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Rolling 55

「転がる石は苔生さず」いつまでも、いつまでも転がり続け・・・
お池にハマって、さぁ大変!  by belage

MINIチャリ散歩:吉祥寺④ 吉祥寺駅南口

2012年09月09日 08時04分06秒 | MINIチャリ散歩

井の頭公園を出て数分歩くともう吉祥寺駅前です。
なんやらでっかいクレーンが。そのクレーンが立っている所が駅なんですけど、
また再開発なんでしょうか。吉祥寺駅はJRに京王井の頭線が 乗り入れて。
東京都下の三多摩地域では昔から繁華街として有名なところ。かつては
「ジョージ」という名前で呼ばれたことも。

駅前のl通り(水道道路)から一本離れた裏道。いずこも同じ落書きが。

これは知りませんでした。最近小食になったので、入りたいけどぐっと我慢を
して(笑)

JR中央線は高架になっています。駅ビルの中を通って北口へ。中央線沿線ってとても面白い
のですが、基本的には南口より北口のほうが商業施設の集積が大きいんです。この理由は
色々考えたのですけど、JRは新宿以西を東西に走り抜けていますが、線路の南側には青梅
街道と五日市街道の二本が走って、逆に南口には遠く離れたところを甲州街道の一本だけ
が走っています。。鉄道の走る前は街道沿いに商業・住宅が発展したので、その集積密度が
自ずと違っていたんではないでしょうか。

これって、新宿から立川まで10以上の駅がありますが、面白いのはどの駅もこの南北差が
当てはまります。最近は北に対抗して、南も再開発が進んでいますが、これは面白い現象
だと思います。

駅広から北を見ています。画面中央にあるのは吉祥寺を代表する商店街の「サンロード」
の入り口。
駅前商店街のアーケードによる近代化のはしりです。
終戦後からJR中央線の中でも際立った繁華街であったこの街は最大の商業集積を持つ
ようになり、一時は新宿・下北沢・目白・原宿等と並ぶ若者文化の発祥の地でもありました。
最近は他駅前商店街の再開発も進んで、そういった文化の発信基地としての役割が落ちて
きたのはちょっと寂しい限りです。 新宿もそうなんですけど、街ってやはりある程度の混沌
と猥雑さを持っていないと若者をひきつけることは出来ないんじゃないかというのがボクの
持論。そいういう意味で、あの渋谷も最近は大人しくなりました。いまや東京で若者文化の
発信地は秋葉原だけになった感もあります。AKBだけというのもちょっと寂しいですね。

 

 

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MINIチャリ散歩:吉祥寺④ 「井の頭池 弁財天」(2)

2012年09月06日 06時15分07秒 | MINIチャリ散歩

井の頭池にはいくつかの噴水があって、涼味を演出しています。

まるでクリスタル・グラスの水盤のように。

小さな地蔵様も涼しそう。

池の端にはこんな仏像群が配置されて。

銭洗い弁天様の水の吐き出しはなぜか大きな龍の彫刻が。

弁財天におまいりをすませ、チャリを駐輪場に置いて次ぎは徒歩で吉祥寺駅へ向かいます。

 

 

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MINIチャリ散歩:吉祥寺③ 「井の頭池 弁財天」

2012年09月05日 08時31分23秒 | MINIチャリ散歩

井の頭池ではボートがのんびりと。

その池の端にはこんな太鼓橋の向こうに小さなお社が。

当社は天台宗大盛寺が別当寺となっていますが、その起源は平安中期に六孫王経基が伝教大師
作の弁財天を祭ったことに由来します。その後鎌倉末期の元弘の乱で新田義貞と北条泰家
との戦いで戦火に会い焼失。どうも新田義貞は武蔵国分寺といい、いろんなものを焼いてくれ
たみたいで、困った人です(笑)まぁ、戦国の世、戦乱に乗じて誰が何をやったか、不確かな
ことが多いのですけど、武蔵国分寺に関しては、義貞は敗戦の翌年に消失した薬師寺を再建
する等、自らの過失を賠償してますが、この弁財天焼失については一顧だにしていないのは
ちと片手落ちじゃないかと疑問があります。その意味では、この弁財天に関しては義貞の命令
ではなかったのかも知れません。

