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印刷図書館倶楽部ひろば

“印刷”に対する深い見識と愛着をお持ちの方々による広場です。語らいの輪に、ぜひご参加くださいませ。

月例木曜会 平成25年9月度会合より

2013-09-24 16:32:45 | 月例会
[印刷]の今とこれからを考える 「印刷図書館クラブ」月例会報告(平成25年9月度会合より)


《6月度記事参照》

●中小印刷会社には「未来」が待っている

アメリカの印刷業界団体PIAが先頃まとめた特別報告書(文末表記)が、「未来を育てる―中小印刷業は生き残れるか?―」をテーマに採り上げている。日米の違いがあるとはいえ、同じように圧倒的多数の中小印刷会社からなる日本の印刷業界にとって、学ぶべきところは少なくない。統計的な数字については、例によって原本をご覧いただくとして、報告書は冒頭に「Small is Beautiful」(小さい会社は優れている)と謳い、印刷市場は激変したという認識のもとでも、「中小印刷会社は実現可能な未来をもっている」と力説している。中小印刷会社は大規模会社と十分に競争でき、予測可能な未来の印刷産業のなかで、重要な存在であり続けるだろうとする。PIAが着目しているのは、①中小印刷会社が印刷産業のなかで占めるポジション、②経営における“粘り強さ”、③売上げ構成の多様性――である。


●競争優位性は企業規模とは関係ない

中小規模の印刷会社が優れているとする根拠として、大企業を含む印刷産業では何より「規模の経済」が働かないことを挙げている。多品種小ロット製品の個別受注生産という産業特性から、年間の印刷ユニット数が増えたとしても、ユニット当たりの製造コストを一貫して引き下げられない。その分、収益を拡大できない。最初のうちは稼働率向上など生産の効率化でコストを引き下げることができても、ある程度、ユニット数が増えてくると、人件費等が負担となってコストカーブが落ちていかない。さらに生産量が増えると、設備等の固定費が増大して逆に製造コストが高まってしまうのが実情だ。新技術の生産システムに投資すれば、全体としての製造コストは低減できるが、その点は企業規模にかかわらず同じ条件下にある。中小印刷会社は大会社に対して“絶対的に不利”というわけではないのだ。


●小規模ならでの企業特性が強みとなる

印刷業にはなぜ「規模の経済」の理論が適用されないのかについて、もっと詳しくみていくと、印刷業ではライン生産のような連続プロセスよりも、工程ごとに個別生産をおこなうジョブ・ショップ方式の製造プロセスを利用して、中小印刷会社でも大企業と同程度の生産効率で印刷物をつくっている。しかも単なる製造業ではなく、製造とサービスが組み合わさった業態でもある。その分、中小印刷会社は機動性に優れ、顧客(とくに経営者層)と親密な関係を維持することができている。小規模な印刷会社の経営者は、より起業家的であり、必要性が生じたときには迅速に対応できる強みももっている。中小印刷会社は小口発注の中小顧客と、大きな印刷会社は大口発注の大規模な顧客企業と必然的に取引する。この“調和”はお互いに直接競争しないことを意味する。中小印刷会社は、企業規模を拡大して競争力を強化することよりも、事業内容の質を高めることが重要である。コストを低減する新技術、ビジネスプロセスに投資し続ける必要はあるが、これらは規模を拡大しないでも実践可能であり、中小印刷会社が印刷産業のなかで不可欠な存在として生き続ける基本的条件となる。


●企業規模の問題は経営能力より重要でない

アメリカの中小印刷会社の場合、ビジネスプロセスに占める付帯サービスの割合は10~13%程度に過ぎず、それと比べプリプレスと印刷工程への依存度が高い。付帯サービスへの進出に躊躇している分、印刷物製造が主力となっている。それにもかかわらず、生産システムへの投資やビジネスプロセスの改革に遅れ、中小印刷会社の売上高利益率は大会社に及ばない。「適切な対応を実行しているプロフィットリーダー格の小企業は、大企業のリーダーより高い収益性を達成している。企業規模の問題は、経営能力よりも重要度が低いといった方がよい」というのがPIAの見立てだ。強力な競争優位性と緊密な顧客関係から生まれる価格設定力の分析でも「中小印刷会社の方がむしろ大企業より価格の引き上げに成功している」と評価する。


