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印刷図書館倶楽部ひろば

“印刷”に対する深い見識と愛着をお持ちの方々による広場です。語らいの輪に、ぜひご参加くださいませ。

短命に終わったニホン判画面サイズ

2015-07-31 10:45:45 | 印刷人のフイルム・フイルムカメラ史探訪
印刷図書館クラブ
印刷人のフィルム・フィルムカメラ史探訪 VOL-11

印刷コンサルタント 尾崎 章


日本工業規格・JIS B7115(1950年制定)では、J135フィルム(35mm有孔ロールフィルム)の画面サイズを次の3種類と定めている。
      JIS B7115 ロールフィルム用画面サイズ
      ① 18×24mm  (シネ判)
      ② 24×24mm
      ③ 24×36mm  (ライカ判)

JIS規格・35mmフィルム画面サイズ(18×24mm、24×24mm,24×36mm)


ところが第二次世界大戦直後の1947~1948年にかけて画面サイズ24×32mmのニホン判と称する画面サイズが存在した経緯が有る。

  
短命に終わったニホン判画面サイズ

第二次世界大戦直後のフィルムが貴重品であった時代に、やや横長のライカ判と称されていた24×36mm画面サイズのバランス補正と画面サイズ短縮による撮影枚数増を目的に企画された24×32mm画面サイズがニホン判である。

ニホン判画面サイズの場合は、J135フィルム36枚撮りで40~41枚の撮影が可能となる他に、縦横比2対3のライカ判サイズと六切り・四切りサイズ印画紙の縦横比(2対2.4)が異なる事により引き伸ばし時に生じる画面トリミングを省略できるメリットを有していた。

ニホン判のカメラは、フォーカルプレーンシャッター機では千代田光学(ミノルタカメラ)がミノルタ35(1947年発売)で先行、続いて日本光学がニコンⅠ型(1948年)で追随した。また、レンズシャッター機では東京光学がミニヨン35B(1948年)、高千穂光学(オリンパス)はオリンパス35Ⅰ型(1948年)の製品化を行っている。


ニホン判サイズのミノルタ35 

また、海外ではハンガリー・ブタペストの光学メーカー・マジャール光学(Magyar OptikalMovek 略称MOM社)がモメッタ(Mometta)モミコン(Momikon)ブランドのニホン判・ライカコピーカメラを数種製品化している。
マジャール光学がニホン判サイズを採用した理由は不明であるが1949年から1953年迄の期間・マジャール・ニホン判カメラが東欧地区で販売された実績が有る。


貿易庁の輸出不認可によるニホン判画面サイズ変更

第二次世界大戦後の敗戦国・日本の貿易は連合国総司令部(GHQ)の管理下で最小限の貿易が行われており、当時の日本政府機関・貿易庁が1949年の通商産業省設立までの期間輸出入管理を行っていた。

軍需産業から民生カメラへの転換を図った国内カメラ各社は国内需要が壊滅状況にあった事より米国占領軍兵士及び米国本土向けの販売を主力目標にする事を余儀なくされていた。
戦後いち早くニホン判画面サイズによるカメラ生産を復活させた千代田光学(以下ミノルタカメラ)、日本光学、東京光学、高千穂光学(以下オリンパス光学)の4社は対米輸出を行うべく貿易庁への輸出申請を実施したが、①既に米国で普及が始まっていた印画紙オートプリンターのマスクサイズ(24×36mmライカ判)への不適合 ②米国で普及していたスライドプロジェクターによる家庭写真鑑賞用のスライドマウント(24×36mmライカ判)への不適合よりニホン判画面サイズカメラ輸出が不認可となる事態に至った。


ニホン判(24×32mm)とライカ判(24×36mm)の比較
ニホン判のパーフォレーション数は7穴、ライカ判は8穴


この為、ミノルタカメラ、日本光学、東京光学、オリンパス光学の4社はニホン判画面サイズからライカ判画面サイズへの製品仕様変更を余儀なくされ、レンズシャッター機構カメラの東京光学及びオリンパス光学は翌年1949年にボディ構造変更によって画面サイズを拡大した改良製品ミニヨン35C(東京光学)オリンパス35Ⅱ型(オリンパス)を其々発売する対策を行っている。

しかしながら、時代を先取りしたフォーカルプレーンシャッターを搭載していたミノルタカメラ及び日本光学はシャッター機構改良という基本的問題に直面、両社のライカ判画面サイズ対応は、ミリルタ35ⅡB(1958年発売)ニコンSⅡ(1949年発売)までの期間を要する事となった。

