湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

☆コルンゴルド:ヴァイオリン協奏曲

2016年11月30日 | Weblog
◎ハイフェッツ(Vn)ウォレンシュタイン指揮ロス・フィル(RCA)1953/1/10・CD

ハイフェッツの美音が抜群に冴え渡っている!!即物主義的な演奏も行うハイフェッツの、これは非常に共感の篭ったロマンティックな演奏である。この音の艶、音色の多彩さ、ボウイングの巧さ、すべてにおいて完璧である。コルンゴルドは19世紀末のウィーンに生まれ、11歳で早くも作曲を開始、シェーンベルクの師匠で知られるツェムリンスキー他に学び、早熟の天才として名をあげたものの後年ナチの台頭でヨーロッパをはなれアメリカに移住。ハリウッドに居をかまえ多くの映画音楽を手がけた。この作品は1947年に初演されたアメリカ時代のもので、世紀末ウィーンの情緒(マーラーやリヒャルトの世界)を基軸とはしながらも、アメリカ的な軽いモダニズムを盛り込んだ、さながらウォルトンのコンチェルトを彷彿とさせるシャープな透明感も持ち合わせるようになってきている。冒頭の生ぬるい(でもカッコイイ)旋律ひとつをとってみても映画音楽的(いや、リヒャルト的)であることは歴然。その点バーバーのコンチェルトに似た感じも受ける。それでも個性的であり、コルンゴルドにしか描けない「色」がある。独特の技巧を盛り込んだソロはけっこう難度が高い。近年とみにヴァイオリニストの注目を受けている。この人の旋律は同じ音の間を半音階的に行ったり来たりするような、ちょっと聞き耳に残りづらいところがあるが、慣れればハマることうけあい。今、旬の作曲家!?,
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☆ラフマニノフ:交響曲第2番(1906-07)

2016年11月30日 | Weblog
○ロジンスキ指揮ニューヨーク・フィル(COLUMBIA/EMI)1945/11/15

これ、もうすぐCD化します(2003/9末)。手元のLPが非常に状態が悪いため、CDで買い直すつもりだけれども、演奏の概要は聞き取ることができる。かなり押せ押せごり押せのストレートな演奏で、ロジンスキ節炸裂、密度の濃い音響はラフマニノフのロシア風味をぐっと引き立てる。音が悪いからというわけではないが、クーセヴィツキー盤に似ているように思われた(もっともあっちはテンポがかなり揺れるが、作り上げる音の質が良く似ている)。4楽章はとくにテンポが全く揺れず、速いスピードでぐんぐん押し進むところが男らしい。対して3楽章は恐らくこの演奏の白眉とでも言うべきもので、昔のハリウッド映画を思わせるロマンチシズムに満ちた、しかしベタベタせずに男らしい情感溢れる表現が印象的だ。全般、この音質では○は上げられないけれども、CD化後を想定して上乗せ、○ひとつつけておく。ちなみに当然カット版で、独特のカットがびっくりさせる。カーネギーホール録音。一日で録りおえている。,
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☆ラヴェル:ピアノ協奏曲ト長調(1931)~Ⅲ

2016年11月30日 | Weblog
◎ロン(p)コンドラシン指揮モスクワ・フィル(モスクワ音楽院大ホール百周年記念盤)1955/4/12live・CD

ラヴェルに対して姉御的存在だったのがロン。古いブランコ盤でのロンは雑音の多い中でも際立って巧い。逆にロンが最晩年に収録した盤はややオケに難がある。ところでここではコンドラシンの力量をまずもって明らかにする。コンドラシンの素晴らしいコントロールとモスクワ・フィルの巧さをもって非常に耳心地が良い音楽となっている。終楽章だけというのがいかにも残念。ロンはさすがにちょっと老いた感もあるが、聞ける。,
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☆ラフマニノフ:交響的舞曲

