湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

ニールセン:弦楽合奏のための小組曲

2006年06月14日 | 北欧・東欧
○ガラグリ指揮チボリ・コンサートホール管弦楽団(VOX)

古典的な小品で、作品番号1にしては手慣れているが、あまたある弦セレと較べ影響を受けてこそすれ与えるような要素は何もない。ガラグリだからガシガシと堅固なアンサンブルが組み上げられ生命力に満ちているが、アマオケ受けしそうな平易さがあるが、よほど真面目に取り組まないと裏目に出るかも。曲は無印だが○。
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ニールセン:交響曲第2番「4つの気質」

2006年06月14日 | 北欧・東欧
○ガラグリ指揮チボリ・コンサートホール管弦楽団(VOX)

ニールセンは古臭い。ときどき古典からワグナーくらいまでの曲から「まんま」持ってきたりする。そのへんの擬古典的というか、変にしゃっちょこばった書法が苦手なのだ。ブラームスからフランツ・シュミットという流れにシベリウスを取り入れたかのような作風を総括してさらに個性的な清澄さがあるが、シベリウスほどの確信や閃きが感じられない。しかしガラグリは毅然とした態度で耳を切り裂くくらいに厳しく研ぎ澄まされた音でガツガツと押しまくる。情に流れることはなく、構造へ逃げることもなく、ドイツ的な力強さで、自身のルーツでもある北欧情緒を徒に煽らず、純粋に音楽として完成度の高いものを造ろうとしている。激しい楽章でそれが際立つのは道理か。曲の弱さから中間楽章はそれでも耳に残るものはなかったが、そもそもシベリウスでも7番より1、2番に適性を示した指揮者だから余り情緒的フレーズは向かないのだろう。録音優秀なステレオ。○。ニールセンで○はまれ。
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岩城宏之氏死去

2006年06月13日 | Weblog
こういうことは相次ぐものだ。しかしあの世代がどんどん亡くなってしまうのは。。
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リゲティ死去

2006年06月13日 | Weblog
現代音楽には2種類ある。

どうでもいいものと、深いものだ。

往々にして前者だが、リゲティは後者に属するものを生み出せる数少ない作曲家だった。理論を越えて訴える(今の人に作りえない)作品の示す根深い心根には悲惨なナチ体験があるのだろう。ご冥福を祈る。
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ドビュッシー:海

2006年06月12日 | ドビュッシー
○ミュンシュ指揮フランス国立管弦楽団(LIVING STAGE/DISQUE MONTAGNE)1962/6/5LIVE・CD

よく知られた一夜のライヴ記録からのリマスタリング再発(LIVINGSTAGE盤)。これも素晴らしい演奏だが、二楽章でミュンシュ的な雑味が少し混ざってしまったか?しかしスクリアビンかと聞きまごうような恍惚感は聞き物だ。壮絶な三楽章クライマックスなどミュンシュの名人芸と言ってもいい。恣意的解釈が雑味を呼ぶことも多いミュンシュだがここまで板についていると気がつかないくらい引き込まれる。LIVINGSTAGEの表記はフランス国立管弦楽団。冷たいリマスタリングが若干気になったの含め、総合的には○。
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ルーセル:バッカスとアリアーヌ第二組曲

2006年06月12日 | フランス
◎ミュンシュ指揮フランス国立管弦楽団(LIVING STAGE/DISQUE MONTAGNE)1962/6/5LIVE・CD