この間、ミノルタカメラ及び日本光学の両社は現行フォーカルプレーンシャッターの手直しで画面サイズを24×34mm迄拡大できる事に注目、24×34mmの画面サイズが35mmスライドマウントの中枠サイズ規格(22.5×34.3mm±0.5mm)をぎりぎりクリァー出来る事より仮対応としての当該画面サイズカメラの製品化を行っている。


ニホン判カメラの画面枠(ミノルタ35) 


仮対応製品・ミノルタ35model-c(1949年)及びニコンM(1950年)は其々貿易庁の審査をパス、オキュパイド・ジャパン(Made in Occupied Japan)と刻印された当該カメラが発売される事となった。
J135,35mmロールフィルムの画面サイズには18×24mm、24×24mm、24×36mmの日本工業規格サイズ以外に、24×32mm(ニホン判)そしてライカ判仮対応24×34mmサイズが存在した史実はデジタルカメラ時代の今日、埋没寸前の状況に有る。



24×24mm スクエアサイズカメラ

24×32mmのニホン判画面サイズカメラ共に興味が注がれる24×24mmのスクエアサイズカメラ、JIS規格に規定されるサイズであるが適合機種機極端に少ない。
適合する日本製品としては、1959年発売のマミヤスケッチ(マミヤ光機・当時)が有る。
マミヤスケッチは、当初ハーフサイズ用カメラとしての製品化企画が行われていたが当時の同社・米国代理店より「ハーフサイズカメラは米国で市場性が無い」との指摘を受けて画面サイズ変更を行った事が関連資料に記されている。
当時の米国市場ではブローニーフィルム(120フィルム)を使用するスクエアサイズカメラが多数使用されていた事もあり、35mmロールフィルムによる24×24mm画面サイズカメラも受け入れられた模様である。
この24×24mm画面サイズカメラの海外製品としては、ドイツのツアイス・イコン社が数種類の製品を販売しており、TAXONA(1947年発売)TENAX・Ⅰ型、Ⅱ型等を挙げる事が出来る。これらの製品にはツアイス社が得意とする3群4枚構成のテッサーレンズが搭載されている機種もあり、スクエアサイズの描写性能を楽しむ事も出来る。


24×24mm画面サイズのツアイス・イコン社:TAXONA


TAXONAの画面枠 


フィルム画面サイズをカメラボディに表記したコニカⅡAカメラ

1947年にいち早く戦前の試作機・ルビコンをベースにレンズシャッターカメラ・コニカⅠ型の生産を開始した小西六写真工業(以下・コニカ表記)は、画面サイズ24×36mmのライカ判サイズを採用、コニカの社史によると当該コニカⅠ型の生産台数は5万台と記されており昭和20年代のベストセラー機で有った。

このカメラは対米輸出も行われカメラ軍艦部には前述ニホン判カメラが得られなかった貿易庁輸出認可の証である「Made in Occupied Japan」が刻印されていた。


フィルム画面サイズを表記したコニカⅡ型

コニカは1951年に改良型・コニカⅡ型を発売、カメラを一新したが初期製品のカメラ底部には「Made in Occupied Japan」の表記が残り、更にニホン判画面サイズで無い日本工業規格適合品をアピールする為にカメラ前面・エプロン部に24×36mmの表記を行っていた。


コニカⅡ型のエプロン部
             
当該コニカⅡ型も第二次世界大戦後・占領下の国内カメラ産業の状況を垣間見る事が出来る歴史的製品の1機種という事が出来る。
コニカⅡ型は曲線を取り入れたアールヌーボーをイメージ出来るデザインが印象的であったが、後継機コニカⅢ型では一般的な直線基調デザインに戻っている。


(終)  
    

  




月例会報告 2015年7月度

2015-07-21 16:17:53 | 月例会
[印刷]の今とこれからを考える 

        「印刷図書館クラブ」月例会報告(平成27年7月度会合より)





●一世を風靡したワインの広告ポスターをいま一度

 大手洋酒メーカーが大正末期に制作したワインの広告ポスター――セミヌードの女性をモデルにした、当時としては度肝を抜く斬新な図柄も相まって、社会的に大きな反響を巻き起こしたことはよく知られる。そのポスターは、ドイツで開かれた世界ポスター展で1位になったことから、我が国の広告ポスター史に燦然と輝く1ページを飾っている。しかも幸いなことに、刷り本が印刷図書館に現存されていて、多くの印刷人が目にしたことのある貴重な印刷史料ともなっている。印刷人としては、別の視点からこのポスターに関心を寄せるべき理由がある。それは、大正時代に一世を風靡したカラー刷りポスターを可能にした最新の印刷技術が、果たしてどのような状況であったかということである。