2016年11月29日 | Weblog
◎コンドラシン指揮モスクワ・フィル(melodiyaほか)CD

この曲はしばしば交響曲的と評される、三楽章からなる構築的な大管弦楽曲である。ラフマニノフの遺した最後の作品のひとつであり、にもかかわらず瑞々しい感性に溢れ、洗練された手法が縦横に駆使されている。ラフマニノフ得意の浮き立つような舞曲は、晩年にしては珍しく明快で魅力的な旋律により彩られる。特に第一楽章第一主題の力強さは耳を惹く。続く第二主題の哀愁も、叶わぬ望郷の念の篭ったロシア民謡調ではあるが、響きは常に簡潔であり、決してべたべたにならず、独特の透明感をもっている。これらのことは他楽章においても同様である。そうした曲の特性に、コンドラシンの棒は優れて適性を示す。作曲家はオーマンディ・フィラデルフィア管弦楽団の演奏を好んだといわれるが(異説もある)、遺された録音で比較した場合、コンドラシンの強い意志を持った演奏にはかなわないように思う。直截で客観的な解釈も曲にあっている。また楽団にしても、弦の強固なアンサンブル、管の特にソロにおいて優れた表出力には、ソヴィエト時代のオーケストラの実力を改めて認識させられるものだ。CD復刻されているようなので、もし興味があれば一聴をお勧めする。,
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☆ドビュッシー:歌劇「ペレアスとメリザンド」より”私の長い髪”

2016年11月29日 | Weblog
メアリ・ガーデン(SP)作曲家(P)(EMI)1904・CD

ドビュッシーとガーデンの歌による<ペレアス>の一節を聴いた。哀しい歌声だ。歌詞はわからない。しかし90年余りの歳月を経てひびく歌声は、限りない郷愁を感じさせる。録音とは不思議なもので、時を止め、シリンダに封じ込めてしまえる。この時代は、どんな時代だったのだろう。祖父ですら未だ二、三才だった日本は、日清戦争が終わったばかりである。フランスではバックでピアノを弾いているドビュッシーが認められたばかりで、オーストリアではシェーンベルクは未だ無調にすら入っていず、マーラーですら健在であった。ガーデンは1967年まで命長らえたという。しかし、こんな歌声が出たのは、そう長くはあるまい。老いさらばえた頃、彼女はこの音を聞いただろうか。全てが夢の彼辺に消え去ってしまった後、ふと、その夢をつかの間かいま見るために、このレコードを針に掛けることがあっただろうか。亡き芸術家達が華やかに活躍していたこの時代の音。ドビュッシーの横顔が眼の裏に浮かんだろうか。全ては何十年も、半世紀以上も前の話。返らぬ時の波間に、ふと輝いてはふと消えるともしびのような、か細くはかないこの録音を聞きながら、僕もまた、遠き見知らぬ昔に想いを馳せる。(1993/11/30記),
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☆マーラー:交響曲第4番(1892~1910)

2016年11月29日 | Weblog
メンゲルベルク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、ヴィンセント(PHILIPS他)1939/11LIVE・CD

気合系の演奏をするメンゲルベルクの気合盤のひとつ。第二楽章の冒頭からの勢いや中間部の厚い響きは出色。しばしばメンゲルベルクの特徴とされる恣意的解釈・・・曲によって使い分けしていると個人的には思う・・・はここではまさに”超”のつくテンポのコントラストが激しい演奏で、デロデロ感が違和感をもたらすところもある(第一楽章)。かれの棒はべつにワンパターンなロマンティシズムに基づくものではなく、シェルヒェンらの表現主義的解釈に近い。だからハマれば非常に面白く聞ける。この演奏は全てがベストではないが、聞き所も多い。第二楽章、やはり濃厚な音でうねるようなルバートがイヤラシイ。清澄さは皆無。弦がひとしきり唄って木管が間奏を入れるところの静寂への沈み込み、次いでオーボエ・ソロから再び弦のうねり、といったドラマティックな変化はけして”あからさま”ではなく、しばしば沈思させる雰囲気があり、第三楽章でも弱音部にはとくに「諦念」を感じさせるほどの深みがある。楽器間の受け渡しにはとくに細かなルバートが頻見されスコアに無い表現もある(ヴァイオリンの妙なアタックとか)。木管ソロに音色配慮がなさすぎると感じるところもあるが、弦は非常になめらかに且つ正確に表現し情感を確実に高めてゆく。繰り返しになるがストンと弱音に落ちたところの寂々とした音色は出色だ。暗さの表現は非常に的確である。ポルタメントの嵐はご愛嬌。第四楽章はスウィング、スウィング!!いきなりのノリ、次いでヴィンセントの歌唱は真綿に包んだようで余り上手には聞こえないが趣はある。テンポはやや速めで気持ちがよい。ここでも弦は立派だ。総じて「聞ける」独特の演奏。録音は悪い(雑音系)。メンゲルベルクはマーラーの弟子格で同僚でもあった”十字軍”のひとり。マーラーはメンゲルベルクの表現に一目置いていたといわれ、アルマ夫人の信望も厚かったらしい。だがナチに絡んで晩年は演奏機会を与えられぬまま失意の死を迎えた。,
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☆ヴォーン・ウィリアムズ:弦楽四重奏のためのスケルツォ 他(遺作)

