湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

☆ドヴォルザーク:交響曲第8番

2017年10月31日 | 北欧・東欧
◎ビーチャム指揮ロイヤル・フィル(EMI)1959/10/25ロイヤル・フェスティバルホールLIVE・CD

文句無しの凄演・・・これを補う言葉を私は知らない。野暮なブラームスでも民族的なドヴォルザークでもない、それらの生臭さをまったく昇華して、物凄くも高貴さに満ちたとても高みの音楽に仕上げた、としか言えない。オケも素晴らしく冴えていて、ここまで最初から最後まで惹きつけられる演奏は聞いたことが無い。とにかく決然とした発音と明瞭なテンポ感、異常なテンションが2楽章ですら物凄くドラマティックな音楽に仕立ててしまう。更に淀み無いスピード感が加わってビーチャム芸術の真骨頂とでも言うべきものであろうし、この曲のファンなら、モノラルで録音が悪いとはいえ、瞠目することうけあいの、しかしまったくの正攻法のドボ8、是非機会があれば聞いてみていただきたい。3楽章が変に民族舞踊にならず、しかも面白いというのだからびっくりだ。4楽章にはもっとびっくりな轟音が待っているのだけれども。ブラヴォーの凄まじさといったらない。

※2005/4/3の記事です
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マーラー:交響曲「大地の歌」

2017年10月30日 | Weblog
ヘフリガー(T)メリマン(Msp)クレツキ指揮ORTF(ina配信)1964/5/7放送live

比較的良好なステレオ。マーラー歌いとしてヨッフム盤では同じタッグで取り組んだヘフリガーとメリマンの余裕安定の歌唱に対し、クレツキは交響的でダイナミックな指揮でオケを盛り上げる。これは交響曲的演奏であり連作歌曲集的な繋ぎ合わせ感、あくまでバックオケとしての薄い響きのアンサンブルという観点はない。ちょっと音色が一本調子で中間楽章のニュアンス(アイロニカルな色とでも言おう)に欠けるところがあり、音楽の起伏のわりにすんなり聞けてしまう点は長大な告別でも変わらない。静かな終わり方の曲なのでブラヴォも後から少しずつ増える感じだが、これらがあくまでソリストに向けてのものであることはかんじとれ、クレツキもこの弱いオケをよく引っ張ったのに、と思うところもある。マーラーをやるにしてはやはりちょっと弱い、音色的にも。
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マーラー:交響曲第1番「巨人」

2017年10月30日 | Weblog
クレツキ指揮ORTF(ina配信)1970/6/24放送live

これは安心して聴いていられる。マーラー前期に合っているのだろう。ブラヴォこそ困惑混じりの感もあるがラストのカットのせいだろう、このカットは他でも稀に聴かれるもので、肝心のクライマックスで足をすくわれるが、それでも全体として起伏も激しくしかし均整は失わずに音響的には素晴らしく調和し和声変化が明確でカラフルだ。タイタンのスタンダードと言ってもいい〜ラストのカットと、オケの非力を除けば。三楽章はしっかり弾く方をとっている。クレツキらしい。
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プロコフィエフ:交響曲第5番

2017年10月30日 | Weblog
クレツキ指揮ORTF(ina配信)1965/12/9放送live

壮麗。力任せの猪突猛進ではないプロコフィエフの「娯楽作」を聞かせてくれるが、イメージ的に透明感や構築性を旨とした演奏をするクレツキが、ここではさすがに機を見て隈取濃く激しくやっている(四楽章は弦楽器がついてけないほどドライヴしてる)のを聴いて、そういえばこういう演奏もしていた、と思い出した。客席大ブラヴォ。音は放送レベルのまずまずのステレオ。クレツキは微細なルバートをひんぱんに掛けさせて、ソロが乱れてるように感じさせるところがあり、よく聞くと構造重視でいながらけっこう個性的なのです。和声は美しいが明確な描き分けはここでは無い。
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グラズノフ:5つのノヴェレッテ

2017年10月29日 | Weblog
サンクト・ペテルブルク四重奏団(DELOS)CD

伝統的なロシアのやり方で、現代の精度をもって演奏したスタンダードたる演奏。発音はショスタコーヴィチ四重奏団などを思わせる縮緬ヴィヴラートや情趣を湛えた音色で、しかし四本がしっかり同等に主張し、グラズノフの作曲手腕を活かしアンサンブルとしてとてもまとまった、統一された演奏になっている。曲ごとのムードの違いも(グラズノフ自身が書けた範囲で)明確で、やはりワルツの甘やかさにとても惹かれた。長さを感じさせない優秀録音。
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ヴォーン・ウィリアムズ:交響曲第6番