●人工着色の妙技は印刷技術史の価値ある“遺産”

 最終的に菊全判10色に及んだHB写真製版プロセスについての詳細な技術的説明はさておき、当時、モノクロ写真に人工着色を施して、それを印刷原稿として採用していたことは注目に値する。このポスターも撮影されたネガからモノクロ画像を印画紙に焼き付け、その写真の上にデザイナーが彩色してセピア調に仕上げている。1枚の写真印画紙(反射原稿)からパンクロ乾板と色フィルターを用いて色分解し、連続階調の分解ネガにつくり分けたという。さらに大型の製版カメラで拡大サイズの連続調ポジ(湿版)がレタッチ作業用に作成される。ここでも、現代人の想像の域を超えた“人の手”が加わる。ポジ濃度、網点の大きさと再現色の関係を、印刷原稿の色を見ながら頭の中で描いて、湿版ポジの連続階調を増減するというものであった。

●レタッチ結果も、職人の手法で納得いく水準にした

 そこで用いられた手法は、以下のようだった。濃度を高めるときは黒鉛の粉や鉛筆など、下げるときは消しゴムや軽石の粉、鉄筆を使い、しかも指先で粉類を擦り込んで画調を整えていたという。そうすることが技能として確立されていたそうだ。その後は、ガラススクリーンを重ねて網点入りのネガに反転することになるが、この網ネガも再度、レタッチ工程に回され、不要な箇所はオペークで塗りつぶしたり、逆にベタ色にしたい箇所は平針で膜面を剥がしたり、網点を小さくしたい箇所は黒鉛の粉をまぶしたりして、納得のいくまで修整していた。そして、砂目立てしたジンク版に密着して刷版を作成し、最後にオフセット印刷する。このポスターの場合、初刷りした5万枚が店頭でアッという間になくなり、さらに5万枚の増し刷りを2回おこなうほどの人気を集めた。

●日本人の器用さと感性が独自の印刷文化をつくった

 このような日本独自の人工着色法は、カラーの写真原稿が普及するまで、大型の映画ポスターなどで大いに使われた。また湿版レタッチ法は、昭和35年頃まで我が国の写真製版法の主流であり続けたのである。ここで紹介したワインの広告ポスターはHB写真製版法の初期の作品例ではあるが、今、プロセスの内容を理解できる人はどのくらいいるだろうか? 特色を含め10色くらい使うのは当たり前の頃、トンボやスクリーン角度を調整するのは本当に大変だっただろう。まさに名人芸に等しい。明治・大正時代の技術者がいかに優秀だったかを改めて思い知らされる。初刷り分はセピア調、増し刷り分はダークブルーグリーン調にと、微妙に色調を変化させている。こうなると、レタッチは単なる修整ではなく、色そのものをつくり出していたに等しい。そんな技法を誰が引き継ぎ、誰が根付かせてきたのか。石版の時代から、手で描画し色を再現してきた日本人の器用さと工芸的感性、使命感には驚くほかない。

●本の流通は真の読者サービスに沿っているか

 出版や書店が減少傾向にあるのと対照的に、電子書籍やネット通販が台頭している。「出版社も作家も幸せになる」と、ベンチャービジネスが盛んに市場進出をはかっている。そうした新規ビジネスのセールスポイントは「24時間365日、いつでもどこからでも借り出し/注文できる」というものだ。ウエブ上の“図書館”に書籍情報を発表しておけば、本当に読みたい人に有料でダウンロードしてもらうなり、現物の購入を注文してもらうなりできるという。新聞や書店で印刷本をPRするより、はるかに宣伝効果が高いという。減ってきているとはいえ近隣には書店があり、そこから本を買うことはできるが、同じような本しか並んでいない。遠くの専門図書館まで出向いて探し回る余裕もない。結局、ネット上に提供されている高度な利用法に頼ることになる。しかしながら、真の読者サービスという観点からの、時代のニーズに見合ったビジネスモデルは未だ確立されていない。書籍に巻かれたオビの推奨文に高い関心を示すような人たちも含め、多様なニーズに幅広く応えられるような複合的な出版文化は、デジタルの分野ではまだまだ育っていないのが現状である。

●サプライチェーンの中心で読者価値の高い本を

 ネット上にはさまざま出版情報が紹介されているとはいえ、それらは“プレゼンしたい本”に止まっている。著作権フリーの本から広がっているが、最終的には作家も儲かるシステムにしていかないと、優れた原稿(コンテンツ)は増えていかないだろう。本が書かれた趣旨や背景、目次などをネット上で“立ち読み”できるサービスがもっと確立されたなら、そのなかで優れたコンテンツが育てられていくに違いない。取次を経由しないような特殊な本を対象に加えながら、ネット経由の図書販売は着々と社会に浸透していくだろう。一方の印刷本は、原稿を写し変えるといった、メディア間のたんなる流用ではなく、逆に(オーディオブックのように)読者価値を高めた内容とすることで、出版物として復活できる余地がある。これまでは、本の流通は取次が中心となっていた。しかし、コンテンツという基点に立てば、印刷会社が出版サプライチェーンの土台を築けることも不可能ではないのだ。

