湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

シベリウス:交響曲第2番

2005年10月28日 | シベリウス
〇ザンデルリンク指揮ベルリン・フィル(SARDANA:CD-R)2000/6/17LIVE

最初から驚いたのだが、随分とメロウな感じなのだ。アタックを余り付けずなめらかに穏やかに進めていく。もちろんこの人だからハーモニーの作りかたに安定した重量感はあり、前期シベリウスのドイツ性は浮き彫りにされているのだが、オケが、録音のせいかもしれないが、軽い。ベルリン・フィルならでは、というところがないのだ。ティンパニの音などでわかる人はわかるだろうけど、弦楽器の音でこのオケと明確に判別できる人はいるのだろうか。速くて流れいい二楽章など解釈的に、深みはともかく入りやすく即物的でもあり面白い。しかし高弦に生気が感じられない。らしくない失敗まである(ちこっと欠落も)。2000年の録音であることを加味しても柔らか過ぎるように思った。アタッカで入る三楽章はさすがにいきなり強靭なアンサンブル力を見せ付けられコントラストに胸がすくが、すぐに柔らかく収まる。最初の緩徐部のオーボエがきわめて美しい。耽美的と言い切ってしまおう。管楽器群の素晴らしい音色にはベルリンの底力の健在を感じる。颯爽としたテンポのままそのまま入る四楽章、譜面どおりで全く感情を煽らない。しかし二度めの主題提示で爽やかに盛り上がりを提示する、これも譜面通り。しかしそのあとの主題展開でいきなり歌謡的な細かいフレージングをつけてくる、ザンデルリンクだなあ、これを聞くために買ったのだよ。老齢でもけして緩テンポに逃げずきっちり解釈された音楽をやりつくす。異常な深みを見せる耽美に沈む暗転部分から再現部に入って初めてこの主題にテンポと音量によって雄大なクライマックスを築き上げる、まさにこの設計に、ここだったのか!と感服させられたままの流れ、しかし弦楽器への不満は残る。余力、残し過ぎじゃないか?もっともここまで解釈で統制されたらそれに対してできることは限られている、最後のバイオリンの念押しするようなフレージングや松葉への配慮も聞き逃せまい。雄大な夕日は北国の遅い夜の到来を荘厳に告げる。やや音響バランスが武骨だがそれもよし。

結論。録音のせい。〇。
Comment
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バルトーク:管弦楽のための協奏曲

2005年10月27日 | 北欧・東欧
○カラヤン指揮ベルリン・フィル(SARDANA:CD-R)1982/1/24LIVE

文句の付けようの無い名演中の名演である。こんなの生で聴かされたらフライングブラボーもやむ無しだ(こういう曲でフライングブラボーが何故いけないのか、世の中には神経質なやからが多いのだな)。

カラヤンは何故これほどまで適性を示した20世紀音楽に積極的にならなかったのか、この人がゲンダイオンガクはともかく世紀末から20世紀音楽に積極的に取り組んでいたらエセ評論家の評価もまた格別に違っただろう。とにかく、生を聞けばわかる指揮者だというのに一度も聞けなかったのが惜しまれる。でも、ベートーヴェンなんかいらない。ワグナーなんかいらない。こういう切羽詰まったギリギリのアンサンブルを駆使した楽曲でこそこの人の恐ろしく研ぎ澄まされたゲイジュツが生きてくるのである。ただ、この録音、肝心?のインタルードの最後が何故かフェードアウトして切れている。これさえなければ、録音の悪さ(といってもAC盤に比べれば格段にいい)を加味しても◎だったのに。圧倒的です。たとえ私がSHUREのフォンに変えたせいもあるといっても。スピーカー?フォンのほうがよく聞こえるよ。

◎的な○。とにかくこの時代のベルリン・フィルの技や迫力にも瞠目せよ。
Comment
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マーラー:交響曲第7番

2005年10月26日 | マーラー
○スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送交響楽団(VIBRATO:CD-R)1995/8/9LIVE

最初に断っておくとこのAC盤、頭が切れてる楽章がある(1ですらぶちっといきなり始まる)。二番目の夜の歌冒頭のヴァイオリンソロが切れてるのはきっつい!!スウェーデン放送はWEB放送を行っており、何もわざわざこんなブート買わなくても聞けるよ、という人もいるだろうが、私は天性のモバイラーなので速度が足りません。まあ、エアチェックとなると音盤じゃないからなあ。

