大道無門(だいどうむもん)とは、中国は宋の時代の無門慧開(むもん・えかい)という禅僧が残した『無門関』の中の、「大道無門、千差路有り。此の関を透得せば、乾坤(けんこん)に独歩せん」という禅問答から由来しています。
知られている大まかな意味としては、大きな道路には門がない。転じて、ふところが大きく何でも受け入れる心の大きいことのたとえ、と訳されます。
または、大いなる道に入る門は無いけれども、その門はまたどの路にも通じており、この無門の関をつらぬいて大道に至ったならば、その人は大手をふって天地陰陽を歩くことができるであろう、という深い意味にも訳されます。
漢字一文字一文字が意味を蓄え、伝承されていくうちに感情を持ち、意味を深め、さらに合わせられ、継承されていきます。そして、たった四文字の言葉からさまざまな意味や理解が生まれてきます。無門が示した大道とは、はたしてどんな道だったのでしょうか?
大きな道、大いなる道は、誰もが歩きたいと思う道です。
ですが、支流を歩くわれわれには、終ぞ届かぬ永遠の道にも思えます。この大道にたどりつくためには、まず、自分が背負っている過去からの荷物や未来への重責をすべて取り払う必要があります。
われわれが歩く道は小さく狭いからです。もちろん、怒り、妬み、争い、不安なども私たちが、知らぬうちに背負っている重たい荷物です。
これらの荷物をいかに手放し、自然な状態を取り戻すこと、これが大道に至る道です。
正しい道には閉ざされる門がないのです。誰もに平等に扉は開いています。道を狭くし、門を閉じているのは、実は自分自身なのだと気づくことが必要です。
どんな人にでもその人にぴったりの門があり、その人が大道に向かう道につながっています。
大切なのは、自分のペースで歩き、自分の門を探し、そして開いてみることです。
「千差路(みち)有り 此の関を透得(とうとく)せば 乾坤(けんこん)に独歩せん」
真理の世界、悟りの世界に到るには、どの道を択び、どこから入ればよいかなどと云うこだわりは不要である。
禅の悟りには直指人心、見性成仏といい文字や言葉によらずに、その本質である仏性を直視してつかむことだと教える。
経典には八万四千といい千言万言を費やしてお釈迦さまの言葉が記されている。
しかしそれらが果たしてお釈迦さまの心そのものを伝えているものだろうか。
本当の仏の心は経典ではなく、経典は人々を教化する方便であるとするのが禅宗の立場である。したがって、仏の説かれた経典、経文にとらわれず、それらの言葉を説かれた仏の心、その肚(はら)をずばりとつかむことが何より大切だとしている。月はあそこだと指す指ばかりを見ていたら月は見ることはできない。
薬の効能書きだけでは効き目はない。修行の実践弁道による悟りの境地を得ることこそ大事なのである。
真理(さとり)に到る大道とは仏道の道に即して生きることであり、行住坐臥の日常の生活の中に大道はあるのだ。そこには特定の道があるわけではなし、決まった入り口あるわけではない。
あるとせば、めざす無門の法門であり、千差万別それぞれの仏道があるのだ。まさに大道は長安に透るという如く、しっかりと目標を定めて足元の修行が肝心であることは言うまでもない。
ところが、また千差路有りと云い無門と云いながら安易に無門を透過できるものではないと無門和尚はここで関所を構えたのだ。大道無門と云うことは、入るべき入り口がないということでもある。無門はそのまま堅牢難関の関所であり、ただでは透さない無門関だったのだ。にわか作りの関所手形、偽物手形ではどっこい通さぬぞと再修行をせまる。不惜身命修行して仏意にかなう手形を得てはじめて透過できる門である。この無門の関さえ透過すれば、縛られる何も
なく天地にあって自由自在な境涯の働きが出来るというものである。
これは修行者に示した言葉であるが、誰でも人生の道はひとつではなく千差路有りで、どの路を行くもしっかりと目標を定め、足元の実践を確かなものにしていきたいものである。この大道無門は真実の自己、本当の自分に目覚めて言える言葉であるが、その無門の絶対自由の世界を目指す努力精進こそ尊いのである。