湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

☆ラヴェル:ボレロ

2016年09月30日 | ラヴェル
○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(MUSIC&ARTS)1939/1/21LIVE・CD

テンポが速すぎると文句を言った作曲家を、腕ずく(もちろん「演奏」という意味ですよ)で納得させた(とロザンタールが言っていた)トスカニーニのなぜか唯一の記録。30年代にしては破格のいい音だと思う。これはもう各ソロ楽器がトスカニーニの敷いた線路に乗ったうえで勝手にそれぞれ表現しつくしている感じがして面白い。つじつまがあうギリギリまでテンポを揺らしかっこよく歌いこむ人もいれば、つんのめり気味にどんどん先へ突き進もうとする人もいるし、ボレロらしくきっちりインテンポを守る人もいれば思いっきり音を外して恥をかいている人もいてさまざま。こういう楽器おのおのの表情変化を楽しむ曲だ。面白い。

トスカニーニに「不断のテンポ」があるかといえばそうでもない。長い長い旋律の後半部分でシンコペから3連符に入る音の高いところ、必ずテンポを思い直すように落としているのだ。これは・・・現代の耳からすれば違和感がある。これは踊りの音楽である。こういう盛り上がりどころでのスピットなリタルダンド挿入というのはどうなんだろう?更にクライマックスあたりでもいっせいにテンポを落とす箇所がある。こうなるとトスカニーニ解釈ここにありというか、前近代的なロマンティックな解釈とは隔絶した硬質さはあるのだけれども、まるでムラヴィンスキーのように(影響関係逆だが)確信犯的で予め準備された「崩し」が入るところに独特の作家性を感じるし、違和感はあるけど、それなりに面白くもある。最期はもちろんブラヴォー嵐。何度聞いても面白いですよ。
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ダニエル・ルシュール:交響詩「アンドレア・デル・サルト」

2016年09月30日 | Weblog
ミュンシュ指揮ORTF(ina)1950/7/24live・CD

それにしても同日の録音は極端に音が悪く閉口する。現在はAmazonデジタルミュージックで、ina配信ではナレーション含む放送全編が販売されている音楽会の嚆矢を飾った新曲(原曲は40年代の歌劇)。折衷的な作風は重苦しく晦渋な厚ぼったい音楽にメシアンらと「共通の」響きを振りかけた程度で、平板で、音楽に起承転結を求めたい人には勧められない(11分ほどなので、アメリカ近代アカデミズム交響曲を楽しめる向きには十分耐えられようが)。正直フランス的ではなく前時代的ということで響きの厚ぼったさでは共通のミヨーの機知を求めても無駄である。アンドレア・デル・サルトはルネサンスの画家。ミュンシュについてはどうもぱっとしない。音楽のせいでもなさそうだ。ボストンならもっと鋭く彫刻できたであろう。しかし悪録音の影響も大きい。演奏中にしゃべり声が聞こえ、ミュンシュのいつもの掛け声もあるが、これは正規とされているがエアチェックか何かではないのかとも疑う。まあ、前座曲として聞き流すべき演奏。ルイ・フロマンがルクセンブルク放送管を振って録音したものがセッション録音としては唯一のCDか。
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レーガー:モーツァルトの主題による変奏曲とフーガ

2016年09月30日 | Weblog
パレー指揮デトロイト交響楽団(melusine)1961live


モーツァルトのピアノソナタ11番の有名な主題からの短い変奏を8つ連ねてきっぱりしたフーガで〆た、レーガーにしてはすっきりまとまった20分あまりの曲。連続して演奏される。