さて、演奏自体は素晴らしい。つくづくこの人はロシアに封ぜられてキャリアの大半を過ごすような人ではなかったと思った。バンスタのような没入はなく常に意識的だけど、あきらかに扇情的な演奏を狙っていて、ゆっくりしたテンポも強い表現によって力感を失わず終楽章の最後の長大なクライマックス(クレッシェンドと書く人もいるけど音量的には別に飛びぬけてるとは思えない。むしろテンポがどんどん遅くなっていくのとクレッシェンドが同調しての「偉大な表現」だろう)へと至る。この終盤は今まで聞いたこと無い、比類ない素晴らしさだ。昔この人がチャイコばっか振ってたとき、ロシアオケのどぎついローカル色の中で諦めもしくはあがいているように見えた。元々は割合意識的に表現を操作するタイプの指揮者でいながら奔放なオケの自己表現にも対応していて、結果として「最もロシア的な最後の巨匠」というわけのわからないレッテルを貼られてしまったわけだが、私はつねづね西側へ出て最後はドイツオケを振って、フルヴェンに対抗しうる芸当を見せ付けてほしいと思っていた。ロンドンのオケとはやっているが大人しすぎる感があった。でも私は何か新しいものが見えた気がした・・・この人は「ロシア」という称号が無くても十分に現代的で立派な芸術家なのだ、と。結果としてこのスウェーデンとのタッグでは録音には恵まれなかったけど、この演奏を聞くかぎりでもバンスタとは明らかに違う地平を狙っていながらバンスタ並の感動を与えることのできる、もはやローカルの域を完全にだっした「真の巨匠」の顕現を感じることができた。通して非常に聞きやすく、美しく、録音が悪くないことも手伝って、冒頭の瑕疵が気にならないほどの魅力的な潮流が出来上がっている。聞きものがどの楽章、と聞かれて答えに窮するが、物凄くゆっくりしたテンポでいながらチェリの芸風のような飽きをきたすゲイジュツ性とは無縁の奥底のドラマツルギーが見事にスウェーデンの音色によって纏め上げられている。オケも瑕疵はあるものの、ここでは非常によく演奏できている。さて、N響とのマーラーも「ドイツオケとの演奏にかわるもの」としていずれちゃんと出しなおされることだろう。スヴェトラーノフは、マーラー指揮者であった。私が言うまでもなく。録音瑕疵他マイナスで○。
Comment
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブルックナー:交響曲第7番

2005年10月24日 | ドイツ・オーストリア
○ヒンデミット指揮NYP(VIBRATO:CD-R/BATON)1960/2/28・LIVE

なかなか聞ける。オケの集中力がハンパ無い。録音はけしてよくないが、一楽章しか聞けなかったこの曲を(ビデオ化もされたボストンのライヴ)全て聞けるのは愉しい。テンポよく流れるような演奏だが即物的ではない。たんに速いのであり、緩抒部の慈しむようなフレージング一つとってみても決してロマンチシズムには欠けていない。この一楽章でそう感じる向きはフルヴェンやクナの聴き過ぎではないか。寧ろブルックナーの特殊性をよくとらえている(下手に崩すと曲を壊してしまう)。二楽章は古典を意識したようなアンサンブルで爽やかだ。しかし弱音のヴァイオリンの美しさは他にかえがたいものがある。フレージングに魂が篭っている、上辺だけではない、テンポだけで聞いて欲しくはない。録音はこの楽章がいちばん悪い。つぎはぎもしているようだ。これはブートを聞き慣れてないときついかも。雑音も多い。しかしモノラルで音場が近いからく迫真味があっていいとも思える。力強い。解釈的にやや飽きたが古典指向の纏めかたのせいでもあるかも。引き締まった三楽章は躍動を徒に煽らずかといってドイツふうに足取りを確かめることもなく、ひたすら心地よい舞曲を聴き浸ることができる。中間部は楽想的に惹かれないので正直飽きるが録音が立体的でハーモニカルなブルックナーを捉らえきれていないこともあるのだろう。旋律は重要ではないと言いつつこの楽章ではもっと煽情的な旋律が欲しい(ダイナミズムのことを言ってるのではない)。四楽章のいきなりの速さにびっくりするがなかなかに洒落ている。駄々長い楽章を颯爽としたテンポで自作交響曲のようにメカニカルに組み立てていく。そうすることで乗り切っている。最後録音が極端に悪くなるがしかたない。○。精神性とか言われちゃうと、どうかな。精神て具体的にはどういう音形のことを言うの?
Comment
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海のかなたで。

2005年10月16日 | Weblog
もうかなりジャポニズム横溢しすぎってかんじの20世紀初頭に絵画界の波乱の影響がやっと出てきたフランス音楽界、ドビュッシーも恐らく人づてだがこの描線の明瞭でデザイン性に富む浮世絵の世界に傾倒し(パリ万博では音楽的には寧ろガムランに興味深々だったが)、北斎晩年の傑作冨嶽三十六景より神奈川沖浪裏、恐らく本物を入手し壁に飾っていたそうである。飾っていたのだからとりわけ好きだったのだろう。江戸後期における浮世絵の、極めて鮮やかな色彩のコントラストと日本版画特有の簡潔斬新なデザインは、その成立の背景に洋画の模倣研究と吸収昇華という過程があったからこそ尚、フランス前衛絵画やポスターに深遠な影響を与え世界の絵画を変えることができたのだが、天才広重と並び称される葛飾在百姓爺は芸術的感性の鋭さと奔放さが先に世界で評価を受け、寧ろ日本はそれに追随して研究の進んだていがある。ここは絵のブログではないので余り書きたくないが、画狂人卍翁は日本画の流れとして極端な遠近法や透過画法といったものがあらわれていたのを更に研究し深化させた。その努力を微塵も感じさせない粋な画風を確立したのが現在の人気に繋がっている。小さな銅版画ひとつとっても長崎派とは比べ物にならないくらいにその真髄を見切って更に芸術性を高めているのがわかる。広重は「完全に静止したデザイン」というものを追及した人だから安心感がありわかりやすく、今も汎世界的な人気を保っているが、波のような動的で曖昧な対象物をはっきりした太い描線でしかし動きを少しも損なわずにその瞬間を絵画にうつしてみせる、北斎の即興的とも見えるわざには敵わない(しかし北斎は「即興の人ではない」)。

