない……いう危機的状況だ。

これまで多くの日本人は、「なんだかんだいって、結局は撃たないんでしょ?」と高をくくっていたと思う。だが、事ここに至っては、ミサイルという“今そこにある危機”の正体を知り、そこから生き延びる方法を真剣に考えておかねばならないだろう。

まずは、日米のミサイル防衛体制に関する基礎知識から。発射の予兆を事前にとらえることは可能か?


◎結論から言えば、運がよくなければ無理だ。

現在、北朝鮮を24時間監視しているのはアメリカの早期警戒衛星だが、これはミサイル発射の瞬間に出される大量の赤外線を探知し、「今撃った!」と第一報を伝えるのが任務。一方、低軌道を回る偵察衛星もあるが、これは一日に数回、北朝鮮上空を通過するときにしか画像情報を得られない。航空評論家の嶋田久典氏が解説する。

「固体燃料のミサイルは発射準備時間が非常に短いですし、地下発射施設や移動式発射台の動きをつかむのも困難。ヒューミント(人間のスパイ)やステルス機による常時監視がなければ、発射の予兆をとらえるのは難しいでしょう」

◎着弾する前にミサイルを迎撃できる確率は?

日本の迎撃網は2段階。ひとつ目が日本海に前線展開するイージス艦(現在は日米合わせて8隻から10隻)のSM-3ミサイル、ふたつ目が自衛隊や米軍の基地などに配備される地上配備型のPAC-3ミサイルだ。

SM-3は、250kmまでの高度にいる一目標(ミサイル1発)に対して2発発射され、その命中率は96.76%。仮に北朝鮮が5発同時にミサイルを発射し、それぞれにイージス艦一隻ずつ対応したとすると、1発も撃ち漏らさず迎撃できる確率は単純計算で約85%(96.76%=0.9676の5乗)となる。

そして、その後ろに控えるPAC-3の命中率は86%。ただし、射程は15kmから20kmと決して広くない。

「確率論以前に物量の問題もあります。イージス艦一隻に積まれているSM-3ミサイルは9発にすぎず、PAC-3も一拠点に何十発も撃ち込まれる事態は想定していない。日本に向けられた200基以上のミサイルすべてに対処できるかというと、正直言って限界があります」(嶋田氏)














「命を落としてまで台湾に尽くした5人の日本人」

2017-04-24 06:45:26 | 日本

伊勢雅臣さんが 「命を落としてまで台湾に尽くした5人の日本人」について掲載している。
以下、要約し記す。



2009年3月22日の日本経済新聞に「台湾『御用列車』復元へ」という記事が載った。台湾の鉄道事業を担う台湾鉄路管理局が、観光振興の目玉として「御用列車」の復元に乗り出したという。
 
第一弾は40年前に作られた蒋介石総統用の御用列車だが、その後、日本統治時代の1904(明治37)年に製造された台湾総督専用の客車と1912(大正元)年に完成した皇室専用客車との二つも復元候補に挙がったという。後者は大正12(1923)年、皇太子であった昭和天皇が12日間台湾を回られた時に使われたお召し列車であった。
 
「日本帝国主義の植民地支配」を糾弾する韓国・北朝鮮から見れば、信じられない発想であろう。
 
台湾では古蹟や建築を訪ね歩くのが一種のブームになっている。台北市内の書店では、歴史や建築に関する書籍が数多く刊行されていて驚かされるし、大型書店なら、台湾詩と建築ガイドの専門コーナーをそれぞれ別に設けているところもある。(『台湾に生きている「日本」』片倉佳史 著/祥伝社)
 
台湾に住み、歴史や風土も含めたガイドブックを何冊も著している片倉佳史氏はこう語る。観光資源として御用列車を復元しようというのも、この歴史ブームの一環だろう。
 
その片倉氏の『台湾に生きている「日本」』は、台湾に残る日本統治時代の遺跡を紹介しつつ、それを通じて台湾人と日本人が共に生きた日々を思い起こさせてくれる好著である。今回はその中からいくつかのエピソードを紹介したい。
 

◎阿里山開発の父
 
観光用の鉄道としては、台湾中南部、国家風景区(国定公園)に指定されている阿里山の森林鉄道が有名である。軌道幅は762ミリと狭く、小さな鉄道であるが、標高差は2,244メートルに及び、連続スイッチバックやスパイラルもあり、美しい車窓を堪能できる。アンデス高原鉄道やインドのダージリン鉄道とともに、世界三大山岳鉄道の一つに数えられている。
 
現在は蒸気機関車の復活運転なども実施され、観光用に使われているが、もともとは日本統治時代に、阿里山で伐採される豊富な木材の搬出用に作られたものだった。
 
阿里山は15の山々の総称で、その一つが東アジアの最高峰(標高3,952メートル)玉山(ぎょくさん)である。戦前は新高山と呼ばれていた。明治天皇により「新しい日本最高峰」の意味で名づけられたものである。
 
