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墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

平成マシンガンズを読んで 238

2007-01-05 21:03:59 | 

 冷やし中華も盛りそばも食べちゃった。

「少し間があいたから復習でもしようか?」

「え。復讐はイヤだよ!」

「いやいや。『本当の愛』の復習だ」

「だいたい『本当』って何さ?」

 私が聞くと死神は答えた。

「『本当』の反対って『嘘』だよな。でも、ホントに『本当』と『嘘』は必ず対になるものか? 痛さや痒さ、また暑さ寒さなどという感覚を、他人が『嘘』だと決めつける事は出来ない」

「まーね」

「ピューピューと北風の吹く寒い冬の日。当の本人がノースリーブのシャツ一枚に短パンで、ガリガリ君をかじりながら暑いと言うなら、ナニ言ってんだよと思っても、本人が言う暑いという言葉は否定できない。本人が暑いと言うなら暑いのだなと認めるしかない」

「その例え話は前に聞いた!」

「だから、復習だと言っているだろ。我慢して聞け!」

 同じ例え話を何度も聞くのが復習なのか!?

「また、他人の気持ちや感情も否定できない。好きとか嫌い。ウザイとかやる気まんまんだとか、本人がそう言うなら他人はそうなんだろうなと思うしかない」

「まぁ、本人が好きだと言うなら、相手が化け物でも、他人はとやかく言えないもんねぇ」

「そうだな。本人がやる気ないと言うなら、やる気ねぇんだろうなと思うしかないもんな。でもなんで、他人の感覚や感情はそう思うしかないんだ?」

「当然、自分の心じゃないから。他の人の心なんて分からないし」

「だよなぁ。本人の心の中にある感覚や感情は他人には見えない。目に見えない他の人の心は自己申告でしか分からない」

「心なんか目にも見えないし手でも触れないしね」

「他人の心の『本当』や『嘘』は誰にも証明できない。本人でさえ、感覚や感情の『真偽』は証明はできない。だから、逆に『本当』だと人は言うではなかろうか? 感覚や感情は下手すると本人でさえ『嘘』とも『本当』とも分からないあやふやなものだ。そんな事は誰でも無意識に知っている。ある人が痛がっているとする。でも、それを見た人が、ある人の『痛い』と言う自己申告を疑っても話は進まない」

「痛がって泣いてる人に、その痛さは『本当』なの? なんて聞いたら可哀想だしね」

「そう。他人の痛さなんて、『嘘』か『本当』か見てるだけじゃサッパリ分からない。痛がっている人に、痛さが『嘘』か『本当』かなんて聞いても意味はない。『本当に痛いのか?』なんて聞く人もいるけどさ。でも、他人の『痛い』と言う言葉を、そのとおりに『嘘』でなくて『本当』だと認める気持ちが、『本当に痛そう!』という言葉になるのではないだろうか?」

「同情が『本当に痛そう!』って言葉を生むんだね!」

「あなたの痛さを疑ってはいませんよという意思表示だ。ただの肯定であり、痛さが『嘘』か『本当』かは問題にしていない。それに、他人が痛いと言うのを疑っても意味はない」

「痛さに『嘘』も『本当』もないもんね。痛いもんは痛いし、『嘘』か『本当』かなんて本人じゃなきゃ分からないし」

「もちろん、痛がっている本人なら痛いと『嘘』はつける。ウソをつけるなら痛さに『真偽』があるとも言える。だが、痛いという他人の発言を『偽』であると証明する事は不可能だ」


平マ237 死んだら死ぬ<終>

2007-01-05 11:15:08 | 

「人間なんて醜い生き物だ。
 どいつもこいつも同じ程度に死んで良い糞カス共だ。
 むしろ死んでくれってかんじの汚らしい偽善者ぞろいだ。
 どいつもこいつも偉そうにして、何様のつもりだ!?
 そんな小汚い人間共に囲まれてちゃ死にたくなる気持ちも分かる。
 だけど、わざわざ死を選ばなくても人間は死ぬ時がくれば必ず死ぬ。
 もし誰かに『生きている資格も無い!』と言われたなら、俺がもっと言ってやろう。

