龍の声

龍の声は、天の声

「謡曲 三輪」

2020-11-28 07:22:14 | 日本

大和国三輪の里(今の奈良県桜井市付近)に玄賓(げんぴん)という僧がすんでいました。玄賓の庵に、樒(しきみ)を持ち、閼伽の水を汲んで毎日訪ねる女の人がいました。玄賓が不審に思い、名前を尋ねようと待っているところへ、今日もその女性がやってきました。折しも秋の寂しい日のことでした。女の人は玄賓に対して、夜も寒くなってきたので、衣を一枚くださいと頼みます。玄賓はたやすいことですと、衣を与えました。女の人が喜び、帰ろうとするので、玄賓はどこに住んでいるのかと尋ねました。女性は、三輪の麓に住んでいる、杉立てる門を目印においでください、と言い残し姿を消しました。

その日、三輪明神にお参りした里の男が、ご神木の杉に玄賓の衣が掛かっているのを見つけ、玄賓に知らせます。男の知らせを受けた玄賓が杉の立つところに来ると、自分の衣が掛かっており、歌が縫い付けてあるのを見つけます。そのとき、杉の木陰から美しい声がして、女体の三輪の神が現れました。三輪の神は玄賓に神も衆生を救うために迷い、人と同じような苦しみを持つので、罪を救ってほしいと頼みます。そして、三輪の里に残る、神と人との夫婦の昔語を語り、天の岩戸の神話を語りつつ神楽を舞い、やがて夜明けを迎えると、僧は今まで見た夢から覚め、神は消えていきました。

この能の舞台となったのは、奈良県の三輪の里です。古代神話の故郷であり、また現在の能楽の諸流儀の母体となった大和猿楽の諸座も、この里の近隣を発祥の源としています。三輪山全体をご神体に戴く三輪の里は、独特の神秘性をたたえた、非常に魅力的な土地です。能の三輪もまた、この地にふさわしく、神秘性と詩情に満ちた物語となっており、どこか懐かしく、幻想的な雰囲気がゆったりと漂っています。

観客は、玄賓僧都とともに、三輪山の麓の杉木立のなか、現実の世界から、魔法にかけられるかのように、だんだんと、不思議なあちら側の世界へ足を踏み入れていきます。気づけば、気高く美しい女体の姿を取った三輪明神に相対し、三輪の神の遠い昔の神話を聞き、夢のような神楽に浸っています。さらには、天の岩戸の神話を目撃することになります。

地謡は「覚むるや名残なるらん」と結びますが、本当に、夢から覚めるのが名残惜しくなる、そんな能です。


◆登場人物
前シテ 女  じつは三輪明神の化身
後シテ 三輪明神
ワキ 玄賓(げんぴん)僧都
アイ 土地の男

◆場所
・大和国 三輪山中 玄賓僧都の庵  〈現在の奈良県桜井市茅原 玄賓庵〉
・大和国 三輪山麓 三輪明神の神前  〈現在の奈良県桜井市三輪 大神神社〉


◎大神神社(奈良県桜井市三輪)

平成元年5月、教授嘱託会の謡曲名所めぐり大和路の旅に参加し大神神社を参詣する機会を得た。
日本最古の神社で、三輪山そのものを神体としてまつるため、神殿はなく拝殿しかない。拝殿の前には衣掛けの杉があり、謡曲三輪に知られる玄賓僧都の衣を掛けられた神木であると記されている。周囲十メートルもある大木であるが、現在は根の部分のみが残され、屋根をかけられて保存されている。この杉はもともと拝殿右にあったが、安政4年7月24日夜、落雷にあって途中でボキリと折れ、高さ一丈の幹と根は残ったという。それも明治37年に腐朽して倒れた。神木とあって根株を堀り、現在の形で保存しているとのこと。