5月1日(月)曇、晴 気温14-21℃ 湿度45-75% 風速1-3m/s
通船の歴史について
慶応4年(1868年)、明治維新により江戸は東京に変わりましたが、玉川上水は依然江戸時代のままでした。
江戸時代から運輸の中心は舟運でした。人馬に比べれば船の輸送力は圧倒的で、江戸時代にも地元の有力者から何度か玉川上水の通船願いが出されましたが、上水の水質悪化に配慮した幕府が許しませんでした。ところが、維新の混乱期に新政府が許可を出しました。
江戸時代から運輸の中心は舟運でした。人馬に比べれば船の輸送力は圧倒的で、江戸時代にも地元の有力者から何度か玉川上水の通船願いが出されましたが、上水の水質悪化に配慮した幕府が許しませんでした。ところが、維新の混乱期に新政府が許可を出しました。
玉川上水の通船の動きは、村の名主や有力者が中心となって、元文二年(1737年)から始まり、明治3(1870)年4月、羽村から内藤新宿まで玉川上水を船が往来し、大変な繁盛だったとの記録があります。毎年通船願いを出して、133年目にその願いが叶いました。
しかし、その願いも、水質の悪化は避けられず、明治5(1872)年5月、わずか2年で通船は廃止されました。
明治に入り、欧米から新技術が次々と導入されましたが、しばしばコレラが大流行しました。
水質の悪化が問題となり、明治5年(1872年)5月30日、通船禁止となりました。一方では、荷馬車事業者の政治的圧力があったともいわれている。
玉川上水の水質が良くても、末端の木樋等に汚水が流入してしまい、浄水場で原水を沈殿、ろ過など、近代水道の建設が急務となりました。
船の大きさは、長さ6間(約10.8m)幅5尺(1.5m)で馬1頭の約10倍の(1,350K)gを運べたようです。小平市の資料によると2トンの積み荷ができたとしている。
船は約104隻、船頭は600-700人となっていました。
船は、下りは3人で操り、日中に羽村から四谷大木戸まで砂利、野菜、炭、まき、茶、たばこ、ぶどうなどの産物を運びました。
上りは、米、塩、魚類などの生活物資を積んで、船子9人ほどで上水の両側の堤の上から綱で引張り3日かけて上ったといわれています。それでも、荷馬車などより輸送費は安かったそうです。