現在は台湾を代表するマウンテン・リゾートとなっており、遊歩道なども整備されているが、その途中、鬱蒼と生い茂った樹林の中に一つの石碑が建っている。正面には「琴山河合博士旌功碑」と刻まれている。河合博士とは「阿里山開発の父」と呼ばれた河合「金市」太郎博士で、琴山とは博士の号である。「旌功」とは功績を顕彰すること。
 
 合博士は日本における近代森林学の先覚者として知られている。名古屋の出身で、明治23(1890)年に東京帝国大学農科大学を卒業、その後、ドイツとオーストリアで欧米の林業学を学んだ。
 
明治35(1902)年に台湾総督府民政長官・後藤新平に請われ、台湾での林業開発を指導することとなった。
 

◎12年かけて完成した森林鉄道
 
当時、台湾では南北を結ぶ縦貫鉄道の建設が進められていた。その資材調達先として注目されたのが、阿里山であった。しかし、河川は流れが急で水量が不安定なため、水運を用いることはできない。そこで台湾総督府は森林鉄道の建設を決め、明治33(1900)年から地勢調査を始めていた。
 
河合博士は鉄道ルートの選定からこのプロジェクトに携わった。地形的な制約が大きいため、軌道幅762ミリという軽便鉄道の規格で設計された。自然災害もあり、何度となく挫折しながらも工事は進められていった。7年後の明治40(1907)年西南部の嘉南平原北端の嘉義から、標高2,000メートルの二萬平までの66キロが開通。12年後の大正2(1912)年には阿里山まで全通し、本格的な森林資源の搬出が始まった。
 
伐採は生態環境を維持しながら計画的に行い、同時に植林事業も進めて、森林資源の保全を図った。河合博士はこれらの計画を直接指導した。この実績は林業関係者の間では今も高い評価を受けている。台湾南部の灌漑事業を手がけて「百万人の農民を豊かにした」と李登輝元総統に言わしめた八田輿一氏に並ぶとも言われている。
 
河合博士は昭和6(1931)年に東京の自宅で永眠した。台湾で罹ったマラリアが原因だったと伝えられている。その後、門下生たちによって、記念碑が建立されることになり、阿里山神社の神苑がその場所に選ばれた。ここには昭和10(1935)年に建立された樹霊塔も残っている。切り出された樹木の霊を慰めるためであった。


◎日本最長の大橋梁
 
西南部の高雄県とその東の屏東(へいとう)県はかつて下淡水渓(しもたんすいけい)と呼ばれた大河川を県境としている。流域面積では台湾最大の河川である。この河川に大正2(1913)年、3年がかりで全長1,526メートルもの大橋梁がかけられた。
 
完成時には、天竜川鉄橋や朝鮮の鴨緑江鉄橋よりも長く、日本最長を誇っていた。この橋はトラスという複数の三角形を組み合わせた構造を用いている。24連ものトラスが延々と続く光景は、世界の鉄道技術者を感嘆させるに十分なものだったという。
 
この橋梁が果たした役割は大きかった。これまで下淡水渓によって隔絶されていた屏東地方は、新興産業都市・高雄と直接結ばれ、農産物を鉄道で輸送できるようになった。また高雄の港湾施設にインドネシアからボーキサイトが輸入され、アルミニウム工業が発達した。屏東産のパイナップルは、アルミ缶に詰められ、大半が日本に出荷されるようになった。
 
高雄から鉄橋を渡る手前に位置する九曲堂駅の駅舎近くに古めかしい、見上げるような大きさの石碑が建っている。鉄橋の架設に努めた飯田豊二という技師の碑である。
 
飯田技師は静岡県生まれで、明治30(1897)年に28歳の若さで台湾に渡った。明治43(1910)年には鉄道部技師となり、翌年から台湾総督府鉄道部打狗(高雄)出張所の技師として、下淡水渓橋梁の架橋工事に携わった。
 
しかし、過労がたたって病に倒れ、自らが手がけた鉄橋の完成を見ることなく、大正2(1913)年6月10日、台湾総督府台南医院で世を去った。享年40であった。その後、台湾総督府は飯田技師の功績を讃え、この碑を建立したという。
 
現在では石碑を中心に公園が整備され、その由来が中国語と英語、日本語で案内板に書かれている。郷土史に興味を持つ人びとが頻繁に訪れ、鉄橋と共に歴史遺産の扱いを受けている。
 
 















「道楽庵 山岡鉄舟(二)」

2017-04-20 06:14:34 | 日本

幼時から培われていた鉄舟の至誠の風格は、敬慕すべき無我の人、山岡静山との出会いにより、真に開花する。鉄舟はその生涯を「至誠の一直心」で通した。


◎「道の師」との出会い

特筆すべきは、「道の師」と鉄舟が呼んだ山岡静山との出会いである。静山について鉄舟がどのように感じて師事していたかを、静山が二十七歳で急逝した後に鉄舟がしたためた一文から窺うことが出来る。

