湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

バーバー:弦楽のためのアダージォ

2006年07月21日 | アメリカ
◎クレツキ指揮フランス国立放送管弦楽団(KARNA:CD-R)1952

何か尋常じゃない思い入れを力と祈りのかぎり音にして歌い尽くしたような、何とも言えない演奏。力強く分厚いオケはクレツキの精緻な操作によってその感情を説得力溢れる大きなうねりに変え、これは先の大戦を経験した者だけが持ちうる感情なのだろうか、何も言わせず、ただひたすら灰色の地の上より、届かぬ雲間の一条の光に向け腕を突き伸ばす。何も、それ以上も以下もなく、ここにはただ慟哭だけがある。
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マーラー:交響曲第9番

2006年07月21日 | マーラー
○ブーレーズ指揮ロス・フィル(WME:CD-R)1989/5LIVE

例によってエアチェックもので録音悪質。一楽章なんて左右がそっくりかえっている。まだ血気盛んなブーレーズと激情的なロス・フィルが意外とおもろい不協和音をかなで聞ける演奏ではある。オケ暴走の二楽章最後なんかブーレーズらしからぬ感じだが一楽章後半でいきなり感情を煽る極端な表情を恣意的につけてきたり、四楽章にいたっては見栄を切るような深い表現を駆使してくるあたりマデルナを思わせ面白い。ブーレーズなりの構造のあぶり出しかたはロス・フィルというきかんぼうと録音の不明瞭さにはばまれ余り際立ってこないが、直情的でリアルなマーラーをブーレーズで聞けたという愉しさはあった。○。
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アメリカにとってのフランス、断章

2006年07月21日 | Weblog
~ドビュッシーとラヴェルの芸術がアメリカの作曲家に影響を及ぼし始めたのは少々遅く1900年以後に属する。それ以前にはアメリカの作曲家達は各自の専門教育の仕上げの為にはドイツに留学するのが普通で、ウィーン、ベルリン、ライプツィヒ、ミュンヘン等が特に彼らの好んで訪れた所であった。ミュンヘンの有名な教師であったヨゼフ・ラインベルガーの対位法の講義は当時真剣に作曲に志すアメリカの学生達には、不可欠のようにさえ思われた。1901年ラインベルガーの死後、ミュンヘンの魅力は大いに失せて、作曲を学ぼうとするアメリカ人は次第にパリに留学して、そこのウィドール、ダンディ、ケクラン等の偉大な教師らから得るところ多い様になり、第一次世界大戦以後はパリはアメリカの音楽学生の誰も希望する留学地となった。アメリカ人の為に特に設立させたフォンテーヌブロー城の音楽学校(引用注:ラヴェルのオートグラフのところなどで触れた「アメリカ音楽院」のこと)とナディア・ブーランジェ女史は大きなあこがれの的となり、このことは1935年まで続いた。(「アメリカにおけるフランス印象主義と異国趣味」)

~クーセヴィツキーのボストン第一回公演の際のプログラムは明らかに余程慎重に選んだもので、その一部は寧ろ通俗的なヴィヴァルディ、ベルリオーズ、ブラームスの古典に敬意を表してあり、その後に1920年代にヨーロッパでセンセーションをまき起こしたオネゲルの新作「パシフィック231号」があった。そのタイトルから見ても、又その内容に於いても、この華々しい効果のある、大きな機関車を描写した最新作を選んだのはたしかにアメリカ工業の能率と活動に対する敬意を意味した。プログラムの第二部は最近のロシア音楽の傑作、スクリアビンの「法悦の詩」だけであった。この作品の演奏に当たってのクーセヴィツキーは彼のロシア人としての風格に熱情の嵐と憂鬱と絶望の極致をたくみに加味して文字通り完璧の出来栄えを示した。若し当日の聴衆の中にかつて30年以前のニキシュの演奏を聞いたことのある年配の人達がいたら、皆クーセヴィツキーこそは、あの不思議なロマンティックな魔術使といわれた大指揮者の最も正統な後継者であると痛感したに相違ない。(スクリアビンに対する通り一遍の酷評を引用した上で)オネゲルの「パシフィック231号」に関してもヘイルは手厳しく「たしかに面白いことは面白い。古えのギリシャの文人が音楽の使命の一つは「紳士流の喜び」を与えることだと言ったがこの作品はまさにその範疇で気がきいていることは事実だ。しかし音楽が気がきいているというのは大した代物でないという意味だ。」とくさした。他の批評はほとんど皆一致してオネゲルの音楽が大機関車を崇拝したものでアメリカ人の機械観にぴったりくるものがあると言っており、中でも、H.T.パーカーが10月14日号の「トランスクリプト」紙上に寄せた「パシフィック号に乗って」という記事は最も想像力豊かな又同時に正確な論評であった。

