5月16日(火)晴 気温13-26℃ 湿度40-70% 風速1-2m/s
通船開始準備と曳舟
通船のための準備がいつから行われたのか、不明ですが、幕末に実施寸前まで詰められていただけに、関係者の動きは早かった。
通船のための準備がいつから行われたのか、不明ですが、幕末に実施寸前まで詰められていただけに、関係者の動きは早かった。
明治2年9月「玉川上水船筏通行願」提出
明治2年(1869年)10月上水両縁の切り広げ工事調査
明治3年(1870年)3月22日、舟溜の設置許可、という早い経過が伺える。
下り(羽村から四谷大木戸)は、上水の自然水流を利用、登り(四谷大木戸から羽村)は、二人の船子が舟に綱を付けて上水の両縁の堤の上から引っ張る「曳舟」で行われました。
明治2年(1869年)10月上水両縁の切り広げ工事調査
明治3年(1870年)3月22日、舟溜の設置許可、という早い経過が伺える。
下り(羽村から四谷大木戸)は、上水の自然水流を利用、登り(四谷大木戸から羽村)は、二人の船子が舟に綱を付けて上水の両縁の堤の上から引っ張る「曳舟」で行われました。
この参考となったのが、本所上水(亀有上水とも呼ぶ)であったと思われる。
江戸市中の人口増加に伴い作られた玉川上水が完成した6年後、本所上水が万治2年(1659年)に開鑿されました。全長は約23㎞あり、この下流が後の「曳舟川」になります。
「曳舟川」と呼ばれるようになったのは、亀有村(葛飾区) から小梅村の間を、農作物の輸送舟や、観光目的に物見遊山の旅人が4~5人ほど乗れる「サッパコ」と呼ばれる小舟の先端に綱を付け、その綱の他方に輪を作り人が肩に掛けて、土手を歩いて舟を引いたことに由来します。
この上水は60年ほど使用され1722(享保7)年に廃止されました。水源との高低差がないために水量が不足したり、度々の水害に見舞われ上水が汚れたりして使われにくくなったためです。更に本所地区には徐々に井戸も作られましたこと、など上げられる。