鉄舟は言う、「そもそも静山先生がやりの術に絶妙であるのは、日本随一であり、何人も称賛するところである。そして更に内面的には深く忠孝仁義という人の道に心血を注いでおられることは、天下にこの人を凌ぐ者が何人あろうか。まさしく静山先生の技は、無我の真の発動であるに相違ない。これこそ私が最も敬服するところである。私鉄太郎は剣法を修行し、先生はやりの達人である。従って、私は先生の技に対して師事したのではない。敬服したのは、先生の心境が明鏡止水の如くに一点の曇りも無く、徳の厚きこと山の如くであるからである。それ故、私は技が異なるにもかかわらず、しばしばその門に出入りして先生の教えを受けたのである」と。

また、師の静山の方も、常に人に語ってこう言っなければ、私は自害します」とまで言い切ったという。鉄舟は当時「ボロ鉄」と呼ばれるほど生活に困窮していたが、それはお英にとって問題ではなかった。鉄舟の方も、「おれのようなものをそれほどまでに思ってくれるのか」と感激したことも、山岡家を継いだ大きな一因である。

鉄舟は急逝した静山の死を悼んで景慕の情に堪えず、毎晩人知れず墓参したという。寺の和尚は大柄の鉄舟を怪物だと勘違いし、泥舟に伝えた。そこである日、泥舟が窺っていると、雲行きがあやしくなり、ついにはものすごい雷雨となった。その時一人の大男が風雨をついて走ってきて、静山の墓前でうやうやしく礼拝して羽織を脱いで墓にかけ、墓に向かってあたかも生きている人にものを言うかのように、「先生、鉄太郎がおそばにおりますから、どうぞご安心遊ばせ!」と言いつつ、雷雨が過ぎるまでそのまま守護していた。これは静山が雷が苦手だったからである。物陰からこの様子を見ていた泥舟は、亡兄に対する鉄舟の至誠心を目の当たりにして、感涙にむせんだという。


◎山岡静山

鉄舟ほどの人物がかくまで心酔傾倒した山岡静山とは、一体いかなる人であったのか。

これは海舟の証言であるが、静山は常に、「道によってなすことは勇気が出るが、少しでも我が策をめぐらす時は、何となく気ぬけがする」と言っていた。
そして常に身辺から離さなかった短い木刀には、一方に、「無道人之短、無説己之長」(人の短をいうなかれ、おのれの長を説くなかれ)と記し、裏面には、「施人慎勿念、受施慎勿忘」(人に施すに慎んでおもうことなかれ、施しを受けるに慎んで忘れることなかれ)と記していたという。
このことから静山の人柄の何たるかが分かるであろう。

静山の伝記は、中村正直(まなさお)が記したものが知られているが、その中でも静山の次の二つの言葉を紹介しておきたい。
 
「およそ人に勝とうと思うならば、先ず自分に徳を身に付けなければならぬ。徳がまされば敵は自然に降参する。真の勝ちとはそのようなものだ。」
(およそ人に勝たんと欲せば、すべからく先ず徳をおのれに修むべし、徳勝って而して敵自ずから屈す、これを真勝となす。)
 
「人が是非とも戒めなければならないのは、おごりである。ひとたびおごりの気持ちが心に生ずれば、すべての技芸は廃れてしまう。過去を回顧すれば、私もまたおごりの念を起こしたことがないとはいえぬ。このことに思い至るたびに、慚愧と後悔の念で汗が流れる思いである。」(人よろしく戒むべき所のものは驕傲〔きょうごう〕なり、ひとたび驕が心に入れば、百芸みな廃す。既往を回視すれば、我もまた免れず。一念ここに至るごとに慚悔〔ざんかい〕汗下る。)


◎無我・至誠の実践

鉄舟は二十三歳の折りに「心胆錬磨の事」という一文を書いているが、そこで彼は心胆を錬磨することの奥義を自ら体得するために、「古今の聖人傑士」がいかにしてその道を修得し、また発揮したかを、その事蹟を学ぶことによって、考究したという。
そして、「我れ幼年の時より、心胆錬磨の術を講ずる事、今日に及ぶといえども、未だその蘊奥(極意)を極むる事あたわざる所以のものは、一つに我が誠の足らざるが故なり」と述懐している。

また、鉄舟が明治天皇の侍従をした功績を認められて叙勲されようとした時に、「まだまだお尽くし足らぬと思っているのに、叙勲などもってのほかだ」と断言し、「喰うて寝て何も致さぬご褒美に、蚊族(「華族」と同音語)となってまたも血を吸う」と自嘲した。これこそ実に鉄舟全幅の赤誠の表現である。
 
