湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

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チャイコフスキー:交響曲第2番

2006年07月17日 | チャイコフスキー
○ラフリン指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(dolgoigraushaya)LP

雄渾な筆致で大曲を豪快に描き出してみせるラフリンは、ガウクよりゴロワノフを思わせる主観的なところがある。大ルバートがけっこう多いのだ。しかしガウクで時々きかれるのと同様リズムの激しい曲想でも音の最後をきっちり揃えず、テヌート気味の軟らかいフレージングを使用して、技術的に大雑把な印象を与えることもしばしばだ。テヌートうんぬんにかんしていえばこれはロシア「オケ」の古い伝統であるとも思えるし、ムラヴィンやコンドラシンあたりはだからこそはっきりそういったものと決別した対極的な演奏様式を持った。ラフリンの場合スヴェトラ同様オケの自由度が高いせいもあるのかもしれない。

この曲はもう歌ったり踊ったりの全4楽章なわけだが、のっけから迫力のある演奏ぶりで、内声の響きが充実しており重厚感がある一方かなり歌心が感じられる。ラフリンは当たり外れが激しいがこれは当たり。ロシアオケ(の古い録音)の場合、弦セクのノリ方でだいたい当たり外れがわかりますが、これはのっているようだ。ラフリンは引き締めるよりは壮大にやりたがるほうで、2楽章のカッコイイリズムを刻む行進曲の上にヴァイオリンから始まる歌謡旋律の情緒たっぷりな歌いぶりは放送コードギリギリ。ねっとりすぎる歌い方も、崩れぬテンポと重心の安定した響きで支えられ、気持ちいい。どちらかといえば弦主体の楽曲が、ラフリンの弦主体の作り方(本来的にアンサンブルというものは弦から組み立てるものだが)にマッチしている。じっさいここの弦の性能はかなりのレベルだ。2楽章はそれだけで完結するほどに出色の出来。3楽章はこのての演奏にしては遅いがキレはよく粘着を引きずらず、焦り過ぎもせずリズミカルにスケルツォ的性格を巧緻に描き出している。終楽章も比較的遅くリズムを煽るようなこともしていないが、発音は明確で、かつオケ全体の響かせかたに広がりが感じられる。「鶴」の主題がえんえんと変奏されつづけるわけでこれを凡人が解釈しようとすると「いつものチャイコの繰言」になってしまい飽きるのがオチだが、この人、例えばコーダ前に沈む場面の太鼓の音が、まるでマーラーの6番の英雄を打ち倒す木槌のようにひびき、聴くものを突如奈落に突き落とす。うわ暗い、とびっくりした。転調をくっきりわかるように表現している。全般、ドラマの起伏が鮮やかに「わかりやすく」作り上げられており、そこが「面白さ」になる、これはゴロワノフに通じるものだ。ゴロワノフはシェルヒェン同様実演録音のイメージで語られるから珍演大将扱いだが、ラフリンもライヴが残っていればあるいは全くゴロワノフなのかもしれない。ロシアマニアが想定するであろう「小ロシア」の構造を更にデフォルメする、「ここでこうやってくれ!」という希望を大幅に叶えるたぐいの演奏。○。録音は悪い(とうぜんモノラル)。

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