LIVINGSTAGEの盤で評価。録音雑音が消された冷たいリマスタリング効果に異論ある人もいるかもしれないが、ルーセルにもっとも適性のあった指揮者の、これは最大の遺産といってもいい演奏の、最も音の良い記録と言っていいだろう。演奏の集中力、何より現代バレエ音楽としての強烈なリズム表現においてこの演奏の右に出る者はいない。耳をつんざくと思うくらいに激しく固い音は毅然として響き、この日の演目のどれよりも熱狂を呼んでいる(どれも呼んでいるのだが)。しばしばないがしろにされがちな(録音も含め)音響への配慮も、リマスタリングを経て明確に明瞭になった音楽からはいささかの陰りも聞こえないから(ルーセルはやや複雑でくぐもった響きを使うので(ドビュッシーと異なり)冷たい音に加工されると美質がより浮き立つ作家だが)、これは雑味の多い演奏を行うこの指揮者にとっても満足いく出来だったのではないか。ルーセルの決して晩年の作品でもないところ、特にワグナー的なくぐもったボリュームが残っている曲なだけに、その部分のスクリアビン張りの恍惚感も非常に面白い。ミュンシュの特質もうまく浮き立っている。◎。ディスク・モンターニュの再発まとめ盤でお得。
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ドビュッシー:管弦楽のための夜想曲~Ⅱ.イベリア

2006年06月11日 | ドビュッシー
○ミュンシュ指揮フランス国立管弦楽団(LIVING STAGE/DISQUE MONTAGNE)1962/6/5LIVE・CD

ディスク・モンターニュで再三再版されたもののこれはリマスター新盤(LIVING STAGE)。非常に精密にリマスタリングされており音は極めていい。ただライヴ録音ならではのよさはどうなんだろう。第一部の(ミュンシュのリズムはいいのだが)ソロ楽器の刻むテンポのたどたどしさが、リマスターの過程で因数分解され洗い直され再構成された結果更に明確明瞭になってしまい、古い時代の恣意的解釈がクリアな音だとこう聞こえてしまうのか、と逆に感心する。第三部最後もそうなのだがソリストのノリがイマイチで弦なんかの強靭な合奏とバラバラ感が否めない。ライヴ特有の音感が環境雑音以外全く失われており、痩せはしないがミュンシュといえども集中力はこんなものかと思わせる点褒められない。しかし第二部のむせ返るような雰囲気はアク抜きされとても受け取り易くなっている。まるでジョン・ウィリアムスの最盛期の映画音楽のように聞こえる何とも言えない感傷性だ。バーターで○にしたゆえんである。とにかくこんな揺れ方をしたら現代のオケでは背中を向けてついていかないだろう。ミュンシュの正体はこんなものかもしれない。いつも困るのがオケ表記だが、時期的なことを忘れたので、EU盤の英語表記を素直に訳して国立オケとしておく。フランス盤でORCHESTRE NATIONALとなっているとORTF(国営放送管)である。昔のオケはフランスに限らずぐちゃぐちゃしてるので一つに断じえない場合がある。
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マーラー:交響曲第10番~Ⅰ

2006年06月10日 | マーラー
ギーレン指揮SWR交響楽団(バーデン・バーデン)(HANSSLER)1989/11/16、17・CD

ギーレンもやたらとマーラーを振っており今はクック版に取り組んだりしているが、このころはロスバウトの流れをくみ、ブーレーズとはまた違う暗く冷たいオケを使ったザクザクした人工的な彫刻が、また新鮮に感じられたものだ。しかし今改めてこれをきくと、どうだろう、人工的なわりに整えかたが甘いというか雑な感じを受ける。仕上げを施していない未完成の芸術品、という印象だ。これがアダージオだけの録音なだけに、他の指揮者の施すような、「これでとりあえずマーラーの絶筆」という「完成感」がない。美的に消えゆく末期すらない、聞く者は不完全燃焼になってしまうのだ。むろん変な文学情緒的解釈を入れず純粋に絶筆スコアを音にした卓見と言えばそれまでなのだが、そのわりにテンポ操作なんかが機械的で恣意性を感じさせるんですよね。。現役で素晴らしい演奏を聞かせてくれる人だからこれにこだわることもあるまい、無印。マーラーの広大な立体音響感覚は往々にして舞台の指揮台の上でのもの、という感じが強い。この曲の録音も難しいだろうな、とくにこのようなスタジオ録りでは。雑なイメージは録音のせいなのか?
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ヒンデミット:ウェーバーの主題による交響的変容