鉄舟は天皇の教育係役を西郷隆盛からのたっての依頼で引き受け、天皇から最も信頼された側近であった。しかも彼の前の主君は、最後の将軍・徳川慶喜であった。将軍にとって代わって最高権力の座についた天皇に新たに仕えることになった鉄舟は、殊に将軍の部下であった旧武士達から口さがない批難を浴びた様であるが、それでも彼は一向に弁明などせずに天皇にお仕えした。鉄舟にとっては、徳川将軍に仕えるにせよ明治天皇に仕えるにせよ、いずれも至誠の一直心(じきしん)を行ずることに他ならず、自らに顧みて何ら天に恥じることがなかったからである。

孔子は大聖人であるが、その孔子にしてなおかつ、「勤勉では私も人並みだが、君子としての実践では、私はまだ十分には行かない」(『論語』述而)とか、「君子の道は四つ有るが、私は未だその一つをも行なうことが出来ない」(『中庸』)などという恐るべき述懐がある。私見に依れば、これこそ「意・必・固・我」の四つを断たれた孔子の無我・至誠のおのずからなる発露に他ならない。

孔子が「自分は君子の実践すらまだ不十分だ」と述懐され、鉄舟が我が身の誠の足りないことを痛感することこそ、無我と誠の実践そのものである。自分は何でも出来る、足らぬところがないなどと自負する人は、傲慢で鼻持ちならなくなってしまう。それは結局、我が身可愛さ故の「身のひいき」であり、我見である。これに対して、誠を実践躬行する人は、その限りのないことを知れば知るほど、ますます謙虚になって行く。世語に「実るほどこうべ(頭)を垂れる稲穂かな」というのも、ここのところを指すのであろう。


◎無我の妙用

最後に鉄舟の無我・至誠の人柄を如実に示す逸話をご紹介したい。

これは海舟が述べていることであるが、あるとき牛屋(牛肉屋)が店の看板の揮毫(きごう)を依頼に鉄舟のところにやって来た。すると門人達は立腹して、「不届きの牛屋め、おそれおおくも鉄舟大先生に対して、貴様のところの看板を書けとは何事だ。無礼極まる」とその軽率をとがめた。すると蔭からその声を聞きつけた鉄舟は、直ちに彼らを止めて、「何かまわん、わしが書いた看板で商売の繁昌ができたら、この上もない結構なことだ」と言って、直ちに書いてやり、「拙者は書を商売にするものではない。書いてくれという者には、誰でも書いてやる。露店の看板でも、出産届けでも、手紙でも証文でも何でも書いてやる」と言ったという。

これこそ、我がない故に余計なプライドや自尊心などを持ち合わせていない無我から自然にほとばしり出た、臨機応変・無礙自在の妙用(みょうゆう)である。何と大きなものではないか。
 












「道楽庵 山岡鉄舟(一)」

2017-04-20 06:13:15 | 日本

海舟・南洲・鉄舟の三人の交友は、無我・至誠の人間関係の好箇の見本であり、そこには日本人のあるべき姿を見て取れるであろう。その中でも剣・禅・書の極意を極めた鉄舟のずば抜けた境涯には、他の二人とも及ばぬものを感じていたようである。


◎「無我と至誠」の体現者・ 鉄舟

幕末から明治中期まで活躍した山岡鉄舟( 天保七年―明治二十一年、1836―1888)は剣・禅・書の達人である。その鉄舟の人格の骨(こつ)ともいうべき核心は、何と言っても「無我・至誠」である。この鉄舟の中に、我々は「あるべき日本人の姿」を、また「人間としての真の生き方」を見出したいと思う。
 
勝海舟や西郷南洲らは人格識見ともに第一流の人物と見なされるであろうが、彼らはいずれも鉄舟とは無二の道友であり、その比類なき交わりを通して、鉄舟の人物を高く評価していた。
 
明治元年(1868)に海舟のもとへ初めて尋ねて来た幕臣の鉄舟は、当時江戸上野の寛永寺大慈院で謹慎中の第十五代将軍徳川慶喜の恭順の意を、駿府の官軍総督府の西郷南洲へ伝える使者の役を担って、その行動の了解を得ようと幕府の要職にあった海舟に面会を求めて来た。
後に鉄舟自身が回顧しているところによれば、そのとき彼は、「国家百万の生霊(江戸市中の住民)に代りて生を捨てるのは、もとより予が欲するところなり」と、「心中青天白日の如く、一点の曇りなき赤心を」もって海舟に面会したと述べている。
 
海舟は鉄舟にさぐりを入れた、「貴殿はどういう手立てをもって官軍の陣営中に行くのか」と。鉄舟は、「官軍の陣営に到れば、斬るか縛るかの外はないはずである。そのとき両方の刀を渡して、縛るのであれば縛られ、斬ろうとするならば、自分の思いを一言大総督宮(有栖川宮)へ言上する積りである。もし私のいうことが悪ければ、じきに首を斬ればよい。もし言うことがよければ、この処置を自分に任せて頂きたいというだけである。是非を問わずに、ただ空しく人を殺すという理はない、何の難しいことがありましょうか」と言い切った。我が身を擲って微動だにしない鉄舟の高邁な決意を見て、海舟は俄然同意して鉄舟に一任したのである。
 
