龍の声

龍の声は、天の声

「老子道徳経⑤」

2019-03-30 06:03:15 | 日本

64章
安定のうちは維持し易く、未だ兆しの無いうちは謀り易い。脆いうちは溶かし易く、微かなうちは散らせ易い。まだ事なきうちに行い、乱れなきうちに治める。両手で抱くほどの木も、微小な存在から始まり、九層の台も、些細な土の積み重ねから始まり、千里の行も、一歩から始まる。為す者はこれをやぶり、行う者はこれを失うことになる。聖人はこれをわきまえ、無為でいてやぶらず、無執でいて失わないのである。
民は事に従うとき、常に完成の手前でこれをやぶる。初心の如く終始慎めば、事をやぶることは無い。聖人は不欲を欲し、得難き品を貴重としない。不学を学び、大衆の過ぎたる所をもどす。このように万物の自然を助け、敢えて為さないのである。

65章
いにしえの善く道を行う者は、それで民を明るくしたのではなく、それで愚かにしたのである。民が治め難いのは、智が多いからである。だから、智を以って国を治めるのは、国を害することである。智で国を治めないことが、国の幸いである。この両者を理解することは、法則の理解である。常に法則をわきまえること、これを玄徳、不思議な能力という。玄徳は深く、果てしない。万物と共に返りくる。そして然る後偉大なる順応へと行きつくのだ。

66章
湖や海、江海が百谷の王と言われる所以は、それがよく低いところにあって、それで百谷の王となっているのである。民の上に立つことを欲すなら、必ず言葉を慎み、民の先頭に立ちたいと欲すなら、必ず身を後ろに置くことだ。
聖人は、上に立っても民は重みを感じず、前に立っても民は害を感じない。だから天下が喜んで推すことを厭わないのだ。争うことがないのだから、天下でこれと争えるものが存在しないのである。

67章
天下皆、私のことを愚かなようだと言う。そもそも大きいからこそ、愚かに見えるのだ。もし愚かならば、すでに小さな人物となっていただろう。私には三つの宝があり、それを保持している。一に慈しみ、二に慎ましさ、三に敢えて天下に先んじない行いである。
慈しみを持っているからこそ勇ましく、慎ましさを持っているからからこそ広く、天下に先んじないからこそ指揮者となれる。いま慈しまずに勇ましくなろうとし、慎まずに広がろうとし、後ろに居ずして先んずるならば、死ぬ。
そもそも慈しみがあれば戦いに勝ち、それにより守れば固い。天を救わんとして、慈しみによって守られるのである。

68章
善の士は武ならず。善く戦う者は怒らず。善く敵に勝つ者は争わず。善く人を用いる者は下る。これを不争の徳といい、これを用人の力といい、これは配天ともいわれる。古の法則である。
※配天・ハイテン=配は合の意で、天道に合うと読むという。《詩経》《荘子》にも登場

69章
用兵についての言葉がある「こちらは敢えて主とならずに客(迎戦)となり、敢えて少しも進まずに大きく退くべし」これは行うに行う所無く、袖をまくるに腕無く、執るに兵無く、引くに敵が無い状態である。
禍は敵を軽んずることが大である。敵を軽んじれば私の宝をほとんど失う。だから敵と対して互角ならば、哀しむものが勝つのだ。

70章
私の言は甚だわかり易く、甚だ行い易い。しかし天下に理解できるもの無く、行えるものが無い。言には本源があり、事物には要点がある。これを理解しないから、私を知ることが出来ないのだ。私を知るものが稀なのは、つまり私が貴い存在なのだ。聖人は粗末な服をまといつつ、珠を抱いているのである。

71章
知っていながら知らないとするのは上である。知らないながら知るとするのは短所である。聖人に短所がないのは、その短所を短所として認識するからであり、だからこそ短所がないのである。

72章
民が威を恐れないようになると、大いなる圧力がかかる。しかしその居の存在を狭めること無く、その生の存在を圧しないことだ。そもそも圧迫しないからこそ、圧迫もされないのだ。これにより聖人は、自らを知りつつ自らを明らかにせず、自らを愛しながら自ら貴としない。だから表す事を棄てこれを取るのだ。