●ワンストップ受注のプラットフォームビジネスを

 印刷物を発注する顧客サイドからみれば、年間を通した全社レベルの印刷費はほぼ一定で、いわば固定費的な性格をもっている。それは発注窓口がバラバラだからで、個々には仕様や部数の変更、見積もり交渉などによって、ずっと一定ということはあり得ない。いわば変動費的な扱いをする。こうした事実を印刷会社が“逆手”にとることを許されるなら、全ての印刷品目をワンストップサービスで受注することの意味が見えてくる。一括アウトソーシングの期待に応えてあげることもできる。そのうえで、将来的に電子メディアの制作、ネットワーク配信も加えた総合的なメディアプロデューサーになる必要がある。そこには当然、印刷物の製作引き受けも含まれる。印刷会社が本来得意とするコンテンツ加工を活かした「プラットフォームビジネス」を手掛けていかなければならない。

●発注窓口を見つめ直し、効果的に顧客開拓しよう

 主要駅や大型商業施設など、多数のオフィス、店舗が集まる大規模集積地域が全国に点在するようになった。これまでの商店街やショッピングセンターに代わる強烈な存在感を見せつけている。印刷会社は従来、顧客になってくれそうな身近な企業を相手に、飛び込み、ダイレクトメール、紹介などで営業してきた。だが、こうした商業集積の姿を目の当たりにして、もう一度、発注窓口を見つめ直し、効果的に顧客開拓していく必要がありそうだ。それでも、これまで通り日常的な印刷物の「プリントマネジメント」に止まっていてはいけない。脱コモディティ化によって顧客価値の創造をめざし、コンテンツを基盤としたサプライチェーンを構築するとともに、付加価値を獲得すべくバリューチェーンの中核を担っていかなければいけない。


コダック、アグファ、富士フィルムのコーポレートカラー

2015-06-23 14:22:15 | 印刷人のフイルム・フイルムカメラ史探訪

≪印刷人のフィルム・フィルムカメラ史探訪 VOL-10≫

印刷コンサルタント 尾崎 章


7月12日は、イーストマン・コダックの創設者:ジョージ・イーストマン(1854~1932年)の誕生日で、ジョージ・イーストマンはガラス乾板製造のイーストマン写真乾板会社を1880年に設立している。1888年に発売した100枚撮りロールフィルム充填済みの簡易カメラ「The Kodak」が大ヒットしてグローバル企業のベースを確立している。

社名になった「Kodak」は、ジョージ・イーストマンが考案した造語で、力強い「K」文字が好きなジョージ・イーストマンは「Kで始まり、Kで終わる」造語を考案したとされている。更にグローバル企業への発展を前提に、世界の様々な言語でも発音しやすいことも考慮したことも報じられている。


外式リバーサルフィルムの世界標準「Koda chrome」 

この「Kodak」のネーミングと同時に黄色をコーポレートカラーとして導入、「活発」「鮮明」「発展」をイメージする黄色は「コダックイエロー」として全世界が認知するところとなった。


懐かしのフィルム、右から「Kodak disc Film」、「Kodak 110」ポケット、「Kodak 126」インスタマチック、「Kodak 127」ロールフィルム 



街から消えたコダックイエロー看板

2012年1月に「米国連邦破産法第11条」の適用をニューヨーク州裁判所に申請したイーストマン・コダックは、2013年9月に法的整理から脱却して基幹事業を写真関連ビジネスからグラフィックアーツ関連事業に事業集約を行う展開を行っている。
こうした展開に伴いコダックの写真ビジネス全盛期に国内各地の写真・DPE店に富士フィルムと競って建てられた「コダックイエロー看板」も姿を消す状況に至っている。


街中DPE店のコダック看板

街角から「コダックイエロー」は姿を消したが、グラフィックアーツ事業分野では積極的なビジネス展開を行っており、「コダックイエロー」は「Changes Everything Yellow」キャッチコピーのベースカラーとしても健在である。


