湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

サティ:馬の装具で

2018年09月16日 | サティ
ゴールド&フィッツデール(P)アンサンブル(columbia/sony)1953/1・CD

四手作品としてはもっとも有名なもの。少なくて硬い音響の羅列、サティの美学が標題と切り離されて存在する。ニ手作品とくらべて私個人的には音が多すぎるというか、掴みづらい小品感があり好んで聴く曲ではないものの、この演奏がことさら醒めているから却ってサティ的過ぎて聴きづらい面もあるが、とても個性的である。私のレコードではミヨーとドビュッシーに挟まれているが、三者三様、強いて言えばやはりドビュッシーに近い世界にも感じる。本質的に世俗性をはらんだミヨーからは遠い。
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サティ:ジムノペディ第1、3番(ドビュッシー管弦楽編曲)

2018年07月11日 | サティ
プレートル指揮フランス国立管弦楽団(ERATO/icon)CD

ふつう。「この曲でどうやったら個性的になるんじゃい!」と言われそうだが、表出意欲の強い演奏ならもっと古い録音にある。これは平穏なサロンミュージックで、引っかかるところがない。それが意図でもあろう。ドビュッシーの繊細さと乱暴さの同居する奇妙な編曲もサティの原曲の情緒を損ねずに、まるでもとからそうであったかのように聞きとおせる。プレートルの職人性が表れている。原曲は3,1番の順番になる。
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☆サティ:バレエ音楽「パラード」

2018年01月27日 | サティ
○マルケヴィッチ指揮日本フィル(PLATZ)1965/4/15東京文化会館live・CD

終演後の聴衆の戸惑いが信じられないくらいだ。これほど繊細さと猥雑さの極端なコントラストがつけられた「バレエ的な」演奏があっただろうか。速いテンポでどんどん場面転換していくさまは演奏会型式だと確かに分裂症的な印象をあたえるが元がバレエであることを念頭に聞いていくとこれほどちゃんと踊れるようになっている演奏はなかなかない。ライヴで日本のオケでここまでドライヴできるのは素晴らしい。音響バランスに多少の問題はかんじるが(奇矯な音素材が強調されすぎる)、そもそも主部の「猥雑な演奏」のすくないこの曲の録音にあってここまでキッチュなパラードを聴けるのがこの日本公演記録だったというのは想定外だった(死語)。マルケはバレエ音楽で生きる。ただ、オケがドイツ的だ。音色が暗い。安定感があり聞きやすいのだが、個性的でないわりに楽曲の軽さにはあっていない。楽想間の切り替えもはっきりさせず通奏感を持たせすぎている。これはマルケのせいではないだろう。惜しいが○。

※2007-02-27 10:00:53の記事です
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☆サティ:左右に見えるもの(眼鏡なしで)

2017年12月27日 | サティ
◎ボナルディ(Vn)ビリエ(P)(ARION,CBS)

おお、サティだ。繊細でシンプル、リリカルな雰囲気とさりげない風刺。どこかの哀しみ。非常に綺麗に純度の高い演奏ぶりを示している。ちょっと小粒かもしれないが、曲が小粒なのでバランス的には正しい。サティはけっこう室内楽への興味も持っていたみたいで、とくに弦楽器作品には挑もうとした痕跡があるが、結果としてのこされたものは伴奏としてのものを除けば非常に少ない。サティの単純化された書法がピアノとヴァイオリンそれぞれに注意深く反映され、おのおののパートとしても素晴らしく、けっして過度でも疎でもない、じつに個性が簡潔にはっきりと示されている佳作だ。からこそ、一般に普及させられたものとしてはこれしか残せなかったのだという見方もわかる気がする。模範的サティの演奏。

※2007-07-01 11:07:05の記事です
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☆サティ:ジムノペディ第1番、第3番~ドビュッシー編