鉄舟は海舟が何かの役に立つと思い同行させた薩摩藩の益満休之助と共に、薩長からなる官軍の総督府に赴いた。鉄舟は豪胆にも官軍の只中を、「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄太郎、大総督府へ通る」と大声で叫びながら通り抜けて駿府へ到着し、参謀の西郷吉之助(南洲)と面会することができた。この面談で鉄舟は真情を吐露して主君慶喜の恭順の意を伝えたのであるが、さすがの南洲も、主君のため国家万民のために身命を顧みずに乗り込んできた鉄舟の赤誠には、敵味方の別を超えて心から感動し、慶喜恭順の意を了解するに到るのである。


◎「本当に無我無私の忠胆なる人」

南洲との江戸城無血開城に関する江戸薩摩屋敷での会見の前日に、海舟は南洲を芝の愛宕山上に誘い出して江戸城下の有様を眺望せしめ、「これを焦土と化しては」と説明した。感無量の体で黙して聞いていた南洲がため息をついて言うには、「さすがは徳川公だけあって、偉い宝をお持ちだ」というから、海舟がどうしたと聞くと、いや山岡さんのことですといったので、海舟がさらに、どんな宝かと反問すると、「いやあの人は、どうのこうのと言葉では尽きぬが、何分にも腑の脱けた人でござる」と言うから、海舟が、どんな風に腑が脱けているかと問うたところ、「いや生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬといったような始末に困る人ですが、しかしあんな始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合う訳には参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如き人でしょう」、そう言って南洲は大いに感嘆したそうである。
人口に膾炙(かいしゃ)している「生命も名も金もいらぬ人は始末に困る」云々という南洲の有名な言葉は、このとき鉄舟に関して評した言葉が、南洲の格言として伝えられたものである。
 
無事役目を果たして帰ってきた鉄舟について、海舟は日記に次のように記している。「山岡氏東帰、駿府にて西郷氏へ面談。君上の御意を達し、かつ総督府の御内書、御処置の箇条書きを乞うて帰れり。ああ、山岡氏沈勇にして、その識高く、よく君上の英意を演説して残す所なし。もっとも以って敬服するにた堪えたり」。さすがの海舟も、鉄舟の私心なき人格と捨て身の働きには心から感服せざるを得なかったのである。
海舟・南洲・鉄舟の三人の交友は、無我・至誠の人間関係の好箇の見本であり、そこには日本人のあるべき姿を見て取れるであろう。その中でも剣・禅・書の極意を極めた鉄舟のずば抜けた境涯には、他の二人とも及ばぬものを感じていたようである。
 
例えば、海舟は、人の道の根本となる「無我無心」の境地について、「おれも是非この境に達しようと必死になったことがあったが、ついに山岡などのような境にまで達しないで、遺憾ながら今日に至った」と率直に述べている。


◎母の至情の教訓 

『鉄舟随感録』には、鉄舟自身の貴重な文章と共に、それに対する海舟の評論が併載されている。それを読むと若き鉄舟の心根がどのようなものであったかがはっきりと見て取れる。
鉄舟の詳しい生涯は、後に掲げる参考文献を参照されたい。ここではその人格の中核をなす「無我と至誠」の一点に絞って見ていこう。

飛騨高山に生を受けた鉄舟は、武家の子として剣法と書道を習っていたが、その当時を述懐して、鉄舟は「父母の教訓と剣と禅とに志せし事」という注目すべき一文を書き残している。
 
「私は年齢が八、九歳の頃、母が文字の書法を教えてくれた。たまたまその中に忠孝という文字があるのを見た。私はどういう意味かを不審に思い、母にそのいわれを尋ねた。母が言うには、忠と申す文字は、その使う場所によってさまざまな解釈もあるが、この場合は主君に仕える心の正しさをいう。孝と申す文字は、父母に仕えるという意味である。しかし忠と孝とはもともと根本を同じくするもので、人がこの世で生きる上で、必ずこの道理をわきまえなければ、人として生まれた甲斐がないばかりか、申し訳が立たぬものであると、大層情感を込めて話された。

