冷やし中華も盛りそばも食べちゃった。
「少し間があいたから復習でもしようか?」
「え。復讐はイヤだよ!」
「いやいや。『本当の愛』の復習だ」
「だいたい『本当』って何さ?」
私が聞くと死神は答えた。
「『本当』の反対って『嘘』だよな。でも、ホントに『本当』と『嘘』は必ず対になるものか? 痛さや痒さ、また暑さ寒さなどという感覚を、他人が『嘘』だと決めつける事は出来ない」
「まーね」
「ピューピューと北風の吹く寒い冬の日。当の本人がノースリーブのシャツ一枚に短パンで、ガリガリ君をかじりながら暑いと言うなら、ナニ言ってんだよと思っても、本人が言う暑いという言葉は否定できない。本人が暑いと言うなら暑いのだなと認めるしかない」
「その例え話は前に聞いた!」
「だから、復習だと言っているだろ。我慢して聞け!」
同じ例え話を何度も聞くのが復習なのか!?
「また、他人の気持ちや感情も否定できない。好きとか嫌い。ウザイとかやる気まんまんだとか、本人がそう言うなら他人はそうなんだろうなと思うしかない」
「まぁ、本人が好きだと言うなら、相手が化け物でも、他人はとやかく言えないもんねぇ」
「そうだな。本人がやる気ないと言うなら、やる気ねぇんだろうなと思うしかないもんな。でもなんで、他人の感覚や感情はそう思うしかないんだ?」
「当然、自分の心じゃないから。他の人の心なんて分からないし」
「だよなぁ。本人の心の中にある感覚や感情は他人には見えない。目に見えない他の人の心は自己申告でしか分からない」
「心なんか目にも見えないし手でも触れないしね」
「他人の心の『本当』や『嘘』は誰にも証明できない。本人でさえ、感覚や感情の『真偽』は証明はできない。だから、逆に『本当』だと人は言うではなかろうか? 感覚や感情は下手すると本人でさえ『嘘』とも『本当』とも分からないあやふやなものだ。そんな事は誰でも無意識に知っている。ある人が痛がっているとする。でも、それを見た人が、ある人の『痛い』と言う自己申告を疑っても話は進まない」
「痛がって泣いてる人に、その痛さは『本当』なの? なんて聞いたら可哀想だしね」
「そう。他人の痛さなんて、『嘘』か『本当』か見てるだけじゃサッパリ分からない。痛がっている人に、痛さが『嘘』か『本当』かなんて聞いても意味はない。『本当に痛いのか?』なんて聞く人もいるけどさ。でも、他人の『痛い』と言う言葉を、そのとおりに『嘘』でなくて『本当』だと認める気持ちが、『本当に痛そう!』という言葉になるのではないだろうか?」
「同情が『本当に痛そう!』って言葉を生むんだね!」
「あなたの痛さを疑ってはいませんよという意思表示だ。ただの肯定であり、痛さが『嘘』か『本当』かは問題にしていない。それに、他人が痛いと言うのを疑っても意味はない」
「痛さに『嘘』も『本当』もないもんね。痛いもんは痛いし、『嘘』か『本当』かなんて本人じゃなきゃ分からないし」
「もちろん、痛がっている本人なら痛いと『嘘』はつける。ウソをつけるなら痛さに『真偽』があるとも言える。だが、痛いという他人の発言を『偽』であると証明する事は不可能だ」