『お前なんかに、勝手に死んで良い資格は無い!』

 死は生物に与えられた神聖な最後の救いだ。その死を自殺なんて身勝手な方法で汚すな。
 醜くもがき苦しみながら生きるんだ。
 自分のしでかした恥ずかしい行為に自己嫌悪しながら、そして他人から与えられる当然の屈辱に耐え忍び、醜態をさらしながら生きろ。
 そうやって生きて力つきやっとたどりつく最後の救い。それが死なのだ。
 死によって醜い生は最後に浄化される。
 力つきる前に人生を途中放棄した奴なんかに『死の浄化』はない。
 人間は誰でも醜くしか生きられない。
 そして、誰にも勝手に死んで良い権利はない。生きる事は義務だ。苦しみで死を選ぶのは生命として最低の行為だ。
 力つきて死ぬまで死んではいけない。
 もっと苦しめ!
 苦しみは、痛いのと同じように生きてる証しだ!
 苦しんで苦しんで苦しみ抜いて、力つきて死ぬまで死んじゃいけない!
 生きる事にあさましくしがみつく事が生きる事だ。
 そうしか生きられないし人間以外の生き物はみんなそうしている。
 生き物としてそこにいるなら、生き物らしく力つきるまで生きるんだ!」

 しばしの沈黙。 

 死神はいきなり黙り込むと、少し間をおいてから話しだした。

「死神らしくない発言だったかもしれないが、これで終わりだ」

 いやある意味で十分に死神らしい発言だった。なんかスレスレで、かえって自殺したい人の神経を逆撫でしそうなんでスゴいハラハラした。
 でも、死神はこういうかんじにしか話せない人なのだ。仕方ないと思って許してやって下さい。
 でも、まぁとにかく。
 結論めいたものも出たようなので、これでこの「新春『平成マシンガンズを読んで』特別企画!」も終わりかな。

 突然、今まで寝てた protozoa がムクッと起き出した。しばらくボッーとして周囲を見渡すと話しだした。

「んー。なんか終わったみたいだな?」

「はい、終わりました」

 私が答えるが、protozoa は聞いてんだか聞いてないんだか。まだぼんやりとしている。

「いや、正月休みでスゲェ太っちゃってさぁ。とくに腹回りがすごくて。見たい? 俺のビールッ腹!」

「見たくありません」

 親父の小汚い腹などダレが見たいか。セクハラはやめろ。

「じゃあ、締めるか。締めて終了だ。死神はタイトルを言ってくれ。みのりちゃんはサブタイトルをお願い。俺が作者らしく締めの言葉だ」

「じゃ、そーいう段取りで」

 そう答えると、死神は正面を向いてやや緊張ぎみに言った。

「新春『平成マシンガンズを読んで』特別企画!」

「死んだら死ぬ」

「また来年ー!」

 来年もやる気かよ。


平マ236 死んだら死ぬ10

2007-01-04 22:05:11 | 
「命は受け継ぐもの。
 過去から続いたヒトいう種の存続の末に預かったバトンなのだ。
 バトンを受け取った以上は走るしかない。
 不細工な親が SEX して自分が生まれたとかそんなの関係ない。
 受け取った以上は走るしかないのだ。
 また、人間は1人とも数えられるが、1人の人間は何兆個もの生命の集合体である。何兆もの命を勝手に処分して良いはずはない。
 生きる事に目的も意味もない。
 生きる事はただの義務だ。
 人間は力つきてくたばるまで死んではいけない。
 人間以外の動植物はよけいな事など考えずに、どちらかと言えばあさましいまでに必死に生きている。
 死んでいいはずがない!
 死んだら死ぬ。
 確実に死ぬ!
 自殺する奴は最低の馬鹿だ。
 どんな理由があろうとも勝手に死んでいいはずがない。
 命をなめるな!
 魂あろうとも、どうせどんな宗教でも自分の都合で自殺した人間はたいてい地獄行きだ。
 たしかに人間はあさましくて醜い。
 飯食ってウンコひり出しながら死ぬまで生命にかじりつく。
 それしかないし、そういうふうにしか生きられない。
 だが、それでも自殺して良い権利なんて誰にもない。
 死ぬまで生きるのは生き物の義務だ。
 どーせ、わざわざ自殺なんかしなくても、誰だってその時になればいつか死ぬのだ。明日車にひかれて死ぬ運命かもしれないのに今日自殺してなんの意味がある。自殺なんかは、死刑囚が死刑執行が怖くて自殺するのと同じくらい意味がない行為だ。わざわざ自殺なんかしなくても確実にみんな死ぬのだ!
 自分の死で他人にダメージを与えられるなどと考えているなら、とんでもない勘違いだ。人間なんてお前が思う以上に醜い存在だ。自分にとって大切でない他人の死なんかなんとも思っちゃいない。
 お前の命はお前だけのものでない。勝手に死んでいい権利はない。どんなに苦しくても、あさましく生きる事に食らい付くしかないのだ。
 この先、今以上のさらなる苦しみと悲しみがお前を襲うだろうが、そんなもん生きる事にゃ関係ない。どんなに辛くても悲しくても苦しくても、そんなもので死にゃしない。死にゃしないから生きる。人間以外の動物はみんなそうして生きている。
 力つきて死ぬまで生きるのは生命の義務だ。
 義務を全うして死ぬからこそ、死は美しいのだ。
 義務を放り出して死を選ぶ奴に、死の慈悲はない!」