2017年12月06日 | サティ
○オーリアコンブ指揮パリ音楽院管弦楽団(EMI/PATHE)1967初出・CD

ジムノペディGymnopedieはサティの造語と言われている。酒場でてきとうに名づけたという説もあるようだが、語源は古代ギリシャのスパルタ地方で行われていたデュオニソス祭で、戦死した戦士たちに捧げるために全裸の子供や青年たちが踊った舞踏Gymnopedicとされる。直訳すると「裸踊り」という意味らしい。そういう耽美な趣味もあったとか(すべて伝聞なのがサティ伝説の特徴、まあ、後年コクトーと交流したくらいだし)、奇人ぶりに繋がるところも伺える。まあ、文化全般にそういう神秘的でアルカイックなものが流行った時代だったのですね。もっともかなり若い頃の作品だけに、下衆の勘繰りはそれくらいにしておくべきだろう。手書き譜には乱暴に、「ジ・ム・ノ・ペ・ディ」!!と劇画タッチの標題が手書きされている。ちなみにジムノペディックは名前や絵こそ残っているが実態はよくわからない。余談になるが、明治時代の日本の本を読んでいたところ、以下の記述があった。おそらく言葉的に繋がっているにすぎないものとは思うが、なんでも古代ギリシャのアレキサンダー大王治世のころ、支配下にあった?インドに遊行哲学者”ジムノスウィスト”と呼ばれる一派がいて、生涯一切れの布も身につけず、丸裸で過ごしていたという。風雨にも寒暑にもめげず全裸を貫き通し、常に屋外で日暮らしする。あるときは日の出から日没まで太陽を見詰め、あるときは灼熱の砂漠に片足で終日立ち尽くし、それでも少しも苦痛をあらわすことはなかった。この文章は最後にローマ国のキリスト教の一派にも全裸で屋外にて隠遁生活を送るものたちがいて、数十名の妙齢の男女が一切れの布も身につけず森林に棲息しているのを見かけたものがいるらしい、と結んでいる。長々と書いたが、キーワードは「全裸」だ。ようは変人集団である。全裸は修行という意味もあるようで、インドらしいといえばインドらしい。話が何光年も飛んでしまったが、この編曲である。私はあまり意識していなかったのだが、ドビュッシーが管弦楽配置するさい、原曲の第三番を第一番、第一番を第二番に変更している。意図はよくわからないが、クライマックスに、より名曲である1番をもってきたかったのかもしれない。ドビュッシーは割と斬新な響きを密やかに加えていて、リズムパターンに重なる音の不協和なさまが、シンバルの轟きに補足されはっきり聞き取れる。この極めて明瞭な録音で聞くととくに、前奏部分では何の現代音楽を聴いているんだか、という錯覚を覚えるくらいだ。もっとも主部に入れば旋律の爽やかな魅力がリズムの不思議な重さを気だるく覆い隠すので気にならなくなる。耽美なパリ音楽院管のひびきはいかにもパリ的な洗練をもってこの曲のごつごつした異様なところを昇華させ、良質のサロンミュージックに仕立てている。これは貶しているのではない。聴き易く、入門には最適です。典雅で優しいハープも絶妙。○。

※2005/2/23の記事です
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☆サティ:ジムノペディ第3,1番(ドビュッシー管弦楽編曲)

2017年07月24日 | サティ
○ライナー指揮シカゴ交響楽団(DA:CD-R他)1960/3/25live

小憎らしいほどに完璧な表現で描かれた「サロン音楽」。アメリカ一般市民が想像しうる「上流階級の師弟が集う場に流れる音楽」そのもの。しかしサティは貧乏な一介の酒場のピアニスト兼作曲家であり、後年もダダイストとして富とは無縁の活動を続けたのである。しかしその音楽はドビュッシーによって、「こうも表現可能なほどに」香気を漂わせるものになった。「あなたが欲しい」などサティは今もスタンダードに歌われるシャンソンの作曲家でもあり、その意味で大成功した作曲家・・・の筈だったのだが、この曲にはやはり闇があり、それはピアノの途切れ途切れの音粒の間から立ち上るものであり、擦弦楽器の途切れないレガート音では表現しえないものである。ライナーは小憎らしいほどのデュナーミクへの配慮、バランス感覚により違和感を極力抑えている。ほんと小憎らしい。録音が悪いので○にとどめておく。(シカゴ交響楽団自主制作CDボックスに正規版が収録、別項で◎評価)