これはモーツァルトの霊感を利用した工芸品で、第八変奏くらいにならないとテクスチュアの複雑さや響きの近代性が明確に表れず、スコアと対照して楽しめる人か、前衛は厭だがネオロマンチシズムは緩すぎるという向きにのみ勧められるものだ。フーガの厚ぼったいオーケストラ、いかにもこの時期の中欧的な響きは、新古典主義好きにアピールするとも思えない。アンサンブルがしっかり構じられ合理的でプレイヤーは楽しいと思うし、この時代ちまたに溢れる狂気じみた音楽に辟易した向きに受容されたのと同じ構造が、今もなお続いているから演奏され続けているのだろう。演奏は技術にすぐれたオケと即物的指揮者によるもので、乾燥してはいるが、ライヴと考えると異様に完成度が高い。モノラルで音は悪い。
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ヒンデミット:ウェーバーの主題による交響的変容

2016年09月30日 | Weblog
クーベリック指揮ヘッセン放送交響楽団(melo classic)1960/2/5・CD

壮年期の力感にあふれ、はっきりした表現のあらわれた典型的な演奏で、クーベリックがライヴで時々見せる個性的な解釈は無く、強く舞踏的なリズムで重い響きをコントロールし、浮き立つような聴感を与える一楽章はなかなか聴きものだ。手慣れた演奏という感じで、悪く言えば壮年期クーベリックらしい典型だから慣れているとああいつもの、で終わってしまうのだが、モノラル録音があまり良くないのを除けば楽しめるだろう。
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ボロディン:イーゴリ公〜ダッタン人の踊り

2016年09月30日 | Weblog
ブレッヒ指揮交響楽団(Aprelevka)SP

時代が少し新しいのだろうか。なかなか精度の高い引き締まった演奏で、古い時代に時々あったような横に流れることはないが、適度に感情的な解釈ではあり、即物的でないところも特記できる。
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ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」

2016年09月29日 | Weblog
シルヴェストリ指揮ORTF(EMI/warner)1957/7/9,12(もしくは12/9-11)・CD

シルヴェストリの旧録だがモノラルにも関わらず豪華重量盤LPで新発売されるなど人気がある。ライヴを含め知る限り3つある録音のうち、これだけ古い版を使っているそうで、ホルンの本数など違っているとはいうが、旧版がとりわけ良かったわけではなかろうし、これだけ評価されるのは不思議ではある。

シルヴェストリらしい軋みや灰汁のある演奏で、オケも技術にバラつきがあり木管は巧緻な表現と鄙びた音色の差が極端、ブラスやパーカスはあけっぴろげで強烈だが弦はわりと非力。そういった緩い地盤にアクセントの強くついた発音により力強くがっしりした構造を打ち立てることにより、若干引いて整えた感もあるが、聴かせる演奏に仕上げている。前へ流れたりその場の情で揺れ動く事はないが、二楽章の感傷的な音楽は他の楽章と対照的で心に染みる。四楽章はとくに設計が見事で、松葉のうねりをドラマティックに提示し、ドヴォルザークはこうやるのだ、という意思をオケに叩きつけている。確かに奇矯なところもあるものの、全般としてはこのオケ相手によく「国民楽派っぽさ」を引き出せたものだ、と思う。全てではないがリズム処理が巧いと感じさせるところもある。ムリヤリな崩しを入れたワルツはどうかと思うが。
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☆フランツ・シュミット:交響曲第3番(1928)

