印刷図書館倶楽部ひろば

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『暦と囲碁』 久保野和行(著)

2014-01-09 15:30:15 | エッセー・コラム



『暦と囲碁』  久保野 和行 (2014年1月5日)


 新しき年は輝いていた。アベノミックス効果での年明けで、午年に象徴される躍動する経済に、期待される雰囲気を生み出している。今年も神社仏閣には人々は溢れ、人は初詣で、その年の自分なりの祈願をする。それが毎年毎年繰り替えさてきた。


 暮れの大掃除後に壁に掛ける、真新しいカレンダーの表紙部分を破って1月が現れると新たな気持になる。ふと何気なく過ごす、そんなひとときに思いを馳せれば、時の重さを感じる。太古の昔から人々は、繰り返される時の神秘に敬意を表し崇めた。暦は人々の重要な生活道具(ツール)になり密接に繋がっていた。


 考えてみれば、印刷物の、もっとも多くのベストセラーといえば一般的にはグーデンベルグ以来の聖書と言われるが、しかし、それでも暦と比較してみればその量的なものでは格段の違いが分かる。文字の発明は暦の発展に多大に寄与した。
それでは日本での暦はどのような経過で今日まで至るか興味を抱いた。出会いは本屋大賞に取った「天地明察」(沖方丁著:角川書店)に中にあった。
江戸時代、5代将軍徳川綱吉の“改暦の儀”で「大統歴」「授時暦」「大和歴」の時、帝の勅令は、どれを採用するか日本国中が注目した。最も民衆の多くが、この“三歴勝負”に熱狂した。彼らの関心は、江戸幕閣の予想を超える盛り上がりを見せた。頒歴(カレンダー)の販売数は如実に伸び、暦法を題材にした美人画まで販売された。





この宣明歴は、貞観4年(862)年から800年以上使われた暦法


 きっかけは唐から伝来した宣明歴が、日食、月食等でのズレが顕著になったことです。ひどいものは2日も違いが生じていた。そこで、ここに渋川春海という登場人物がそのズレを究明するため現れた。

 この人物はもともとは囲碁4家(本因坊・安川・井上・林)の一世安川算哲の長男とし生まれ、父の死後に二世を名乗る。実際に御城碁では、太極(北極星)の発想から、囲碁では初手天元(碁盤中央)で臨んで本因坊道策に敗れた。

 安川算哲が21歳ときに、この暦の誤差修正のため、幕府依頼で、全国の緯度・経度を計測した。その後独学で暦の矛盾を究明し改良を加えた。それを元に36歳の時に授時暦改暦を願い出た。しかし日食予報が外れ、申請は却下された。

 安川算哲は、失敗の原因を研究していくうちに、日本と中国では経度差があり、それが時差であることに気づき、授時暦を日本向けに改良を加えた“大和歴”を作成した。

 最初の改暦願いの時は年齢が36歳、挫折して苦節10年に及び、46歳で日の目を見ることになった。皮肉なことであるが、当時の政治情勢は、絢爛豪華な爛熟経済の真中の元禄時代で、江戸幕府の経済政策は財政破綻の憂き目にあっていた。そんな背景があった中で算哲は、囲碁の世界で使う戦略戦術を駆使して、この難局を打破する。決め手は領歴(カレンダー)が、想像以上の財源をもたらす秘策を、時の大老・堀田正俊に授け、一気に財政再建を実行する功績を残すことが決め手となる。


 この功により初代幕府天文方に250石を持って任ぜられ、碁方は辞め、以後、渋川春海と名乗り76歳の長命を全うした。天文方は世襲となった。

 一方の御城碁は算哲を破った本因坊道策以降は、その後本因坊子孫に何人もの秀才が傑出して繁栄を来たしたが、21世本因坊秀哉が世襲制を廃し、実力制本因坊を取り入れた。
この時、実際に、この計画を実行した人物が毎日新聞の文芸部にいた井上靖(後の作家)氏であったことは面白いエピソードである。