●顧客にどんな価値を与えられるかから始まる

中小印刷会社が成功するための鍵(KFS)は何か? PIAでは「(ソリューションを提供することによって)顧客に付加価値を移転する重要性に気付くことだ」として、次のような課題を列挙する。①印刷物の製造から付帯サービス、情報伝達・問題解決策の提供へ、印刷マネジメントサービスへと自ら変化する、②優れた代替品や競争のないユニークな製品・サービスで、強力な需要を創出する、③必須の戦略として、自社にとってうま味のある製品別ニッチあるいはバーチカルセグメント(限定されたビジネスプロセス)に特化する、④価格設定力を強めることのできる独自の付帯サービスを提供する――こと。さらには、⑤自社の「顧客」をよく知る、⑤特化した事業分野で多様な付帯サービスを提供する、⑥顧客との間でwin-winの関係を築く、⑦顧客への認識と提供する製品・サービスを土台に印刷会社としてのブランド力を磨く、⑧コスト志向より需要志向でいく――なども指摘している。それには、情報を共有し能力開発を怠らず、社員の遂行能力を正しく評価できる包括的な組織体制となることが前提である。
※本稿は、下記の参考資料を下地にして作成しています。
PIA特別報告書[Sizing up the Future: Can Small and Medium Printers Survive?]


●事業理念と行動力で“分”に応じたビジネスを

PIAの資料をみるまでもなく、日本でも最近、小規模企業がやっているような印刷物が伸びている。パソコンとプリンタが普及した時代であっても、素人には手の出ない高品質な小モノ印刷物、特殊な印刷物、後加工を必要とする印刷物などだ。加工度を上げて高付加価値化を実現するノウハウは、やはり印刷業界ならではの財産であることを裏付けている。データを活かして電子メディアを逆利用できる分野は限りなくある。このような視点で工夫を凝らしている印刷会社に対する需要が増えている。利益を出していける仕組みを企業として確立し、“分”に応じたビジネスをおこなうことである。そのためには、事業に関する理念と行動力に確固たる見識が伴っていなければならない。幸いにして、印刷業は地産地消型の産業であり、それぞれの“場”で臨機応変の機動力を存分に発揮できる土壌がある。


●入口はプリントマネージャー、出口は分化(特化)で

印刷会社は自らの意思で、デジタルデータを駆使できる終始面倒見のよいプリントマネージャーになるべきである。余裕が出てきたらクリエイティブな仕事を手掛ければよい。新規参入してきた専門会社からの依頼を、下請けのようなかたちで印刷物として“出力”しているだけではあまりにももったいない。業態の異なる印刷会社同士でコラボレーションして、全体でシナジー効果を探るような仕組みをつくれれば、プリントマネージャーとしての窓口機能も力強いものになる。顧客側の業界はどんどん若返り新しいビジネスを模索している。印刷の仕事をとりやすい環境が生まれてきているともいえる。それに負けずに印刷産業全体も変化すべきときだ。ビジネスは一般的に普遍-拡大-成熟-分化-新規参入の道を辿る。印刷産業自身も今こそ上手に分化する必要がある。そうすれば小さな印刷会社であっても、垂直分業が進むビジネスの世界の隙間(ニッチ)を掴むことができ、主力の座につけるはずである。

(以上)

[印刷]の今とこれからを考える =夏季特集=

2013-08-21 16:29:35 | 月例会
[印刷]の今とこれからを考える =夏季特集=

      「印刷図書館クラブ」月例会報告(平成25年8月度会合より)