Yellow Changes Everything


グラフィックアーツ領域でのアグファレッド

イーストマン・コダックと共に世界の銀塩写真業界をリードしたアグファ・ゲバルト、写真フィルムビジネスは2004年に別会社:アグファフォトに事業売却を行い当該事業からの撤退を行っている。フィルム事業を継続したアグファフォトも残念ながら僅か一年余の短期間に経営破綻を来たし、その後はアグファフィルムのブランドを獲得したドイツ及び国内企業よりフェッラーニア(イタリア)等のOEMによるアグファブランドフィルムが数種販売された経緯がある。フィルム事業撤退後のアグファ・ゲバルトは、グラフィックアーツ・印刷関連ビジネスを核に活発なグローバル展開を行っており、新聞印刷用プレートビジネスでは過半数の世界トップシェアを有する状況にある。


一世風靡・アグファレッドパッケージのRapid Film


アグファ・ゲバルトのコーポレートカラーは「アグファレッド」と称される朱赤色でパントーンカラー指定では「Worm Red」、網点再現では、M95%+Y100%で再現される色相である。アグファでは、フィルムパッケージは元より各種アグファ製品のパッケージ、広告宣伝・広報活動に「アグファレッド」を多用、ユニークな使用例としては1974年から1984年にかけて販売されたアグファブランド・フィルムカメラのシャッターレリーズボタンに「アグファレッド」を採用している。該当機種としては、1974年発売のAGFA MATIC 4000(110ポケットカメラ), 1977年発売のAGFA OPTIMA1035,1535(コンパクトカメラ) 1980年発売のAGFA SELECTRONIC 1~3(MF一眼レフ)等に見る事が出来る。


アグファ・マチック4000 ポケットカメラ 




アグファ・Selectronic-1


黒基調・無彩色ベースのカメラボディにワンポイントとして配された「アグファレッド」のシャッターレリーズボタンは、カメラに「温かみ」をプラスする好デザインとして高い評価を博した経緯が有る。



アグファレッドのアグファブース(World Publishing Expo2014会場)

    
フジフィルム・グリーンの市場席巻

富士フィルムは、旧社名の富士写真フィルム㈱当時の1958年にコーポレートカラーとして「グリーン」を制定している。
「グリーン」を選定した理由としては、①明るいイメージ色 ②世界的に好まれる色 ③店頭陳列効果が大きい ④業界他社の採用例が無い事を挙げている。


フジフィルム・グリーンで統一されたNeopan SSフィルム

同社は、2008年10月の富士写真フィルム㈱から富士フィルム㈱への社名変更時にも「フジフィルム・グリーン」としてイメージが定着している事よりブランド資産としてコーポレートカラーの継続を行っている。


フジフィルムProvia400XとVelvia100フィルム

添付写真のフィルムパッケージは1952年発売の代表的モノクロネガフィルム「ネオパンSS」と現行カラーリバーサルフィルムで若干の色相変化はあるものの「フジカラー・グリーン」で統一され、競合他社が写真フィルム事業からの撤退・縮小を行っている為にヨドバシカメラ等の大型カメラ店のフィルムコーナーは「フジフィルム・グリーン」で埋めつけられた感がある。
富士フィルムは、街中の富士フィルム看板を掲げたDPE店の店頭配色も「フジカラー・グリーン」を基調とする展開を積極的に行った経緯が有り、現在でも「フジフィルム・グリーン」に統一されたDPE店を見る事が出来る。


フジフィルム・グリーン基調のDPE店


「青窓・白壁」エーゲ海・ミコノス島のフジカラーラボ

エーゲ海の真珠と呼ばれサントリーニ島と共に人気観光地であるミコノス島は、「白壁」「青窓・青扉」を基本とした街並みが大変美しい島である。


エーゲ海の真珠「ミコノス島」

白壁・青窓・青扉の基本ペイントは、レストラン、商店、ホテル、個人住宅は元より教会等々まで徹底化され、エーゲ海の「明るい太陽」「青い海」のもと眩しいばかりの素晴らしい景観を造り出している。


コモノスタウンは、白壁・青窓の基本配色

ではミコノス島の「フジカラーラボの配色は?」の疑問を抱き、同島の撮影訪問時にミノノスタウンの迷路をフジカラーラボ探しで彷徨した経験が有る。
ようやく見つけたフジカラー指定ラボ「PHOTO EXPRESS」は想像に反して「白壁・緑窓」! ここまで徹底した営業指導力を行使できる富士フィルムのビジネス戦略に改めて感動・驚嘆したことは言うまでも無い。


ミコノスタウンのフジカラーラボ          





月例会報告 2015年6月度

2015-06-22 16:12:54 | 月例会
[印刷]の今とこれからを考える 「印刷図書館クラブ」月例会報告(平成27年6月度会合より)


●印刷業界は製品の“使用後”のことを考えているか?

