龍の声

龍の声は、天の声

「老子道徳経①」

2019-03-26 05:46:14 | 日本

1章
道と示すことができる道は道ではなく、名と示すことのできる名は名ではない。無名は天地の始まりであり、有名は万物が生まれる母体である。
故に無欲であれば微妙なるところを認識できるが、欲望にとらわれるなら末端現象を見るに止まるであろう。この両者は、根本は同じであるが名は違う呼び方になる。根本の同じところを玄(奥深い深淵)と名づけ、そこから諸々の素晴しい働きをもつものが生まれるのである。

2章
世間皆、美しいモノを美しいモノとしてとらえるが、それは醜いモノで、世間皆、善いモノを善いモノとしてとらえるが、それは善くないモノである。有る無し、難しい易しい、長い短い、高い低いというものは、互いに相手が存在するからこそ差が生まれるのだ。音色と肉声は、互いに相手があるからこそ調和しあい、前と後は、互いの存在によって順序づけられる。
聖人はこれをわきまえ、無為の立場に身をおき、不言の教えを行うのだ。
万物に動きがあってもそれについて発言せず、物を生み出してもそれを生み出したものとせず、成功してもそれに頼ることはない。功を成してもそれに居座らないのだ。居座らないからこそ、離れることもないのである。

3章
優れた者を大事にしなければ、民は争わない。入手困難な珍品を貴重としなければ、民は盗みをしなくなる。欲を刺激するものを見せなければ、民は心を乱さない。
聖人はこれをわきまえ、人を治めるときには、心を空にさせ、その腹のほうを満たし、望みを弱め、その骨のほうを強くする。民を無知無欲の状態にして、知者がたぶらかそうとしても無効とするのだ。
このように無為(特別なことをしない自然な行動)をとれば、物事は上手く治まるのである。

4章
道は空っぽであるが、その働きは無尽であり、満ちることが無い。底なしの深淵のように深く、それは万物の根源であるらしい。
そしてそれは、全ての鋭さをくじき、紛れを解き、輝きを和らげ、全てのチリと同化する(和光同塵)。たたえられた水のように奥深くて、どうやら何かが存在しているらしい。私はそれが何であるかはわからないが、万物を生み出した天帝のさらに祖先であるようだ。

5章
天地の働きに仁はなく、物事を芻狗のようにいとも簡単に扱う。聖人の行動も仁があるわけではなく、人民を芻狗のようにいとも簡単に統べる。
天と地の間にあるこの世は、例えるなら風を送る吹子のようなものであろう。空っぽでありながら、生まれ出て尽きることなく、動けば動くほど生まれ出る。
多言はたびたび困窮するから、空の状態を守るに越したことはないであろう。
※芻狗・すうく=祭礼に用いられるワラ製の犬人形。祭礼が終わると廃棄処分される。

6章
谷の神は滅びず、それはいわゆる玄牝(神秘なる産みの働き)である。神秘なる産みの働きをこなす門、これはいわゆる天地の根源である。永遠に若々しく存在するようであり、その働きは尽きない。

7章
天は長久、地は久遠。天地が永久の存在である所以は、自ら存続しようとしないからこそ、長く存在することができるのである。
聖人はこれをわきまえ、わが身を後ろに置きながら先んじ、外に身を置きながらも存続する。それは欲を持たず無心であるからではなかろうか、だからこそ己を貫けるのであろう。

8章
上善とは水のようなものである(上善水のごとし)。水は万物の助けとなり、争うことが無い。多くのものが蔑み避ける位置に止まっている。これは道の働きに近いといえよう。
住むには地面の上がよく、心は深いほうがよく、仁は与えるほうがよく、言葉は信義を守るがよく、政事は治まるほうがよく、事は有能なのがよく、動くは時世のるのがよい。このように争わないからこそ間違いも起こらないのである。

9章
器を満たし続けようとするのはやめたほうがよい。鋭利に鍛えたものも長くは維持できない。金宝が家中に満ちている状態はとても維持し続けられない。富み驕れると、自らを滅ぼすことになる。
事を成し遂げたら、身を退く。それが天の道というものである。

10章
さまよう肉体をおちつけ道を守り、それから離れないでいられようか。気を集中して柔軟に行い、赤子のようになれようか。神秘なる心の鏡を清め、落ち度のないようにできようか。民を愛し国を治め、それで能無しのようにできようか。万物が出でる門が開閉するとき、静かでいられようか。隅々まではっきり解っていて、それで何事もせずにいられようか。
ものを生み、ものを養い、生み出してそれを生み出したものとせず、事を成してもそれに頼らず、長となってもしきらない。これを玄徳(奥深い徳)という。

