龍の声

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「不文の憲法こそ我が国の憲法だ」

2020-11-07 09:37:20 | 日本

西村真悟さんが掲載している。
以下、要約し記す。


我が民族生命の原始無限流動の源である國體は今日も尚、厳然と存在し機能している。これが、まさに我が国の「不文の憲法」である。
我々は、これを我が国の憲法と自覚しなければならない。

では、我が国の「不文の憲法」を自覚する意義は何か。
それは、日本のみならず、これからの人類の幸せの為だ。
何故なら、西洋を中心とするキリスト教圏の諸民族が、キリスト教によって、太古の神話から切断されて豊かな民族の記憶を喪失したのに対し、我が日本は、キリスト教に征服されなかった唯一の文明国であり、太古からの民族の記憶(神話)を維持しているからだ。
さらに、この我が国の民族の記憶の中に、二十一世紀の西洋文明の落日の後に生きる人類の、普遍的で基本的で根源的な指針があるからだ。
フランスの社会人類学者クロード・レブィ=ストロースは言った。
「日本的特殊性なるものが、根源からあり、それが外部からの諸要素を精錬して、つねに独創的な何物かを創りあげてきたのだ。
われわれ西洋人にとっては、神話と歴史の間に、ポッカリと深淵が開いている。
日本の最大の魅力の一つは、これとは反対に、そこでは誰もが歴史とも神話とも密接な絆を
むすんでいられるという点にあるのだ。」(「日本論、月の裏側」)。
よって、以下、我が国の歴史と伝統から産み出された現に生きている「不文の憲法」について記したい。


◎憲法の存在の仕方

およそ、国家が存立している以上、国家の存立の基盤と、その基盤の上に立てられた基本的統治組織と、その活動の基本原則及び国民の権利と義務を定めた法が存在する。
この法が、国家の根本規範である。
そして、この根本規範を一定の手続きで紙に文字で書いたものを形式的意味の憲法つまり「成文憲法」と言い、紙に書かれていない根本規範を実質的意味の憲法あるいは「不文の憲法」と呼ぶ。
現在、イギリスやイスラエルやニュージーランドは「不文の憲法」の国である。
では、我が国は、「不文憲法」の国なのか「成文憲法」の国なのか。
明治二十二年二月十一日に公布され同二十三年十一月二十九日に施行された「大日本帝国憲法」が存在するから、我が国は「成文憲法」の国であるといえるかも知れない。

しかし、我が国は、大東亜戦争の敗戦によって昭和二十年九月二日から同二十七年四月二十七日迄、連合国(最高司令官ダグラス・マッカーサー)の軍事占領下におかれ、その間、「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は連合国最高司令官の制限の下に置かれる」(降伏文書)。
そのなかで、同二十一年十一月三日、憲法と題する文書が、大日本帝国憲法七十三条の改正手続きにより公布され、同二十二年五月三日に施行された。よって、大日本帝国憲法は同二十二年五月二日を以て機能を停止した。
しかしながら、私は、大日本帝国憲法の改正をしていない部分、即ち、国家緊急事態対処規範である「緊急勅令」と「戒厳令」の領域に関しては、大日本帝国憲法を、今も緊急時に機能させてしかるべきと考えている。
では、憲法と題する文書が、機能していることは事実であるが、それは果たして我が国の「憲法」なのか。
私の結論は、普遍的な学問の原則に従い、明確である。
即ち、「憲法」ではない。これが、答えだ。
かつて、韓国が、朝から晩まで「日韓併合条約は、無効である」と言い続けていたことがあった。
そこで、アメリカのハーバード大学で各国の国際法学者が、審査して、「有効」という結論を出した。
「日本国憲法」は有効か無効か。
同じようにすれば「無効」という結論がでる。
これが、学問だ。

しかしながら、我が国の憲法学者だけが、この「学問」をしない。
学生時代に同期の学者(大学教授)に質したら、答えは、メシのタネをなくすようなことはしない、だった。
日本国憲法は、日本の憲法ではなく、占領軍が書いた憲法と題する文書であり、占領軍の「日本占領統治基本法」として機能しているに過ぎない。
だから、先に憲法と題する文書を、我が国の歴史と伝統(不文の憲法)よりも墨守する我が国政府を、未だ連合軍の忠良な下僕と言ったのだ。
つまり、我が国を占領統治したアメリカは、占領状態が終了しても、我が国を被占領状態に固定するために日本占領統治基本法に「日本国憲法」という「題」をつけて残していったのだ。
従って、天皇の権威と軍隊は、未だ剥奪されたままだ。
その理由は、被占領国に軍隊は不用だと占領国が判断したからだ。
それを、被占領国民は、「平和のため」と思い込まされたが、とんでもない。却って平和は維持できない。
古代ローマ以来、世界は「平和を望むならば、闘いに備えよ」が鉄則である。
しかも、時、既に二十世紀に形成された世界秩序は、地殻変動を起こしており、中国共産党独裁国家は崩壊に向かい東アジアに動乱が迫っている。
もはや、占領統治基本法では、我が国の安泰を期しえない。