 ハウスホールド(生活・健康)用品の製造と販売を手掛ける大手企業が、インクジェット方式で印刷された古紙の脱墨をおこなうビジネス分野に関心を示しているそうだ。インクが紙に浸み込んだりトナーが定着したりするデジタル印刷方式による古紙の再生紙化は、オフセット印刷物以上にコストがかかり、製紙メーカーもやりたがらないという。デジタル印刷方式が普及すればするほど、再生紙化は大きな社会問題になってくると考えられるが、この大手企業は素材の提供面から協力できるとしている。独自のナノ技術によって、インキを微細なカプセルに包み込むことで、脱墨も簡単になるというのだ。そうなれば古紙として回収しやすくなる。1枚単位の印刷が可能なデジタル印刷はマーケティングとの相性もよく、それに使用後のリサイクル効果が加われば、市場も一気に開けてくると読む。市場構造の変化を鋭く見通しての事業進出といえそうだ。印刷関係者が気づいてもいない事柄を業界外の企業から聞くこと自体、驚きだが、本来、印刷業界から提唱すべき可能性を根こそぎ?もっていかれることの危惧も抱かせる。


●印刷見積りに、はたして論理的な正当性はあるか?

 安値で印刷することの実態をどう考えるか? 過当競争の最中、印刷機の稼働率を上げる効果はあるのかも知れないが、その反面、印刷会社としての付加価値を失うことにつながっている。印刷機は高速化し確かに生産性は向上した。それでも、肝心の見積りは旧態依然のままに“ボロ負け”している。依然として印刷工程で儲けようという思いが強い。見積書をみると、合計では各社だいたい同じようなレベルに落ち着いてくる。しかし、中味を見ると科目ごとにバラバラで、論理的な正当性、整合性がない。儲かる部分をもっているにも関わらず、どんぶり勘定で総額を出してしまう。合理的な根拠がないから、つい安値に走ってしまう。紙など原材料の価格は知れ渡っているのに、単価を上乗せして総額のつじつま合わせをすることもある。顧客には、その辺の“嘘”を見抜かれ、さらに引き下げを要求されるという悪循環を招く。面付けの利点も見抜かれてしまえば、逆効果となる。紙への印刷そのものは付加価値をもたらしてくれない。これまで無償で提供していたサービスも、顧客サイドが自身のビジネスに有効だと判断してくれれば、金額を厭わず支払ってくれる。付加価値の取れる特長的な付帯サービスで、利益を上げる営業体質に転換しなければならない。


●出版業界は真の読者ニーズに応えてくれているか?

 世の中に流れる情報が多くなり過ぎて、利用者や消費者にとってどれが本物か、判らなくなってきた。本を例にあげると、交流のある知人の趣味などから検索したであろう、自分にとって全く縁のないタイトルの本を紹介されたりするご時世となった。本当の意味で、読み手のベネフィット(便益)を考えてくれているわけではない。本が売れないはずである。考えさせてくれる本も少なくなった。書店には売れ筋の本が平積みで置かれている。それはそれで、話題の本が何であるかを一目でわかるように紹介してくれる「提案コーナー」ととらえればよいのだが、書棚に整然と並んでいる本の背表紙のタイトルを見比べながら、必要とする本を選ぶという知的本能を、来店客から奪うことにもなっている。矛盾しているようだが、売れそうな本を安易につくればつくるほど、読者層は限られ出版市場は小さくなる。長期的視野で読者ニーズを分析して、幅広い客層に応えることのできる出版ビジネスであってほしい。


●電子媒体が増え続けるなかで、印刷会社は何をする?

 タブレット端末を使った電子書籍を多くの人が読むようになり、高齢女性が電車のなかでマンガ本のページをめくっている姿を目の当りにしたことがある。読んでいるのは文庫本や新聞ではなく、ゲームに興じているのでもなかった。マンガに象徴されるサブカルチャーが手っ取り早く電子媒体で読めるほど、身近な存在になったということだ。その反動か、ここ10年間で紙の出版物は減少し、とくに若者向けの雑誌は大幅に減ってしまった。紙に類似した表示装置ができたら、すべて電子媒体にとられてしまいかねない。そうしたなかで、高齢者向けの本は増え続けている。ユニバーサルフォントの少し大きめの文字で印刷した、読みやすい本をつくってみたらどうだろうか? 著作権フリーの作品から手掛けてみる価値はある。これは一つの例に過ぎないが、印刷媒体が対抗するにも、このような可能性を印刷業界からどんどん提案すべきだ。


●印刷業界は「文字」の効用を活かし切っているか?

