龍の声

龍の声は、天の声

「忠恕の心を育てる」

2019-03-12 07:00:30 | 日本

忠恕(ちゅうじょ)とは、真心と思いやりがあること、忠実で同情心が厚いこと。
中庸にも「忠恕違レ道不レ遠人」(忠恕は道を違(さ)ること遠からず)とある。
真心を尽くして思いやることは、人の道を遠く離れているものではない。忠恕が人の践(ふ)み行うべき道として、誠に身近で実践しやすい方法であることを説いている。

1.人権擁護とか人権侵害という言葉があるが、巷の人たちが、これらを知ったような、立派なことを言っている。あるいは、ご立派そうな大学の先生様たちが、これらについて物知り顔で、いろいろ説明してくれたりする。そうしたことを聞いた人が、皆、うん、うんと頷き、さもえらくなった風で、十代前後の子どもたちや青年たちに、再び、受け売りで教えている。青年たちは、さも知ったような顔をして、また他人(ひと)に言い、親に言う。
しかし、日常の生活のなかで、どこからどこまでが人権侵害なのか、またそうでないのか、誰が知っているのだろうか。時には、お前は人権侵害をしたとののしられる者がいる。ののしる者が多くなれば、その者たちの言うことが正しくなる。知ったような言葉を使って、知ったようになってはいけない。

人間には、誰しも、見るに忍びない、するに忍びない、という思いやりの心があるのだ。それは、忠恕(ちゅうじょ)の心と言われる。その心が治国の根本であるとも言われる。忠恕の心は、人にあるとはいえ、それは種としてあるに過ぎない。その種を腐らさぬようにし、また、種のままでおわらさぬよう、育てなければならない。人権教育と言うが、日々の暮らしの中で大切に育てなければならないのは、この、人を思いやる心なのだ。何が人権の侵害にあたるかは、暮らしの場とは異なる、法廷の場で、明らかにされるべきものにすぎない。


2.貝塚茂樹氏によると、忠とは「自己の良心に忠実なこと」、つまり「まごころ」です。そして、恕とは「他人の身になってみて考える知的な同情」、つまり「思いやり」です。そこで、「忠恕」とは「まごころと思いやり」ということになります。
孔子の教えは仁、礼、徳、信、孝悌など様々なキーワードで展開されています。そして、論語は大部の書物であり、孔子はありとあらゆる方法で道を説いています。時には、儀式の進め方や喪の服し方について、細かに述べたりもしています。ですが、その全ての根本にあるのが、まごころと思いやりだと断言しているのです。これがなければ、孔子の壮大な大系も無に帰するのです。つまり、ここで、孔子は人間にとって一番大切なのはまごころと思いやりだとはっきり断言しているわけです。

「のみ」という強い断定が、それを表していると思います。まごころと思いやりがなければ、儀式を正しい手順で進めても意味はありません。まごころと思いやりがなければ、表面上は正しい喪の服し方をしていてもむなしいものです。このことは、孔子が生きた2500年前も21世紀の現代も変わらないはずです。また、孔子は主に政治家の在り方について話しているのですが、子供の教育についても完全に当てはまります。親や教師はいろいろなことを子供に教えます。
躾をし、勉強を教えます。基本的生活習慣を身に付けさせ、健康な生活の仕方を教え、人間関係の作り方を教えます。国語で文字の読み書きを教え、算数で計算のやり方を教え、図工で絵の描き方を教え、体育で運動の仕方を教えています。しかし、その根本にまごころと思いやりを教えなければ、全てはむなしいものになってしまいます。躾がきちんとされていても、ずるい人間ではどうしようもありません。勉強だけできても、人を思いやれないような人間ではどうしようもありません。そして、一番大切なまごころと思いやりを教えるためには、教える本人がそうでなければなりません。教える本人が、身を以て手本を示さなければなりません。権力的立場にあぐらをかき、上から目線で子どもを叱り続けるような親や先生は、子どもにまごころと思いやりを教えることはできません。

ですから、この言葉は、教え手である私たちがいつも念頭に置くべき言葉なのです。
親や教師が、常に己に投げかけるべき言葉なのです。
「夫子(ふうし)の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ」
そうです。
一番大切なのは、まごころと思いやりです。まず、私たちがそうでなければなりません。これを以て、子供たちに相対しましょう。