※2007/11/27の記事です
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☆サティ:バレエ組曲「びっくり箱」(ミヨー管弦楽編)

2017年07月22日 | サティ
○マルケヴィッチ指揮モンテ・カルロ国立歌劇場管弦楽団(ConcertHallSociety/SCRIBENDUM)CD・1972/7

三曲からなるパントマイム伴奏用の耳馴染みいい世俗作品で、ピアノ譜しか残らなかった(元からなかった?)ものが死後ミヨーにより発掘され編曲された。モンテ・カルロとはディーアギレフつながりで縁深いマルケヴィッチがディーアギレフをしのぶ企画内で録音したもの。録音はこの時期らしい安定しないステレオでスタジオ録音としては余りいいとは言えない。マルケヴィッチはスタジオ録音では割合と小粒にまとめてくるが、これもステレオの音場がなければ曲の内容のなさと透明感ある色彩とあいまって俊敏さとそつなさのみ浮き立つ職人的指揮としか受け取れなかったろう。サティも30代前半の作品で破壊的和声の山葵はきかせているもののポリシーまでに至っておらず、ミヨーのそつない編曲が更に没個性的な古風な作品という趣を助長している。美しいが音だけで成り立たせるのは難しい。キッチュな部分が少ないのでマルケヴィッチもただ立派にまとめるしかなかったのか。アマチュア臭のするオーダーメイド作品、こうやるのが関の山かもといったところで、○。

※2007/3/9の記事です
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☆サティ:パラード

2017年07月04日 | サティ
○マルケヴィッチ指揮NDR交響楽団(EMI)1960/2/15LIVE・CD

サティ天才!!ストラヴィンスキーはサティのオーケストレーションを無茶苦茶けなしたが、この極限まで削ぎ落とされた剥き出しの和音とリズムからなる骨の音楽はストラヴィンスキーの一連の小規模作品を思い浮かべずにはいられない。もっとも時代的にはほぼ同時期の作品であり、一方的にサティが新しいとも言えないのだが。序奏の静寂はもうそれだけでまったく清澄でかつ斬新な響きにより新しい次元を示している。マルケがバレエ指揮者としての技量を大いに発揮したといえる主部では騒々しいと言うには余りに音楽的な起伏が耳を飽きさせない。パラードの中心主題がやや冷静にすぎる気もするが、それよりこの半ばパロディな世俗的音楽が、演奏によってはここまで美質を引き出され、高貴な響きを産み出すことも可能なのだ、ということにはっとさせられる。変な冷静さがなければ◎をつけるに異論はないが、逆に冷静さがあるがゆえに(チェリビダッケの手法のように)この斬新な音楽の一つの本質を抉り出すことができたとも言えるし、そのあたりは好き好きかもしれない。とにかくパラードの印象をかなり変える可能性の有る演奏なので、この曲を知らない人が聞くと他が聞けなくなる危険性もある。○。モノラルだがかなりクリア。

※2005/2/23の記事です
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☆サティ:交響的ドラマ「ソクラート」

2017年05月23日 | サティ
○ダンコ(sp)ミヨー指揮ローマ・イタリア放送交響楽団(INA)1954/4/5live・CD

いやー、3曲聞きとおすのはけっこうたいへんです。起伏の無い曲であり、詩はドラマ的な部分は少しもなくただの読み上げに近いものであり、意図はそこにあり、ちゃんと言葉を理解して聞かないと正直音だけでは辛いかもしれない。ミヨーはサティに最も近しかった作曲家だが、この演奏はダンコの歌唱含めてロマンティックに過ぎる気がする。構造の繊細さも録音の古さはともかくミヨー自身の作品のようなドラマ性が響きあるいは「旋律」の起伏の中に織り込まれてしまって、際立ってこない。とはいえ「死」はやはりどうしても深い感傷を残さざるをえない部分が確かにあり、ミヨーの思い入れがそこに加わってどうなのか、というところもあるだろう。ダンコは巧い。雄弁とまでは言わないが歌いすぎ、表現しすぎである。終始つけられた細かいヴィブラートがどうもサティにそぐわない感じがした。オケがRAIなので音に生気がありすぎるところもあるか。希少記録として○にしておく。アンゲルブレシュトのペレアス抜粋とラヴェルのシェヘラザードのいずれも初出ライヴが組み合わされた「歌曲集」。ところでこれをミヨーによる管弦楽編曲版としている人がいるけど、どこをいじってるの?