デュランが出した交響的エスキス「海」出版総譜の表紙に使われたこの「神奈川沖浪裏」、仔細を見れば瞭然だがデュランが浪だけを取り出してデザインさせなおしたものである。江戸絵は象徴派絵画のような背景への想像力と知識を要求する一種符牒的なものを持つものであることは言うまでもないが、この単純な道具立ての絵ひとつとってみても本質は「浪」ではない。富士山を描くということについて、富士山(神ほとけである)のさまざまな側面をあらわす三十六枚の中、これは荒波に揺れる黄色い船(藍に黄!)にうつぶせで必死にとりつく小さな人間たち、その見上げるであろう泡立つ壁のようなぞっとする浪の裏側・・・それらの烈しいやりとりを、遠く静かに見守る富士山があって、初めて自然の偉大さが引き立っているのである。そういう総合的な象徴を孕む「想像力の世界」だから、ほんとうはかんじんの船や富士山を消してしまったら元も子もないのである。退色はあろうが、どうもこの表紙が精細に欠けるのはそのあたりにも原因が追求できそうである。よくある版木落ちというよりまるでパソコンで切り取りエンハンスド処理を施したかのような変な絵だ。デザインのまるでよく似た北斎の紹介本が手に入る。しかしそれはちゃんと元絵の抜粋、である。

こんな海では船は浮きようが無い、たちまち二艘とも沈没だが・・・そもそも江戸絵の醍醐味はそのデフォルメ感にある(名所図会のたぐいでもその遠景は異常にスケールアップされて描かれる)。旅行を制限されていた庶民に「想像力の旅」をもたらすことで人気を博したさまざまの作者の旅絵シリーズのひとつにすぎないとしても、表現の凄さが抜きん出ており、本物以上の想像を掻き立てるものになっている。遠い異国のドビュッシーすら、北斎の旅物語に不可思議な想像を膨らませる事ができた、これは象徴的意味うんぬんを抜きにしても、やはり凄いことだったといえよう。だが往年のパリの凄かったところはこういうものを自分たちなりに吸収昇華し別物へと進化させたという点・・・まさに日本のやってきたことの裏返しであるが・・・である。さすがの北斎も自分の絵が音楽にインスピを与えるとは、しかもオリエンタリズムとしてではなくれっきとしたヨーロッパの風土に根ざした音楽に成り代わっていくとは、思わなかっただろうな。

今、アフリカ南部の島にひっそり暮らしている一匹の亀がいる。かれの生まれたとき、北斎はまだこの三十六景を描いていなかったのだ。ふとそんなことが頭をよぎった。
Comment
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランツ・シュミット:交響曲第4番

2005年10月07日 | ドイツ・オーストリア
○ファビオ・ルイージ指揮MDR交響楽団(VKJK)CD

この重厚な曲はさすがにライプツィヒにもあっている。旋律の半音階的な晦渋さもどっしりした響きの上でいささかの不安定さも感じさせず聞きやすい。夢見るような旋律は決して夢見るようには演じられないが古典的なたたずまいの中でしっかり自己主張をしている。新しい録音であること、オケがとても素晴らしい技術と響きを持っていること、それだけで十分だ。物凄くスムーズに聞ける演奏で、それは両刃であり、曲を知らない人には未知のものに対する抵抗感を感じることなく素直に曲の本質だけが入ってくる素晴らしいものになりうるし、既知の人には娯楽的に情緒的にちょっと食い足りない感じも受けるかもしれないが、そもそもウィーンの響きしか考えられていないフランツの曲をやるのは結構難しいことで、ウィーンの響きに慣れてしまった人ならそう思うかもしれないが曲の深刻な本質ではない。確かにこの演奏を聞き終わり後に録音していたモラルト盤冒頭のトランペットの響きを聞いた瞬間、全然違う悲痛な感情の世界に引きずり込まれてしまい、印象が一気に薄まってしまったのだが、それでも、この演奏は「曲を知らない人にも曲のよさがきっちり伝わる汎用性の高い演奏」として価値があるように思う。○。
Comment
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする