湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

ロマン派と現代とモーツァルト

2006年06月07日 | Weblog
かつて音楽日記が好評だったのだが一身上の都合によりとりやめてブログ化した。しかし完全なウェブログと化すのもどうかというところがあるので、分類なしでここに時々それっぽいことを書いてみる。

1年半(実質3年)のブランクをへて楽器を再び練習しだしたのだが、基礎からやらないとだめだこりゃ、は別として、左手の忘却の激しさというのは「ちょっと休む」の壁を越えたかな、と思う。そらで弾いていたモーツァルトのコンチェルト(表向きモツ嫌いという建前があるので(そのわりに仕事でかかわったりもしたが)人前では弾きません、下手だし)の特に高音の運指を左手が完全に忘れている。こんなにたどたどしいと、全体の曲の流れも忘れてしまい、どっちがオクターブ上のパターンだったけ?とかいろいろ苦しんだ。昔は安直にとれていた音が飛びつきではとれなくなっている。

もっとも(酷い言いようだとは思うが)音程の悪い連中とつるんでいるうちに自分も音程がわけわからなくなった側面があり、それとは別にウォークマンの聴きすぎで耳も悪くなり、また自己流に演奏方法を改造したがために指圧がかなり弱く柔らかいため、あやふやな音程感が身に染みてしまっている、これも影響しているのは明白なのだが、とにかくベトコンもちょっと弾いたんだけど、指板上での偶数ポジション、指を入れ替えつつの運指がうまくとれないねえ(ベトコン三楽章ひどい)。頭で完全に音は鳴っているのに指に反映できないもどかしさというのを久しぶりに味わいました。

左手と右手のテンポがあわないという信じられない状況すら発生するにつけ、リズム感のなさはもう生まれつきだからなあ、と諦めモードに入る(リズムというより高速の刻みや音階なんかでスピードがずれるんだけど)。かつて得意だったトリルすら、いまはヴィブラート痙攣でなんとかもたせてるかんじで、これは筋肉のつきかたが変わった問題かとすら思う。ちょっと驚いたのが、変に難しいフレーズが弾けたりするところ。突然ウォルトンのコンチェルトのワンフレーズを弾ききったりするのだ(でも下手です)。音楽は数学じゃない。専業作曲家やピアノを道具としてしか弾けない作曲家の言説に説得力を感じないのはそういうところだなあ。人間がやること、自然がなすことは単純な数字じゃ割り切れない。音響の現場の専門家はけっこうそういう話をするよね。

ま小学校低学年で振り落とされ、高学年で「プロにならない前提で」モギさんの弟子のおばあちゃん先生につきなおしたアマチュアが何言っても、自分で弾きもしない連中にすら謗られるのが落ちなので愚言どーでもいーのですが、そこでですよ、表題。

今私は平気でロックやテクノなんかとクラシックをまぜこぜで聴くことができる。昔は先入観ゆえの抵抗だったことが今になってわかる。しかし、HIPHOPとクラシックを交互に聴けるのに、

バッハとロマン派を連続して弾こうとすると完全に頭が混乱するのだ。

演奏側に立ってるからという面もあるけど、これってやっぱり「違う音楽」なんだよなあ。

昔はバッハとか(もちろん簡単な曲ですよ)練習曲のイメージがあって、おおざっぱには「正統な」技法に基づいて数理的に書かれているため実際その役割を果たさせるためにスケール本のかわりによく弾いていた(大学に入ってやめちゃったけど)。鈴木メソッドというかなり有名なヴァイオリン教則本(教室)があるが、あれは完全に音階本から離れ最初から曲を弾かせることにより体感から音楽を理解させるという、どちらかというと脳の未発達な子供向けのメソッドである。私もその域から抜け出せないためおばあちゃん先生に音階本をひたすら1時間弾かされたりチューニングに十分もかけたり楽則の勉強をさせられたり大変だったんだけど結局、曲で調子を合わせるという、おばあちゃん先生すいませんという状態に戻ったわけだ。でも曲を選べばバッハは確かに調子をあげる。新古典の作品もそうだ。特に三、四和音は論理じゃなく指と腕と耳の感覚で身に着けるものなので、バッハのような重音を多用する曲は、協和音不協和音に限らず近現代の曲を弾くうえでもとても適している(単音楽器で四和音使うソロ曲なんてベースはバッハなことが多いのでそれで済む)。

で、難しいなあと嘆きつつそれでも簡単なほうのバッハの無伴奏曲集をつまみ食いして、そのあとふとマーラー9番の譜面なんかを手にとってみるわけだ。

えええええええ。

何。

なんだこりゃ。

ファーストヴァイオリンじゃなきゃ尚更だろう。ぜんっぜん理解できないのだ。つか、横の動きばっかりで、縦がない(オケだからね)。うにょうにょと旋律だけ流れてる。

きもい。

で、まあソロ曲ならと、シマノフスキのコンチェルト2番を手に取るわけだ(選択が間違ってるかどうかは別にして)。

うぐぐぐぐぐ。

違う。。

何か違う・・・民族楽派に立ち返った曲のせいかやはり旋律がきもい。重音バリバリなので、そういうフレーズでは音響に支えられて(ひょっとしたら昔よりスムーズに)淀みなく進められたりするのだが、旋律だけの部分になるととても、きもい。

半音階がダメなのだな。

そんなことを思いつつ、いろいろ逍遥するうちになんとなく、体がなじんでくる。

で、ふと「俺って持ちネタねーなー」という気になった。

モーツァルトのコンチェルトの頭だけ弾いてみようか。練習曲でさんざんぱらやらされた曲だけど、そんな悪印象も数十年の波で洗い流されている。

しかしバッハとロマン派のディバイドが余りに深かった。どうなんだろう。

で・・・






違和感なし。モーツァルトって凄い。音的にモーツァルト向きな音を出すようになっているので、左手さえもっと回ればなんとかなるレベル。数十年前の記憶頼りで弾くしかない状況なのだが(つまり譜面がない)、それにしてもどうなんだろう、完全分業制の協奏曲形式が成り立っていた時代だからバッハのしかも無伴奏なんかとは違い旋律的な部分や装飾的な部分が(ここが凄いところなのだが「自然に」)織り込まれている、だからロマン派のあとにこれでも違和感ないのかな。

で、バッハ弾いてみる。

違和感なし。


うーむ。。

モーツァルトには「作法」があり、さんざん弾いてる人に言わせると譜面なくても知らない曲でも大体弾けるという。しかし、その作法こそがこういう万能性に繋がってるんじゃないか?と思わされた。思い知らされた。

で、ベトコンをちょっと。



この人ヴァイオリンわかってねーよ!!!

重いし!
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