《前月度関連記事》

●「フランシスコ・ザビエルを超えた男」ヴァリニャーノ

グーテンベルク発明の「活版印刷術」を日本に持ち込んだのは誰なのだろうか? しかも、国字を金属活字として鋳造し、漢字・仮名交じりの日本語で活版印刷をおこなったのは、果たして誰なのだろうか? イエズス会の東インド巡察師として1579年に来日したアレサンドゥロ・ヴァリニャーノは、かの天正遣欧少年使節団のローマ派遣を計画した人物として知られているが、このヴァリニャーノこそ「活版印刷術」を日本に持ち込もうと考え、使節団派遣の目的の“裏”にその目論見を周到に組み込んだ男である。一般には、使節団が持ち帰ったと伝えられているが、使節団の帰国よりも先に印刷機を日本に持ち込むという着想を、早くから抱いていたのである。日本の印刷史ではあまり評価されておらず、非常に残念なことだが、「フランシスコ・ザビエルを超えた男」という称号に相応しい策略家、プロデューサーだったといえるだろう。


●「活版印刷術」の日本導入を早々と検討していた

ヴァリニャーノは来日早々、日本での布教でいちばん障害になるのは、ヨーロッパ人の宣教師と日本人の修道士、信者との間のコミュニケーションであることに気づいた。最初は宣教師のために簡単な手書きの日葡辞典をつくり、それを使って洋書の日本語翻訳を細々とおこなっていたが、その成果に力を得て、日本に「活版印刷術」を導入し、教義を日本語で印刷することを計画したのではないだろうか? 彼は、ヨーロッパ随一の出版・印刷都市であったヴェネチアのパドヴァ大学で学んでいて、もともと印刷や出版がもつ力に通じていただろうと考えられる。来日した翌年には、「日本における印刷機導入の必要性」を説き、「日本人に適した書物の作成のために、印刷機を注文して自ら日本に持ち込みたい」との書簡をローマ宛に送るなど、日本文字による活版印刷を意外に早くから検討していたようだ。


●漢字・仮名混じりの国字の鋳造に苦心していた

漢字・仮名が混在する日本文字の活字化に、ヴァリニャーノが大きな懸念を抱いていたことは想像に難くない。当初は、国字の印刷を絶望視していた節があり、「日本文字は限りなく多く、国字本の印刷は難しいので、日本語の印刷はローマ字でおこなうのが妥当だ」(1583年)としていたくらいである。それでも、何とか日本文字の鋳造を実現すべく、時間をかけていろいろ考えを巡らせていた。少年使節の渡欧中に「日本文字を鋳造して持ち帰るように」との指示を出した記録さえある。ヴァリニャーノ本人が自ら手を下さないまでも、コンスタンチノ・ドラード(前述)やリスボン在住のメスキータ神父らに「国字鋳造」(母型の現地調製)を働きかけるなど、さまざまな実現策を練り、実際に手を打っていたことは間違いない。



印刷図書館所蔵 國字本『こんてむつす・むんぢ」
(この書は、越前の某舊家に種々那蘇教の遺物と共に伝来したのを、大正5年の暮れと大正7年の春の2回に亙って再編した一部) 


●ドラードらが、ゴアやマカオで下準備をしてきた

コンスタンチノ・ドラードらが、リスボンで欧文金属活字の字母をつくることを学んことはよく知られている。しかし、いかにヴァリニャーノからの指示と手配があったからといって、リスボンで国字鋳造をおこなうことは絶対に考えられない。技術的な問題もさることながら、時間的な制約が大きい。もし使節団と全行程を共にしていたとしたら、わずか3か月しか印刷の研修期間はなかったし、仮に、使節団が最初にリスボンに上陸した時点から滞在していたとしても2年と2か月。国字鋳造はおろか、果たしてどの程度「活版印刷術」を習得できたか、甚だ疑問である。リスボン研修説をとるよりも、帰国途中のゴアでの1年間とマカオでの1年8か月におよぶ滞在期間こそ、ドラードたちの印刷研修期間であったと考えたい。ゴアには印刷術に詳しい神父、マカオには印刷経験のある修道士がいて、それぞれ指導を受けることができたはずである。両地で欧文の鋳造をおこなったことは十分あり得るが、それでも、国字までには手が回らなかっただろう。