「この音楽を聞いて、その精巧な組み立て、終始一貫した整然とした無駄のない音の流れを嘆賞しない音楽家はあるまい。・・・その大きな機関車がいよいよ発車となるとこの音楽は声高く笑う。間もなく機関車は全速力で走りだす。走りながらこの音楽はキプリング流に、いわば、力とスピードの歓喜を小きざみに歌って行くのだ。
そしてこのパシフィックの終止の素晴らしさはどうだろう。あの古典の壮大な終止がこの音楽の終末の12節に圧縮されている。・・・ここに我々はバッハ、ベートーヴェンの音楽の再来を見る。現代に生きているオネゲルはただ現代の事物機関車を使ったに過ぎない。」
「パシフィック号」はアメリカで大成功をおさめた。(「クーセヴィツキーのボストンにおける最初の楽期」~ライヒテントリット/斎藤博之訳「アメリカ音楽の展望」より一部現代語訳)

・・・原著はクーセヴィツキーの評伝の形をとっており20世紀初頭から前半におけるアメリカの(高所得層や音楽家たちの)音楽受容の流れやクーセヴィツキーに関して論じたいならば一読すべき内容ではある。一部だけ抜いたがなかなか面白い感じですね。
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シューベルト:交響曲第8番「未完成」

2006年07月21日 | ドイツ・オーストリア
○メリク・パシャーエフ指揮ボリショイ歌劇場管弦楽団(melodiya)LP

この楽曲について書くことはないと思っていたのだがメリク・パシャーエフが余りに復刻されないので思わずこんなものも挙げてみたりする。中古盤としては見ない盤じゃない。ムラヴィンスキーのギチギチな音楽に立つ瀬がないと感じるならばこのくらいの柔らかい表現のほうがいいだろう。歌謡旋律のさらっとした、暖かな表現には品のよさが漂う。2楽章では木管の清澄な響きやそこはかとない感情、穏やかなテンポやゆるやかな表情付けに癒される。ロシアならではのアバウトさというか、ちょっと甘さやバラケを感じる部分もありパシャーエフらしくないなあとも思うが、オケの特性もあるゆえしょうがない。弦楽器主導型のロマン派前期の楽曲で、プルトの多い旧来の編成だとなかなかねえ、まとまらないし。繊細な音楽を巧く紡ぎ出していて、過度に情に流されることはなく、ベートーヴェンよりはモーツァルト的な演奏に思うが、それでも警句的な表現になると厳しいアタックと豪快な弾きっぷりにロシアらしさが現れてダイナミズムに欠けることもない。中庸というと悪いイメージがついてしまうので、バランスの指揮者だと前も書いたおぼえがあるが、西欧に通用するくらいの技を持っていただけに国外で活躍できなかったのは惜しい。ゴロワノフもそうだが歌劇場を中心に活躍したソヴィエト指揮者の復権は(オペラや伴奏指揮を除けば)今もって不十分なままだ。パシャーエフはマジメで立派。プライヴェート盤でCD-R復刻する気持ちはわかります。豪快怪物指揮者好きには受けないでしょうけど。
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小沢征爾さん本格復帰

2006年07月21日 | Weblog
小沢征爾さん本格復帰。病気療養のためコンサート活動を休止していた指揮者。マーラー交響曲第2番「復活」を指揮。(産経)

~それほど好きな指揮者ではないけど、テクニックと一部楽曲における情熱には惹かれます。復帰をまずはお祝い。
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アイヴズ:交響曲第2番

