石井良司  

       気の向くままに、出来事や感想を書いています   
    

牟礼分水口

2023年04月28日 | 日記
4月28日(金)晴 気温12-23℃ 湿度50-65% 風速1-3m/s
      
                牟礼分水口下流の緑道
牟礼分水口の構造は、差蓋を支える主柱(2本)が立ち、その上部に笠木が乗っている。差蓋の引き棒は、笠木の中央部がくり抜かれているため、そこから上部に出されています。 
分水口の形状は、玉川上水路の土手を切り込んで垂直に立てるものが多いため土圧や土砂の崩落を防ぐため、主柱と厚板貼りの水門で差蓋を支える形状が考え出されたものといえます。
主柱(2本)と一体化している水門とそれらを保護する護岸で成り立っている。
牟礼の高橋家に残る牟礼分水に関する文書は、この地域に暮らしていた人々が分水をいかに大切にしていたかが分かります。
当然のことながら、玉川上水から水を取り入れるために 創られた堰、樋や分水口等は木製だったので、腐ったり損傷したりするたびに取り換えていたようです。 
高橋家の当主三郎兵衛の名が記された嘉永7年(1854)の願書には 、『元杉之通り伏替仕度、別紙絵図面取添奉願上候』とあり、正確に測り図面を引き、説明文書が一対になっているようです。
公文書ですので、この当時から2部ずつ図面・説明文を作成し提出書類とは別に一部保管していました。
さらに一度の願書で許可されることが少なかったので、 同じ書類を何度も提出していたようです。


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市内には2つの分水口

2023年04月27日 | 日記
4月27日(木)晴 気温12-22℃ 湿度40-60% 風速1-3m/s
 
   面影が残る 品川用水跡         と        牟礼用水跡
三鷹市内の玉川上水の延長距離は、約5.1㎞です。
三鷹市内には、2つ分水口がありました。
分水口に関する古文書『上水記』のによると、拝島の玉川清右衛門掛の節から大木戸の近くのまで、分水口は、合計で33か所が願済(許可)されていた。
三鷹市内を通る品川用は水寛文9年(1669年)、無(牟)礼村分水口は延亨2年(1745年) にそれぞれ願済されていました。

品川用水(1662年)は、玉川上水から分水し、三鷹地域の中央部をほぼ南北に流れ、細川家の品川宿村まで引水しました。
品川用水の水利用を巡り昭和22年流域沿いの三鷹町と神代村より、品川用水利用組合に対して水利権譲渡を行い昭和27年に「三鷹用水」となった。その後、都市化の影響で暗渠化が進み「三鷹用水」を見ることがなくなり、一般的には「品川用水」と呼ばれている。
品川用水は33の分水路のうち、最も長く7 里半(約 29.45Km)、(短い幡ヶ谷分水は、5 町(545m))でした。 
品川用水は、該当とする村の地先にある分水路は8、他村に設置されている分水路は21と多く、取水しやすい場所が選ばれており、生活用、灌漑用などに使用されてきました。
江戸時代の後半期になると人口も増えてきたこともあり、玉川上水路沿の分水は、永いあいだ利用してきた分水口の箇所を整理して、水が足りなくなると分水口のまわりに穴をあけ水を分水路に流す行為に対して防ぐことができず問題視されていました。
分水口統合は、当時常態化していた水不足の対策とされ各分水口を利用量に応じた大きさに改め 
もう一つの 「牟礼用水」は、延享(えんきょう 1745年)分水許可され、通水している。山崎、上、中、本宿を流れ、通称「牟礼田んぼ」の灌漑用水として、三鷹台団地の完成、宅地化により、昭和37年ごろまで続いたが、その後、埋め立てられ道路となりました。
差蓋の規模 8寸四方(64 坪) 玉川上水路の左岸に位置している。とあります。
分水口は、玉川上水路の川底に近い法面にあり差蓋で水量の調節ができたとあります。
この分水口から木樋(埋樋ともゆう)によって土手をくぐりぬけ開渠(分水路)となって流れた。