●国字はやはり日本人の手で日本で鋳造された

1591年に、日本語を習う西洋人用にローマ字本の『サントス御作業の内抜書』、1592年に、日本人の信者用に国字本の『どちりな・きりしたん』が、それぞれ日本で印刷されている(前述)。後者に用いた国字は、漢字と書写体の変体仮名(連体活字の版下書き)からなっており、この国字の鋳造はヨーロッパではもちろんのこと、漢字しかないマカオでの製造説も荒唐無稽。結局、日本でなされたと考えざるを得ないのである。けれども、少年使節団の帰国は1590年、『どちりな・きりしたん』の印刷は1592年。この間に国字が鋳造されたことも到底考えられないのである。そう考えると、漢字も変体仮名も読解できる日本人、とくに仏教の僧侶が有力候補となってくる。僧侶からキリシタンに転じた例は意外に多い。きりしたん版がらみで有名な養方パウロ、法印ヴィセンテの親子も、ヴァリニャーノが来日した翌年の1580年には、早くもイエズス会に入会しているくらいである。この二人に近い人物として、日本語に堪能なポルトガル人ジョアン・ロドリゲス、宣教師であり歴史家でもあったルイス・フロイスの名も挙げられる。


●活字の制作は印刷機の到着より前から進められた

ヴァリニャーノの依頼により、親子二人が中心となって1585年から国字の版下づくりを始め、金属活字の経験をもつポルトガル人修道士が字母づくりや母型づくりを手がけるようになったと考えるのが自然である。リスボンから船で運んできた印刷機を島原の加津佐に据え付けたのは1590年のこと。それから1年後には『どちりな・きりしたん』が製作されているのだから、あまりにも時間がない。こうしたことから考えると、国字の鋳造にはよほど前から取り掛かっていたとみるべきだ。しかも、かなりの陣容で作業を進めていたと想像してよいのではないか。「書物の編纂や出版に経験のある10名の日本人神弟」が国字鋳造に携わったとされているが、当時は整版式の木版時代であり、彼らにしても金属活字の経験を備えていたわけではない。植字-組版-印刷という活版印刷工程を考えると、1591年の時点ですでに国字の活字が完成されていなければならない。つまり、『どちりな・きりしたん』の活字づくりは1590年以前から進められていたことになる。その作業には、ヴァリニャーノの指示を受けた日本人と外来の宣教師を含む相当数の人員からなる“プロジェクトチーム”が当たっていたとみるのが、もっとも妥当だ。


●「きりしたん版」印刷の史実をもっと詳しく学ぼう

ヨーロッパの印刷文化を日本に紹介した“張本人”であるヴァリニャーノに関して、ザビエルより深く知る必要がある。「きりしたん版」については、20年間に70種類を1台の印刷機でつくったというが、日本においても同様の活版印刷機が製造されているはずだ。他の印刷機、印刷工房の史実がない。100人規模の作業員も必要だが、それについての記録もない。日本最初の金属活字による「きりしたん版」印刷について、ほとんど研究がなされていないのは、まことに残念なことである。国字の鋳造についてはもちろん、印刷工房の規模、従業員数、印刷機、用紙、製本、搬送、さらには古活字との関係など、全くといっていいほど解らない。書誌学分野における研究と並行して、印刷畑からの説得力ある研究が進められたらと願っている。日本における金属活字印刷は、本木昌造が出発点となっているが、それよりずっと以前からあったことを、印刷文化史の全体像を浮き彫りにしていく過程でもっと詳しく学ぶ必要があるだろう。