 そうはいいながら、読みやすい本をつくっても、読まない人は読まない。これは読み手の問題であって、例え小さな文字で印刷されていても、本当に読みたい本なら苦労してでも読むはずである。こうした事実は、提案の仕方をもっと工夫すべきであることを示唆している。印刷業界が頼りとする文字は、今でも情報伝達手段の主流であり、人びとの頭のなかに記憶として定着しやすい。つまり、文字を残すことが印刷媒体の復活につながるのである。定着する仕組みをいかに提案するか。テレビの世界でも最近、文字の効用を重視し、放映中の画面表示に力を注いでいる。さまざまな媒体のなかで、印刷業界が得意とする文字が生き残っていける領域がある。媒体が多様になり急速に拡大しているだけに、文字が占める相対的な比率は縮小してはいるが、だからといって文字の活用機会と使用量が減っているわけではない。クロスメディアを見通しながら、画像と文字との相乗効果をどうやって発揮させていくか。文字を得意とする印刷媒体のポールポジションを失ってはならない。


●印刷の本質的な価値を見出す努力をしているか?

 印刷がもっているべき本質的な価値が、どこかに飛んでしまっている。工業社会から情報社会へ進展する過程で、産業そのものも情報化した。印刷産業も例外ではなく、情報産業、メディア業に転換したときに、印刷の本質が見えなくなったのだ。情報化に煽られ、電子技術にばかり目がいっている。大量印刷することが本質ではない。印刷機械を回すこと以外に取り組むべき課題は多いはずだ。すべて“商い”が基準になっていて、顧客価値の創造が全くできていない。読者や消費者に至るサプライチェーンのなかで、どの部分をデジタルに任せるか、何をアナログでこなすか。同じように社内のバリューチェーンのかたちをどうするか。出版社ほか関連業界との間でビジネスネットワークを構築し、そのなかでいかにリーダーシップを発揮して付加価値を確保するか。例えば、スマートフォンにマンガをダウンロードして楽しむ時代になっているが、そこに印刷会社はどのように参画していくか。メディアの用途、利用方法にまで踏み込んで印刷のあり様を考える必要がある。この際いったん「版」から離れ、文字や画像を活かした情報伝達、読者や消費者との双方向の対話を重視することである。そうした原点に立ち返ったとき、印刷の本質、つまりこれから生きる道が見つけられるに違いない。


●教育方法の改革に、印刷業は意を尽くしているか?

 教科書をタブレット端末などの電子媒体に代えたために、子供たちの学力が落ちているという話を聞く。どんな分野でも、アナログからデジタルへの移行となると戸惑うだろうし、時間もかかるのかも知れないが、“道具”では簡単に教育効果を高められないことを示すニュースではある。教科書の内容を何でもかんでも新しい媒体に移せばよいという問題ではない。誰もが使いこなせているわけではなく、ムリが生じている。教育の方法とメディアの利用技術との整合性がとれていないような気がする。児童や学生一人ひとりの学習能力、理解度に見合った教科内容のカスタマイズ化は、デジタル技術を使えば簡単にできる。印刷会社にとって、情報加工は得意なところだ。教科書の製作と並行してじっくり取り組んでいける分野だろう。

IGASのルーツと印刷文化展覧会

2015-05-29 16:43:43 | エッセー・コラム

 松浦 広

IGASのルーツ




Drupa(ドイツ・デュッセルドルフ市)・Ipex(イギリス・バーミンガム市)・Print(アメリカ・シカゴ)とともに世界4大印刷機材展として数えられているIGASが、今年は9月11日(金)から16日(水)までの6日間にわたり、東京ビックサイトにて開催される。

 IGASのルーツは、これまで語られることが少なかったが、大正10年(1921)にお茶の水で開催された「印刷文化展覧会」にさかのぼる。さらに「印刷文化展覧会」のルーツを探ると、明治10年(1877)に上野で開催された「内国勧業博覧会」になる。これは明治6年(1873)の「ウィーン万国博覧会」を範としていることが知られている。

つまりIGASを川に例えれば、上流に「印刷文化展覧会」や「内国勧業博覧会」があり、その源泉を探すと142年前の明治6年にオーストリアで開催された「ウィーン万博」に行きつくのである。





未来を覗いた男達


幕末にアメリカやヨーロッパ諸国との修好通商条約を締結させるため、幕府は万延元年(1860)に「遣米使節」、文久元年(1862)に「遣欧使節」を派遣した。

慶応3年(1867)の「パリ万博」では、江戸幕府のほかに薩摩藩と佐賀藩が独自に参加している。慶応3年の翌年は明治元年(1868)。つまり、明治時代を迎える前に、それぞれの使節団のメンバーや「パリ万博」出典のために随行した人々は、ヨーロッパやアメリカの地を踏み、現地の文化や文明を体験し、いわば「未来を覗いてきた」のである。他にも長州藩の伊藤博文や井上馨など5名は文久3年(1863)ロンドンに半年間の密留学している。