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暴れ川、玉川上水

2023年04月26日 | 日記
4月26日(水)雨 気温13-19℃ 湿度70-95% 風速1-4m/s
 
                                    松本訓導殉難の碑
三鷹地域を流れる玉川上水は、「暴れ川」「人食い川」と呼ばれていた。
玉川上水は、江戸の昔から桜の名所として有名でした。両岸には、数m間隔で桜が植えられていましたが、今では数本が残り、楽しませてくれています。
「暴れ川」「人食い川」とも呼ばれ、大雨などにより狂ったような流れを見せます。
明治時代にも高橋亭之助日記などには、多くの人が玉川上水で亡くなっていることが記されています。
大正期には、玉川上水に誤って落ちた麹町小学校児童を救おうとした同校教諭松本虎雄訓導が水死(大正8年)しました。当時は、安全対策のためのフェンスなどもなかったため、誤って落ちた人もいました。戦後には、作家太宰治の入水自殺などがありました。
牟礼の古老の話では、玉川上水の側面はえぐれたようになっていたため、死体がそこに入り込むとなかなか浮上せず、上がるのは、上水が曲がる新橋辺りだったということです。因みに、太宰治の遺体が発見された場所もこの橋の少し下流でした。

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玉川上水の歴史環境保全地域と国の史跡指定

2023年04月25日 | 日記
4月25日(火)晴、曇 気温9-18℃ 湿度50-75% 風速1-2m/s
   
歴史環境保全地域と国の史跡指定について 
昭和40年(1965年)、淀橋浄水場が廃止され、通水されなくなった玉川上水の一部が暗渠化された。
都市化の進展とともに、宅地化され緑の少なくなった武蔵野台地の玉川上水は、身近な水と緑の空間として、また、郷土史、文学史等の歴史的背景からも、流域の人々に愛着を持たれていた。
そこで、東京都では、「東京における自然の保護と回復に関する条例」に基づき、平成11年(1999年)3月、玉川上水を歴史環境保全地域として指定し、歴史的価値の高い水路、法面、多摩地域から都心に伸びる樹林帯としての自然環境、水辺環境などを後世まで保全することとしました。
一方、竣工から350年を迎えた玉川上水は、平成15(2003)年8月、江戸、東京の発展を支えた歴史的価値を有する土木施設・遺構として、文化財保護法に基づき、国の史跡に指定されました。
なお、史跡指定の範囲は、羽村取水口から大木戸まで約43kmのうち、下流部の暗渠を除いた約30kmです。 
 東京都水道局は、学識経験者や関係局、地元市等と検討を重ね、平成19年(2007年)3月、「史跡玉川上水保存管理計画」を策定し、保存管理の長期的指針を定めました。
  また、平成21年(2009年)8月、今後10年間の具体的施策を定める「史跡玉川上水整備活用計画」を策定し、緑に囲まれた土木遺構を良好に保全するとともに、歴史的価値を広く伝え、都民に親しまれる「水と緑の空間」を次世代へ継承していくための取組に着手しています。

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玉川上水開削工事は2度失敗

2023年04月24日 | 日記
4月24日(月)曇 気温11-15℃ 湿度35-50% 風速1-2m/s
統一地方選挙も終わりました。玉川上水の続きを書きます。
    
玉川上水開削工事は2度の失敗があった。
玉川上水の工事は2回にわたって、失敗したという話があります。
 初めは日野からの取水を計画するが、水が地面に吸い込まれるという現象が起こり失敗してしまった。これは、浸透性の高い関東ローム層に当たったと思われる。土が水を食らっているように、あっという間に水が吸い込まれたことから、当時は水喰土(みずくらいど)と呼ばれた。
2度目は、福生からの取水を試みるが、この時は掘削中に固い岩盤にぶち当たってしまい失敗したとされている。
3度目は羽村からの取水で成功している。
松平信綱の家臣で安松金右衛門という人物がこの場所を選んだと言われている。安松金右衛門は算術が得意だったため、設計の見直しをする様に命じられたと記されている。

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