その後徳川の時代となり、前項でご紹介の通り家光はあしげに当地を鷹狩りで訪れていますが、
当然この弁財天にも訪れており、焼失した弁財天の再建を果たして現在に至っています。

 

社務所に飾られた龍のレリーフ。

なぜかこの社の周りには竹で編んだ筏が置かれてちょっとしたアクセントに。

 

 

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MINIチャリ散歩:吉祥寺② 「井の頭公園・井の頭池」

2012年09月04日 08時21分30秒 | MINIチャリ散歩

満々と水を湛える井の頭池。皆さんよくご存知の神田川の水源のひとつ。この近くに
武蔵野三大湧水池、善福寺池も神田川の水源です。他一つは石神井池。このみっつ
とも、ボクの少年時代の遊び場でありました。
今では全く考えられないでしょうけど、ボクの子供時代にはこの豊かな水源を利用して
JR中央線と西武線の間には水田が結構あったんですよ。小学校の夏休みの宿題で
田んぼでカエル取り、それの解剖なんてやったりして。

この井の頭池は北西から南東に延びる細長い形状の池。上の写真は南東方向を臨んで
います。

池はご覧の通りこんもりとした森に覆われていますが、池の端に水面に覆いかぶさって
見えるのは桜の木。春になると緑の水面と薄いピンクのコラボレーションが絶妙です。

後ろを翻って見ると、小高い丘が。これを御殿山と呼んでいます。この名の由来は前に
武蔵国分寺をご紹介したとき「お鷹の道」という幕府の鷹狩りの場を案内しましたが、徳川
家光の時代に彼が鷹狩りの途次の休憩場としてこの丘に御殿を建設したことに由来します。

更に付言すれば、井の頭公園は武蔵野市と三鷹市に跨っていますが、この三鷹は鷹狩り
の場から取られた地名です。

この御殿山に建てられたマンション。都内の高級マンションのはしりのひとつ。この井の頭
公園を一望出来る借景マンションとして話題になりました。

 

 

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MINIチャリ散歩:吉祥寺① 井の頭公園「ジブリの森」

2012年09月03日 08時24分12秒 | MINIチャリ散歩

我が家から小1時間。チャリを飛ばして、今日は吉祥寺界隈を散策。
最初についたところは井の頭公園の雑木林の西端に位置する 
三鷹の森ジブリ美術館」。

この美術館は宮崎駿さんのスケッチを基に日本設計が設計し、2001年に開館しました。
ちょうど最初の入園時間で門の周りにはすでに夏休みということもあり大勢の人が。
子供より寧ろ大人のほうが多いみたい。更に外国人がかなり多い。宮崎アニメの人気の
層の厚さがよくわかります。

え~と、ここの入館料は大人千円。ん~ん、残念ながらボクはまだ入ったことはありません。
いつも外から写真を撮るだけ(苦笑)

 

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MINIチャリ散歩:多摩川②

2012年08月24日 10時04分09秒 | MINIチャリ散歩

多摩川を渡る京王線の鉄橋の下で暫し涼を求めて。
なかなかでかい橋です。

橋脚の向こうに多摩川が流れています。遠くに見える山並みは多摩丘陵です。

橋梁の下を直角に、多摩川に沿ってサイクリング・ロードが続いています。
ちょうど橋桁の下をチャリに乗った人が通り過ぎて。人間様の如何にちっちゃいか!

 

 

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MINIチャリ散歩:多摩川①

2012年08月23日 08時08分59秒 | MINIチャリ散歩

久しぶりに多摩川のサイクリングロードをひた走り、府中を超えて国立あたりまで。

日差しは強いですけど、多摩川の堤に吹く風は以前よりはずっとマイルドになって、
熱風という感じはなくなってきています。

雲はまだまだ夏の雲ですね。

 

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MINIチャリ散歩:お鷹の道②

2012年08月22日 08時37分44秒 | MINIチャリ散歩

お鷹の道から国分寺崖線方向に向かう小道。こちらにも水路が。 

この小道に赤い鳥居があり、その奥には小さなお社がひっそりと。この社の両側には
湧き水で出来た小さな池が。

これを「真姿の池」と言います。

これの命名は847年、当時絶世の美女といわれた玉造小町が病によりその容姿を失い、
国分寺の薬師如来にすがったところ童子が現れ、この水で身体を洗えとご宣託があり、
小町が従うと7日後に元の容姿を取り戻したという伝説に基づくもの。