『日本アニメを支える女職人の凄さ』 久保野和行

2013-08-06 10:47:09 | エッセー・コラム

『日本アニメを支える女職人の凄さ』  久保野和行


スタジオジブリ・宮崎駿作品「風立ちぬ」が7月20日に公開された。「崖の上のポニョ」から5年ぶりの作品に引かれて、さっそく映画鑑賞に出かけた。今までと違うのは実際の登場人物がいることであり、それがどうしてアニメーション化されるかも興味があった。


大正時代の作家・堀辰雄の作品名を取り上げ、同時に同じ時代を過ごした堀越二郎さんの生涯を描いている。私自身、堀越二郎さんという名前すら知らなかった。知る人ぞ知る「零戦の設計者」であった。今年は生誕110年を迎える。当時の状況、特に航空業界は欧米諸国から、遅れること20年といわれた時代に、東大出たての人物に、三菱重工が期待をかけて双肩にかけたのが「零戦の設計」だった。


この人物を取り上げた宮崎駿監督が、どうして実在人物に興味を抱いたのかを調べてみたら、宮崎駿さんの一族が経営する「宮崎航空興学」の役員を務める一家の4人兄弟の次男だった。幼少時代は身体が弱かったので運動が苦手だったが、ずば抜けて絵は上手であった。同時に熱心な読書家でもあり、手塚治虫のファンでもあった。


学習院大学卒業後、東映動画に入社して、この業界のスタートを切るが、なかなか思うような人生を送れない時代が続く、しかし、きっかけはテレビアニメ「アルプスの少女ハイジ」が最高視聴率を上げる成功で地位を確保した。その後、徳間書店の出資を得て「スタジオジブリ」を創設した。
そこから「もののけ姫」が生まれ、「千と千尋の神隠し」は興行成績を塗り替え、観客動員2300万人の空前絶後の金字塔を立てた。




しかし、そんな宮崎作品を支えた、かけがえのない女性がいる。東映動画では1年先輩格にあたる保田道世さんです。この方は宮崎作品全ての色彩設計を担当している。なんととなく眺めている映像の、背景の色や、登場人物の着物や洋服の配色など、それこそ多種多彩な彩を、絢爛豪華にも、詩情ゆたかな静かさも表現できる、裏方の職人芸でもある。


これほどの作品群に、たった1人のアーティスト保田道世さんが支えきっているからこそ、宮崎駿さんから「戦友」の呼び名で作品を作り続けている。


印刷業界に長くいると分かるが、これほど多くの色を扱うことが、いかに困難かを体験しているからこそ、その能力と努力には頭が下がる。エンディングには多くのスタッフの名前が並ぶが、その中で、たった一行の中に見つけた『色彩設計 保田道世』は別の面での感動を覚えた。


零戦設計者の堀越二郎さんもこんな言葉を述べている。
「私は一瞬、自分が、この飛行機の設計者であることを忘れて『美しい!』と、喉咽の底で叫んでいた」





[印刷]の今とこれからを考える (月例木曜会2013年7月)

2013-07-22 16:03:09 | 月例会
今日(7月22日)は土用の丑の日。うなぎを食べて暑さを乗り切るぞ~!!とう方も多いことと思います。しかしながら、うなぎの値が高騰しているそうで、お財布に厳しい今年の夏です。

さて、月例木曜会が先週7月18日に行われました。こちらも、うなぎの高騰に負けず、“内容が高度化している”と編者が申しております。どうぞ、ご一読くださいませ。


[印刷]の今とこれからを考える
(2013年7月18日 印刷図書館クラブ 月例木曜会)