2006年07月21日 | アイヴズ
バーンスタイン指揮NYP(WME:CD-R)1986live・CD

録音状態がまずい。放送エアチェックでしかもモノラルである。この時期にはバンスタも芸風が変わっていたのだが、ちょっと聴きまるで50年代初演当時のような味気なさがする。ライヴならではというか引き締まっており、緩徐楽章以外はロマン性よりひたすら前進性を煽る。2楽章と5楽章の結部をまったく粘らず早々に打ち切るさまはほんとに50年代を彷彿とする。

しかし折角アイヴズがセンセイに敬意をはらってワグナーやブラームスふうに構造的に書いている場所でも音が潰れて旋律もしくは低音部しか聞こえてこない。これは音盤としてだめだ。頭の中で補いつつ聴けばそれなりに面白く、感銘も受けるし、終演後のブラヴォも理解できるのだが、それにしても・・・これはいただけない。オケは気合十分だしバンスタの解釈も至れり尽くせりなのだが。

それにしてもアメリカ人はこれを聞いてどう思うんだろう。日本に置き換えるならば演歌メドレーにはじまり御詠歌やら旧制高等学校寮歌やら仏教声明やらをぶちこんでブラームス風の交響曲に仕立て上げたようなもんだ(らんぼう)。この曲は巧みなリズム構造にも特徴があり、完全にポリリズムになってしまう直前で巧く聴きやすい形にまとめている。そこが対位法的構造とあいまって、打楽器が活躍する2,4楽章ではとても気分を高揚させるのだが、

この録音じゃろくに聞こえてこない。無印。
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「キャプレと宗教音楽」

2006年07月20日 | Weblog
~戦争に参加して負傷し且つ毒ガスに襲われた彼は、平和になってから宗教音楽にその注意を転じた。これはあるいは戦争の諸経験の影響によるものかも知れずあるいはまたその管弦楽法を手伝ったドビュッシーの「聖セバスティアンの殉教」との親密な接触の結果であるのかも知れない。1911年にシャトレ座で、それから他の場合にも、彼は「聖セバスティアン」の上演を指揮した。

この新しい方向における彼の最初の特色ある作品は・・・戦争中に書かれたいくつかの歌謡とピアノ伴奏の声楽曲「祈願」とによってこれは前触れされたのであるが・・・「三声のミサ曲」と「イエスの鏡」とであった。これらは、敬虔に思考され、絶妙に書かれ、信仰的で神秘的であると共に切実でありながら、抑制されていて、独創的であると同程度に伝統に忠実な作品である。

彼が死ななかったとしたならばどのような作品が引き続き書かれたことであろう。彼はまだ円熟の戸口を越えたばかりで、ようやく自己を発見したように見えたのであった。或る時パリ訪問中に私は彼がある演奏会で指揮するのを聴いたが、それ以上に立派な指揮を私はかつて聴いたことがない。その時の曲目はモーツァルト、ベートーヴェン、ドビュッシー及びラヴェルの作品から成っていた。

私は長い間彼と雑談した。そして彼は多くの計画を語った。彼は元気に溢れているらしく、全速力で前進していた。名声もまた生じていた。従って彼の訃報の伝えられた時、彼が指揮者としてまた作曲家としてその能力をまさに発揮し始めていた時に死んでしまったことを、フランスにおける誰もが感じたことを私は確信する。(「近代音楽回想録」カルヴォコレシ/大田黒、一部現代語訳)

~作曲家は「点」ではない。どんなに昔であっても、一点だけを生きたのではない。その人生は少なくとも数十年の幅をもって長く、様々な起伏があり、様々な人々と交流し時には対立し、一日一日の生活をわれわれと同じように送っていった。そこには家族もいて仲間もいて、喜びと悲しみがあり、死は最後の句点にすぎない。人は歴史を点の集合体で語りがちである。ともすると一つの太陽のもとに胡麻粒のような小さな点が集まっているのが歴史、と考える。しかしすべては人間であった。太陽のように輝く作曲家は単独でただ輝き全てを創造したのではない、関係性の中で、その時代の全ての環境の中で己が個性を確立し、また作風を変えて行き、あまたの失敗の中にやっと成功をおさめているのが大半である。ドビュッシーは「海」だけを書いたのではない。キャプレはドビュッシーの影法師ではない。余りに作曲家を人間として捉えず、単に辞書に並ぶ数行の文字と、数曲の代表作のみの存在として扱う輩が多すぎる。これは音楽鑑賞とは少しも関係のないことだけれども、もし音楽を演奏し、音楽を創造する者であれば、その曲がどのような背景に生まれ、どのような過程の中に存在したのか、理解しておくことは重要だと思う。
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カリンニコフ:交響曲第2番