11章
車輪は30もの棒が中央に向かい、中央がそれを支えることで出来ている。しかし、中央になにもない穴があってこそ車輪として機能する。土をこね固め、それで器は出来ている。しかし、器の中心が何も無いくぼみであってこそ器として機能する。戸や窓に穴を開けて家は出来る。しかし、家の中が何も無い空間であってこそ家として機能するのだ。
このように存在して利を為すのは、そこに空の働きが機能しているからなのである。

12章
五色をまじえ込み入った装飾は目をくらませる。五音をまじえ込み入った音楽は耳を痛める。五味をまじえ込み入った料理は味覚をそこなう。乗馬狩猟の歓楽は人の心を狂わせる。入手難の珍品は人の行いを誤らせる。
これをわきまえた聖人は、腹を満たすことにつとめ、目(感覚)を満たすことはしない。外にあるものは棄て内にあるものを取るのだ。

13章
寵愛か屈辱かでビクビクしている、それは大きな害となるものを、わが身のように貴重とするからだ。
寵愛か屈辱かでビクビクするというのは何であるか。それは寵愛を上と考え、屈辱を下と考えて、上手くいくかとビクビクし、失敗するかとビクビクする。これが寵愛か屈辱かでビクビクするという事であろう。
大きな害となるようなものをわが身のように貴重とするというのは何であるか。それは大きな害となるのは、自分に身体があるからである。自分に身体がなければ心配するようなことがあろうか。
このように天下を治めようとするよりも、わが身を大切にする者にこそ天下を託すことが出来る。天下を治めようとするよりも、わが身を愛する者にこそ天下をあずけることが出来るのだ。

14章
見ようとしても見えない、それを夷(形の無いもの)と名づける。聞こうとしても聞こえない、それを希(音の無いもの)と名づける。探してもとらえられない、それを微(微妙なるもの)と名づける。この三者はつきとめることができない。これらはもともと、混じり合って一つなのだ。
その存在の上だから明るいわけでなく、その存在の下だから暗いわけではない。おぼろげな存在で明確にできず、結局は無の物へと戻り帰るのだ。これを状態無き状態、形無き形といい、おぼろげなものと呼ぶ。
迎え見ても先頭が見えず、追い見ても後姿が見えない。古来の道を行い、それをもって今の物事を仕切れば、おおもとの始源を知ることができよう。これを道の紀元という。

15章
古来の道をなす者は、微妙なる働きの事に通じており、その深さはとてもはかり知ることができない。はかり知ることはできないが、強いてその姿をあらわすことにしよう。
冬の川を渡るようにためらい、あらゆる方向からの危険を恐れるようにグズグズし、姿勢を正した客のように厳粛で、氷がとけるように素直で、荒削りの木のように純朴で、谷のように深く、濁っているように混沌としている。
濁っていながら静かで徐々に清らかになるという事が誰にできようか。安定していながら動いて生み出していくという事が誰にできようか。道を守り行うものは、なにかで満ちることは望まない。満ちようとしないからこそ、失敗したとしてもまた新たになることができるのだ。

16章
空虚となることを極め、静けさを篤く守る。そうすると万物はすべて成長していくが、私はそれらがまたもとに戻る様子が見える。
物は盛んに茂っていくが、やがてはそれぞれの根に帰っていくものだ。根に帰るというのは静寂に入ることといい、それは本来の運命にもどることという。運命にもどるというのは常道といい、常道をわきまえている明智と呼ぶが、常道を知らないと、的外れの行いをしでかし悪い結果におちいる。
常道をわきまえていればいかなることも包容できる。いかなることをも包容できればそれは偏りなき公平であり、公平であればそれは王者の徳であり、王者の徳であればそれは天の働きであり、天の働きであればそれは道に通じ、道に通じていればそれは永久である。こうなれば生涯を通じて危機に陥ることは無いであろう。

17章
最上の者は、下々の者からその存在のみ把握されるだけである。その次は、親しまれ称えられるものである。その次は、恐れられるものである。その次は、侮られるものである。
誠実さが不足していると、信用されなくなるものだ。ゆったり構え発言を慎重にしていれば、それで事を成し遂げられ、民は皆、我々の行いで自然に成し遂げたというであろう。

18章
道が廃れて仁義が始まり、知恵が現れ偽りごとが起きた。親族が不和となり、慈愛と孝行が必要になった。国家が乱れ混濁し、忠臣があらわれた。

19章
聖を絶ち智を棄てれば、民の利益は百倍にもなろう。仁を絶ち義を棄てれば、民は孝行と慈愛をとりもどすであろう。巧みを絶ち利を棄てれば、盗賊はいなくなるであろう。
この三つの言葉ではまだ説明が足りないので、そこでさらに付け加えておくことにする。素をあらわにし純朴さを守り、利己心を抑え欲を減らし、学を絶ち憂いを無くす。