◎我が国は現在も不文の憲法の国

「日本国憲法」は憲法ではなく「大日本帝国憲法」は機能停止という事実と、冒頭に回顧した天変地異の中の我が国の姿と皇位継承に顕れた尊い宮中祭祀を総合すれば、現在の我が国は、イギリスと同じ「不文の憲法」の国と言える。
よって、次に、小森義峯氏の「日英両国における不文憲法の重要性」という論文(憲法論叢第10号)から多くの教えと示唆を受けたうえで、「不文の憲法」の意義と法源を簡潔に記す。
 
イギリスは、既に十八世紀中葉に世界唯一の「立憲国家」であったが、今に至るも「不文の憲法」の国で革命はなく古きよき伝統と文化を保持している。
これに対して十八世紀の末に絶対王制を革命で倒したフランスは、成文憲法を制定するが、以来、現行の第五共和制憲法(ド・ゴール憲法)に至る迄十五の成文憲法を作り続け、その度に、古きよき伝統と文化が損なわれた。
ドイツも、十九世紀半ばに成文憲法を制定するが、以後、成文の改廃を繰り返し、古きよき伝統と文化が損なわれてきた。
このイギリスとフランスとドイツの違いは、「不文の憲法」が、社会情勢や政治情勢の変化に柔軟に対応できるのに対し、紙に書かれて固定した「成文憲法」ではそれができなかったからだ。
つまり、変転する現実と紙に書かれてはいるが「死んだ法」との隔たりが大きくなる。
従って、「不文の憲法」では、「憲法違反」の問題が生じる余地がない。
即ち、「憲法違反」を武器にした政治闘争と政治的混乱は起こらない。
アメリカ流の違憲審査制度を導入している我が国の、憲法九条を巡る砂川訴訟や長沼ナイキ基地訴訟、政教分離を巡る津地鎮祭訴訟や愛媛県玉串訴訟などは、日本を、ソ連や中共の圏内に入れようとする明確な政治闘争であり、その闘争の有力な手段として「憲法条文」を利用したものだ。
従って、地裁、高裁、最高裁の各級裁判所の司法判断が「違憲」と「合憲」の目まぐるしく転変した。
これは、政治的にも社会的にも好ましいものではない。
しかし、日本共産化を目指す闘争からみれば有効であった。

そこで、以上の「不文の憲法」の利点を観たうえで、現在のイギリスの世襲によってエリザベス二世に至るウィリアム一世によるノルマン王朝創設(一〇六六年)よりも、一千六百年古い神武天皇と国の誕生から現在の百二十六代に及ぶ天皇を戴く我が国の歴史と伝統の底に存在する根本規範即ち國體法こそ、我が国の「不文の憲法」であると記したい。

その我が国の「不文の憲法」の法源は、
①記紀に記された神勅と詔書、
②聖徳太子の十七条憲法、
③昭和天皇に至る歴代天皇の重要な詔勅、
④大日本帝国憲法と旧皇室典範とその下の諸法令、
⑤現行の国会法、内閣法、裁判所法その他実質憲法的重要性を有する諸法律、である。

とりわけ、天照大御神の天壌無窮の神勅と神武天皇の橿原建都の令・八紘一宇の詔と聖徳太子の十七条憲法(六〇四年)は我が国の「不文の憲法」の中枢である。
これに対し、イギリスの「不文の憲法」の中核は、マグナ・カルタ(一二一五年)である。
マグナ・カルタは、封建貴族が専制君主であるジョン王に迫り、王権の行使に制限を加え、貴族の諸権利を再確認させた六十三箇条の特許状だ。
つまり、我が国の「不文の憲法」は神話から連続する「天皇のしらす国」の規範であり天皇と国民が一つの家族のようになることを統治の目的とする。
統治の形態を「王道」と「覇道」に分類すれば、我が国は、天皇が権力ではなく権威と精神的感化力によって統治する典型的な「王道」の憲法である。
これに対して、イギリスの「不文の憲法」は、その始まりが、王の専制を許さないために貴族の権利を確認する特許状であり権力による強制を統治の原則とする典型的な「覇道」の憲法である。
この統治の原理においては、「不文の憲法」の国イギリスも、「成文憲法」の国であるフランス、ドイツ、イタリア、アメリカ等々も同じだ。


最後に、アメリカ製「日本統治基本法」である「憲法と題する文書」(日本国憲法)の処理(廃棄)を如何にするか。

この課題に関しては、昭和二十三年六月十九日に、衆参各議院で行われた「教育勅語の無効決議」の先例に倣い、同文書五十六条の「各議院の総議員の三部の一以上の出席と出席議員の過半数による賛成」による「日本国憲法無効廃棄決議」により除去し、我が国は「日本統治基本法」の頸城から脱却し、本来の「不文の憲法」に回帰する。
これが、即ち、日本を取り戻すことだ。
そして、この「不文の憲法」に掲げられた我が国の神武天皇の創業以来の理想「八紘一宇」!
即ち、「地球は一つの家で、人類は一つの家族」!これこそ、二十一世紀の人類の未来を明るくする理念ではないか!