2016年11月28日 | Weblog
ナッシュ・アンサンブル(HYPERION)CD

先日レコード屋でみつけたCDの背にはこうあった。「ヴォーガン・ウィリアムズ」。知っている者には噴飯モノだが、一般的な認知度などこんなものである。「RVW」などという省略形も某三浦氏の著作がなければこれほど浸透しなかったろう(「これほど」とはあくまでクラヲタ内での話)。だが、この作曲家が20世紀前半のイギリスを代表する作曲家であることは疑いのない事実である。だから当然英国では崇拝され、演奏され続けてきているわけであり、そこから有名レーヴェルを通じて流れてきた音盤を聴いて悦に入る私のようなヲタが日本にも少なからずいるわけである。この盤はそんな英国近代音楽ヲタにとって寝耳に水のお宝であった。2000年に作曲家未亡人(まだご健在なのである(後補:お亡くなりになりました)・・・但しかなり年若い後妻ではあったのだが)が封印されてきた遺作群に出版と演奏の許可を出したというので、早速ロンドン交響曲の初版が演奏されCD化したわけだが、この2枚組はその中にあった主に習作期の室内楽をはじめて集成録音したものである。だが、やはり習作期は習作期、とくに2枚目に収録された曲は擬古典的(もしくは教会音楽的)なずいぶんと大昔の情緒を漂わせるものであったり(RVWらしいといえばらしいのだが)、民謡風旋律の用法においてはドヴォルザークなどの影響も明確に感じられるし、ブルッフに師事したせいであろうドイツの前代室内楽に接近している所も大きく、まあ「そういうもの」としての出来は素晴らしく緊密な書法からも完成度が高いともいえようが、はっきり言って、われわれが20世紀の作曲家RVWに求める「もの」は、あまりないと言っていい。

ラヴェル師事(1908)後の、フランス近代音楽(とくにドビュッシー)への著しい傾倒、そして咀嚼吸収という経過をへるまでの状況を知る上では確かに興味深い。その時期の代表作とされる合唱曲「未知の世界へ」(1907)に聞かれるような明瞭なロマン性はこれら作品群に通底しているが、ここではまさに古い世界から未知の世界への到達をとげる道程が示されている。連作歌曲集「ウェンロックの崖にて」および番号付きの最初の弦楽四重奏曲(1909)は最初の代表作とされる作品で、ラヴェル師事直後のものだが、これらの示す異様な完成度の高さの影には、この2盤に収録された習作群があったわけで、聴くにつけRVWの仕事場で未完成の品々を覗き見ているような感覚をおぼえる。この盤の収録曲を作曲年順に並べて、「あ、変わった」と最初に感じさせるのが、2枚目に収録のこの「スケルツォ」(1904)だ。これはラヴェル師事前に既に新しいものへの興味を示していたことを裏付ける作品であろう。国民楽派ふうの仰々しい開始部からしばらくは手だれのロマン派作曲家の工芸品的作品を見るような想いだが、和声(転調)にちょっと新鮮な味が混ざりだし、それがたんにドヴォルザークの「アメリカ」の世界に止まらないものであることを、調性感がいささか曖昧になる中間部、とくにフラジオ4本による音の交錯と、その後に雄弁な主題が戻ったあとの、半音階的な不思議な下降音形に感じさせる。結局は雄弁な音楽が戻って国民楽派ふうに終わり、ドイツ臭は依然抜けないものの、それなりに面白く聞ける曲だ。演奏は立派。技術的に不安のない団体。この次に聴くべきは1枚目の弦楽五重奏による「夜想曲とスケルツォ」(1906)である。