2006年06月09日 | ドイツ・オーストリア
○チェリビダッケ指揮ケルン放送交響楽団(VIBRATO:CD-R)1958live

前出の録音と同じ可能性がある。録音ピッチが高めで最初やや違和感が否めないが、既にチェリらしいがっちりした縦の響きがあり、それをガツガツぶつけていくような硬派な曲作りが聞こえてくる。まだ時期的にまるでベルリン風のものがある。暗く重い響きに対して強烈な推進力が単彩ながらも発揮されていくさまはこの時期まで特有のものであり痛快でもある。ヒンデミットならではの音色と構造の派手な煌びやかさは聞き取れないものの、それなりに楽しめるものとは言える。チェリのヒンデミット、ということで評価。○。ヒンデミットとしてどうかといえば、必ずしも○には及ばないかもしれない、そういうわかりやすいカタルシスは今ひとつな演奏。
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ミュージシャンの死

2006年06月08日 | Weblog
知り合いの音楽家が亡くなりました。
悲しいことですが、わかっていたのかもしれない。

音楽は所詮娯楽などと軽んじられるものではない。ましてやそれに命を賭し表現する者を。
そういう想いを受け取った気持ちです。
その生き様に対し自己を恥じる反面、この出会いをもたらしてくれた音楽というものの素晴らしさを改めて認識した証拠を、ここに遺しておきます。

瑣末な言葉や知識などいらない。
音楽はそこにあり、感じ、共鳴しあうものだ。
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マーラー:交響曲第1番

2006年06月08日 | マーラー
○クレー指揮ベルリン放送交響楽団(lucky ball:CD-R)1979/10/28live

どちらかというとバンスタやメータのような古いタイプに聞こえる。しかし情緒的な部分は前半楽章では目立ってこず、むしろ後半楽章のほうが聞きものだ。特に3楽章終盤でのテンポルバートや4楽章の緩徐部は情緒纏綿である。そういうところ含め逆にヴァイオリンのアンサンブルの乱れが目立つのは仕方がないのか。実演の恐らくエアチェック盤ということもあって音の悪さは(取り立てて言うほどではないレベルだが)あり、それも含めて雑味は多い。しかし全般速めのインテンポ気味でも流れというかテンポ回しの巧さは特筆でき、演奏自体は最後のブラヴォ模様からしても成功だったのだろう。ここぞというところでの力感のなさなど肩透かしな場面も少なからずあるがそれも録音のせいかもしれない(ホルンだけは物凄い)。○としておく。ライヴ向きの指揮者かもしれない。何度も日本に来ている人。
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ロマン派と現代とモーツァルト

2006年06月07日 | Weblog
かつて音楽日記が好評だったのだが一身上の都合によりとりやめてブログ化した。しかし完全なウェブログと化すのもどうかというところがあるので、分類なしでここに時々それっぽいことを書いてみる。

1年半(実質3年)のブランクをへて楽器を再び練習しだしたのだが、基礎からやらないとだめだこりゃ、は別として、左手の忘却の激しさというのは「ちょっと休む」の壁を越えたかな、と思う。そらで弾いていたモーツァルトのコンチェルト(表向きモツ嫌いという建前があるので(そのわりに仕事でかかわったりもしたが)人前では弾きません、下手だし)の特に高音の運指を左手が完全に忘れている。こんなにたどたどしいと、全体の曲の流れも忘れてしまい、どっちがオクターブ上のパターンだったけ?とかいろいろ苦しんだ。昔は安直にとれていた音が飛びつきではとれなくなっている。

もっとも(酷い言いようだとは思うが)音程の悪い連中とつるんでいるうちに自分も音程がわけわからなくなった側面があり、それとは別にウォークマンの聴きすぎで耳も悪くなり、また自己流に演奏方法を改造したがために指圧がかなり弱く柔らかいため、あやふやな音程感が身に染みてしまっている、これも影響しているのは明白なのだが、とにかくベトコンもちょっと弾いたんだけど、指板上での偶数ポジション、指を入れ替えつつの運指がうまくとれないねえ(ベトコン三楽章ひどい)。頭で完全に音は鳴っているのに指に反映できないもどかしさというのを久しぶりに味わいました。