2016年09月29日 | Weblog
○ヤルヴィ指揮シカゴ交響楽団(CHANDOS)1991/1/30-2/3LIVE・CD

フランツ・シュミットはシェーンベルクと同い年である。しかしオーストリアで活躍した作曲家としては前衛の闘士シェーンベルクとまるで対照的な位置づけにある。即ちワグナー、ブルックナー、マーラーを継承した後期ロマン派の最後を飾る保守的作曲家であった、ということである。ブルックナーの弟子であったことはよく知られ、そのスコアはブルックナー的な分厚いオルガン音響を頻発させる。また作曲家以前に演奏家であり、ウィーン国立歌劇場でチェロのトップを張ったりなどしていた(そのときマーラーの薫陶を受けたと思われる・・・但し当人はマーラー嫌いを公言していたが)。第3番はフランツ・シュミットの交響曲としては一番規模が小さく、古典的なアンサンブル(とくに弦楽合奏)に主眼を置いた、とくに保守的な作品である。また、終始親しみやすい旋律が鳴り続ける歌謡性が特徴的で、シューベルトの影響を指摘されるところだが、それもそのはず、アメリカのコロンビア社が主催したシューベルト記念賞にエントリーしたもので、作曲家自ら「シューベルトの精神により書いた」と語っている。そのときの賞はスウェーデンのアッテルベリ(!)が獲得したが、オーストリアのエントリー曲の中では傑出したものとして認められた。慎ましやかではあるがモダンな響きがし、とても構造的だがスマートで格好いい響きを産み出すこの作品は、長く聴き続けていかれるべきものである。あまりに自然に使われておりちょっと聴きわからないが、旋律にはジプシー音楽なども取り入れられている。スケルツォから終楽章への流れは洗練されたブラームス。フランツ・シュミットの作ったもっとも解かり易くもっとも優れたフィナーレだろう。ヤルヴィはここがとても巧い!フルートの牧歌的な旋律から始まる陶酔的な1楽章はかつてベルリン・フィル定期で演奏されたのと殆ど変わらず、とてもやわらかく暖かい雰囲気をかもし出色だ。2楽章アダージオはこの曲の中では一番晦渋なものであるがさすがヤルヴィ、聞かせ所のツボを押さえた要領のいい演奏だ。3、4楽章は最後まで緊張感がもたない感じもした(ベルリン・フィルのときは強力な推進力が最後まで維持され希に見る名演になっていた)が、目下現役盤の中ではもっとも優れた録音といえる。○ひとつ。,
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☆リヒャルト・シュトラウス:皇紀2600年祝典音楽~部分

2016年09月29日 | Weblog
ヘルムート・フェルマー指揮紀元2600年泰祝交響楽団(NHKSO)1940/12/7,8(来賓用初演),14,15(公開初演)歌舞伎座live?・LP

紀元2600年泰祝楽曲発表会LIVE 皇紀2600年記念録音盤。言うまでもなく戦前各国の著名作曲家に依属した祝典用楽曲のこれはひとつである。リヒャルトの華麗なオーケストレーションがだいなしな録音で、正直何がなんだかわからないが、よーーーーく耳を澄ませるとリヒャルト節が聞こえてくる気がする。ブリテンのシンフォニア・ダ・レクイエムの項でこの楽曲の初演時のことを書いているのでよろしければご覧になって下さい。評価不能、無印。オケはN響の前身新響を母体として新たに組織されたもの。 2600年記念にプレスされたSPはリヒャルト自身の指揮によるものだった。

なお、webにて聴ける同一メンバーによる全曲録音(COLUMBIAのSP、近年ラジオ放送された模様)は18,19日に放送用に録音されたものでNHKホールにて行われたという情報あり。ローム、altusでCD化。本LPは他の曲(いずれも抜粋)についても同じデータを記載しており、わざわざ別録されたとは思えず、同じ音源の抜粋の可能性がある。
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☆ディーリアス:ブリッグの定期市(イギリス狂詩曲)

2016年09月29日 | イギリス
○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(EMI)CD

オケが天晴れ、ハレOにしては素晴らしく繊細で完成度が高い。バルビ最晩年の録音(スタジオ録音としては最後)であり、ロマンティックな重さ甘さがなくなって透明な情感がソロ楽器の「感傷的過ぎない研ぎ澄まされた表現」に象徴的にあらわれている。マッケラスを思わせる冒頭からの柔らかくも冷たい響きは、しかしマッケラスにみられる、ディーリアスにしてはシンプルな書法がはっきり出てしまったがゆえの一種世俗音楽的な軽さは出てこない。バルビ特有の震えるような匂いたつ音がここにはない、しかしやはり柔軟で有機的な音の紡ぎ方はバルビである。バルビの室内管弦楽団ものに時折聴かれるステレオ録音の妙な操作がここにもなくはないが、おおむねそういった「耳障りな要素」は無い。あきらかに「春の海」あたり和楽の影響のみられるフルート独奏からドビュッシー室内楽の影響色濃い木管アンサンブルの繊細さ、接いで弦楽合奏による響きは重厚だが単純な旋律についてはバルビがよく陥るロマンティックな臭気が抑えられやはり耳障りなところはなく、フォルテ表現でペットなどがのってきても、古楽的な純粋さは無いものの、それまでの穏やかな流れが邪魔されることはない。バルビのディーリアスを私はそれほど好まないが、これは最晩年らしいどこまでも横長で透明で、涅槃的な演奏として、録音状態のよさ含め薦められる。○。
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ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」

2016年09月28日 | Weblog
プレートル指揮ORTF(ina)1960/11/22live

覇気に満ちたメリハリしっかりの演奏で、壮年期プレートルの力強さを実感できる。荒っぽくすらある。ロマンティックな起伏をスムーズに付けるタイプではなく、デジタルに強弱をつけテンポはそれほど揺らさない(アンゲルブレシュトというかシェルヘンのセッション録音のような醒めた解釈)、四楽章冒頭などまったく粘らず前の楽章とギャップがすごい。響きはオケ元来のものもあって明るく拡散的であり、フランス流儀の国民楽派交響曲の演奏の範疇にもある。ただその意気にオケがついていけているかといえば、三楽章は「失敗」であり、崩壊ぶりがドヴォルザークの厳しいリズム表現に慣れない感もあたえる(これはinaがAmazonデジタルミュージックで配信している音源で聴いているが、ラインナップの中にはシルヴェストリの新世界(EMI(warner)旧録1957/7/9,12(or12/9-11)新録1959/10/20,23(過去記事参照)ina他1959/3/12liveの三種)があり、演らなかったわけではない)。フランセ自作自演のピアノ協奏曲などのメインプログラムとして演奏され録音された。終始ナレーションが入り、一回性の放送用と思われ、クリアなステレオだがホワイトノイズが乗り音質はあまり良くない。耳が痛くなるような雑さがある。

EMIが権利を持っていたパリ管との1970年セッション録音は2008年にタワレコが独自企画で1000円CD化した(カップリングはこれも中古レコードで珍重されたワイエンベルクとのラプソディーインブルー(1965年音楽院管表記)…わたしもEP持ってる)。2016年9月現在もタワレコ自体には新品在庫がある模様。一部で人気だったプレートルの国民楽派の演奏を楽しめる。オケの性向からブラスの活躍が目立つ。tower record
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☆ブリテン:シンフォニア・ダ・レクイエム(1940)

2016年09月28日 | Weblog
○バルビローリ指揮ACO(testament)1969/1/22live・CD

”7月19日(1940年)光輝ある日本建国、二千六百年祭を奉祝する「奉祝楽曲」は、世界一流の作曲家達により献呈される筈であるが、そのうちのリツヒアルト・シユトラウス作曲の「祝典音楽」及びジャック・イベエル作曲の「祝典序曲」が夫々到着した。(中略)八月十日頃にはイギリスのベンジヤミン・ブリテンの新作が到着し、九月にはイタリアの巨匠ピツエツテイの大作が完成される予定である。12月16日「紀元二千六百年奉祝音楽祭」の為のリツヒアルト・シユトラウスの「祝典音楽」(中略)の総合練習演奏会は、午後六時より赤坂三会堂で行われた。(中略)ベンヤミン・ブリテンの曲は、都合により中止された。”

その当の曲がこの「シンフォニア・ダ・レクイエム」、ブリトゥンの傑作純器楽交響曲である。大日本帝国政府は、祝典にレクイエムとはなんたること、と受け取りを拒否した(異説アリ)。結局初演はニューヨークでバルビローリにより行われた(CD化、別項参照)。一方、シュトラウスは早々と豪華装丁の総譜に慇懃無礼ともとれる長々しい献辞を付けて送って来た。