真姿の池の前を流れる用水。写真の先は何回も登場した「国分寺崖線」ですが、
擁壁の石積みの間から水が染み出て小川を形成しています。

冷たい水で手と顔を洗って。息を吹き返した感じです。
東京で古代を知る珍しい小旅行のMINIチャリ散歩でありました。 

 

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MINIチャリ散歩:お鷹の道①

2012年08月20日 08時17分36秒 | MINIチャリ散歩

武蔵国分寺の山門前から こんな閑静な小道が続いています。これが名水百選にも
選ばれた武蔵野台地の湧き水が作る用水路に沿っています。

当地の付近は徳川尾張藩の鷹狩り場として1748年から使われており、そのこと
から「お鷹の道」と呼ばれるようになりました。

ボクの勝手な想像ですが、武蔵国分寺の項で、家康が軍勢2万余騎を引きつれ
江戸に下向した時、飲料水の問題で現在の府中周辺に長らく駐屯せざる得なかった
と書きましたが、その間の軍事演習も当然この辺りで行ったのではないかしら。
当時岡崎以東の東海道は徳川の掌握下ではありましたが、東北・関東北部はまだ
予断を許さぬ時代、北の守りの要であった当地は軍事拠点としても重要で、それ故
尾張徳川の鷹狩り場として江戸城が完成した後も徳川の直轄地としたのではない
でしょうか。

 

現代ではそんな話しは別に、清水が静かに流れて。ここは今の時期蛍の生息地として
夜も家族連れの散歩姿が。

こちらは数年前までとある民家の長屋門でありましたが。今回確認したら国分寺市の
歴史資料館になっておりました。

 武蔵野の雑木林に囲まれた静かな散歩道が続きます。木陰と用水の水のお陰で
日陰の散歩道は恐らく2,3度違うんじゃないでしょうか。

 

 

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MINIチャリ散歩:武蔵国分寺跡③ 薬師寺

2012年08月10日 08時12分08秒 | MINIチャリ散歩

現在の武蔵国分寺のお隣にあるこのお寺。新田義貞が分倍河原の戦いのとき、国分寺の
伽藍を焼き払い 逃走しましたが、翌年彼の寄進により再建されたものであります。
当初は金堂址の近くに建設されたものですが、その後現在の国分寺崖線(通称「はけ」)
の上に移築されました。

坂道を少し登ると右手に階段が。その上に見えるのは仁王門。

 

鎌倉時代初期の作品といわれる阿吽のカタチの仁王様が収められています。ご丁寧に
二重の格子に守られて。撮影が大変たいへん(苦笑)

全体像が分からなくてちょっと残念ですけど、阿さんの左手を見るとかなりデフォルメ
された筋肉が見て取れます。快慶・運慶に象徴される鎌倉期の彫刻の流れがよく分かり
ますね。

仁王門から薬師寺を臨みます。国分寺崖線はこの階段三段分くらいの高さに
なります。

薬師寺です。このご本尊は火災にも無事であった薬師如来。国の重要文化財に
指定されており、普段はその姿を見ることは出来ませんが、毎年10月10日には
ご開帳となり、なんと無料で見ることが出来ます。

鐘突き堂。木立から漏れる日の光が遊んでました。

この基礎石は金堂の半分くらい。簡単には比較は出来ませんが、金堂の規模は
もっと大きかったことが容易に想像されます。

薬師堂の裏側に置かれた羅漢さんたち。この日のこの時間に訪れたのはボク一人。
なんとも贅沢な時間が過ぎていきます。

週末ちょっと遠出します。皆様のところには来週のご挨拶となりますが、どうぞ
よろしくお願いします(ぺこりん)

 

 

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MINIチャリ散歩:武蔵国分寺跡②

2012年08月08日 08時20分46秒 | MINIチャリ散歩

前の記事で武蔵国分寺址をご紹介しました。今はただ礎石と思しきものが残るだけの
土地でありますが、日本でも有数の規模を誇った伽藍の数々が消失したのは1333年
に遡ります。

新田義貞が兵を興し、鎌倉幕府と対峙したのがこの近くの多摩川のほとりの分倍河原。
義貞は10万余の幕府軍の前に敗北し、撤退の際にこの国分寺を全て焼き払いました。
ここに聖武天皇が詔を発して建設され600年近く関東の信仰の中心であったこの地も
灰燼に帰してしまいました。 