けれども、私は幼年のこととて、それがさほど効能のあるものとは思えなかったが、母の膝によりながら、じっとその顔を眺めてみれば、母は何となく深い心を含んで言われたように見受けられたので、私は幼な心に、母様よ、母様は常にその道を守られているのですか、また私はどうしたらその道を行ない尽くすことが出来るのでしょうかと、何気なく質問したところ、母は何やら心に感じたところがあったようで、はらはらと涙を流しながら言われるには、オー鉄よ鉄よ、母も常にそのように心がけてはいるものの、至らない女であるがために、未だこれといった成果もなく、誠に残念に思っている。そなたは幸いに丈夫な身体に生まれついたのだから、必ず必ずこの母の教えを忘れないでおくれ。忠孝の道は、その意味はなかなか奥深いものがあり、今日そなたに申し聞かせても容易に心に合点するというわけにはいかないでしょう。これからはこの心を持って修行に専念すれば、将来において自然に了解することもあるでしょう。必ず必ず、うち捨ててはなりませぬと、心を尽くして述べられた母の至情の教訓は、この出来事において私の精神にしみ渡ったのである。」

このように鉄舟は述懐しているが、我が子の目前で真情を吐露する母に感応道交して、鉄舟の幼い心にも生涯忘れ得ぬ至誠心が刻印されたのであろう。母たる人の家庭教育がいかに大切かが知られるのであり、鉄舟の母のように、真心や至誠心をもって教育すれば、子供はきっと立派な皆から尊敬される大人に成長するであろう。
すでに十五歳の折りには、「修身二十則」を作って自らの日常の言動を戒め錬磨している。













「道楽庵 無我と至誠」

2017-04-20 06:11:25 | 日本

「誠」とか「誠実」や、その極致の「至誠」は、我々日本人の精神の中核を形成してきたものである。それゆえ、さきの大戦までは、日本は「東方の君子国」(山岡鉄舟)として他国から畏敬されてきた側面があった。


◎日本人の理想・「至誠の人」

日本人は古来、「至誠の人」を理想的人格として尊んできた。

例えば、禅を世界に広めた鈴木大拙は、尊敬する師の今北洪川(鎌倉円覚寺管長)や、無二の親友であった哲学者の西田幾多郎を、共に「至誠の人」という言葉で特色付けている。

また、明治の元勲達から是非にと依頼されて若き明治天皇の君徳教導役となった元田永孚(もとだながざね)の風格を、彼の講義を聞いて痛く感激した有為の学生の一人は、「純忠至誠の大儒」と感嘆した(安場末喜〔すえのぶ〕「純忠至誠の大儒元田永孚先生」雑誌「キング」昭和二年五月号所載)。

さらに、教育界の重鎮であり京都帝大学長でもあった小西重直(しげなお)は、幕末の儒者広瀬淡窓に関する「自序」において、

至誠真実は一切の文化の創造と発展とに必要なる根源の精神力である。・・・(中略)・・・日本の古賢先哲にしてこの精神力を発揮せざるものはないが、私はその中においても淡窓先生の至誠真実の精神力には、敬服せざるを得ないのである。
(『広瀬淡窓』日本先哲叢書第十巻)と述べている。

このように「誠」とか「誠実」や、その極致の「至誠」は、我々日本人の精神の中核を形成してきたものである。それゆえ、さきの大戦までは、日本は「東方の君子国」(山岡鉄舟)として他国から畏敬されてきた側面があった。


◎『中庸』と『孟子』の意義

孔子自身は、慈愛と真心の徳である「仁」を最高の徳目として説き、「至誠」や「誠」などということをあからさまに言ってはいない。だが、「夫子は温良恭謙譲(おだやかで、すなおで、うやうやしくて、つつましくて、ひかえめであられる)」(『論語』、学而第一、22頁)と讚えられた孔子の人格は、まさしく「至誠の人」(聖人)の典型であったと言えるのではないか。

孔子の孫の子思(しし)は、孔子の道統をひとり真に受け継いだ曾子(そうし)に久しく学んで、実地に工夫して孔門の奥義を極めた末に、孔子亡きあと時代が経ち、次第に儒教の本旨が失われゆくのを憂えて、遂に儒教の核心を『中庸』に著した。

そこには、専ら徳性を明らかにするという実践に終始した孔子が表立っては語らなかった、儒教の深遠な教理が述べられている。

まことに『中庸』一篇の書は、程子の言うように、「孔門伝授の心法」(聖人が門人に伝授された心に関する根本の教え)であり、人生の極意が随所に述べられており、その一句でも肝に銘じて実践すれば、人生を生きる上で大いに意義深いことは疑い得ない。

それゆえ、卓越した儒者であった元田永孚も、四書五経の中で「天と人との大道」を知るためにまず最初に読むべき書物として、『中庸』を挙げている(『為学之要』)。「中庸」とは偏らない過不足の無い徳のことであるが、その極意が「誠」ということであるから、『中庸』の核心は「誠」についての論究である。

また、子思の門人に学んだといわれる孟子は、武力による争いの愚かさと、仁政に基づく「王道」の政治の必要性とを力説した。
その言行録である『孟子』は、彼の「浩然の気」からわき出た気魄(きはく)と、聖人の道を踏み行なう人のみがもつ確信に溢れている。まことに、「亜聖」(聖人に次ぐ人物)といわれるはずである。