”全体の基調をなす日本的主題には十四個の低音ゴングが指定されている為、打楽器奏者により特に池上の本門寺、音羽の護国寺、芝の青松寺、鶴見の総持寺、浅草の妙音寺などから夫々ピツチの異なる秘蔵の鐘(いずれも江戸の名鐘として音に聞こえたもの)が借り集められた。”

シュトラウスの曲は、こんなスクリアビン紛いのバチアタリなやりかたで初演された(放送と共にコロムビア録音された。別項参照)。ほんらい鐘の音に送られるべきなのは死者の魂である。シンフォニア・ダ・レクイエムには低音のゴングは無いが、亡父母への追慕の情が時には綿々と、時には激しく、遂には清らかな眩い響きの中に綴られていく(3楽章”レクイエム・エテルナム”は同曲のクライマックスである。透明な情緒に満ちた哀しい祈りの音楽であり、余りに美しい。瀕死の苦しみより開放され、神の楼閣へ昇華してゆく愛する人たちへの想いがひしひしと、痛いほどに伝わってきて、終了後も暫くの沈黙を与えるほどに感動的・・・)。個人的感情が露になったこのような忌曲を送り付けた、ブリトゥンの節操の無さをどうとらえるかは人それぞれだろう。皮肉屋のイギリス人らしいファシズム国家への屁ひりとするには、いささか名曲に過ぎる。寧ろ真摯な作曲家として其時最も書きたかったものを書いた、たまたまのタイミングで東方の小島から依頼があった、それだけのことだったのではないかと思う。カサルスだったか、ブリトゥンが聴衆にあわせて即興で曲をしつらえ演奏したことを、オーダーメイドと批判し、あれほどの才能を持った作曲家が何故そのようなことをするのかと言ったという。

そう、あれほど。ブリトゥンは二十世紀を代表するオペラ作曲家であり、イギリス近代音楽史最後の巨人であった。揺るぎ無いその地位は、ピアノや指揮の並ならぬ技によってさらに確固たるものとされ、今も語り継がれる。この曲にも(2楽章”ディエス・イレ”)ショスタコーヴィチのように鮮やかな走句が駆け抜ける場面があるが、二人は音楽家として国境を越えた親友関係にあり、1楽章”ラクリモサ”の陰うつな雰囲気にマーラーの残響を聴く私は、同時にこの曲の全体がマーラー=ショスタコーヴィチを分かりやすく纏めて提示したもののように感じる。旋律の単純な流れに皮相的なものを感じる向きもあるだろう。ひたすらの単旋律による歌謡的な曲。バルビローリ盤をふたつ掲げたが、情緒纏綿な演奏様式ではいささか辟易もしくは違和感を感じる位だ。だが、ブリトゥン自身の指揮によるLPO盤、ライヴでもスタイルはほとんど同じだが、冷たい響きの美しさがレクイエムの清らかさを一層に強調し、繊細なまでにコントロールされた各声部は、無感情のようでも、聴くうちに教会音楽の如く心の深いところにそくっと染み入ってくる。作曲から暫く経った演奏のせいか客観が勝る演奏だが、最近CD復刻されたストックホルムのほうはオケのせいかいくぶん情緒的であり、私はこのくらいのバランスの方が好きだ。ここでの2楽章ディエス・イレーの凄みは気に入っている。

(参考文献:二十世紀の音楽(掛下慶吉著)、新興音楽出版社S17/9)

アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の盤は初演指揮者バルビによる晩年のライヴ演奏。ニューヨークを振ったころよりもいくぶん落ち着いた感もあるが、最初の強烈な打撃からして衝撃的、重々しくひきずるようなラクリモーサの陰うつさはバルビの別の面を垣間見せる。オケが充実しており、繊細なハーモニーと強烈な叫びをバルビはうまく使い分けている。とにかく、暗い。ディエス・イレーになると、フルートの警句に呼び覚まされ、ブラスや弦が疾走しはじめる。このあたりの構造が透けてみえるようなまとめ方は上手だ。ハーモニーがじつに綺麗。バルビの悪い癖である「遅さ」がないぶん気分を高揚させる。ただ、ひとつひとつの音に拘泥されすぎる感もある。総体としての音楽より、短い分節ごとのまとめ方にこだわっているかのようだ。などと言ってはいるもののぜいたくな物言い、これはじゅうぶん佳演とされるに足る仕事だ。レクイエム-エテルナムは注意深く始まる。既にして天国にいるかのような平安のひびき。亡くなった両親のためにかかれた作品であり、そのあたりのブリテンのメンタリティを想像するに誠に心打たれるものがある。これは無論ブリテン個人的な感傷であるが、歌詞がないぶん、聴くものに大戦で亡くなった膨大な数の人間達への挽歌という想像を許すものとなっている。ヴァイオリンがせつせつと歌い上げる追悼の響き、このじつにロマンティックな盛り上がりは、注意深く挿入された低音楽器の上で天を仰ぎ、救いを請う。旋律の連環が中低音域で続き、音楽はゆっくりと下降してゆく。最後にマーラー的な(10番くらい)不安の音楽が一瞬ヴァイオリンによってかなでられ、終演。拍手は普通。,
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ボロディン:交響曲第2番

2016年09月27日 | Weblog
ラフリン指揮モスクワ・フィル(USSR/colosseum/Global Village Music)1950

史上2度目の録音として有名だが、コーツの1度目の録音に比べてレアとされ、ロシアオケによる初の録音、とうたわれることもある(SP原盤は数はあるのだが少し高い)。コロッセウムはモノラル期にメロディア音源を輸入していたアメリカのレーベルで、有名な「ショスタコーヴィチ指揮の交響曲第10番」(ショスタコーヴィチは生涯ただ一度祝典序曲を振ったのみで、これはムラヴィンスキーの50年代録音の偽盤。但し連弾でピアノ版は録音した)などとデータが怪しいものも多いが、時期的にも希少なソヴィエト音源をきちっと聴ける形でLP化していたのは特筆できる。これもソヴィエトではLP化していなかったのではないか。1950年録音というのが驚きで、アメリカではステレオ録音本格展開がすぐそこまで来ているというのに、交響曲を78回転盤で出し、、、しかもかなり音が悪いのである。3つめにあげたレーベル名はitunesで昨年復刻されたデジタル音源なのだが、私はこれを聴いているのだが、素人がSP板起こししたような信じられないくらいのノイズ塗れの代物で、音は薄く(編成自体が小さいと思われる)オケ総体の響きがわからないほど貧弱な録音であり、気の向くままに揺れるのはロシアの古い演奏ではよくあることとはいえ設計も何も無い求心力の無いたどたどしさすら漂う演奏、まるで20年代の録音のようだ。オルロフとかコーツとか。。ゴロワノフと比較するのは失礼だ。こういうときは個別の楽器のメリットに着目して褒めるものだがそのためにはまずノイズを抜かなきゃどうしようもない。コロッセウムの盤の復刻を待ちましょう。itunesはCD化してない音源復刻が多いといわれるが、この一曲で800円はどうかしているよ。
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☆バルトーク:弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽

2016年09月27日 | Weblog
◎ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(RUSSIAN DISC)1970/10/12LIVE・CD