●国字の金属活字鋳造をめぐり拭えない「?」
日本で初めて金属活字によって活版印刷がおこなわれたのは、コンスタンチノ・ドラードらによる『サントスの御作業の内抜書』(1591年)だとされている。これは、ドラードらがポルトガルのリスボンから持参した印刷機と欧文活字を使って布教目的でつくられたものだが、同じ年もしくは翌年に印刷された『どちりな・きりしたん』には何と国字が使用されている。国字の鋳造は誰がおこなったのだろうか? ドラードらはリスボンでの研修で、果たして漢字・ひらがなの活字をごく短期間で鋳造する技術を習得することができたのであろうか? 検証されないまま「造ったのはドラードだ」という説がとられている。非常に疑問が残るところである。


●16世紀末に日本人が国字を鋳造していた? 
書誌学の権威からは、10人の日本人神弟が日本活字の鋳造に当たったという考え方も発表されている。当時、木活字を製作する専門家はいたが、神に仕えるキリスト関係者だとすれば別人の可能性が高い。印刷機も技術をもった宣教師たちもマカオに戻り、日本での金属活字はいったん姿を消したことになっている。キリシタン版を印刷した当時の金属活字は一本も残っていないが、古活字のなかにキリシタン版の影響を受けたものが少なからずある。イエズス会から母国に送った報告書のなかには、「日本人はイタリック体をつくった」という下りもある。手先が器用だから、国字をつくれたとしても不思議ではない。


●「文明論」と「風土記」で印刷の歴史を繋げよう 
日本最初の国字の製作に、誰がどこでどのようにして携わったのか? その疑問を解明したいものだ。1~2年の間にどうつくったのかを再検証してみる価値はある。高い職人気質をもった日本人がつくっていたとすれば、その活字が残っていたとすれば、本木昌造もあれほど苦労することなく、日本の近代活版印刷はもっと早く夜明けを迎えていただろう。印刷を題材とした「文化論」(印刷文化論)はあるとしても、なぜか「文明論」は聞かれない。双方の整合性をとって、史実を記録しておく必要がある。各地域、各時代の歴史を継続して後世に伝えていくためにも、印刷に関する「風土記」を書き残していくべきだろう。


●文化性を保持することは印刷人の責務だ
 印刷産業からみると、肝心の文化性を情報流通産業にとられて、メディアの製作(出力)だけを任される格好となっている。付加価値のとれる領域は、ロジスティックスだけとなっていく。一般の商品は、超ブランドものからシンプルな日用品までさまざまな分野に広がっているが、コンピュータで処理された便利な標準品を、消費者が求めれば求めるほど、文化性は伴わなくなってしまう。印刷メディアも全く同じことで、インターネットで標準的な情報を簡単に入手されている間に、大切な文化性がどんどん逸散してしまう。印刷物にデザインとかグラフィックアーツの要素が加わってこそ、文化性が維持される。文化的成熟度の証として、消費者や読者から文化性の高い印刷物を要求してもらえるようになってほしい。


●成熟化を後押しすることで文化性は保たれる 
需要の多様化に応えるために、個性を発揮できる人材を育てることが重要である。それを実行する資格と義務が印刷会社にはある。イノベーション(市場を動かせるビジネス革新)は、若年層から始まっている。しかし、社会ともっとも密着しているはずの印刷会社の動きが鈍い。個々の印刷会社が少しずつでもいいから、文化性を高める方向にお金を使って、産業の力で市場を成熟化させていかないかぎり、印刷はたんなるモノづくりの立場に追い込まれていくだけである。受け入れてもらえるまで時間はかかるかも知れないが、社会の文化水準が向上しないかぎり、文化産業は評価されないのだから……。


●日本人がもつ「情緒性」をもう一度顧みたら? 
日本人の特性をもっとも象徴的に表しているのは「情緒性」だろう。近くのスーパーストアに行っても、店頭に商品がきれいに並べられている。アメリカでの予測と違って、日本の印刷市場でパッケージ類が“ブラウンペーパー”(未晒の包装紙)として扱われることはないだろう。どこへ行ってもいつの時代でも、日本人の情緒性は豊かである。俳句について考えてみると、五七五という型に嵌めて標準化をはかる一方で、季語を採り入れることによって情報量を増やし、なおかつ創造性を追求している。これこそ日本人ならではの知恵といえる。印刷の世界にも当然このような思想がある。本質に立ち帰って、新たな視点で見直してみる必要があるだろう。