幕末に29歳の若さで刑死した吉田松陰(1830-1859)が、23歳の時に死を覚悟で黒船に乗って自分の目でアメリカという異国を見ようと切望したことが翌年の万延元年に実現したのである。「遣米使節」には、勝海舟や福沢諭吉などが随行した。「遣欧使節」には福沢のほかに福地源一郎(桜痴)などが随行した。明治以前の幕末に、彼等のような旺盛な好奇心と冷静な判断力を持っていれば、先進国の技術や生活習慣が日本に伝わることを予見できた。

そして明治6年(1873)6月に明治政府は、統一国家の日本として初めて公式に「ウィーン万博(5月1日~11月1日)」に参加、出品したのである。この万博のために日本から72名のほか技術伝習のため24名の技術者が派遣された。

その会場を6月に「岩倉使節団」が視察をした。この「使節団」は明治政府を代表する、右大臣・岩倉具視、参議・木戸孝允、大蔵卿・大久保利通、工部大輔・伊藤博文をはじめ総勢46名が明治4年(1871)11月から明治6年(1873)9月まで1年と10か月にわたり、アメリカやヨーロッパ諸国との修好通商条約改正と視察のために派遣されたものである。


大久保利道




内国勧業博覧会


明治10年(1877)5月、西南戦争のさなかに木戸孝允(1833-1877)が病死した。その4か月後の9月に西郷隆盛((1827-1877)が自刃し、7カ月に渡って続けられた日本最大で最後の内戦が終結した。(維新3傑の最後の1人、大久保も翌年刺客に襲撃されて世を去った。)

 この内戦を機に、テレビもラジオもない時代の庶民は情報源として、また娯楽の一つとして新聞を読むようになり、購読部数が飛躍的に伸びた。
「内国勧業博覧会」は、8月21日上野で開会式が挙行された。天皇の行幸を軍楽隊が迎え、主催する内務省の長官だった大久保利通(1830-1878)が祝辞を述べた。夜には花火が打ち上げられ、不忍池に屋形船が浮かび、酒楼に無数の提燈が掲げられた。

会期は11月30日までの102日間で、45万人を超す入場者を記録した。「西南戦争が終結していないから。」という開催反対の声もあったが、この博覧会は1年前に開催が決まっていた。大久保は上記の祝辞で「博覧会の功績は、大いに農工の技芸を奨励し、知識の開進を助け、貿易の拡大のもととなり、以って国家を富強に導く。」と述べている。つまり、博覧会は日本という国の富みを殖やす源であると主張した。
4年前の「ウィーン万博」を模して開催した「内国勧業博覧会」は、その成功により、大久保が祝辞で述べたように「出展物が入場者の感性を刺激し、知識を増幅させ、経済を伸展させる」ことに繋がったのである。



印刷文化展覧会




印刷という名詞が付いた博覧会は、大正10(1921)年9月25日から10月25日まで文部省と東京教育博物館の主催による「印刷文化展覧会」である。教育博物館は、お茶の水の「湯島の聖堂」である。




文部省は、この教員博物館を使用して18回の特別展覧会を開催したが、最多参加者数の記録は「印刷文化展覧会」の313,580名。異常なほど過熱した。
この「展覧会」には皇太子の裕仁殿下(のちの昭和天皇)をはじめ宮家の人々が視察訪問したことも過熱に拍車をかけた。




その大盛況の様子は『印刷雑誌』大正10年10月号に詳しく報告されているが、この10月号の表紙や、「印刷文化展覧会」ポスターをデザインしたのが杉山寿栄男(1885-1946)。じつは杉山が「印刷文化展覧会」を提唱し、私費で奔走して大蔵省印刷局と東京印刷同業組合による「印刷文化展覧会協賛会」を組織した。「展覧会」の主催は文部省と博物館だが、実務は「協賛会」が担当したのである。




「協賛会」会長は印刷局局長の池田敬八。




副会長は秀英舎の杉山義雄と東京築地活版所の野村宗十郎。理事長に中屋印刷の鈴木正平。理事に凸版印刷の井上源之丞、博文館印刷所の大橋光吉、印刷雑誌社の郡山幸男、図案家の杉山寿栄男ほか6名、など錚々たるメンバーが協力した。この「展覧会」の成功が、のちの各種印刷機材展や印刷文化典に引き継がれるのである。