左手と右手のテンポがあわないという信じられない状況すら発生するにつけ、リズム感のなさはもう生まれつきだからなあ、と諦めモードに入る(リズムというより高速の刻みや音階なんかでスピードがずれるんだけど)。かつて得意だったトリルすら、いまはヴィブラート痙攣でなんとかもたせてるかんじで、これは筋肉のつきかたが変わった問題かとすら思う。ちょっと驚いたのが、変に難しいフレーズが弾けたりするところ。突然ウォルトンのコンチェルトのワンフレーズを弾ききったりするのだ(でも下手です)。音楽は数学じゃない。専業作曲家やピアノを道具としてしか弾けない作曲家の言説に説得力を感じないのはそういうところだなあ。人間がやること、自然がなすことは単純な数字じゃ割り切れない。音響の現場の専門家はけっこうそういう話をするよね。

ま小学校低学年で振り落とされ、高学年で「プロにならない前提で」モギさんの弟子のおばあちゃん先生につきなおしたアマチュアが何言っても、自分で弾きもしない連中にすら謗られるのが落ちなので愚言どーでもいーのですが、そこでですよ、表題。

今私は平気でロックやテクノなんかとクラシックをまぜこぜで聴くことができる。昔は先入観ゆえの抵抗だったことが今になってわかる。しかし、HIPHOPとクラシックを交互に聴けるのに、

バッハとロマン派を連続して弾こうとすると完全に頭が混乱するのだ。

演奏側に立ってるからという面もあるけど、これってやっぱり「違う音楽」なんだよなあ。

昔はバッハとか(もちろん簡単な曲ですよ)練習曲のイメージがあって、おおざっぱには「正統な」技法に基づいて数理的に書かれているため実際その役割を果たさせるためにスケール本のかわりによく弾いていた(大学に入ってやめちゃったけど)。鈴木メソッドというかなり有名なヴァイオリン教則本(教室)があるが、あれは完全に音階本から離れ最初から曲を弾かせることにより体感から音楽を理解させるという、どちらかというと脳の未発達な子供向けのメソッドである。私もその域から抜け出せないためおばあちゃん先生に音階本をひたすら1時間弾かされたりチューニングに十分もかけたり楽則の勉強をさせられたり大変だったんだけど結局、曲で調子を合わせるという、おばあちゃん先生すいませんという状態に戻ったわけだ。でも曲を選べばバッハは確かに調子をあげる。新古典の作品もそうだ。特に三、四和音は論理じゃなく指と腕と耳の感覚で身に着けるものなので、バッハのような重音を多用する曲は、協和音不協和音に限らず近現代の曲を弾くうえでもとても適している(単音楽器で四和音使うソロ曲なんてベースはバッハなことが多いのでそれで済む)。

で、難しいなあと嘆きつつそれでも簡単なほうのバッハの無伴奏曲集をつまみ食いして、そのあとふとマーラー9番の譜面なんかを手にとってみるわけだ。

えええええええ。

何。

なんだこりゃ。

ファーストヴァイオリンじゃなきゃ尚更だろう。ぜんっぜん理解できないのだ。つか、横の動きばっかりで、縦がない(オケだからね)。うにょうにょと旋律だけ流れてる。

きもい。

で、まあソロ曲ならと、シマノフスキのコンチェルト2番を手に取るわけだ(選択が間違ってるかどうかは別にして)。

うぐぐぐぐぐ。

違う。。

何か違う・・・民族楽派に立ち返った曲のせいかやはり旋律がきもい。重音バリバリなので、そういうフレーズでは音響に支えられて(ひょっとしたら昔よりスムーズに)淀みなく進められたりするのだが、旋律だけの部分になるととても、きもい。

