某とかやいひし世捨人の、「この世のほだし持たらぬ身に、ただ、空の名残のみぞ惜しき」と言ひしこそ、まことに、さも覚えぬべけれ。
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<口語訳>
なにがしとかやらいった世捨て人の、「この世の絆もたない身に、ただ、空の名残りのみが惜しかった」と言ったのこそ、まことに、そうも覚えたはずだった。
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<意訳>
なんとかやらいう世捨て人。
「この世に、絆もたない身に、ただ、空の名残りのみが惜しい」
と言ってたのが、本当にそうだなと思えた。
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<感想>
兼好は、「空の名残り」という言葉に共感したから、この文章を書いたのであろう。でも、「空の名残り」ってなんだ?
夕方の仕事帰り、空を見上げる。
(空の名残りってなんだろう?)
今日はふりそでふらなかった。
雲ばかりモクモクとすがたかたちを変えながら空に浮かぶ。暮れかけたオレンジ色の太陽が雲を透かして輝く。
きれいな空。
こんな中途半端なくもり空でも、空はきれいだ。
もしかして、あの空に浮かぶ雲が、「空の名残り」なのだろうか。
その時に、ポンと心の中の兼好に肩を叩かれた。
俺の、心の右肩を叩いた心の中の兼好の右手人差し指は、ピンと直立していた。心の中で振り返った俺の心の中の頬は、直立した人差し指におされてムニュゥゥとなってしまった。
引っかけられた!
俺は、俺の心の中で、心の中の兼好のイタズラに引っかかったのだ。
心の中の兼好は、直立させた人差し指を俺の心の肩からどけて、指を空にのばした。
(空を見上げてごらん)
そうか分かった、空を見上げるという行為こそ、「空の名残り」を探して空を見上げる事こそが、「空の名残り」なのである。そうなんだろう兼好?
その事を俺に悟らせると、心の中の兼好はだまってうなずき、どこかに消え去った。
見上げる空には、雲が浮かび、暮れかけた太陽はうっすらと雲を染める。
だが、まぁ、もちろん。
まったく違うかもしれない。
この「空の名残り」の解釈は、いわゆる俺の勝手な解釈で間違っている危険性はとてつもなく非常に大きいのだ。
試験には使えない。
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<いらないけど解説>
『某』(なにがし)
場所、物、人。
などなど具体的な事が不明な時に使われる言葉。
『世捨人』
世間から隠れ住んでいる人。遁世者。
『ほだし』
馬の足をしばる縄。また、罪人の手足をしばる縄。拘束すること。
漢字だと「絆」と書く。
『名残』
現代語とほぼ近い意味である。
『さも覚えぬべけれ』
素直に現代語感覚で訳そうとすると、少しばかりとまどう言葉。
「さも」は、現代語の「さも」とほぼ同意義だけど、「そうも」と訳しておこう。
「覚え」は、動詞「覚ゆ」の連体形。「覚ゆ」は現代語の「思う」に意味が近い。
「ぬ」は、「ない」の「ぬ」ではない。完了の助動詞である。だから、「覚えぬ」は、「覚えない」ではなくて、現代語の「思いました」に意味が近い。
「べけれ」は推量の助動詞「べし」の已然形。「べし」は確信に近いなにかを感じた時にベシッと使われる。そのうえに已然形なので、当然中の当然だよと言っている。まぁ、已然形なのは「こそ」の結びだからなんだけどね。
「言ひしこそ、まことに、さも覚えぬべけれ」を、無理矢理に現代語にするならば、「言ったのこそ、マジそう思えた!」みたいなかんじかな。
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