73章
勇敢であれば殺され、勇敢でなければ活きる。この両者、利があるか害があるかで決められる。天に目をつけられたとなると、その理由は誰にも判らなくなる。天の道は、争わずに善く勝ち、言わずして善く応え、招かずして自ずから来させ、ゆったりしながら善く謀る。天網は細かく広く、目こぼしはない。

74章
民が死を恐れなければ、死による脅しができようか。もし民が常に死を恐れるならば、秩序を乱す者があって、私はそれを捕捉し殺すことができる。しかし敢えてできようか。常に刑を司る者が殺すのである。そもそも刑を司る者に代わり殺すのは、大工に代わって削ることである。そもそも大工に代わって削る者は、手を傷つけずに行うことはまずできないであろう。

75章
民が飢えるのは、上が税を多く搾取するからであり、これにより飢える。民が治め難くなるのは、上が干渉するからであり、これにより治め難い。民が死を厭わないのは、上が生を求めることに熱心だからであり、これにより死を厭わない。そもそも生に執着しない者こそ、生を貴ぶものよりまさるのだ。

76章
人の生まれたときは柔く弱いが、死ぬときは堅く強いてしまう。万物は草木のように柔く脆いが、その死の時は枯れる。だから堅強の者は死の徒であり、柔弱の者は生の徒である。これにより強兵は勝たず、堅い木は折れる。強大なものは下位にあり、柔弱なものは上位にある。
※木強則折=木強則共、木強則兵とも

77章
天の道は、弓を張る様に似ている。上部を抑え、下部を引上げて、余りがあれば減らし、不足があれば補う。
天の道は、余りがあれば減らし不足ならば補う。しかし人の道はそうではない。不足なものを減らし余りあるところに献上する。余っていながら天下に献上できるものはいるだろうか。それは道をわきまえる者のみだ。これにより聖人は、成しても頼らず、功があっても居座らない。それは賢をあらわす事を欲しないからである。

78章
天下に水より柔弱なものはない。またそれでいて堅強に攻めることができ、これに勝るものはない。それをかえる存在が無いからである。弱いものが強いものに勝ち、柔は強に勝るのは、天下だれもが知らぬものはないが、行うものもない。聖人はいう「国の垢を受けるもの、これを社稷の主といい、国の災いを受けるもの、これを天下の王という」正言は反するが如しである。
※社稷・シャショク=社は土地の神、稷は穀物の神で、これを祭る行事が国の大事だったので、国を指す言葉になったという

79章
大いなる怨みを和らげると、必ず怨みは残る。なぜにそれを善しといえようか。聖人は左契をとり、人を責める事はしない。有徳は契を司る者で、無徳は徹を司る者。天道には情けは無く、常に善の味方である。
※契=契約に用いる手形、割符。※左契=割符の左側。左の請求で、右が契約に応じるが、請求権は右という。※徹=周王朝の税法。とても軽い税という。《孟子》に登場

80章
小規模国家の民。什伯の器はあっても使わせないようし、民が死を重く感じ遠方に移ることがないようになれば、舟や車があっても乗ることが無く、甲冑武器があってもそれを見せる場も無くなるだろう。
民が復古し、縄を結い文字とし、食を美味いとし、服を美しいとし、住居で安んじ、暮らしを楽しめば、隣国を向こうに見て、鶏や犬の鳴き声が聞こえてきながら、民は老衰に至るまで、互いに往来することはないであろう。
※什伯の器=十百の器で諸々の道具。十百の有能な人材。十百の武器。など

81章
信言は不美で、美言は不信である。善者は不弁で、弁者が不善である。知者は不博で、博者は不知である。聖人は積まない。ことごとく人の為にし、己はますます有する。ことごとく人に与えながら、己はますます多くする。天の道は、利して害せず。聖人の道は、為して争わず。

以上


<了>