2017年10月27日 | Weblog
A.デイヴィス指揮BBC交響楽団(warner)CD

超廉価全集+にもかかわらず内容の良さで買いの、今やRVWのオーソリティとして実演でもおなじみアンドリュー・デイヴィスの6番である。何と言ってもこの人らしい垢抜けた派手なブラスがぶっ放される三楽章などが聴き映えはするのだが、本領は四楽章にあらわれる。ロンドン大空襲後の廃墟、もしくは核戦争後の地上を照らす月光を思わせると言われる(本人は例によって抽象的思考の産物という主張を曲げなかったようだ)突然の怜悧な静謐。しかしここにデイヴィスは美を見出す。他にもそうしている指揮者はいるが、不安な音線を慰める響き、ゆっくりたちのぼる田園ふうの旋律、これは救いの音楽なのかもしれない、、、それが死という救いだったとしても。曲が指揮者にマッチし、また技巧的だが個性的でない硬質のオケも曲にマッチした、なかなかの演奏。
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☆オネゲル:交響曲第3番「典礼風」

2017年10月27日 | Weblog
・作曲家指揮交響楽団(MUSIC&ARTS他)1949・CD フランス・デッカディスク大賞 *作曲家による紹介付き

・ツィピーヌ指揮パリ音楽院管弦楽団(COLUMBIA,PATHE/EMI)CD

1楽章「怒りの日」、いきなり厳しい音で始まるオネゲルの代表作、2番と共にゲンダイオンガク「ではない」手法で晦渋な世界を描ききった労作である。オネゲルをよく演奏したツィピーヌのものは、意外と素朴でほんわかした演奏だが、技術的なものや集中力こそイマイチなものの、暖かい音色と叙情的なフレーズの表現はちょっと魅力的である。この曲は六人組のひとりとして形式的なものを排し純粋な音楽の楽しさを求めていくというスタンスから大きく外れ、厳格な形式感をもってバッハに倣い、内容的には第二次大戦のもたらした惨禍への祈りとして一貫してシリアスな作風を保つという後期オネゲルの独自性を示している。もっとも中間楽章(3楽章制の2楽章「深き淵よりわれ汝を呼ぶ」)の繊細で抒情的な音楽は、「夏の牧歌」あたりの趣をいくぶん伝えている。この演奏で聞くとまるでヴォーン・ウィリアムズだ。実際この両者に共通点を見出す人もいるらしいが、この演奏で聞くとそれも真かと納得させられてしまうところがある。ヴォーン・ウィリアムズの4番を思い浮かべたのは私だけではあるまい(ヴォーン・ウィリアムズのほうが10年以上前だが)。荒んだ雰囲気の上に鳴り響くフルートの短いフレーズは、荒野の上に紫雲のたなびくさまを見ているようでとても効果的である。イマイチ悲劇度が足りない演奏ゆえ3(終)楽章「われらに平和を与えよ」では2楽章に近似したフレーズが耳につき、暖かい音楽に聞こえてしまい悲劇的な盛り上がりに欠ける演奏になってしまっているが、たとえばブリテンのシンフォニア・ダ・レクイエムのような祈りの音楽に近い感動を与えることには成功している。オネゲルはわかりにくい作曲家というイメージが有るが、たしかにそういう作品も数多いものの、とても熟達した作曲技法を駆使した緻密な作風は、演奏家にむしろ好かれる要素を持っているし、演奏家によっては十分に暖かい叙情味をかもすことのできる可能性も秘めていることがわかる。録音の古さからしてもあまり評価を上げられないが、特徴的な演奏ではある。無印。

※2004年以前の記事です
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ヴォーン・ウィリアムズ:交響曲第5番