物凄い演奏。モノラルだしあまりいい条件の録音ではないが(マイクがファーストヴァイオリンに近すぎる!)、だからこそ何か得体の知れぬ迫力があって凄い。猛獣のような力強さが極限まで凝縮され、さらにギリギリ締め上げられていく、その悲鳴、その軋みがピシピシ聞こえてくる。アンダンテとアダージオはやや粗く感じられるも、ふたつのアレグロ楽章の異常なまでにビシビシ決まるアンサンブルは聞きごたえがある。完璧だ。完璧を越えて暴力的にすら感じられる凄まじい走句の応酬、技術的にどーのこーの言う前にもうこれは紛れも無い「音楽」であり、有無を言わせない。終楽章で両翼展開したヴァイオリンがかけあいをやるところでは、ファーストが異様にでかく聞こえ、モノラルでも擬似ステレオ感覚が味わえる(ようはセコバが相対的に小さく聞こえるということ)。ムラヴィンスキーの厳しさが小気味良さとなってつたわる一枚。◎。

*ロシアン・ディスクは周知の通りアバウトなレーベルで、ムラヴィンスキー夫人の怒りを買っていた(にもかかわらず公認と印している盤がある)。粗悪な未許可ライヴ盤を多く出しているが、データが誤っていることがしばしばある。オケ名を誤っていた事もある。メロディヤ等の粗雑な復刻モノも多いが、これでしか手に入らないCDも多いのも事実。

→こちらはmelodiyaの有名な録音で、国内レーベルやscribendumからも復刻されたムラヴィンスキーの1965年ライヴ。平林直哉氏が原盤より状態の良いと思われるテープより復刻、周到なライナー付きで再発されるとのこと。私はこういうのはまったく興味が無いが、お好きならどうぞ>HMV
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☆バルトーク:ピアノ協奏曲第3番(1945)

2016年09月27日 | 北欧・東欧
○ディッタ・パーストリ・バルトーク(P)シェルイ指揮ウィーン交響楽団(MHS)LP

夫人老年の演奏らしくかなり硬さが目立つ。指が堅いというか、しゃっちょこばったテンポがとくに一楽章では目立つ。ただ打鍵が凄く強く、かなり打楽器的な演奏を指向していることもわかる。細かい音符も一つとして逃さない。だから面白いといえば面白いのだ。未完のこの曲の最後の13小節を補筆した弟子シェルイの棒はすこぶる冴えていて、ソリストを圧倒すると言ったら言い過ぎかもしれないが、やんちゃなウィーン交響楽団を巧くドライヴしてスムーズでかつソリストの解釈との違和感を極力抑えた円熟したワザを見せている。2楽章が技巧的にも平易なせいかいちばん地に足のついた演奏になっていて、夫の望郷の念を、割合とドライにではあるが、美しく透明に描き出している。3楽章は聞き物。盛り上がる。スピードは期待できないし最後の追い込みの弱さが出てしまっているものの、私はアンダなどよりは余程興奮した。決してプロフェッショナルなピアニストとしての技は期待できない、でもバルトークが自分の死後異国に一人残されるディッタが食いっぱぐれないために演奏レパートリーとしてわざわざ平易に書いたこの作品、その思い入れを持って聞けばそれなりに感動はするだろう。録音はいい。ステレオ。シェルイの作品とのカップリング。おまけで○。
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☆シェーンベルク:室内交響曲第1番

2016年09月27日 | ドイツ・オーストリア
◎マールボロ音楽祭アンサンブル(MARLBORO RECORDING SOCIETY)LP

非常に録音が明晰で、かつ現代的な側面から切り味鋭く迫った演奏として耳から鱗であった。主催者であるフェリックス・ガリミールの年齢を感じさせない非常に強い発音に導かれるかのように全楽器があくまでこのロマン派の香り残る楽曲を「現代の視点から解体し、”音の構造物”として再構築している」。だからシェーンベルクの仕掛けたマニアックな仕掛けが随所に聞き取ることができ見通しがいいのと、やはり現代曲だったんだなあ、という感慨が最後まで持続する。交響曲としてのまとまりを考えると決してそういうアプローチが正しいとは言えないと思うのだが、新鮮であり、別の意味の感興をおぼえかなり引き込まれた。ガリミールという新ウィーン楽派の生き証人が、かれらの音楽をきちんと伝えることのできた証拠の一つとして価値が高い。◎。
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