●創造性を付加することも印刷会社の“命題” 
パソコンが普及し、それなりの印刷物をつくれる“グーテンベルク”に皆がなっている時代に、本当のプロになるためには感性に訴える方法しかない。タブレット端末は扱いがシンプルで、機能も確かに素晴らしいが、処理した情報にいかに創造性、情緒性を付加するかが重要である。日本人に課せられた特有の課題として、どう取り組んでいくか、印刷人として無関心であってはならない。印刷技術を標準化したうえで、いかに美しさを保ち、かつ創造性を発揮するか。印刷人が取り組まなければならない命題である。


●プリンティング・マネジメントの機能を社内に
 一般の企業は、個々の部署でそれぞれ独自に印刷物を発注している。全体でみればあまり変動ないのだが、部署間で相互の連携がないため、コストも考えずにいわば“不適切”な発注をしている。これをまとめるのが「プリンティング・マネジメント」で、印刷会社はこの機能を新規参入の専門会社に任せるのではなく、できるだけ自社内で保持するように努めなければならない。そうすれば、顧客企業のすべてのニーズを把握でき、適切なときに適切な印刷メディアを提案できる。印刷現場をもっている強みを活かるので、顧客のニーズに対して、ジャストインタイムで最適なソリューションを提供可能となる。顧客の発注を一元化してワンストップでソリューションを提供し、付加価値は付帯サービスで稼ぐというビジネス関係を築くことである。


●叡智の固まりである出版印刷に魅力あり! 
アメリカの印刷業界団体PIAの年次報告書(前月度例会報告参照)が分析している「市場魅力度」も説得力のある話だ。この分析は、印刷製品ごとの売上高をその製品領域に特化している印刷会社の数で割った数値を、製品品目相互に比較してみた相対的な傾向値なのだが、もっとも魅力的な品目として雑誌印刷・書籍印刷がランクされている。魅力的とされるグリーティングカードやパッケージ印刷さえ上回った。印刷全般の成長性に対して製品別の相対的成長性を探った分析で、低いとされていたのとは対照的な傾向が出ている。PIAでは「競争の度合いが低いほど、その市場領域は魅力度が高い」としているが、その背景には、収益を上げにくいため、出版印刷をおこなう印刷会社が集約化している事実がある。しかし、出版物は叡智の固まりの典型であり、普遍的な存在意義がある。落ち着いたあとには、また盛り返してくるだろう。利用者(読者)がいれば、ビジネスが成り立つことはわかっている。まず、電子媒体で読んでもらってから、選ばれたものを品位の高い出版物として印刷するなど工夫すれば、減少している書店も、これから文化ビジネスとして十分に生き残っていけるはずである。

(終)





「再生可能エネルギーと “再生紙物語”

2013-07-01 16:32:00 | エッセー・コラム
久保野和行氏より、随想一遍が届きましたので、ご紹介いたします。
長文ですが、人間本来の知恵と叡智が盛り込まれた随想録です。



「再生可能エネルギーと “再生紙物語”」 久保野和行




福島原発事故以来、国民感情は原子力利用のエネルギー対策にはアレルギー症状が多く、その対極にあるのが再生可能エネルギーへの期待感がある。昨年の7月には買取り制度が法案成立して、各産業、各企業が新事業へ一斉にスタートした。20年間一定価格買取りがビジネスプランを可能にしたことで、ソーラー・風力・地熱・バイオ・小水力等が見直されている。


