スヌスムムリクの生々流転日記

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六義園 「2012 紅葉」~その1~

2012-12-01 20:30:00 | 季節の花

  六義園は、徳川五代将軍・徳川綱吉の側用 人・柳沢吉保が、自らの下屋敷として造営し た大名庭園である。元禄8年 (1695) に加賀藩の 旧下屋敷跡地を綱吉から拝領した柳沢は、約2 万7千坪の平坦な土地に土を盛って丘を築 き、千川上水を引いて池を掘り、7年の歳月を かけて起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水 庭園を現出させた。

「六義園」の名称は、紀貫之が『古今和歌集』 の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌 の六つの基調を表す語に由来する [1] 。六義園は 自らも和歌に造詣が深かった柳沢が、この「六 義」を『古今和歌集』にある和歌が詠うままに 庭園として再現しようとしたもので、その設計 は柳沢本人によるものと伝えられている。

元禄15年 (1702) に庭園と下屋敷が一通り完成 すると、以後将軍綱吉のお成りが頻繁に行われ るようになる。その回数は記録されているもの だけでも実に58回もあり、吉保の寵臣ぶりも さることながら、この庭園自体が当時にあって も天下一品のものと評価されていたことが窺 える [2] 。

柳沢家は次の吉里の代に 甲府から大和郡 山に転封となるが、六義園は柳沢家の下屋敷と して幕末まで使用された。時代が下るにつれ 徐々に荒れはしたものの、江戸を襲った度々の 火災で類焼することもなく明治を迎えた。

明治の初年には 三菱財閥の創業者・岩崎弥太 郎が六義園を購入、維新後荒れたままになって いた庭園に整備が施され、このとき周囲が今日 見る赤煉瓦の塀で囲まれた。その後は関東大震 災による被害もほとんど受けず、昭和13年 (1938) には東京市に寄贈され、以後一般公開 されるようになった(有料)。東京大空襲の被 害を受けることもなく、造園時の面影を残した まま今日に生き延びた六義園は、昭和28年 (1953) に特別名勝に指定されている。

①JR駒込駅から歩き通常は閉門している染井門からチケットを買って入園しました。

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②説明書きの看板の向こうには紅葉した木が見えます。

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③横へ回ってみると見事に紅葉した木のお出迎えです。

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④千里場(馬場跡)

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⑤この辺りは江戸時代からあまり手をくわえれていないと聞いたことがあります。

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⑥それにしてもよく紅葉しています。以前訪れた時もそうでしたが見頃の時期にまた訪れることができたようです。

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⑨水は濁っていますが陽に照らされて水面にも紅葉がきれいに映っています。

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