2017年10月26日 | Weblog
ノリントン指揮スイス・ロマンド管弦楽団(eternities)live

とにかくホワイトノイズバリバリの音の悪さは何とかならないものか。最近の放送エアチェック音源だろうがこれはきつい。SPで鍛えられた脳内ノイズリダクションを発動させなんとか聞いてみる。さっさと進み思い入れのない音に一楽章、落胆する。指揮者ではない、このオケが「ただ鳴っている」、それを良しとする楽団なのだと思ってしまう。スケルツォになると楽想に変化があるせいか、ヴァイオリンが繊細で美しい表現をきかせ、アンサンブルはすみやかに組み上がり自然に聴ける。ただ、ノイズのせいで肝心の高音楽器がきれいに聴こえない、いや、不明瞭でそもそも聴こえない。ところが急激な音量変化とマイクの拾え方の問題か、三楽章はわりとよく聴こえる。誰がやっても印象的なRVWの世界だ。この頃になるとオーケストレーションにブラスのダイナミックさが加わり、万人受けする音楽、深い祈りを届けられるようになっている。が、ちょっと、このオケはやっぱり醒めてるなあと、思わせるところがやはり音色に出ているのは気になる。RVWには珍しいフィナーレらしいフィナーレは教会音楽ふうの旋律から始まるが、ノリントンらしく音響バランスは非常によい。古典的な印象を与える少し引いた感じの整え方だ。スピードは早めインテンポだが楽想次第でデジタルに表情を変えさせており、統制の厳しさ故か軋みを生じているところもあるし、そもそも弦楽セクションが薄いようにも思うが、先人たちの偉大な演奏にはおよばないものの、スコアに立ち返り表現すべきものだけを表現しているさまは賛同は得られるだろう。そのわりに構造的な部分がそれほどきっちり聴こえないのはイマイチ弾けないオケの醒めたところからきているか。あるいは録音の悪さからか!このオケにヴォーン・ウィリアムズを弾かせただけでも良しとすべきか。
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ブラームス:交響曲第3番

2017年10月26日 | Weblog
コンドラシン指揮ACO(eternities)1971/1/14live

力強いが羽目は外さずしっかりやる。縦にリズミカルでスピードをいたずらに上げることもない。オケがコンセルトヘボウであることも手伝ってロシア式の発音もありながらも基本線はしっかりブラームス、構造をしっかり意識し音にしっかり中身を持たせ集中力の高い演奏に結実させている。かつてスヴェトラのロシアオケによるブラームスを聴いて「羽目を外したブラームス」に耳を楽しませたものだが、本来ブラームスはいじってはならないほど書き込んでいて、変に表情をつけたり楽器を突出させてアピールさせたりすると不恰好極まりなくなってしまう。コンドラシンは晩年にいたってはちゃめちゃなラフマニノフもやってはいるが、スピードもきちんと制御して最後までいく。音量変化もオーソドックス。発音は激しめなので、オーソドックスという言葉に惑わされぬよう。
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ウェーベルン:夏風の中で

2017年10月26日 | Weblog
ノリントン指揮スイス・ロマンド管弦楽団(eternities)live

リヒャルト・シュトラウスを灰汁抜きしたような曲で周到に管弦楽配置され隙はないが反面中身のなさというか、どこが夏風というようなドイツドイツの交響詩である。リヒャルト・シュトラウス初期に近いくらいの10分半ほどの長さがあり、シェーンベルク初期のようなブラームス的な癖こそないものの、中欧では相対的に穏やかな曲、という感じであることを念頭に聴かないとノリントンですらずしっと重く感じてしまう。フランス的にもっともっと軽くやるほうがいいんだろうが、ブラスの充実した書法だとなかなか難しいだろうか。オケがかつてはフランス的であったことのメリットは比較的残ってはいる。技術的な問題はない。問題とすれば、ノリントンが普通すぎ。ノリントンで聞く意味はあるのか。
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オネゲル:ピアノ小協奏曲

2017年10月25日 | Weblog
チッコリーニ(P)クリュイタンス指揮NYP(forgottenrecords)1957/11/17live放送

六人組!というミニアチュールで、単一楽章で十分に満たない。ミヨーを思わせる世俗性から低音ブラスを使った重層的な晦渋さを混ぜていき、だが前進性を失わず、まさにオネゲルの映画音楽的なモダンさが支配的になる。ピアノがトリッキーではあるが面白みを維持し曲をきっちり進行させていく。後半の凝り方が前半とのギャップをみせ、オネゲルの立ち位置をはっきりさせる。退えい的な終わり方も個性的だ。この頃のチッコリーニはパキパキに指が回りテンポが滞ることもなく牽引していく。録音さえ良ければ!
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ドビュッシー:ポエム・リリーク「選ばれし乙女」

2017年10月25日 | Weblog
サヤーオ(SP)フォレスター(CA)クリュイタンス指揮NYP、ウェストミンスター合唱団(forgottenrecords)1957/11/17live放送

