「『1+1=2』という数式があったとする!」
「数式言うほど、立派な式なの?」
「っせなぁ。俺は数学が、いや、算数が嫌いだ。これ以上の数式は俺には思いつかない」
「そんなことをえばられても」
「ところで、『1』は、常に『1』を意味すると思うか? 『1』が『1』であり得るのは、数式という形式があるからだ。数式を理解する気がなければ、どんなに数学者が頑張って『1』は『1』であるんだと主張しても、『1』はただの線にしか見えない。
画用紙にやや斜めに引いた線がある。これは『1』であると主張する数学者がいないかぎり、普通の人は、画用紙という状況から、これはなんか描きかけの線であろうと理解するだろう。
だが、画用紙に『1+1=2』とまで、算数の方法で書かれちゃたらもう、あぁこの斜めの線は『1』以外ではないんだなと、別に数学者が頑張らなくても、俺でも理解する」
「ふーん」
「言葉も数式と同じだ。状況や文脈がなければ、言葉なんてただの音声だったり文字なら線だったりする。
ところで、言語は単語に分けられる。
そして、単語は、交通標識や看板と同じでただの記号だ。
交通標識は交通ルールを共有する人間にしか理解できないように、単語は同じ言語を共有する者にしか理解されない。
言語における単語は、ただの記号で、ただの記号にすぎない単語は、現実の何かをあらわすと決められている。
そして、目の前の状況と記号がピッタリ合った場合のみ、人間は記号の意味を理解する。
たしかに、言語は意味を持つ。だが、言語は数式と同じようにただの記号の寄せ集めで、ルールを知らなければただの記号そのものだ。
記号である単語は、ルールを理解し、なおかつ状況や文脈がなければ理解できない」
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