2006年07月20日 | カリンニコフ
○ラフリン指揮VRK交響楽団(DGGSY)LP

キリル文字ではB.P.K.で瞭然であるがモスクワ放送交響楽団の略称である。この録音をきくにつけロシア録音は収録ホールやマイクセッティングなど録音状態を加味せずに安易に巧い下手などと言ってはならないなと思う。これは余りにマイクがヴァイオリンに近いのだ。舞台上前方でファーストのフォアシュピーラーに接近しておかれているのだろう。こういう録音はメロディヤでは多い。よく無邪気なロシアファンが「自嘲的に」言う音色のバラバラ感や一部奏者の突出というのは、必ずしも外れてはいないがこんな演奏外の部分で誇張されてしまっている節もある。バラバラということは薄く聞こえるということである・・・ハーモニーの整わないオケの音量が弱く感じるのと同様。アナログ盤では音響全体が何かしらの微音で詰まっているので余り気にならないが、デジタル化されるとまるでロジェスト/文化省管のグラズノフのCDのようにスカスカに聞こえるものだ。そういった状況がメリットに響く場合もあり、絶対きっちりとは揃わないたぐいのソリスティックで技巧的なフレーズや装飾音を合奏部分に多用する「困った」作曲家のときは、「一部奏者の音だけが細かく聞こえることによって」救われる。ただ、この曲は決して技巧的ではない。1番同様ヴァイオリンに細かい音符の刻みが多いが、ラフリンのやや弛緩したテンポの中では皆十分に雄渾に弾けており、だからこそ残念なのは最初に述べた様な録音「瑕疵」なのである。この演奏は音楽のロマンチシズムを引き出せるだけ引き出そうとしている。そのためにテンポの沈潜も辞さないし、これでもかと言わんばかりに歌う。1楽章はまったく名演であり、ここまで雄渾でドラマティックな2番の演奏を初めて聞いた。オケのやる気も十分である。しかしここで思うのはカリンニコフの才気の衰えである。2楽章でいきなり魅力は薄まり、3楽章も第二主題あたりには明らかにボロディンやリムスキー的な民族の雰囲気があるもののどうも精細に欠ける。

4楽章はまるでエルガーの2番かグラズノフの8番だ。とくに後者の状況とよく似たものを感じる(スケルツォと終楽章に近似性を感じるのだが)。才気は衰えてしかも体力が最終楽章までもたない、しかし技巧的には高まり演奏者は演奏しやすい、もしくは演奏したくなる。1番は各楽章のコントラストが極めて明確で旋律もこれ以上ないくらい才能に満ち溢れたものである。しかし単純だ。演奏者はただ面倒なばかりで魅力的な旋律も飽きてきてしまう。2番は構造的により作りこまれてはいるし、グラズノフ同様以前の作品では才気のまま書き進めそのまま出したような、一方で「お定まりの型式の中で出来ることを精一杯やった」といった清清しい風情を持っていたのが、才気を型式の中に抑えこみ独創性は主として思考の産物として盛り込もうという方向に行ってしまい、技術的にはある種アカデミックな指向をもった「山っ気」がでてきたがために、却って中途半端な出来になってしまっている感がある。スヴェトラの有名な録音があるが、あれで聞くと録音が遠いだけに尚更薄ーいぼやけた印象が否めない。ここではリアルな肉感的な音で楽しめるので、1楽章とスケルツォの一部だけは楽しめるが、終楽章は1番みたいにオペラティックな大団円で終わらせればいいものを・・・とか思ってしまう。演奏的にははっきり言って今まで聞いたどの2番より面白かったが、1楽章以外をもう一度聞くかというと・・・。

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交響曲とは?形式とは?

