墨汁日記

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秘技

2006-03-28 21:54:07 | 新訳 徒然草

 この人の本を読むと癒されるみたいな読書は危険で意味がない。本は本気で魂を削って読むべきだと思う。

 本を読むのは、自分と、本の作者との真剣勝負である。読者と作者は1対1のかたき同士で、チャンチャンバラバラ火花が飛び交い少しでも気を許せばたちまち作者に飲み込まれて読者は作者のしもべとなる。

 これは古典の宿命とでも言うべきものなのだが、『徒然草』は無駄に過大評価されている。

「徒然草の文章は美しい!」

「徒然草には、日本の美の原型がある!」

「徒然草は素晴らしい教訓がいっぱい詰まっていて人生の教科書だ!」

 確かに、そう思って読めば、そう読める。

 しかし、兼好の文章は上手いけど全てが美しくはない。むしろ荒削りで泥臭い章段もある。

 また、兼好の美意識はかなり特殊で日本の美の原型とは言い難い。

 まして、『徒然草』は教訓書なんかじゃないはずだ。教訓書を書こうと考えるなら、『徒然草』の出だしが「つれづれなるままに」のわけがないと思う。「思いつきで書いた文章をまとめて本にしてみましたので、気楽に読んでやって下さい」という気持ちを込めて、兼好は「つれづれなるままに」という出だしを書いたのではないだろうか。

 『徒然草』は古典で、古いものをありがたがる人々は必要以上に珍重する。だが、古典だからありがたいと思って読むと、兼好の本意からはずれてしまう。ぜひとも老人たちのこさえた価値観などには左右されずに、もっと自由に兼好と触れあってほしい。
 若い視点、いわゆるヤング・アイで「アイアイ・アイアイ おさーるさんだよ~!」という自由な物の見方で『徒然草』を読んでほしいのだ。それが、作者である兼好の希望なのである。
 ちなみに、俺の言う事なんかもちろん全く信じちゃいけない。全てを疑ってかかりなさい。あなたの目で『徒然草』を読み解くのだ。

 兼好は必要以上に文章が上手いので、兼好の口車に飲まれない為の秘策として、いろいろな手段が考案されている。
 そのひとつに「徒然草連続読み」という「秘技」が存在する。これは、俺の思いつきなんかでなく、すでに完成している「つれづれ奥義」の1つだ。具体的には、対面する敵に対して反対方向にグルッと十時キーをひと回ししながら、「中」ボタンを押せば「連続読み」は発動する。
 発動条件はともかく、具体的に言うなら、『徒然草』なんだから、つれづれて読めということだ。分けられた章段ごとに『徒然草』を読むのではなく、前の段に書かれた内容を頭に置きつつ、目の前の段を読めと言う事だ。

 「連続読み」のパクリもとは、島内裕子という「徒然草研究家」が書いた本である。パクリついでに、その本文を引用させていただこう。

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リンク: Amazon.co.jp:兼好?露もわが身も置きどころなしミネルヴァ日本評伝選: 本.

「そもそも徒然草の古い写本には、ところどころに改行は見られるものの、現代の私たちが見慣れているような、序段から始まって第一段、第二段と続き、第二百四十三段をもって最終段とする章段番号などは付いていなかった。これらの番号は、江戸時代に付けられたものであって、決して兼好本人が付けたわけではない。確かに章段番号が付いていれば、たくさんの曲が詰まったディスクから聴きたい曲だけを拾い出して聴くように、すぐにその箇所を読むことができて便利である。注釈を付ける場合にも、あらかじめ短く内容が区切ってあれば、一段ごとに詳しく注が付けられる。
 江戸時代以来の章段区分が現在までそのまま踏襲されているのは、作品自体の内容の区切れが明確だからでもある。もしも章段に区切っていない徒然草の本文全体を示されて、「内容ごとに区切りなさい」という試験問題が出されたとしても、人によって区切り方がそれほど大きく変わるようなことはまずないだろう。ほぼ全員が同じように章段分けすると予想される。徒然草という作品は、それくらい明確な書き方がなされている。」

『兼好』島内裕子著 ミネルバ書房(第四章より)

 ようするに、序段とか第何段とかいう分け方なんか気にするなと言う事だ。
 兼好本人が章段をくぎったわけじゃない。後の世の人が『徒然草』を読みやすくするために勝手にくぎっただけだ。
 引用させていただいた島内先生の著作には、その他にも参考になる意見が多数書かれている。さらにくわしくつれづれたいという方にはおすすめの一冊だ。

 そんなで、今日はあえて序段から第4段までを「、」や「。」すら取り除いて連続して連ねてみた。
 ヒマな人は、自分なりに章段分けしてみるのも楽しかろう。

 つれづれなるままに日くらし硯にむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくればあやしうこそものぐるほしけれ
 いでやこの世に生れては願はしかるべき事こそ多かめれ
 御門の御位はいともかしこし竹の園生の末葉まで人間の種ならぬぞやんごとなき 一の人の御有様はさらなり ただ人も舎人など賜はるきははゆゆしと見ゆ その子うまごまでは はふれにたれどなほなまめかし それより下つかたはほどにつけつつ時にあひしたり顔なるもみづからはいみじと思ふらめどいとくちおし
 法師ばかりうらやましからぬものはあらじ 人には木の端のやうに思はるるよ と清少納言が書けるも げにさることぞかし 勢まうにののしりたるにつけていみじとは見えず 増賀ひじりのいひけんやうに名聞ぐるしく仏の御教にたがふらんとぞ覚ゆる ひたふるの世捨て人はなかなかあらまほしきかたもありなん
 人はかたちありさまのすぐれたらんこそあらまほしかるべけれ 物うち言ひたる聞きにくからず愛敬ありて言葉多からぬこそ飽かず向はまほしけれ めでたしと見る人の心劣りせらるる本性見えんこそ口をしかるべけれ しなかたちこそ生まれつきたらめ心はなどか賢きより賢きにも移さば移らざらん かたち心ざまよき人も、才なく成りぬれば品くだり顔憎さげなる人にも立ちまじりてかけずけおさるるこそ本意なきわざなれ
 ありたき事はまことしき文の道 作文 和歌 菅絃の道 また有職に公事の方人の鏡ならんこそいみじかるべけれ 手など拙からず走り書き声をかくして拍子とりいたましうするものから下戸ならぬこそ男はよけれ
 いにしへのひじりの御代の政をも忘れ民の愁 国のそこなはるるをも知らず万にきよらを尽くしていみじと思ひ所せきさましたる人こそうたて思ふところなく見ゆれ
 衣冠より馬 車にいたるまであるにしたがひて用ゐよ 美麗を求むる事なかれ とぞ九条殿の逝誡にも侍る 順徳院の禁中の事ども書かせた給へるにも おほやけの奉り物はおろそかなるをもてよしとす とこそ侍れ
 万にいみじくとも色好まざらん男はいとさうざうしく玉の巵の当なきここちぞすべき
 露霜にしほたれて所さだめずまどひ歩き親の諌め世の謗りをつつむに心の暇なくあふさきるさに思ひ乱れさるは独り寝がちにまどろむ夜なきこそをかしけれ
 さりとてひたすらたはれたる方にはあらで女にたやすからず思はれんこそあらまほしかるべきわざなれ
 後の世のこと心に忘れず仏の道うとからぬこころにくし

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 この図版は、中道館 古典新釈シリーズ21『徒然草』より転載させていただきました。


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