「まぁ、俺は根本的に対立を望まない。言いなりを望む。俺の言いなりになってくれたらいいなというのが他者に望む俺の基本方針だ。ソレ意外に全く作為はない。だが、意見に対立があるならこういう時こそ語りあおうじゃないか」
「復讐はできません、ごめんなさい」
「ソレは単なる『自分の都合の押しつけ』だ。俺は復讐をしなさいと言っている。それが何故できないのかね?」
「出来る自信も、する理由も解らないからです」
「分からない? しましまのとらじろうだって『チャレンジ1年生』と、チャレンジをすすめている。やってみなきゃ何も分からないし、やれば自信も生まれる! 君には成長したいという心がないのかね?」
「成長?」
「そうさ、何事も『成長の家』なのだ。ある意味で、真実は一つだ。その真実こそが『成長』なのだ。どんな事だって自分の『成長』のタメと思えば何でもできるはずだ!」
「成長してどうなるの?」
「結果だよ。過程を楽しんではならない。結果のみが正しい。この世はやったもん勝ち、生きてるもん勝ちで死人に口無しだ。何も言わない奴など見えないタンポポだ。結果をだせ! 君に復讐以外でなにか結果が出せるのか? 少なくとも、そのマシンガンを手に入れた事で結果を出す機会を君は得た」
「結果?」
「確かなモノを君はこの世に残したいと思わないのか?
それが『結果』だ。
なんだっていいんんだ、自分がこの世に生きていた証を残せるなら『復讐』だってなんだって」
「自分が生きている証明の為の『復讐』?」
「そうだよ。今まで虐げられたんだ。どんな形でもいいから、生きていた証を残さないいけない」
また矛盾だらけ。
そもそも死が尊いなら、いかなる形でも生きていた証を残す事なんて『無意味』なのではないだろうか?
もしくは、そんなに『自分が生きている』ことにこだわるならば、『復讐』は、他者の生命を犠牲にした『自己主張』ではないのだろうか。
たしか、死神は身勝手な自己主張は醜いとか言っていたはずだ。
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