2006年07月19日 | Weblog
まー「俳句」なんでしょう。形式感が崩れていったのも、国外ではもはや短文による詩文といった意味に解体されている、理由としてはローカルな言語体系と折り合いをつけるためである、と。音楽の輸出入の関係性の中からドイツあたりが仕入れた形式を(これもお国柄だが)論理的かつ合理的な抽象音楽の形式として確立させたのがソナタ形式の最たる交響曲であり、しかし形式にとらわれないロマン派の幕をあけたベートーヴェンがその可能性を一気に拡げると世界的な権威を持つようになり、あとはマイナーチェンジな多様化の流れの中、非ドイツ圏の国でナショナリズム旋風が吹き荒れたときに権威としての交響曲形式に自国の音楽語法を当て嵌めて世界的な影響力を発揮させようとしたのが、ロシアを中心とし20世紀全般にわたっていたる国で勃興した「周辺弱小国」の国民楽派及びその系譜であり(俳句同様この時点で交響曲形式はかなり解体されてしまう)、更に交響曲とはいいながらも自由な形式を持ち半ばオペラティックですらあるベルリオーズを代表とする表題交響曲(オペラの交響曲化と言えるかも知れない)の発展やリストからリヒャルト・シュトラウスが交響曲の形式を嫌い利用した交響詩というジャンルの人気、これは当時の受容層が一般市民になっていたことと無関係ではないが(お国柄の反映された交響曲はその国の市民にはわかりやすい。表題交響曲や交響詩の物語性・描写性が完全に抽象の産物である純器楽交響曲よりわかりやすいのは言うまでもない)そのあたりから交響曲は形式というより概念になっていく。厳格な形式による作曲法の限界もあり、マーラーの描いたみたいな名前だけ交響曲というもの、ウェーベルンのように形式の極致として交響曲の名を冠するものにいたって発展論的交響曲はいちおうピリオドを打つ。後は20世紀に入りブラームスより更に古典回帰の、ロマン派を否定する流れの中で「美しい抽象音楽形式」として採用されたという時期があり、フランス六人組の作品に交響曲がみられるのは明らかにその流れである(ルーセルあたりはドイツの交響曲の直接的影響と国民楽派、新古典主義の混淆がある)。ロシア・ソヴィエトにもプロコフィエフやショスタコーヴィチには(かなり変容しているものもあるが)新古典主義の流れを認めることができる。概念としてのみの交響曲(大規模な抽象音楽というくらいのものか)というところではしばしば単独であらわれるものもあり、ベリオのシンフォニアのようにポストモダーンなコラージュ作品が挙げられる。周辺国で旧態依然としたロマン派交響曲が量産され続けたのは前記のとおりだが、それも今はついえている。表題交響曲は残ってはいるが。


そんなとこですよ。個々の状況、イデオロギー的に交響曲の名を使わなかったり、他のジャンルが人気で交響曲など作っても金にならない状況、といったこともありますが。長時間拘束されずプログラムを組みやすい交響曲が近現代の演目として定着したこと、録音技術が劇場から各家庭にクラシックを引きこもらせたときに、視覚的効果を必要としない純音楽としての交響曲がもてはやされるようになったのが現代という言い方もあるかな。
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チャイコフスキー:交響曲第2番

2006年07月17日 | チャイコフスキー
○ラフリン指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(dolgoigraushaya)LP

雄渾な筆致で大曲を豪快に描き出してみせるラフリンは、ガウクよりゴロワノフを思わせる主観的なところがある。大ルバートがけっこう多いのだ。しかしガウクで時々きかれるのと同様リズムの激しい曲想でも音の最後をきっちり揃えず、テヌート気味の軟らかいフレージングを使用して、技術的に大雑把な印象を与えることもしばしばだ。テヌートうんぬんにかんしていえばこれはロシア「オケ」の古い伝統であるとも思えるし、ムラヴィンやコンドラシンあたりはだからこそはっきりそういったものと決別した対極的な演奏様式を持った。ラフリンの場合スヴェトラ同様オケの自由度が高いせいもあるのかもしれない。