この『孟子』にも、「至誠」や「誠」に関する言葉が散見される。
ここでは私見を差し挟むことなく、これらの経典の言葉を引用してみよう。


◎『中庸』と『孟子』に見る「至誠」論

『中庸』
「誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり。」
天道は誠、すなわち真実にして偽りがない。春夏秋冬の変遷、万物の成育、日月星辰の運行など、天地の森羅万象はすべて誠を行じている。しかし、人は生まれつき誠をもって我が本性としているにもかかわらず、我が身のさまざまな欲に曇らされて、生まれつきの純な誠を保つことが出来ない。それゆえ、人は勉めて本来の誠の道を求める必要がある。

「ただ天下の至誠、よく化することを為す。」
ただ至誠ある人だけが真に世の中に感化を及ぼすのである。

「誠は物の終始なり。誠ならざれば物なし。」
誠は一切の始まりであり、終わりである。誠がなければ物はない。

「至誠息(や)むなし。」
至誠は休息することがなく、その働きたるや、間断なく、しかも永遠不変である。
 


『孟子』

「身にかえりみて誠ならざれば親に悦ばれず。身に誠なるに道あり、善に明らかならざればその身に誠ならず。この故に誠は天の道なり、誠を思うは人の道なり。至誠にして動かされざる者は未だこれあらざるなり。誠ならずして未だよく動かす者はあらざるなり。」
我が身に反省して誠意・真心がこもっていないようでは、親には悦んでもらえない。我が身をいつわりなく誠にするには、やはり方法がある。それは是非善悪を明らかにわきまえなければ、到底我が身を誠にすることは出来ない。このように誠こそは〔人の天性から出るものゆえ〕天の道であり、万事の根本である。この誠を十分に発揮しようと思って努めるのが、つまり人間の道なのである。およそ至誠〔まごころ〕を尽くして天下に感動させることの出来ないものはないし、また、至誠でなくうそいつわりで人をよく感動させることの出来るものは決してないのである。

これら聖賢の金言は、それ自身ことごとく「至誠」の丹心から発されたものであるから、世の通常の教えとは異なり、何と気高いことであろうか。幼い頃からこうした高邁な教えに接して自分の生き方を反省し改善していれば、我々の人生もきっと年を重ねるに従ってますます楽しく充実したものになるに相違ない。

 先に述べた貝原益軒も、「聖賢の書を読んで、その心を得て楽しむのは楽しみの極致である」と述べて、聖賢の教えから学ぶことがいかに楽しく大切であるかを力説している。


◎西郷南洲の訓戒

かの西郷南洲(隆盛)も言っている、

「聖賢になろうとする志なく、古人の事跡を見て、自分にはとても及ばぬというような心では、戦(いくさ)に直面して逃亡するより、なお卑怯である。朱子も、白刃をみて逃げる者はどうしようもないと言われた。誠意をもって聖賢の書を読み、その処置された心を我が身に体得し我が心に体認する修行をせず、ただ聖賢の言動を知っただけでは、何の役にも立たぬ。・・・(中略)・・・聖賢の書を空しく読むだけならば、それはちょうど、他人が剣術の稽古をするのを傍観しているのと同じことで、少しも自分で会得出来るものではない。自分に身に付いていなければ、万一立ち合えと言われた場合、逃げるより他に致し方あるまい」
(『西郷南洲遺訓』)
 
その南洲はまた、「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、おのれを尽くして人を咎めず、我が誠の足りないことを反省せよ」(いわゆる「敬天愛人」)とか、「天下に後世までも信服されるのは、ただ真誠だけである」とも言っている。南洲の至誠心もまた聖賢の書を読み、それを行ずることによって培われたことが分かるのである。


◎「至誠」と「無我の境地」

さて、「至誠の人」はまた「無我の人」である。

陽明学の開祖であり、孟子以来の大儒と目される王陽明は、その主著『伝習録』の中で、「人の心はもともと天が然らしめた理法であるから、精一明澄で、微塵も作為や分別の介入する余地のない、無我そのものなのである。心中に断じて我があってはいけない。我があると傲慢となる。古代の聖人達の卓越したところは、何といっても無我であったからこそなのである。無我であれば、おのずから謙譲になる。謙譲こそは一切の善の根本であり、傲慢こそは一切の悪の最たるものである」と述べている(王陽明全集第一巻、370頁、明徳出版社刊、吉田公平訳『伝習録』タチバナ教養文庫、389頁)。
(原文書き下し)「人心はもとこれ天然の理にして、精精明明、繊介の染着無し、只これ一の無我のみ。胸中切に有るべからず。有れば即ち傲なり。古先の聖人の許多の好き処は、また只これ無我のみ。無我なれば自ずからよく謙なり。謙は衆善の基にして、傲は衆悪の魁(かい)なり。」