夜想曲は「スケルツォ」とはかなり異なった作風で驚かされる。リヒャルトやシェーンベルク初期の「感じ」も感じるが、それらよりもやっぱり一番影響を感じるのはディーリアスの薄明の音楽だろう。かなり半音階的な作品であり、旋律に、より明瞭な音楽を志向する萌芽はみえるものの、この曲はディーリアンだったRVWを象徴する面白い(かなり面白い)作品といっていいだろう。スケルツォはディーリアスを離れ清新なフランス風作品を意識しているのは間違い無い。ラヴェル前夜で到達できた最後の領域だろう。ホルストの「惑星」がふと頭をよぎったが、あながち外れてはいまい。次のフルートとピアノのための「バレエ組曲」(1913~1924?)はドビュッシーのRVW式翻案といえようが、ちょっとどっちつかず。楽器の選択を誤ったかも。フルートによる民謡表現がピアノのモダンな響きとアンマッチな感じもする。まあ、このあたりになるともうRVWは完成期を迎えているわけで、「習作」というより「未発表曲」といってもいいはずなのだが、はずなのだが、、、この盤には、「RVW工房の床に転がったままの作品」が入っている。つまり、それまでの作品だったのだな、というところ。ヴァイオリンとピアノのための「ロマンスとパストラレ」(1914)などはじつは近年既に出版されており、私も持っている。ヴィオラとピアノのための「ロマンス」(1914)も出ていたのではないか??言わずもがなのターティス献呈作品である。これら、あまり名作とは言い難い。2枚目の最後に入っている弦楽四重奏による「ウェールズの讃美歌調による三つの前奏曲」(1940/41)は後期RVWらしい曲で、地味だが、他の曲と対比させて聞くと面白い。,
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☆ワグナー:「ニュールンベルグのマイスタージンガー」~1幕への前奏曲

2016年11月28日 | Weblog
ムラヴィンスキー指揮モスクワ・フィル(BMG,MELODIYA)1941・CD

速い。軽い。キーが高い。割合とロマンティックで、フレージングにも気を使った演奏ぶりが意外である。ミャーミャーいうヴァイオリンの音は時代のなせるわざであろうが、モスクワ・フィルらしい前へ前へ進もうとするせっかちなところや、鋭く激しく研ぎ澄まされたアンサンブルはこのオケならではの味を醸していて面白い。対位法的な組み物がとてもスムーズな流れの中にかちっと噛み合っているところはワグナーにも意外と適性のあったムラヴィンスキー、さすがの匠の技である。この速さできっちり出来上がっているところも素晴らしい。いかんせん録音が悪いので無印にしておくが、ロシア流儀のワグナーとして記憶に留めておくに相応しい特徴的な演奏である。クライマックスでのペットのヴィブラートがポイント。気持ち悪く感じる人もいるかも。,
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☆オネゲル:交響的黙劇「勝利のオラース」(1920-21)

2016年11月28日 | フランス
○アンセルメ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R)1948/12/18live

オネゲル自身が代表作に挙げた大規模な管弦楽作品で、楽器用法や構成、概ねの響きにオネゲルらしさが横溢している(だから何かアメリカ往年のスペクタクル映画音楽に聴こえる部分もある)とはいえ、他作品とは隔絶した独特の晦渋さがあり、高音打楽器等によるしんとした音響を織り交ぜつつ並ならぬ分厚い音響を弦楽器により不協和的にうねらせ、そこに(よくとったやり方だが)凶悪な響きを持つブラスを重ねていくさまは異様で、シェーンベルクの削ぎ落とされたルナティックなピエロと、肥大化したグレの歌が混ざり合ったような奇妙な現代感を抱かせる。音の多さはけして無秩序ゆえではないがアイヴズを想起せざるを得ないところもある。よく筋書きを知ってから聴くべき曲なのかもしれない。12音全部が鳴るなど諸所に機知を織り込んださまは確かにマンネリズムの否定できない完成期オネゲルにおいては魅力的に聴こえる。友人ミヨーの破天荒時代にあった音楽ともまた違い、「ちゃんとしよう」という意識があるから、分析好きは楽しめる曲かもしれない。