この曲はもう歌ったり踊ったりの全4楽章なわけだが、のっけから迫力のある演奏ぶりで、内声の響きが充実しており重厚感がある一方かなり歌心が感じられる。ラフリンは当たり外れが激しいがこれは当たり。ロシアオケ(の古い録音)の場合、弦セクのノリ方でだいたい当たり外れがわかりますが、これはのっているようだ。ラフリンは引き締めるよりは壮大にやりたがるほうで、2楽章のカッコイイリズムを刻む行進曲の上にヴァイオリンから始まる歌謡旋律の情緒たっぷりな歌いぶりは放送コードギリギリ。ねっとりすぎる歌い方も、崩れぬテンポと重心の安定した響きで支えられ、気持ちいい。どちらかといえば弦主体の楽曲が、ラフリンの弦主体の作り方(本来的にアンサンブルというものは弦から組み立てるものだが)にマッチしている。じっさいここの弦の性能はかなりのレベルだ。2楽章はそれだけで完結するほどに出色の出来。3楽章はこのての演奏にしては遅いがキレはよく粘着を引きずらず、焦り過ぎもせずリズミカルにスケルツォ的性格を巧緻に描き出している。終楽章も比較的遅くリズムを煽るようなこともしていないが、発音は明確で、かつオケ全体の響かせかたに広がりが感じられる。「鶴」の主題がえんえんと変奏されつづけるわけでこれを凡人が解釈しようとすると「いつものチャイコの繰言」になってしまい飽きるのがオチだが、この人、例えばコーダ前に沈む場面の太鼓の音が、まるでマーラーの6番の英雄を打ち倒す木槌のようにひびき、聴くものを突如奈落に突き落とす。うわ暗い、とびっくりした。転調をくっきりわかるように表現している。全般、ドラマの起伏が鮮やかに「わかりやすく」作り上げられており、そこが「面白さ」になる、これはゴロワノフに通じるものだ。ゴロワノフはシェルヒェン同様実演録音のイメージで語られるから珍演大将扱いだが、ラフリンもライヴが残っていればあるいは全くゴロワノフなのかもしれない。ロシアマニアが想定するであろう「小ロシア」の構造を更にデフォルメする、「ここでこうやってくれ!」という希望を大幅に叶えるたぐいの演奏。○。録音は悪い(とうぜんモノラル)。

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ショスタコーヴィチ:交響曲第5番

2006年07月13日 | ショスタコーヴィチ
○バーンスタイン指揮フランス国立管弦楽団(KAPPELLMEISTER:CD-R)1976LIVE

かなり質の悪いエアチェックもので最初隠し録りかと思った。「膝の温もりが伝わってきそうな録音」と書きそうになった。一楽章では酷い混信もあり聞きづらい。しかし、やっぱりバンスタはわかりやすい。。この曲にこの年で今更面白みを感じるとは思わなかった。音のキレよく骨ばった音楽をかなでるのではなく、生暖かい肉のまだついている音楽、まさにマーラー側に思い切り引き寄せたような厚ぼったくも魅力的な響きに旋律の抒情性を最大限引き出したロマンティックな革命、オケもフランスがどうこういうものはなくバンスタのハミングにしっかり肉を付けている。勿論ドイツやロシアでは得られないすっきりした響きが(コンマスソロなど技術的綻びはあるにしても)バンスタの脂を上手くあぶり落としている点も聞き所ではあり、イギリスオケのようなニュートラルな無難さがない所もまた人間臭さを感じるのだ。いや、飽きないですねこの人の革命は、三楽章がなかったとしても。ムラヴィンだいすき派やチェリは偉大派には受けないやり方だろうが、この分厚い響きにえんえんと続く歌心には、マニアではなく一般人を引き付けるわかりやすい感情の滑らかな起伏がある。豊かな感受性は淋しくも希望のかけらと憧れをもって轟く三楽章で遺憾無く発揮され、マーラー好きのパリジャンの心を鷲掴みにする。ショスタコの大規模曲には速筆ゆえに構造の簡素さや各声部剥き出しの薄さがつきまとう。弱いオケがそのまま取り組んでしまうとちっともピンと来ない浅い曲に聞こえてしまいがちである。私などはそういうところで入り込めない部分があるのだが、演奏陣によってここまで分厚く塗り上げられると否応なく引き込まれざるを得ないのである。浅薄なまでに速いスピードで煽られる四楽章にしても旋律はつねに明らかであり響きの重心は低く厚味を保っている。コードを小節単位でただ各楽器に割り振っただけの余りに単純なスコアも粘着質の強いフレージングを施し構造的な弱みをカバーしている。それにしても弦楽器そうとうプルト多いな。旋律の抑揚も完全に歌謡的だが、元々カッコイイので演歌にはならない。打楽器要素が強調されているのもダレを抑えゴージャスぶりを発揮するのに役立っている。バンスタのカラオケ声がときどきうるさい。アグレッシブなのはいいのだが、マイクバランスが悪く指揮台直下で聞いているような感じなので、足踏み共々気を散らされてしまう。でもまあこの異常な突撃怒涛のクライマックスが聞けただけでも聴いた甲斐があった。○。
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ラヴェル:弦楽四重奏曲