半音階がダメなのだな。

そんなことを思いつつ、いろいろ逍遥するうちになんとなく、体がなじんでくる。

で、ふと「俺って持ちネタねーなー」という気になった。

モーツァルトのコンチェルトの頭だけ弾いてみようか。練習曲でさんざんぱらやらされた曲だけど、そんな悪印象も数十年の波で洗い流されている。

しかしバッハとロマン派のディバイドが余りに深かった。どうなんだろう。

で・・・






違和感なし。モーツァルトって凄い。音的にモーツァルト向きな音を出すようになっているので、左手さえもっと回ればなんとかなるレベル。数十年前の記憶頼りで弾くしかない状況なのだが(つまり譜面がない)、それにしてもどうなんだろう、完全分業制の協奏曲形式が成り立っていた時代だからバッハのしかも無伴奏なんかとは違い旋律的な部分や装飾的な部分が(ここが凄いところなのだが「自然に」)織り込まれている、だからロマン派のあとにこれでも違和感ないのかな。

で、バッハ弾いてみる。

違和感なし。


うーむ。。

モーツァルトには「作法」があり、さんざん弾いてる人に言わせると譜面なくても知らない曲でも大体弾けるという。しかし、その作法こそがこういう万能性に繋がってるんじゃないか?と思わされた。思い知らされた。

で、ベトコンをちょっと。



この人ヴァイオリンわかってねーよ!!!

重いし!
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クアドリとプレヴィターリの「松」

2006年06月07日 | Weblog
既に本サイトにアップしている記事だが、この両者を新しいLPプレイヤーで改めて聴きなおして多少印象が変わった。もちろん前者の音の悪さが影響していることもあるが、やはり演奏レベル的には後者のほうがよくできているといわざるをえない。前者は最初から拡散型の解釈のため、ぶわーんとひろがりっぱなしで終わる印象を与える(アッピア)。しかし後者はしっかり設計された音響の松葉に従い巧緻に進められていくため、心の底から揺り動かされるような感動をあたえることに成功しているように聞こえた。中庸という印象にも少々修正を加えなければな、オケの違いも大いに影響している。いずれ、モノラル時代のLONDONの録音は素晴らしいということです。

レスピーギはいろいろ聞いてもやっぱり「ローマの松」に行き着いてしまうのは、ホルストが結局「惑星」に尽きるというのと同じ、いわゆる「一発屋」的な側面があるからだろう。細かく聴けばマニアックな楽しみはいくらでも引き出せる作曲家だと思うが、なにしろ生涯が比較的短かった(カゼッラも同様の悲劇があったが・・・ラヴェルの同窓にして親友、ピアニストとしても作曲家としても評価も高かったのに作風が定まらないまま決定打無しに終わってしまった感がある)ため、今風の「一発屋」という呼び名のそしりは意地悪すぎるかもしれない。ブロッホとかエネスコとか、個性はしっかり持っているのに一発すら出せなかった(マニアックな観点は置いといて、ですよ)人もいるのに、寧ろ幸せだったのかもしれないけど。「泉」のカゼッラとのロール連弾はいいですね。ロールも器械次第でいくらでも「撚れ」を補修できるもんなんだなあ、と昨年復刻されたCDを聞いて思いました。違和感ゼロ。
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マーラー:交響曲第1番

2006年06月05日 | マーラー
○マゼール指揮NDR交響楽団(KARNA:CD-R)1986/12/8LIVE

結構客観的でうすーい演奏をするような印象のあるさいきんのマゼールだが、これはずいぶんと「マゼールにしては」速いテンポでドライヴしている。かっこいい!正直面白かった。それはある意味「中庸」だし、ブーレーズ的な面白さに近い部分もあるのだが、オケの音とマゼール解釈の相性がいいというか、硬質で響きの透明なドイツオケ、という部分で得をしている。特徴的な解釈も没入型の面白さもないが、「まるでスタジオ録音のような」良録音と演奏精度、正直、偽演(というか何か正式に録音されたもののコピー?)を疑うような拍手の完全カット(たぶんブラヴォ出たはずである、あの偉大なフィナーレでは)もあるものの、あくまでカルナが良質な業者であるということを信じて○として評価しておく。
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ストラヴィンスキーの誕生日

2006年06月05日 | Weblog
ひさびさ誕生日ネタを書いてみます。
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