初演者アンセルメは音こそ透明感を保っているものの力感を前面に押し出し、総じてドイツ的だ。NBC弦楽セクションの持つ力が(アイヴズの「答えのない質問」におけるコラールのように)和声的に移ろう音符の重みを際立たせ、中欧的表現を演出している。アンセルメがこういう圧倒的な音楽をもやれたとはスイス人にもわからなかったろうなあ(謎)。ザッヒャー盤等紹介した覚えがあるのだが検索すると出ない。録音最悪。差し引いて○。
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☆ボロディン:歌劇「イーゴリ公」抜粋(舞曲とだったん人の踊りから終幕)

2016年11月27日 | ボロディン
○チェリビダッケ指揮トリノ・イタリア放送交響楽団(ARKADIA)1962/1/9live・CD

最初の舞曲は随分と俊敏で驚いた。そういえばまだこの時期チェリは俊敏だった。しかし統制もかなり厳しくムラヴィン的ですらある。韃靼人に入ると音響指向が出てきて、横の流れより縦の美しさを重視したタテノリな演奏になってくる。さすがに美しい。弦楽器が構造的に絡む箇所などこのへんの神経質な整え方はあきらかにチェリだ。テンポは安定して遅く、ただリズミカルである。弾むようなバス音域のリズム感に乗れる程度にカンタービレを抑えた表現が独特の美観をはなつ。場面転換してくるくる舞う場面に入っていくとまた最初の舞曲のノリに近くなってくるが、以前の演奏スタイルにくらべアグレッシブさをやや抑え少し引いた整えられた響きをもったドイツ的だったん人をもって、格調高さと興奮を共に煽るオペラティックな表現が面白い。響きはとことん磨かれ乱れの少しもないように厳しく統制されている。聴くぶんには何度でも聴くに耐えうる最高のものだが演奏するのは面倒だろうな。個性の面でどっちつかずな感じはあっても、後年の完全に引いてしまったチェリよりは好きだ。管弦楽としての演奏ではなく恐らく歌劇としての演奏を繋いだのではないか、曲間がいちいち開く。もしくはチェリの意向か。踊りの迫力はドイツの重低音に援護され、しかし再び踊り子が出てくると分裂症的にがらっと場面が切り替わって先ほどの遅いテンポでしっかりしたリズムの上に音楽が極めてメカニカルに整えられる。そのメカニカルというのが現代のメカニカルじゃなくて、蒸気機関の時代のメカニカルというか、すこぶるリズミカルな血の通ったものになっている。スネアに煽られて戦闘状態に畳み込む部分の迫力も凄い。強弱のコントラストがはっきりしていて、いかにもバレエだ。ちょっと速すぎてキッチュなオッフェンバックになってしまったりブラスがこけたりするところもあるが、楽しい終幕はちょっとロシアの迫力とも違って面白い。◎にしてもいいが、まあ○でしょう。
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☆ヴォーン・ウィリアムズ:勝利への感謝の祈り