2006年07月13日 | ラヴェル
○ベートーヴェン弦楽四重奏団(meldac)1961LIVE・CD

懐かしい音だ。カルヴェあたりを彷彿とする非常に感情的な音だ。比較的乱暴というかぶっきらぼうな力強さがあるが、艶のある音色には旧きよき時代への感傷が確かに宿っている。透明な響きの美しさを煽る演奏が好きな向きには薦められないが(モノラルだし)、単純に面白さを求めるなら(決して物凄く変なことをしているわけではないのだが)薦められる。リアルなロマンチシズムだ。ライヴならではだが二楽章のピチカートなどちょっとずれたり外したりしている。しかし激しさだけではなく流れとフォルムがきちっと守られており、流麗さも弾むリズムもないがリアルなアンサンブルのスリルを味わえる(うーんスリリングな面白さがあるかといえばそういうこともないんだけど)。実演なら迫力あっただろう。3楽章もリアルなロマンチシズムが横溢する。しかしぶよぶよにはならない(この曲だしね)。4楽章は絶対音感のある人は嫌がるだろうが、「音程」に特色がある。ファーストがかなり高めにとっていて、他の楽器もそれぞれ「極端な音程」をつけている。だから4本で協和するはずの響きも揃わない。しかしこれは実演ならではの感覚で、正規の音程でとるよりもボリュームと一体感があるという、何とも説明しがたい状況の生み出したものなのだ(実際はファーストのチューニングが狂ってきたけど4楽章アタッカだから直す隙がなく指で調整しただけだったりして)。収録を前提としていないライヴの作法だからそれが雑然と感じられても仕方ない(録音状態はロシアのものとしては比較的良好)。音色も(カルヴェ四重奏団だってそうだけど)揃っていないので、とても「正統派ラヴェル信者」には薦められないが、特に後半の盛り上がりは「ここまできてそう上り詰めるか!」といった一種異様な迫力があり特筆できる。私はけっこうこの最後あたりの自主性を保ちながらの丁々発止は好きだ。全体としては○。いわゆる旧来の解釈ぶりであり余り特徴的なものはないが、単独では十分楽しめる。
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チャイコフスキー:交響曲第5番

2006年07月13日 | チャイコフスキー
イワーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)LP