平マ235 死んだら死ぬ9

2007-01-04 21:35:06 | 

「生きているという事は何か?
 その定義は循環にある。
 有機物が循環するシステムを我々は生命と呼ぶ。
 その定義にのっとるなら生命の最小単位は細胞だと考えられる。
 細胞こそが最小単位の生命である。
 なら、人間は多くの細胞が寄り集まって1つにまとまって生きている細胞の共同体だと言えはしないだろうか?
 ハチやアリなどの昆虫を『社会性昆虫』と呼ぶ。
 女王を中心としたコロニーは1つの巣としてとらえらえるが、その巣を支えているの多くの生命だ。
 人間は1人と数えられるが、その1人の人間は何兆個もの生きている細胞が集まった生きた細胞の固まりである。
 その多くの細胞を制御してコントロールするのが脳だ。
 その脳に自我が宿っている。
 脳はコントロール器官にすぎない。
 国家で言うなら脳は政府だ。
 過去の我等の政府は、政府の都合で多くの国民の生命を犠牲にしたが、それで良かったのだろうか?
 自我は脳の働きにすぎない。
 その自我の勝手で、何兆個もの細胞の生命を道連れにして自殺なんかして良いものだろうか?
 個々の人間に宿る「自我」は単なる肉体の管理者であるとも言える。
 本来なら管理者の義務はその管理する己が肉体の存続にあるはずだ。
 魂があると仮定しても良いだろう。
 死んでも魂が残ると考えるなら人間の身体は仮の物にすぎないだろう。
 そうであるなら、さらに、借り物である自分の身体を勝手に処分して良いのか?」


平マ234 死んだら死ぬ8

2007-01-04 21:07:39 | 

「自殺する者は「死後の世界」でも信じているのか?
 死んでも魂は生き残るという確信でもあるのか?
 馬鹿野郎!
 死んだらソレで終わりだ。
  死後の世界はない。
 死ねば、その瞬間に意識はなくなり2度と意識は戻らない。永遠の意識の消滅。意識ない死骸はやがて朽ち果て跡形もなく消え去り、自分が生きていたという記憶や記録もいつか消え去る。
 死んだらなにもかも終わりだ。
 そう徹底的に教育すれば自殺者は減るかもしれない。
 だが、逆に生きる事にしがみつく「健康馬鹿」が増えるだろう。
 どうせ誰で死ぬときは死ぬんだ。死にたきゃ死ねばいい。
 むしろ自殺すら人権の一つかもしれないな。
 死ぬのは自由だ!
 自由に死ねば良い。
 種をひとつの生命と考えるなら、ヒトという種は最後の1人が死に絶えるまで存続するだろう。もちろん、ヒトという種の存続と個々の人間の命とは関係ない。
 だが1人1人の人間の体は、ヒトという種を存続させる為に過去からずっと受け継がれてきたヒトという種の共同財産でもある。
 たしかに当の本人である自分にしてみりゃたまたま両親が SEX したから生まれたに過ぎない哀れな命だ。
 だけど、その与えられた肉体はヒトという種が存続していく為に必要な要素の1つでもあるのだ。そういう物を個人の勝手で処分して良いのだろうか?
 生物学者である池田清彦は著書にこう書いている。
『人は自己の身体の管理権を有するだけで所有権はない。自己の身体は、自分が作ったわけでも誰かと交換して手に入れたわけでもない。物ごころついた時にはすでにあったのだ。自己の所有物であるはずがない。自分の所有物でないものを自己決定で処分する権利はない』
『臓器移植 我、せずされず』池田清彦(小学館文庫)よりだ!」