「東京オリンピック “今昔物語”」 久保野 和行
日本国中が沸いたのは9月8日早朝のニュースであった。地球の裏側アルゼンチンの首都ヴェノアイレスから伝わる。2020年東京オリンピック開催が決定した瞬間であった 1964年に続き、二度目のアジアでの開催は初めてのことである。

振り返ってみると私自身も最初のオリンピックの記憶は、競技種目においては鮮明でなかった。華やいだ大会だったが、その中での印象で一番あるものが、開催日当日の出来事であった。印刷会社の製版部門に従事していた当時、朝から夜までに及ぶ仕事で、あまりオリンピックに関しては興味がなかった。

しかし10月10日のその日は良く覚えている。作業に従事していた仲間が一斉に窓際に寄った。秋空一杯に自衛隊のブルーインパレスが五輪マークの彩り鮮やかに空中に輪を描いていたのです。国民全体が高揚感に包まれていて日本経済の復活の象徴として目に焼き付いている。

確かに、その後の私自身の生活は飛躍的に向上した記憶がある。3K(暗い・汚い・きつい)の見本みたいな印刷業であったが、賃金ベースは6年後の大阪万博までのピークに向って10%以上の上昇があったいい時代であった。高卒の初任給が日給月給制で、時給32円で、月稼働基準200時間ベースで月給6400円であった。それでも先輩社員から、叱咤激励の声が飛んだ。「お前達はニコヨン(日雇い肉体労働者)さんよりも高給取り、もっと身体を動かせ」。ニコヨンの由来は時給30円の、1日労働報酬が240円からきたものです。
こんな東京オリンピックが、実は3回目であったことです。幻の1940年に日中戦争が勃発して中止になった。1936年の決定にはオリンピックの創設者であるクーベルタン男爵が存命中で日本へメッセージを寄せている。“古代欧州が生み出した文明をアジアの文化芸術が結びつく”と期待していたが、その翌年に亡くなり東京は幻となった。
このとき同時開催の行事に、東京の月島4号の埋立地(晴海)で初代天皇神武即位2600年記念として万国博覧会もあったが、これも中止になった。それから24年後アジアで最初の大会が、また戦後復興のターニングポイントになった大阪万博が、その6年後に開かれた。
ここから私自身の独断と偏見で東京オリンピックを俯瞰してみると、1940年の幻東京オリンピックから80年後の2020年開催には、妙な数字のつながりを見っけた無理押し承知で語れば1940年の「4」と、その後80年後の「8」をつなげれば「フォティーエイト=48」になる。何と今や旬の「AKB48」に繋がるではないか。彼女らの活躍の下地には、日本固有の伝統的な動きがある。例えば集団での主役(センターマイク)の決め方では、ジャンケン方式と人気投票方式がある。これはとてもシンプルで、なおかつ透明性があり、同時に公平性が存在する。日本人好みの、別の見方をすれば農耕民族のコミュニティーがベースにあると思う。
「もったいない」で発信された日本語のキーワードが「お・も・て・な・し」で世界中の人々を迎える東京オリンピックは、その晴れ舞台である。当然ながら東日本大震災での復興がバックグランドで構築された日本に姿のお披露目の舞台になる。
印刷産業は全ての産業とは密接な関係にあり、この有効は状態を飛躍的に発展させる、絶好の機会が訪れたと考えたら、衰退産業とか、不況産業とかの輩に向って、挑みかかろうではないかと勝手に、東京オリンピックに思いを寄せている次第です。
日本国中が沸いたのは9月8日早朝のニュースであった。地球の裏側アルゼンチンの首都ヴェノアイレスから伝わる。2020年東京オリンピック開催が決定した瞬間であった 1964年に続き、二度目のアジアでの開催は初めてのことである。

振り返ってみると私自身も最初のオリンピックの記憶は、競技種目においては鮮明でなかった。華やいだ大会だったが、その中での印象で一番あるものが、開催日当日の出来事であった。印刷会社の製版部門に従事していた当時、朝から夜までに及ぶ仕事で、あまりオリンピックに関しては興味がなかった。

しかし10月10日のその日は良く覚えている。作業に従事していた仲間が一斉に窓際に寄った。秋空一杯に自衛隊のブルーインパレスが五輪マークの彩り鮮やかに空中に輪を描いていたのです。国民全体が高揚感に包まれていて日本経済の復活の象徴として目に焼き付いている。

確かに、その後の私自身の生活は飛躍的に向上した記憶がある。3K(暗い・汚い・きつい)の見本みたいな印刷業であったが、賃金ベースは6年後の大阪万博までのピークに向って10%以上の上昇があったいい時代であった。高卒の初任給が日給月給制で、時給32円で、月稼働基準200時間ベースで月給6400円であった。それでも先輩社員から、叱咤激励の声が飛んだ。「お前達はニコヨン(日雇い肉体労働者)さんよりも高給取り、もっと身体を動かせ」。ニコヨンの由来は時給30円の、1日労働報酬が240円からきたものです。
こんな東京オリンピックが、実は3回目であったことです。幻の1940年に日中戦争が勃発して中止になった。1936年の決定にはオリンピックの創設者であるクーベルタン男爵が存命中で日本へメッセージを寄せている。“古代欧州が生み出した文明をアジアの文化芸術が結びつく”と期待していたが、その翌年に亡くなり東京は幻となった。
このとき同時開催の行事に、東京の月島4号の埋立地(晴海)で初代天皇神武即位2600年記念として万国博覧会もあったが、これも中止になった。それから24年後アジアで最初の大会が、また戦後復興のターニングポイントになった大阪万博が、その6年後に開かれた。
ここから私自身の独断と偏見で東京オリンピックを俯瞰してみると、1940年の幻東京オリンピックから80年後の2020年開催には、妙な数字のつながりを見っけた無理押し承知で語れば1940年の「4」と、その後80年後の「8」をつなげれば「フォティーエイト=48」になる。何と今や旬の「AKB48」に繋がるではないか。彼女らの活躍の下地には、日本固有の伝統的な動きがある。例えば集団での主役(センターマイク)の決め方では、ジャンケン方式と人気投票方式がある。これはとてもシンプルで、なおかつ透明性があり、同時に公平性が存在する。日本人好みの、別の見方をすれば農耕民族のコミュニティーがベースにあると思う。
「もったいない」で発信された日本語のキーワードが「お・も・て・な・し」で世界中の人々を迎える東京オリンピックは、その晴れ舞台である。当然ながら東日本大震災での復興がバックグランドで構築された日本に姿のお披露目の舞台になる。
印刷産業は全ての産業とは密接な関係にあり、この有効は状態を飛躍的に発展させる、絶好の機会が訪れたと考えたら、衰退産業とか、不況産業とかの輩に向って、挑みかかろうではないかと勝手に、東京オリンピックに思いを寄せている次第です。