うーん私の盤面は悪すぎる(泣)冷静な判断ができかねるなあ。このやり尽くされた曲で個性を発揮するのはなかなか難しい。異常に聞き、弾きも分析もしている私には、それゆえになかなか満足いく演奏に出会えないという代物になっている。この演奏も意志的な流れに少し個性を感じるものの、ルバートのかけ方や各楽器の表現にどうしてもスヴェトラを感じてしまう。勿論逆なわけだし、もっと直截なわけだが、二楽章のホルンソロなど想起するなというほうが難しい。ルバートの振幅はもちろん小さいし、音楽のまっすぐな筋道を重視したイワーノフらしいもので、だからといって全体を厳しくスリムに締め上げ流れを作るムラヴィン様式ともあきらかに違うし、コンドラシンの豪胆な即物様式とも違うのは言わずもがなだ。逆にそういう(決して西欧的な意味でではないのだが比較論として)中庸な解釈ぶりが余り脚光を浴びないゆえんなのかも知れない。二楽章後半は安定したテンポでやや客観が勝る部分もあるが、細かい音量操作に特徴がある。もっともこのオケではなかなか弦楽器の音色の統一を始めとする、全体を一体化して盛り上げを作るのは難しいのだが、何とかレベルは保っている感じだ。三楽章は落ち着いていて個性に欠ける。テンポは相変わらず余り揺れず、微妙な音量操作にのみ特徴を見出だせる。四楽章も落ち着いているが、展開部あたりのリズムは程よく跳ねていてよい。オケはまさにソビ響、号砲磊落なブラス(しかし細部まで隙無く上手い)に開放的な弦楽器の弾きっぷり、それらのパートのおしなべて大ざっぱな音の切り方にうーんと思っていると、何故かテンポをきっちり守る木管群、成る程いつものソビ響だ。やや客観的なままクライマックスからコーダへよどみなく進むが盛り上げがイマイチだ。御定まりのコーダの表現もイワーノフらしくインテンポでリズムを守る。開放感がない。無印。
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ドビュッシー:弦楽四重奏曲

2006年07月12日 | ドビュッシー
○ヴィア・ノヴァ弦楽四重奏団(ERATO)CD

線の細いおとなしめの演奏だが、音色がなかなか繊細で美しい。軽やかで上品だ。フランスらしい演奏とはこういう演奏を言うのだろう。押しの強さではなく、引き方の巧さで聴かせる。全般遅めのインテンポで特徴的なものはないが、聞いていて気持ちのよい演奏だ。かなりさらっとしているので、2楽章などはBGM向きだろう。1楽章は余りに地味と思ったが、3楽章はやはり落ち着いた雰囲気であるものの、楽章の性格上なかなか思索的な演奏になっている。チェロの提示する第二主題が密やかに感傷を煽るのもまた何とも言えない。盛り上がりどころでの音量やテンポ変化がさほどなく、物足りなさを感じる人もいるかもしれないが、全体の統一のとれた解釈であり、静かな場面の表現により傾聴すべきものであろう。4楽章の静かな序奏部から警句的な主部への移行が実に注意深く、周到なアッチェランド含め耳を惹くものがある。主部が余りがなりたてない、やはり控えめな表現だが弓使いが巧く不自然さが無いのが耳心地いい。この団体で聞くべきはやはり弱音部なのだなあ、とシンコペ主題前の沈潜するヴァイオリンを聴いていて思った。その後のダイナミックな展開はきちっと出来てはいるが余り押しが強くない。しかしそこが「我々が思い浮かべるフランス的なるもの」をまさに体言している気もする。実に上品だ。それほど協和した音色でもなく、アンサンブル的に練られているわけでもないのだが、個々の技と全体の解釈の妙で(それほどあるわけではない「構造的な部分」になると敢えて内声を強く押し出し音楽全体の膨らみを持たせるなど、細かく聴けば発見がある)さすがと思わせるものがある。「踏み外さない演奏」というのを私は余り好きではないのだが、これは一つの立派な解釈だと思った。最後の協和音はきっぱり弾ききって清清しい。○。
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チャイコフスキー:交響曲第3番

2006年07月12日 | チャイコフスキー
○ガウク指揮モスクワ放送交響楽団(?)LP

どうにも散漫な曲で、勇壮な五楽章まで行き着くのも大変だ。ガウクの音響のまとめかたはおおざっぱでオケも音色的なバラケ感が否めないが、それでもここでは勢い任せにならず力感に溢れたリズミカルな演奏になっていて楽しめる。五楽章の構造的な部分もしっかりまとまっていて、更に迫力ある威勢のいい弾きっぷり吹きっぷりがプラスアルファで圧倒される。全般ガウクにしては成功していると言えるのではないか。拡散的で開放的な解釈+オケが、組曲ふうのこの曲の性格に上手くマッチした部分もあろう。中間楽章、とくに緩徐楽章で(本来的に)ダレるところは、真正面からではなく一工夫コントラストつけた表現が欲しかった気もする。おまけで○。ガウクは他に来日記念盤の6番のLPがあるというが未聴。
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