墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

最先端

2006-05-11 20:48:36 | 駄目
 もし、最先端が若くてイケてるとするのなら、分からない事こそ、新しさで若さだ。
 もし、末葉の末端が老人とするなら、教育は老人の受け売りで古い概念だ。

 分からなくて流通してない上に、考えついたのが立場の弱い若い人間なら、分かってもらおうと思えば必死になるはずだ。
 老人は当たり前のことしか言えないので、言葉の上にあぐらをかいて、分かれやコラと若い者にお説教する。
 老人の意見のコピーしか言えない若い連中は必死になんかしゃべらない。あぐらの上にモンキー座りして当然みたいな顔してる。
 若いのなら、まだ誰も思いつかないような言葉の一つも思いついて、いい気になって流通させるべきだ。
 つまんない流行の服なんか脱ぎ捨てて、自分オリジナルの格好で街をカッポせよ。

 俺は、老人が他人をねじふせようとして言う事には反対するが、若い人間がなんだか全くわかんない事を言いつつも、それでもなんとか他人にも分かってもらおうと言っている事には賛成する。


徒然草 第十段 家居

2006-05-11 19:29:52 | 新訳 徒然草

 家居のつきづきしく、あらまほしきこそ、仮の宿りとは思へど、興あるものなれ。
 よき人の、のどやかに住みなしたる所は、さし入りたる月の色も一きはしみじみと見ゆるぞかし。今めかしく、きららかならねど、木立もの古りて、わざとならぬ庭の草も心あるさまに、簀子・透垣のたよりをかしく、うちある調度も昔覚えてやすらかなるこそ、心にくしと見ゆれ。
 多くの工の、心を尽してみがきたて、唐の、大和の、めづらしく、えならぬ調度ども並べ置き、前栽の草木まで心のままならず作りなせるは、見る目も苦しく、いとわびし。さてもやは長らへ住むべき。また、時の間の烟ともなりなんとぞ、うち見るより思はるる。大方は、家居にこそ、ことざまはおしはからるれ。
 後徳大寺大臣の、寝殿に、鳶ゐさせじとて縄を張られたりけるを、西行が見て、「鳶のゐたらんは、何かは苦しかるべき。この殿の御心さばかりにこそ」 とて、その後は参らざりけると聞き侍るに、綾小路宮の、おはします小坂殿の棟に、いつぞや縄を引かれたりしば、かの例思ひ出でられ侍りしに、「まことや、烏の群れゐて池の蛙をとりければ、御覧じかなしませ給ひてなん」 と人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覚えしか。徳大寺にも、いかなる故か侍りけん。

<口語訳>

 住居が似つかわしい、あって欲しいこそ、仮の宿とは思えど、興あるものだよ。
 よい人の、のどかに住んでる所は、差し入ってる月の色もひときわ しみじみと見えるのだぞ。今めかしく、きらびやかならないけど、木立もの古びて、わざとなからぬ庭の草も心ある様子に、簀子・透垣の具合 趣きあり、うち置く調度も昔おもえてやすらかなるのこそ、心にくいと見える。
 多くの工の、心を尽してみがきたて、唐の、大和の、珍しく、良くなくない調度ども並べ置き、前栽の草木まで心のままならなく作りだせるは、見る目も苦しく、とてもわびしい。さてもはや長らえ住めるはずか。また、時の間のけむりともなるだろうぞ、うち見るより思われる。大方は、住居にこそ、事様はおしはかられる。
 後徳大寺大臣の、寝殿に、鳶いさせまいとして縄を張られたのを、西行が見て、「鳶がいるのに、何が苦しいはずか。この殿の御心 そればかりにこそ」 と言って、その後は参らなかったと聞きましたに、綾小路宮の、おられます小坂殿の棟に、いつぞや縄を引かれたりしたらば、この例 思い出されましたに、「まことは、烏の群れ居て池の蛙をとりませば、御覧して悲しまられたから」 と人の語るこそ、さてはすごいとこそ覚えました。徳大寺にも、いかなる訳か御座ったのか。

<意訳> 

 住む家が自分に似つかわしい。
 そうあって欲しいから、家なんて仮の宿とは思いつつ興味は尽きない。

 良い人が、のどかに住む家では月明かりでさえしみじみと感じられる。今らしくも豪華でもないけれど、古木生え、人手の入らない庭に生い茂る草は心ある様子。縁側や垣根の具合も趣きあり、ふと置いてある庭の調度すら懐かしく安らかに見える。
 唐や大和の多くの職人が、心血注いで磨きあげた珍しくて普通にはないような調度を庭に並べ置いて、草木の心を無視して刈り込むなら、その庭はどこか見苦しくて少しさびしい。
 いつまで生きてその家に住む気なのだろう。家なんていつかは煙になるのは見ればわかる。だからこそ、住居によって住む人の品格などがおしはかれるのだ。

 後徳大寺大臣様の寝殿に、トンビをとまらせまいとして縄を張ったのを西行法師が見て、

「トンビがいて何が苦しい? この殿の御心はそればかりか!」

  とかなんとか言って、その後は絶縁したと聞きます。

 ところで、綾小路宮様の住まわれます小坂殿の屋根にも、いつぞや縄を張られてましたのでその西行法師の話を思い出しました。

「本当は、カラスが群れて池の蛙をとりますので、それを御覧なさって殿が悲しまられるので」

  その理由を、そう人が語ったが、それならばたいしたものだと思った。後徳大寺大臣様にも、なんか訳があったのかも。

<感想>

 出だしの 「家居のつきづきしく」は分かりにくい。
 辞書を引くと 『家居』とは 「住居、住まい、家に住む事」 とある。『つきづきしく』 は 「似合う」 という意味の形容詞。
 単純に意味をつなぎ合わせれば、 「家居のつきづきしく」 は 「住宅の似合う」 となるけど、それじゃいまいち意味がわからん。
 だが、『家居』 は日本語の熟語ではなくて漢語のようである。
 ようするに 『家居』 とは中国語なのだ。兼好の生きた時代の外来語である。
 意味は「居る家」という意味。
 ところで外来語の代表選手と言えば英語だ。
 では『家居』 を無理矢理に英語にしてみよう、『マイホーム』。 
 そう、「マイホームがお似合い」が、「家居のつきづきしく」の、現代語訳なのである。

 「マイホームがお似合いっての良くない? 家なんて、長い人生のうちの一時のホームステェイ先に過ぎないとは思っていても、興味はつきないよね」

 現代語訳にすると少し浮かれた感じの文章が、この段の出だしだ。『徒然草』は現代人が読むと格調を感じるが、本当は外来語まじりの少しくだけた文章なのだ。兼好と同じ時代の教養人が読むなら、『徒然草』の文章は、とっても突飛で最先端の文章だったはずである。