「記号とは呼び方にすぎない。何をなんて呼ぶかなんて趣味の問題で、好きに呼べばいい。
だけど、記号は他人に通じなけりゃ意味がない。
赤信号は『止まれ』なんですよと、誰もが理解してそのとおりにしないと、赤信号が記号である意味がない。
赤信号で止まる奴がいたり、
赤信号で走り出す奴がいたり、
赤信号で踊り出したりする奴や、
赤信号で泣き出したりする奴がいたりするなら、
もう収集がつかない。
怖くて道も歩けない。
人によって赤信号の意味を勝手に理解して、止まったり進んだり踊ったり泣き出したりするぐらいなら、もういっそのこと信号機なんかないほうが、よほど安全だ。
別に何色が止まれでも、誰もが、その色を『止まれ』ということを意味する記号だと理解するなら、赤でも緑でも黄色でも何色でも良い。
このように、赤信号なんか何色でもいい。
赤色に『止まれ』の意味はない。
もし、仮に赤という色には、『止まれ』という意味があるんだなんて勘違いした奴がいたとしたら、リンゴを見て止まり、トマトを見て止まり、日の丸を見て止まり、闘牛士のふる布を見て止まりと、赤色があるたんびに止まってなきゃなんない。下手すりゃ動けないかもしれない!」
「で?」
「だから、記号そのものには意味はない。
誰もが、その記号の意味を理解しているという状況の方が大切なのだ。
記号の意味は、記号ではなく、状況や文脈が生む。
ところで、『愛とは何?』と問われたら、しばし考え込むだろう。
だが、数学の記号の『Xとは何?』と問われたら、どう答える?」
「Xは、それこそただの記号じゃん。グラフの中にある場合と数式の中にある場合じゃ意味が違ってくるし、それに、Xに何を代入するのかで答えが違うし」
「そう、Xが記号なら、愛も状況や文脈に配置されないかぎり、ただの記号だ」
「でも、愛は記号じゃなくて、言葉であったり文字だったりするじゃん」
「だから、言葉も文字も、状況や文脈がないかぎりはただの記号だ」
「なんで?」
「なんでって、どうして、そこが分からない?」
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