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「国体の意味と国民主権論」

2018-09-09 07:20:25 | 日本

三浦小太郎さんが「国体の意味と国民主権論」につて掲載している。
以下、重要な文書の為、要約し記す。



葦津珍彦氏の「国体問答」には、日本の国体とは何か、主権とは何かについても、極めて興味深い指摘がなされている。葦津氏は、国体論を抽象的に論じたり、また学問的に定義することは慎重に避け「国の体質というほどの意味」と「だけ述べている。しかし、現在は主権在民の国であり、それと天皇との関係はどうあるのかという問いに対して、より本質的な意味で、国民と天皇の関係を次のように答えている。


「国民主権という場合の国民というのは(中略)具体的な個々の国民のことを言うのでない。集団としての一つの国民のことを言うのである。国民の最高の意思が統一的な国民の意思によって決まるという意味である。」

「実際の国家国民には、様々な意見があり、民主主義社会においては論議を尽くしたうえで、多数決など法に従って一つの方針を決めることになる。そして、それによって国家意思が決定した場合、それは単なる多数派の意見ではなく、国民の統一した意思としての権威を持つ。いかなる国も、この国家意思はただ一つであり、そうでなければ分裂して政治も外交もない成り立たない。」

「この権威ある意思の主体を主権者と呼び、国民と称するのである。それは目で見ることが出来ない一つの観念的な存在としての国民である。」

個々の国民は、この「主権者」に統治される国民となる。

「眼で見ることが出来る具体的な国民、山田君とか中村君という国民は、主権意思を形成する過程で一つの役割を果たす権利者ではある。彼らは多数派か少数派に属することによって、主権意思の形成に参加する。しかし主権の意思は、それらを越えて唯一の意思として決定される。主権意思が決定された上では、中村君も山田君も、主権者ではなく、主権によって統治される国民なのである。」


そして葦津氏は、このような「国家意思」を表す存在としては、日本では天皇御一人に限られるとする。

「天皇が『国民統合の象徴』と言われるのは、この眼にみえない姿を、眼にみえる姿で現わすのは、ただ天皇御一人に限られるという意味である。主権者たる国民の姿を目で見ようと思えば、中村君や山田君を見ても分からない。天皇を仰ぎ見るという他はないということになる。(中略)天皇は国民の全てを象徴されるので、その中の一人ではありえない。天皇は一票を投ぜられない。」葦津氏はおそらく自身は否定していた戦後憲法においても、皇室の存在はここまで解釈しうることを指摘している。

だからこそ、国会に陛下が赴かれれば、国民の代表たる議員は敬意を表するのだと述べている。「陛下御一人が主権者を象徴されており、議長以下の議員は、主権者ではなく統治される側の国民の代表者として立っているのである。あの国会議場の開会式の状況が、憲法法理の示す主権在民、天皇象徴性の姿なのである。」

これは、戦後民主主義や近代国民国家の理念と、日本の伝統的な「国体観」との見事なまでの統一した論ではないだろうか。

青年期にはむしろマルクス主義やアナーキズムに共感を覚えていたという葦津氏だが、この論理展開は、まさに最もすぐれた意味での弁証法を思わせる。そして、天皇陛下が主権者であるにもかかわらず政治権力とは限りなく遠い位置にあり、国家非常の際に於いてどうしても統一的決断が必要なときにのみ、国内のあらゆる対立を超越した存在として決定を下す(大東亜戦争のときなど)という在り方こそが、日本国を分裂や破滅から守ってきたことを、葦津氏は各所でち密に論議し、逆にそのような国体を持ちえなかったアジアの君主国(清国や李朝)の悲劇と対比している。









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