◎杉本五郎中佐にみる国体認識と彼の生き方
戦前・戦中には杉本中佐のことは誰でも知っているような有名な人であったようだ。というのは、彼が息子たちに書いた遺言をまとめて本にした『大義』が、延べ130万冊売れるようなベストセラーになったからである。
杉本は昭和12(1937)年9月に支那事変の戦闘で戦死している。弁慶ではないが、立ったまま往生を遂げている。敵の手榴弾を浴びて倒れた杉本中佐は、軍刀を杖にして、立ち上がり、号令をかけ、倒れることもなく遙か皇居の方向に正対、挙手敬礼をして絶命したという。
杉本の国体論は当時の国体論のなかでも極右のものである。国体論に共通することは万世一系の天皇を中心とする考えであるが、杉本の天皇観は以下のようになる。
「万物を創造したる創造主の神。天皇は絶対であり、諸道、諸学全て天皇に帰する。小さい虫からそよかぜまでの森羅万象は、天皇の心の現れである。だから世界は天皇の所有物である。釈迦、イエス、孔子の信仰は邪道にして、武士道でさえ、藩主に対する忠誠に留まるなら邪道になる。君子への忠誠まで昇華しなければ、本物の武士道とはならない。全て天皇に帰するのが聖道。天皇の前には己を無にし、天皇のために命を捧げることが大事である」。
杉本の国体論での天皇は一神教の神と同じである。狂信的で古来からある天皇信仰とは違う異質のものである。
ところが、このような天皇信仰、国体論がもてはやされ、杉本の本が130万冊も売れた現実を直視しなければならない。ただ単なる軍国主義と片付けてしまうと、当時の人々の心が浮かんでこない。
【緒言】
私の子、孫たちに、根本とすべき大道を直接指導する。
名利など、なにするものぞ。
地位が、なんだというのか。
断じて名聞名利のやからとなるな。
武士道は、我が身を犠牲にする心(義)より大きなものはない。
その義の、もっとも大事なものは、君臣の道である。
出処進退のすべては、もっとも大きな大義(君臣の道)を根本としなさい。
大義を胸に抱かないなら、我が子、我が孫と名乗ることを許さない。
たとえ貧乏のどん底暮らしとなったとしても、ただひとえに大義を根幹とする心こそが、私の子孫の根底である。
(原文)吾児孫の以て依るべき大道を直指す。名利何んするものぞ、地位何物ぞ、断じて名聞利慾の奴となる勿れ。
士道、義より大なるはなく、義は君臣を以て最大となす。出処進退総べて大義を本とせよ。大義を以て胸間に掛在せずんば、児孫と称することを許さず。一把茅底折脚鐺内に野菜根を煮て喫して日を過すとも、専一に大義を究明する底は、吾と相見報恩底の児孫なり。孝たらんとせば、大義に透徹せよ。
第二章 道
天皇の大御心に然うように、「自分」を捨て去って行動することが、日本人の道徳というものです。
では、天皇の御意志・大御心とはどういうものなのでしょうか。
その答えは、御歴代皇祖皇宗の御詔勅にあります。
その詔勅のすべてが、大御心の発露となっています。
わけても明治天皇の教育勅語は、最も明白に示された大御心の代表的なるものと拝します。
いいかえると、天皇の御意志は、教育勅語に直接明確に示されている。
ですから私たちは、教育勅語の御精神に合うように「自分」を捨てて行動すること。
それが、日本人の道徳観です。
その教育勅語の根本にある精神は、個人の道徳観の完成にあるのではありません。
天壌無窮の皇運扶翼にあります。
天皇の御守護のために、老若男女、貴賤貧富にかかわらず、ひとしく馳せ参じ、死ぬことさえもいとわないこと、これが日本人の道徳の完成した姿です。
つまりそれは、天皇の御為めに死ぬことです。
このことを言い換えると、天皇の御前に、「自分」とか「自己」とか「私」とかは「無い」という自覚です。
何も無いということは、億兆とその心は一体であるということです(「無」なるが故に億兆は一体なり)。
私たちは、天皇と同心一体であることによって、私たちの日々の生活行為は、ことごとく皇作、皇業となります。これが、日本人の道徳生活です。
つまり、日本人の道徳生活必須先決の条件は、「自分というものを捨て去ること」、すなわち、「無」なりの自覚に到達することです。
(原文)天皇の大御心に合ふ如く、「私」を去りて行為する、是れ日本人の道徳なり。天皇の御意志・大御心とは如何なるものなりや。御歴代皇祖皇宗の御詔勅、皆これ大御心の発露に外ならず。別けて明治天皇の教育勅語は、最も明白に示されたる大御心の代表的なるものと拝察し奉る。換言すれば、天皇の御意志は教育勅語に直截簡明に示されある故に、教育勅語の御精神に合う如く「私」を去りて行為すること、即ち日本人の道徳なり。而してこの御勅語の大精神は「天壌無窮ノ皇運扶翼」にして、個人道徳の完成に非ず。天皇の御守護には、老若男女を問はず、貴賤貧富に拘らず、斉しく馳せ参じ、以て死を鴻毛の軽きに比すること、是れ即ち日本人道徳完成の道なり。天皇の御為めに死すること、是れ即ち道徳完成なり。此の理を換言すれば、天皇の御前には自己は「無」なりとの自覚なり。「無」なるが故に億兆は一体なり。天皇と同心一体なるが故に、吾々の日々の生活行為は悉く皇作皇業となる。是れ日本人の道徳生活なり。而して日本人の道徳生活必須先決の条件は、「無」なりの自覚に到達することなり。