※2007/2の記事です
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☆サティ:ジムノペディ第3番、第1番(ドビュッシー管弦楽編)

2017年05月19日 | サティ
○ライナー指揮シカゴ交響楽団(DA:CD-R)1960/3/25live

ゆったりと揺らぐテンポで繊細な音響配慮の行き届いた名演。録音状態がよければ◎にしたところで、ドビュッシーのやや奇矯とも聞こえる管弦楽配置に対し極力奇矯に聞こえないように注意深くやっている。シンバルも厳かな範囲を越えず弦楽はアタックをけしてしっかり聞かせることがなくフレージングが柔らかい。たいてい旋律提示のヴァイオリンが強すぎて「変なサティ」になってしまうのだが、この演奏ではそれがまったくない。ここは木管楽器を配置すべきだったんじゃないかと思うことがしばしばあるのだが(じっさいそういう編曲もある)この解釈だと違和感がない。両曲とも美観と感傷が人間的なところで融合をはたした表現として特筆できるものだと思う。サロン的といえばサロン的ではあるのだが。
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☆サティ:ジムノペディ第1番、3番(ドビュッシー管弦楽編)

2017年04月08日 | サティ
◎ライナー指揮シカゴ交響楽団(CSO)1960/3/25LIVE

1番(原曲3番)ちょっとびっくり耽美なテンポに陶酔の音。こんな指揮者だったっけ?陶酔もいいところで、またシカゴ交響楽団木管群のいい意味で個性が薄くそつのない響きが絶妙のバランスで響いている。瞑想に陥りそうなくらいだ。そこに仄かな感傷が生じて美しい。3番(原曲1番)これも遅い。そのテンポがキープされ春の海の水面の如くゆったり揺らぐさまが実に心地良い。ハープの煌きも遠く、瞑想の邪魔をしない。これはラテンの演奏スタイルとは隔絶している。でも、ジムノペディ管弦楽版の演奏としては群を抜いて聴き易い。スタンダードと言ってもいい。◎とするのに躊躇無し。こんなに嫌味の無い演奏は初めて聴く。とくに弦楽器の露悪的な響きを極力抑えているのが的を得ている。この曲を奏でるなら木管中心のアンサンブルだ、やっぱり。ドビュッシーの特異な音色絵画が消えてしまう、けどそれでもいい。
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☆サティ:交響的ドラマ「ソクラート」よりソクラートの死

2017年03月29日 | サティ
○モンタイユ(SP)ロザンタール指揮フランス国立放送管弦楽団(COLUMBIA/ADES他)CD

史上もっとも繊細なソクラートの死だろうな。ソクラートはそのまんまやろうとするとサティ的な暴走を始める。だからストラヴィンスキーはこのての単純美を反映するものとして管弦楽は適切じゃないとピアノ伴奏版を推したわけだが、ロザンタールのやり方でやると、殆ど朗誦な詩すら「歌」に聞こえる暖かさがあるにもかかわらず、雰囲気としてはドビュッシーの靄すら思わせる非常に注意深い響きへの配慮がみられ、奇矯さが殆ど無く、聞きやすい。ちょっと「歌いこみすぎ」て起承転結がついてしまった最後ではあるが、サティマニアでない限りこういったしめやかな終わり方のほうが印象的だろう。ほんとはあっさり途切れて死ぬ、全く感傷をさしはさまない「哲学的な死」であることこそが本来の意図である筈なのだが。ちょっと誤解を生じる書き方をしたが、ロザンタールなので、ラヴェル的に輪郭は明快。○。
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☆サティ:左右に見えるもの(眼鏡なしで)

