スヌスムムリクの生々流転日記

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鐵砲洲稲荷神社(てっぽうずいなりじんじゃ)

2012-09-16 21:30:00 | まち歩き

東京メトロ日比谷線八丁堀駅から私の足で歩いて5分程度で鐵砲洲稲荷神社はありました。

大鳥居

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駒犬。お稲荷さんなのに狐さんじゃないんてすね。

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解説

鐵砲洲稲荷神社(てっぽうずいなりじんじゃ)は 東京都中央区湊にある稲荷神社。平安時代創建の古社 で、京橋地域の産土神である。

歴史

平安時代の承和8年4月15日 (ユリウス暦841年5月9 日)、凶作に悩む荏原郡桜田郷の住民が産土神を生成 太神(いなりのおおかみ)として祀ったことに始まる。

入江埋立に伴い京橋に遷座し、更に室町時代末期の大永年間に後の新京橋(現・ 銀座一丁目付近)へ遷座 し、八丁堀稲荷神社と称した。

江戸時代初期の寛永元年(1624年)、桜川が亀島川に 合流する地点、稲荷橋南東詰(現・湊一丁目8番地付 近)に遷座し、もとあった八幡神社を摂社とした。

一方、18世紀中期の『 事跡合考』によれば、昔八丁 堀一丁目南岸にあったが、家屋が過密になり、八丁目 に移転したという。

江戸の水路網の入り口に位置することから、全国から の船乗りの崇敬を集めた。

寛政2年(1790年)には富士塚が築造され、人気を博 した。

江戸時代後期には吉田家により湊神社と名付けられ、 また「浪ヨケイナリ」とも称された。安政期に歌川広 重が描いた『名所江戸百景』「鉄炮洲稲荷橋湊神社」 には朱塗りの壁と社殿が見える。

明治元年(1868年)土地が収用され、120m程南の現 在地に遷座した。

大正12年(1923年)の関東大震災では大きな被害を 蒙ったが、昭和10年(1935年)以降本殿や神楽殿が 再興され、現在の形が整った。昭和20年(1945年) の東京大空襲では被害を免れ、昭和初期の神社の形式 を今に伝える。

昭和37年(1962年)には隣地に区内初の児童公園が造園された。

大鳥居をくぐると右側には手水舎と社務所があります。

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左側には神楽殿があります。

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正面拝殿

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またまた駒犬
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摂社八幡神社

おや?二宮尊徳先生の銅像が手前にあるじゃないですか。

台座の説明書きを読みましたがこの神社との関係がわかりませんでした。

私がアホなんでしょうか?



力石

看板が木で隠れてしまっています。結構、重そうです。

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それでは富士塚へ行ってみましょう。


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