話し続けていくうちに、まるで死人のような目だった死神の目に不気味な存在感があらわれはじめた。顔は相変わらずの無表情だが、目だけは光を吸収する底なしのブラック・ホールのよう。
やばい。
死神が調子にのってきた。
自分の言葉に陶酔しかけて、おさえていた声もだんだんと大きくなってきている。こんな電車の中で、例の『へ理屈』を大声でぶちまかされたら、たまったもんじゃない。マジかんべんしてほしい。
ちらっと視線を動かし周囲を観察すると、さっきまで文庫本を読みふけっていた左どなりに座っているおじさんの手が固まっている。本に興味を失った様子で、聞き耳をたてているような感じがする。
「ねぇ死神、ちょっと……」
「今の混沌とした教育の状況に対して、あえて俺は言おう。現代の教育は競争原理にのっとった『競争教育』であると!」
駄目だっ。
死神の奴すでにバーニングファイヤーしている。もう、そのまま勝手に燃え尽きてしまえ!
「理念ない教育は悲しい。
子供達こそが未来を創造するのだ。教育は、この国の未来をある程度決定する重要なものである。
なのに、この国には肝心の『教育理念』がない。あるにはあるが、ただの建前と化している!
その理由はこの国の政治家に明確な日本の未来像がないからだろう。未来の日本をどうしたいかという想定がないから、日本の子供をどのような大人に育てたら良いのか分かっていない。
国の政策として考えるなら、教育改革の根本には『どのような日本にしたいか?』がなくてはならない。
次に『では、そういう日本にする為には、どのような日本人が必要か?』となる。
そうすれば、目標となるべき『日本人像』が出来たのだから、そういう日本人になるような教育方針を『理念』とすれば良いだろう。
ただ、国策にのっとった教育は常に危険がともなう。
その理念が適正な物であるかどうか、公正に審査するシステムも同時に必要となろう。
とにかく教育改革をするならキチンとした『日本の未来像』がまず必要で、今までのやり方じゃ駄目っぽいから今度はこうしてみよう。なんていう小手先の変革は子供達の混乱を招くだけ、ろくな結果にならないのは目に見えている。
『改めて益なき事は、改めぬをよしとするなり』と兼行も言っている」
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