2016年11月27日 | Weblog
○スダビー(sp)ボールト指揮BBC合唱団、子供合唱団、交響楽団(inta glio)CD

南極交響曲あたりを思わせる響きを持った前向きな楽曲で、後期RVW特有の重さもあるがおおむね聴き易い。題名が暗示するとおりこれは第二次世界大戦の勝利への希望を託して制作された管弦楽付歌曲(+合唱+ナレーションのオラトリオ的な壮大なもの)であり、ファンファーレからソプラノの高らかなエコーに続く冒頭からして殆ど勝利してしまったかのような祝祭的雰囲気がある。ライナーにあるとおり、その8ヶ月後には広島に原爆が投下されるという悲惨な出来事が起こるのであるが・・・。テキストは聖書、シェークスピア、キプリングの簡潔だがパワフルな言葉による。恐ろしい状況の下でも力強く勝利へと突き進む内容は、後期RVWにしては意外なほど屈折が無く、大戦中も戦争ものを含む映画音楽を数本手がけるといったけっこうアグレッシブな活動を続けていたRVWの実態を裏付けるものとなっている。RVWと第二次大戦の関係を語るとき、必ずといっていいほど5番交響曲と6番交響曲のみが挙げられ、前者は戦争の悲惨さに対する限りない平安の祈り、後者は戦争の悲惨さそのものの深刻な音楽とされ、それだけがRVWの戦争中の作曲活動であるかのように言われる事が多い。実際にはそんなに単純な反戦感情的作曲家ではなかったのであり、プロフェッショナルとしてきっちり仕事していたわけである。もっとも、この曲には部分的に「天路歴程」との近似性が強く感じられ、わかりやすすぎるほどわかりやすい非常に耳馴染みの良い歌には、5番交響曲との関連性も指摘できなくはない。演奏はそれほど魅力的とは感じなかったが、ボールトらしい決然としたしっかりした演奏である。録音はモノラルでやや悪い。○。,
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☆チャイコフスキー:交響曲第5番

2016年11月26日 | Weblog
○メンゲルベルク指揮ACO(SEVEN SEAS,KING)1939/11/26LIVE・CD

この演奏、一楽章の欠落を28年盤から補完しているという無茶な盤。でも元がSPらしく明瞭な繋ぎ目がいくつも聞こえてくるので最早どうでもいいやという感じ。気になるのはメンゲルベルクお得意のポルタメント濫用だが、録音が悪いのでそんなに目だっては来ない。むしろそんな些末な部分よりも全体の造形の確かさに感心した。もっとも印象的だったのは2楽章で、カンタービレ!!ってかんじ。しかもソロで歌うわけではなくオケ全体が巨大な波をうっており圧巻だ。ビクビクもののホルンソロも美しい謡いかた。この2楽章は聴いて損はありません。3楽章はワルツ好きのメンゲルベルクにしてはちょっと普通すぎるか。4楽章はどんな指揮者がやっても大差なく感動させる音楽なので、コーダの序奏をカットするという無茶な解釈以外はほどほど楽しめるといった様子である。2楽章のすばらしさに全ての瑕疵が吸収されたということで○ひとつ。,
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☆ヴォーン・ウィリアムズ:交響曲第5番

2016年11月26日 | Weblog
○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(DUTTON他)1944/2/17・CD

耽美なステレオ盤よりこのダイナミックな旧録のほうが私は好きだ。ヴォーン・ウィリアムズの牧歌的なイメージをそのまま具現化したような同曲に対して、当時ライヴで強引な演奏を繰り広げていたバルビローリは、起伏の大きく感情の赴くままに歌いまくる演奏をやってのけている。3番の繊細な音楽であれば壊してしまったかもしれないが、しっかりした構成と叙情性のバランスのとれた5番を選んだのは正解だ。とにかく歌、歌、歌、カンタービレ!音が悪いので(ダットンはリマスタリングで残響を付加しているが、それでもなお)想像力をもって聴いてみてほしい。このヴォーン・ウィリアムズの一番の人気交響曲(日本でもプロアマ最近けっこうやられている)、聞いた事がないならハンドレーやトムソン、ボールトで予習してから聴いてください。バルビがいかに荒れ狂っているかわかるでしょう。聞けば聴くほど面白くなってくる演奏。バルビのRVWは当たり外れ大きいが、これは当たり。LPのほうが音はよかったような気も・・・。,
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☆ヴォーン・ウィリアムズ:オーボエ協奏曲