しかし、不思議なことに義貞は翌々年、国分寺の伽藍のひとつ、薬師堂を再建させています。
ある意味鎌倉幕府の象徴とも言える国分寺を焼き払ったことに対する謝罪の気持ちの表れ
と思えるのですけど、このことは政治と宗教は全く別物と当時の人たちは考えていたという
ことなんでしょうか。更に義貞は多額の賠償金を敗戦の翌年に支払っています。

写真は国分寺山門。建設時は残念ながら不詳です。

山門にこんな扁額が。
「国を分け 宝を積みて建つ寺の 末の世まで利益残せり」と。

 

山門の後ろには現在の武蔵国分寺が。ちょうどこの後ろが度々ボクのブログで登場する
国分寺崖線(通称「はけ」)の高台です。この崖線は国分寺から始まり、多摩川の流れに
沿って、遠く田園調布まで続き武蔵野の豊かな台地を形成しています。

古代から多摩川がせっせと丘を削った跡でもあります。

 この現代の国分寺。別名を通称「万葉寺」とも。先の住職が万葉集に歌われた植物を一生懸命
採集され、この国分寺崖線に植えられたことに起因します。それぞれの植物には万葉集の歌の
短冊が置かれて。春秋の季節がこのお寺を訪問するには最適。万葉集の和歌と植物の名前が
一度に覚えられます。

ということで、花のない今の時期は閑散として。はい、ボクも今回はパスです(苦笑)

 

 

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MINIチャリ散歩:武蔵国分寺跡①

2012年08月05日 08時19分06秒 | MINIチャリ散歩

武蔵野の外れ、国分寺の一角にこんな木々が育つ場所が。 

 

これは何の木でしょうか。ところどころ黄色い地肌が見えます。まるでキリンさんの
ような。

そんな木々に囲まれて、草の生えた広場が。ここは国分寺の郊外。その昔聖武天皇の
詔で全国諸国に国分寺・国分尼寺が立てられましたが、ここは武蔵国の国分寺は
金堂の跡であります。

国分寺の現存するもので有名なのは奈良の法隆寺、東大寺でありますが、それに匹敵
する伽藍がここにありました。

今ではこの「金堂址」と刻まれた石碑と数本の礎石でその名残を留めるだけ。十数年前より
発掘調査がこの一帯で続けられています。
炎天下の道中を走って、この広場に暫したたずんで、遥か天平の時代に思いを馳せて。

武蔵国は古代の昔、その国域は埼玉、神奈川と千葉の一部を含む大変大きな領域で
ありました。その政治の中心は現在の京王線府中駅の近く、大国魂神社の辺りに置かれて
いました。時は下って、鎌倉幕府の成立の後は行政の中心は鎌倉に移りましたが、経済の
中心は徳川家康が国替えをして江戸城を開くまで、この府中にありました。

家康軍が2万の軍勢で関東に入った最初の地が府中。当時の江戸城は大田道灌が築いて
から随分と荒廃していて、当時城下の人口は百戸程度しかなかったという、城というより館に
近いものであったそうな。それよりなにより、問題は2万の軍勢に必要な水が当時の入り江の
突端に位置した江戸城では全く確保が出来ず、軍勢の殆どは神田川の水利事業が完了
するまでこの府中に留め置かれておりました。

今では東京の郊外の住宅地となったこの一帯がかつては関東の中心であったとは、現代の
我々には全く想像も出来ません。それくらい家康の行った江戸城都市計画というものは
日本史に燦然と残る最初にして最後の大規模プロジェクトでありました。僅か百戸程度の人口が
江戸時代の最盛期には百万を超えていたといいますから、そのスケールはとてつもないもの
でありました。

さて、金堂址から数分歩きますと、やはり同様に礎石がぽつんぽつんと残されて。

こちらは国分寺の建物群のひとつの七重の塔の跡地。

敷地の傍らには当時の七重の塔の想像図が。

この一帯は既に発掘が始まって数十年が経過していますが、まだまだその作業は始まった
ばかりの状態。あの奈良ですらまだ発掘作業が限りなくあるようで、致し方ないのですが、
もう少し分かり易い展示が出来るといいなぁとここに来ていつも思うボクであります。