このように、「無我」は通常は仏教の根本的特色のように考えられているが、仏教のみならず儒教や神道においても、根源の境地である。真に無我を体得した人でなければ、至誠心を発揮することは出来まい。


◎達道の人、山岡鉄舟

「無我と至誠」について経典から引用することはこれくらいにしておいて、今度は、それを体現した類い稀なる人物として、近世における達道の人、山岡鉄舟を取り上げることにする。これは何も鉄舟個人の事歴を述べようとするものではなく、「無我と至誠」が具体的に如何なるものかを、鉄舟の場合から汲み取って頂きたいがためである。

もとより、古今の聖賢や達道の人で、「無我と至誠」を体現していない人はないであろう。しかし、山岡鉄舟に関しては、名僧の南隠老師(東京、白山道場)が、「昔より支那でも日本でも至誠の人は滅多に無いものだが、居士〔鉄舟〕は真にその人であった」と証言しており、また道友の勝海舟も、「山岡は明鏡の如く一点の私〔私心〕をもたなかったよ。だから物事に当り即決していささかも誤らない」と評しているのである。
















「道楽庵 孔子の風光」

2017-04-20 06:09:38 | 日本


わが弟子達によって、「先生ほどの高徳なお方は人類始まって以来、いまだかつておられない」と激賞された孔子聖人の偉大な人格の薫陶を受けて、我々の先人達は自らの心を育んできた。今こそ、孔子の教えや生きざまを謙虚に学ぶべき時であろう。


◎論語の言葉

二千年以上にもわたって東洋の精神的支柱となってきた『論語』には、 孔子の次のような言葉がある。

子の曰く、疏食(そし)をくらい水を飲み、肱を曲げてこれを枕とす
楽しみまたその中に在り
不義にして富みかつ貴きは、我において浮雲の如し

粗末な飯を食べて水を飲み、うでを曲げてそれを枕にする。
楽しみはやはりそこにも自然にあるものだ。
道ならぬことで金持ちになり身分が高くなるのは、私にとっては浮雲のように、はかなく無縁なことだ。

また、『論語』の別の箇所には、孔子が愛弟子の顔回について述べられた次の有名な言葉がある。

子の曰く、賢なるかな回や
一箪の食、一瓢の飲、陋巷(ろうこう)に在り
人はその憂いに堪えず、回やその楽しみを改めず
賢なるかな回や

先生がいわれた。
『偉いものだね、回は。
竹のわりご一杯の飯とひさごのお椀一杯の飲みもので、狭い路地の暮らしだ。他人ならその辛さに堪えられないだろうが、回は(そうした貧窮の中でも)自分の楽しみを改めようとはしない。偉いものだね、回は』


◎「真の楽しみ」とは

中国宋代の卓越した儒者である程明道(ていめいどう)・程伊川(ていいせん)の兄弟が周濂渓(しゅうれんけい)に学んでいた時、「孔子と顔回が楽しみとしていたところは何であったか」といつも師に尋ねられたという。
 
これに関して、のちに朱子は、「孔子と顔回は貧乏そのものを楽しんでいたのでないことは言うまでもない」と付け加えている。
むしろ、孔子や顔回は、常に楽しみの只中に生きていたからこそ、他人には辛く思えるような貧窮生活も何ら苦にはならなかったのであろう。このような「道の楽しみ」は、世上の快楽とは異なり、自分の心を豊かにしてくれる。

貝原益軒も、君子は道にしたがうことを楽しみ、小人は欲にしたがうことを楽しむ。
道をもって欲を制すれば楽しんで乱れず、欲をもって道を忘れれば乱れて楽しまず。

という『礼記』の言葉を引いて、だから小人の楽しみは真の楽しみではない。果ては必ず苦しみとなる。

世間的には不遇の人生を送られた孔子は、楚の国の長官に孔子の人となり(風格)を問われて答えることが出来なかった弟子の子路に対して、次のように言い切られている。
お前はどうして言わなかったのか。
私の人となりは、発奮しては食事も忘れ、(道を)楽しんでは憂いも忘れ、やがて老いがやって来ることにも気づかずにいるというように。


◎はからいなき自然体の人

弟子達にその志望を尋ねたあとで、孔子は自分の志望を披歴されて、老人には安心されるように友人には信じられるように若者には慕われるようになることだと淡々と述べられている。
孔子聖人のこの泰然自若(たいぜんじじゃく)とした答えぶりこそ、人生を心から充実して送れる至楽の境涯であると言えるであろう。
 
このような「楽しみに満たされた生き方」(楽道)は、意なく、必なく、固なく、我なし
勝手な心を持たず、無理押しをせず、執着をせず、我を張らないと称せられる孔子の融通無礙(ゆうずうむげ)な心の発露に他ならない。
孔子はそのように「無我の人」であったからこそ、同時に謙譲をその風格とする「至誠の人」であったと言えるであろう。