2016年11月25日 | ヴォーン・ウィリアムズ
○ミッチ・ミラー(O)バーナード・ハーマン指揮CBS交響楽団(PASC)1945/9/9放送録音・CD

ソリストも指揮者も映画音楽やライトクラシックの巨人という面白い組み合わせ。ミラーがオーボエ奏者としてデビューしたというのは意外と知られていないかもしれない。この時期には、英国作曲界の大老RVWの新作小品、ということで前衛派や「大演奏家」が取り組むことは余りなく、放送オケで職人指揮者が、あるいは比較的若い演奏家が独自のレパートリーとせんと取り組む対象ではあった。しかしこの作品は小粒ではあるが凡作ではなく、古典に一長を持っていたバルビローリの妻イヴリン・ロスウェルの貴重な現代レパートリーの一つだった。懐古的なロマンティックな楽想を持ちながら、中欧的な重ったるさを除外した清新な響きが、新古典の簡潔な書法の上に高らかなまま編み接がれ、室内合奏曲(オケは小編成の弦楽のみ)ならではの絡み合うアンサンブルの魅力もはっきり、明確に耳に届く。短い三楽章制だが、1楽章は憂愁を孕む音楽がしかしあっさり、中間楽章はさっさと終わるスケルツォになっており、終楽章が全体構成的には長く、たっぷりとドラマを聴かせる。技巧的なラインを途切れさせることなくひたすら歌う独奏と、必ずしも伴奏に徹せず独奏者と同様の楽想を発止と絡めるオケの組み合い方が素晴らしく美しい。

RVW特有の癖というか趣味というか、独奏にちょっと独特の鄙びた音色表現を要求するところがあり、その点でミラーは正面から行き過ぎている。そもそも余り情趣を醸すような表現を得意としていないのか、割と技巧をまっすぐ押し出すだけで一本調子だから、そもそも一発録りであろう放送録音ということもあって瑕疵も目立つのだが、消化しきれていない感もある。もっともアメリカ初演を担ったわけで、この録音だけで判断してしまっても悪いのだが。オケも小編成でかつ、余り録音条件がよくないため正直上手いようには聴こえない。突出が目立ち不恰好である。

オケともども1楽章の出だしがたどたどしく生硬なのはまさにその「一発録り」のせいだろう、終楽章では比較的まともになる。オールドスタイルの捻りが時々、独奏というよりはオケにきかれ、突然感傷的なポルタメントを入れたりたっぷりテンポルバートしたりすることがある。これも中途半端で(ライトクラシックぽいやり方だけれど)、どっちかに統一してほしい、RVW的には余りロマン派的なほうに寄るのは違うと思う。テンポや重い表現で盛り上げるのはあわない、ちょっとした指先の振れや精巧な音色の操作によって感情がたち表れる、それが後期RVWだと思う。ちょっとちぐはぐで勘違い演奏的側面は否めない二流ものだが、同時代の演奏としては価値あるものだと思う。よくリマスターされているが40年代なりの音。○。
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☆ポンセ:ヴァイオリン協奏曲

2016年11月25日 | その他ラテン諸国
○シェリング(Vn)ハイキン指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(AKKOPA)1950年代・LP

シェリングの愛奏曲であるが同じ愛奏曲シマノフスキの2番に似た曲想にラテンアメリカのリズムと旋律が僅かに織り交ざる抽象的な作品である。この盤、かつては異常な高額盤だったが確かにバティスのものより抜群にすぐれた演奏ぶりである。シェリングの真骨頂を聴く思いだ。この曲によくもまあそんな心血注ぐ演奏振りを・・・と思わせる一方には録音のよさがあり、シェリング全盛期の凄まじい、しかし高潔な音が聴ける。高潔といっても無機質ではなく、音が撚れない跳ね返らないとかそういった意味でである。ポンセはわりと最初から最後まで弾き捲りで曲をまとめていて散漫な印象もあるが、シェリングはその音を余すところなく表現し、ハイキンもオケのロシアロシアした部分を抑えてひたすらシェリングのバックにまわっている。演奏的には素晴らしい。しかし、この曲は・・・まあ、好き好きかな。終楽章で初めてメキシコってかんじになる。シェリングはほんと珍曲好きというか、まあ、縁のある作品にはしっかり応える誠実さのある人だったのだろう。シェリング全盛期の力量にちょっと驚いた。○。他に2記録まで確認。
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