 

 

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梅干

2012年07月31日 08時06分56秒 | MINIチャリ散歩

久しぶりにMINIチャリを引っ張り出して。梅雨の間に雨に当たっていたせいか、チェーンも
変速機も錆だらけ。それをワイヤー・ブラシでごしごしこすって、油をさして。

実は昨年末から乱暴な運転をするチャリ男、チャリ女のお陰で、なんだか怖くてチャリに
乗れなくなっちまって。梅雨が明けて、やっと意を決して再度サドルに跨ることに。

今までは結構スピード出して走っていましたが、もう普段の半分のスピードくらいに抑えて、
安全運転を心がけています。

そのMINIチャリ散歩の途中で出会った八百屋さん。画面の下のほうに懐かしい姿が見えたので
思わず立ち止まって、パチリ。

亡き母が毎年よく漬け込んでくれたものです。小学校から中学校、遠足やらお弁当に大活躍。
どなたかご近所の方に教わった、竹の皮に梅干を包んで、先っぽのほうからちゅうちゅう梅肉
を吸うおやつ。竹の香りと相俟って、なんとも当時の悪ガキどもにはゴージャスなおやつであり
ました。

またこういう自家製の梅干が食べたくなりました。それぞれの家庭の作り方、梅や紫蘇の違い
で出来上がるものはそれこそ千差万別、独特の味とカタチになるんですよね。それが面白い
ですねぇ。

 

 

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釣瓶竿(つるべざお)

2011年10月19日 11時51分31秒 | MINIチャリ散歩

「朝顔に釣瓶とられて貰い水」とは加賀千代女さんの有名な句。あの
釣瓶は多分上に滑車がついた釣瓶だと思うのですが。

ボクはよく分からないのですが、毎日数回水汲みをしているのに何で
朝顔に釣瓶をとられるんだろう、なんて突っ込みを入れたくなるのは
時代が違うからかな。なんて、別に千代女さんのこの傑作をくさして
いる訳ではありません。夏の朝の情景、成長の早い朝顔、その愛おしさ
から朝顔の蔓を切ることなく、お隣さんに水を貰いにいきましょうという
千代女の優しい気持ちはよく理解しているつもりです。

因みに我家の朝顔はこのところの気候の変化にもめげず、今頃元気
一杯に次から次へと花を咲かせておりますが(苦笑)

さて上の写真の釣瓶は「釣瓶竿」と呼ばれるもの。

こんなカタチをしています。釣瓶自体の高さはせいぜい5Mもないくらい。
ということは凄い浅い井戸であるということ。これなら滑車は必要ない
ですね。この深さなら手掘りで十分井戸が出来ます。

この近くには古くからの多摩川の支流、野川が流れています。恐らく
その伏流水がこの辺りにもあるんでしょう。現在では衛生上の観点から
井戸での取水は出来ませんが。

ところで「釣瓶落とし」は秋の夕暮れの状況を表す素敵な言葉。丁度
今時分の夕方から使える言葉ですが、釣瓶を放つ時、すとんと落ちる
様を日の暮れる様に重ね合わせている訳ですが、これとは別に近畿、
東海地方には「釣瓶落とし」或いは「釣瓶下ろし」という妖怪の話が存在
するらしい。日本で妖怪話は殆ど同じ種類のものが広く存在するのです
が、この「釣瓶落とし」はこの二地域に限られているとか。

この記事を読まれた方でそんな昔話を耳にした方いらっしゃいますか?

 

(世田谷「次太夫堀古民家園」にて)

 

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東京探訪記:品川から天王洲(2) 品川駅港南口②

2011年10月08日 13時00分20秒 | MINIチャリ散歩

再開発がどんどん進む品川駅前港南口ですが、この一角だけは昔のまま。
ここで飲んだことは一度もないのですけど、奇跡的に飲み屋街が残って
いました。

いま、都心のオフィス街は殆どビルの中のオサレ~なレストランに。
カウンターで湯豆腐に徳利酒なんて飲み方はもう出来なくなりました。
秋の夜、友と湯豆腐でさしつさされつ一杯なんて乙なものですが、
最近そういうシーンはとんとお目に掛かれません。

この出口の向こう側には高層ビルが。

いつまでも残したい風景ではありますが・・・

 

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