2017年02月15日 | サティ
◎トゥルトゥリエ(Vn)チッコリーニ(P)(EMI/PATHE)1970初出・CD

この曲は奇跡的によくできた曲である。サティがこのスタイルで他に室内楽を書かなかったのが不思議なくらい同ジャンルにおいて独特の境地を示しており、決して筆のすさびではない。楽想的には中期サティのピアノ曲と同じものがあり、パロディ性が強く、一方で洗練・凝縮・単純化された書法や旋律を解体し伴奏と装飾音形だけで短い曲を形作るという斬新なやり方もはっきり表れている。それらのかもす空気感、透明で幻想的な流れはヴァイオリンという生臭い楽器を用いてもまったく失われず、寧ろその魅力が倍加されている。まるでヴァイオリン的な用法を馬鹿にしたようなパッセージも数多いが、それが毒のある雑味として導入されているわけでなく、見事にピアノと調和し、しっかりアンサンブルしているのである(アンサンブルというほど組み合わないが、掛け合いというくらいには組み合っている)。サティの弦楽器がこれほどサティ的情感を表現できていることに驚かされる。題名や3曲の標題はあきらかにダダイズム的でたいした意味はない。伝統的なコラールからはじまり子供音楽のパロディ的なフーガ、そしてなかなかウキウキの終曲幻想曲の最後にはなんと伝統的なヴァイオリンのカデンツァ(的なソロ)が入るが、どこかサティ流儀で、パロディというほどには野暮ではない。何か全てが寸止めされるような余りに短い3章だが、この完成度、サティ好きを自認するなら必聴だ。サティの魅力をまたひとつ発見できるだろう。ヴァイオリン的にはとくに難しくない。でも、サティ風に演奏するのにセンスは必要だろう。少なくとも情感を込めてはいけない。ピアノも同時期の独奏曲と非常に似通った感じでとくに難しくはなさそう。この演奏は数少ない音盤の中でも最も叙情的で美しい演奏である。ちょっと高尚すぎるかもしれないが。譜面は現在は極めて低額で手に入ります。◎。
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☆サティ:交響的ドラマ「ソクラート」

2017年01月18日 | サティ
◎ラロー(sp)ソゲ指揮管弦楽団(CEPEDIC)LP

ソーゲはサティが好き過ぎて一大コレクションまで築き上げてしまったが(この曲の原譜もソゲ・コレクションにあったのではなかったか)、サティ最後の使徒としてのその熱さが、演奏をほんとの交響的「ドラマ」にしてしまっている点は賛否あるだろう。私は聴きやすくて、感傷的になり、◎をつけてしまったが、サティの意図はソクラテスの理念の白骨化した標本であり、語謡のように感情のない歌である。それには沿っていない。ただ・・・私はこの「ソクラートの死」は大好きである!最後、もっとぷつんと切れるさまがはっきりしていればもっと。ちょっとなにげにぷちっと終わるのが短すぎる感じもする。でも名前は不詳だがオケも含めて抑制的な中にも激しさを篭めて秀逸。
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☆サティ:ソクラート~Ⅲ.ソクラートの死

2016年10月16日 | サティ

◎デレーヌ(T)ソーゲ(P)(ORPHEE)LP

テノールによる珍しい演奏。この曲はやはりストラヴィンスキーの言うとおりピアノ伴奏版にかぎる。しかも女声による不安定さが払拭されなかなかいい感じに沈んで聞こえる。感情が顕わにならない歌い方、演奏はいたって安定しており、どうして難しいこの大曲を飽きも違和感も感じさせずにかなできっている。最後のサティならではの断ち切られかたは成功している例に出会ったことがなくこの演奏もその範疇に漏れないが、それでもそこに至るまでの生臭さのないフランス的としか言いようのない繊細でも面白みのある音楽の流れは十分に魅力的である(この「魅力」は「艶」ではない)。いわゆるアルクイユ派出身の「直系」作曲家ソゲの演奏もいい。プーランク的なスピードというかテンポ感はあるにはあるのだが、プーランクのように恣意的な解釈を入れず注意深く演奏している。これが絶妙である。サティのおそらく最も評価されているこの曲、フランス語の歌詞がわからなくても聴きとおせるというのは相当な演奏レベル。◎にしておきます。
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