クリュイタンスは隈取りはっきり、でも透明感のある響きで聴きやすいフランス流儀というものを聴かせる。ローカルな色が相対的に薄いためこのオケとの相性もよい。フォレスターが歌っているのは驚きだが尚更フランスフランスしないニュートラルさが曲の初期的な薄っぺらさを構造的にしっかり補うのに一役買っており、技術的な不足も全体に言えることだがまったくない。惜しむらくは録音で、放送音源の発掘だからやむを得ないが、途中で右しか聴こえないのはモノラルなのだから復刻の問題だろう。これがなければ実に聞きやすい演奏、指揮者唯一の演奏として推せた。
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ルーセル:フラマンデ狂詩曲

2017年10月24日 | Weblog
マルティノン指揮ORTF(forgottenrecords)1957/10/3放送live

暗い序奏からキッチュな舞踏リズムの主部という展開は四番交響曲を思わせる。そのあと序奏とおなじくルーセルとは思えないロマンティックな緩徐部になり、ここの甘く美しい旋律はしかしルーセルとしては異例で別人の作品のよう。ただ、次第に盛り上がり再びキッチュで単調な縦ノリで終わる。ルーセルは20世紀前半のフランス作曲界を代表する一人で、比較的長生きだったにもかかわらず、知られた曲は代表作くもの饗宴を始めミュンシュの録音を残した3、4番交響曲、バッカスとアリアーヌと2つ程度の管弦楽組曲しかない。こういう曲は弟子マルティノンならではの選び方と言えそうで、たしかに上記の曲にほとんどの要素が含まれてしまう代物ではあるが、書いたとおり終盤の感傷的な、現代性を無視したところに折衷的な面白みがあったり、まだまだ発見のありそうな作曲家ではある。名曲だったらとうの昔にミュンシュがとりあげてそうなので、それは期待できないにせよ、やや生硬ながらマルティノンの秘曲実演記録がもっと出てくることを願わずにおれない。
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ディーリアス:春初めてのかっこうを聴きながら

2017年10月24日 | Weblog
バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(pye/Dutton他)1956/6/21・CD

「牧歌」を中心に5曲PYEレーベルへ一日で録音された中の一曲だがこれが最もバルビローリの美質を表した、また個性を発揮したトラックと言ってよいだろう。別項にも挙げた新しい音源ではなおさらそうだが、もはやディーリアスかどうかよりバルビローリの弦楽器に対する偏愛~チェリストであった(バッハの無伴奏抜粋はCDにならないのだろうか)~がいかに曲と同化して感傷の極みを聴かせられるか、といったものであり、しょうじきマーラーなど金管が表面に立つ曲では裏目に出ることもあるのに対して、けして典型的イギリス人として生きたわけではないディーリアスが、自らイギリス民謡への偏愛をはじめとしたその情景への憧憬を抱えていたことは音楽が語っており、フランスに生きた(同時にドイツは血の故郷であり出世までの重要な支持国であった)ことが作品の機械的構造に影響したことは否定できないが、「北国のムード」でさえグリーグの北国ではなくスコットランド国境っぽい、バルビローリもまたイタリア歌劇に並みならぬ適性を示しそのルーツもはっきりイタリアなのに、RVWやディーリアス(ホルストはほとんどやらなかったがボールトがいたせいか・・・ディーリアスもビーチャム存命中はほとんど記録を残していない)には「そこまでやらなくても」という「イギリス演歌」というような「イギリスこぶし回し」がきいていて、いや、変なイメージは植えつけるまい、これを聴いてその世界から抜け出せなくなる人が出たこともうなづける「ディーリアンの理想とするディーリアス」を体現した演奏になっている。没入具合もさることながら木管、カッコウの声の模倣ですら具象性を失い音楽に耽溺してしまう。ほめすぎたが、さすがにこれをながら聴きできるほどイギリス嫌いではない、私も。
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ディーリアス:イルメリン前奏曲

2017年10月23日 | Weblog
バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(pye/Dutton他)1956/6/21・CD

LP時代の名盤で永らくPYEレーベルの事情によりお蔵だったが今では各レーベルが盤にしている。ステレオ初期で良い音とも言えない音源だが、ダットンなど少しデジタルな加工が音を硬くしている感もある。LPとは少し違うイメージだ。バルビローリの慈しむような弦楽器の扱い(弦楽器だけ注力してあとは木管がソロをきれいにやれば、法悦的なディーリアスはできあがってしまう)が音色にまで及んでいることを、きちんと聴くには復刻状態も重要な要素だ。この曲は前時代的なロマン派で和声的な特徴も少なく、メロディ一本槍。そこがバルビローリ向きだ。メロディだけでもディーリアスであるところがまた、おもしろいところではある。
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