もともとエネルギーとは歴史上では、人類が動物世界から隔離した空間を創造したのは“火”を起こす知恵を持ったことで生まれたとも言える。最初は木などを燃やす時代から、石(石炭)や油(石油)へと変化していった。
しかし木から得るエネルギーが最も長くポピュラーな物であったから、いつか人間は森林深く立ち入り、過激な行動が、禿山をつくり、そのしっぺ返しが自然の怒りを買い、風水害という猛威の前に慄いた。自然からの贈り物はエネルギーだけではなく、紀元前まえ中国の蔡倫が“紙”を作り出した。


2012年度の紙消費量は26,278,388,000トンが日本全体で使われていた。その内訳で注目するのは、63.9%が再生紙であることです。森林伐採で、ますます深刻化する地球環境の劣化の中で、三分の二がリサイクル適正な再生紙が占めている。
振り返ってみて、そもそも再生紙とは、いつ、どこで、誰が作ったのかに興味を持った。意外や意外、その人物とは南喜一さんという日本人です。


この方は石川県金沢市の人で、上京して早稲田大学理工科に入った。苦学生で生活は艶歌師、人力車の車夫などをしていた。その時の艶歌師先輩とコンビを組んだのが、東大医学部の学生でした。先輩が卒業する頃は、学生の身分で艶歌師を禁止され、それで車夫になる。あまり実入りが良くないので、一念発起して1年間学校を休学して、上野の薬剤師専門校で資格を取りました。その縁で、先に卒業していた先輩の医学生が吉原病院に在職したおり、そこに職を置くことにした。


学生の身分でできちゃった結婚した。奥さんの実家が向島の寺島村の出身、義兄が当時の石鹸工場の職工であった。その頃の寺島界隈は、今の花王やライオン、カネボウ等の石鹸工場群があり、廃液が水田を冒して、農民がつけ火の騒動を起こした。


義兄は野次馬で見学中に亀戸署に逮捕された。南さんは、義兄の釈放に向かい署長と交渉した。理学部で理路整然と廃液の中からグリセリンの抽出すれば問題ないと話した。
義兄は釈放、署長は関係会社に廃液処理の知恵を授けたが、事態は解決されない。再度呼ばれ諮問され、それではと実際にドラム缶を購入して実験をして証明した。


それを契機に実際に工場を起こした。グリセリンは下瀬火薬の原料となり、一躍成金となる。当然ながら廃液が金を生むから、石鹸工場は社内処理に向く、そこで南さんは事業転換を図る。


エボナイトに着目した。ガス灯から電気に変わる時代であったので絶縁体の需要は旺盛であったので大成功した。人手が足りず弟2人を呼びました。それと同時に先輩医師からの依頼で水野成夫さんを入社させる。東大の優秀な人物ですから会社規模を拡大する上には貢献した。しかし副産物も残した。それは水野さんが東大の共産党の細胞として活躍していたので、一時の避難所的な形で在職していたが、弟2人は感化された。
水野さんはその後離れたが、事件は関東大震災で世情不安を理由に亀戸署で虐殺があった。南さんの弟が、その中の一人で殺されたのです。


義憤駆られた南さんは、弟の敵とばかり体制側に牙を向けたのです。事業で成功していた会社を売り、その資金の多くを共産党に寄付して、それを足がかりにして党幹部になり、闘争闘士に変貌した。


しかし治安維持法の制定でおきた3.15事件で南さんは逮捕された。
ここからが南さんらしいエピソードがある。危険思想のある人物であるから雑居房には収監することができず、独居房で、なおかつ危険思想人物との接触が禁止されているので看守さえ言葉を交わすことがなかったそうです。必然的に閉鎖された空間での時間の使い方が、その後の人生を変えるきっかけになるとは南さんは思っていなかったようです。


長い収監期間で、やることがないので食事と健康のパロメーターとして排便の観察に取り組んだ。朝、昼、晩の食事内容と自分の体調のリズム、それに排便時の色、形、固さ等の観察日記を克明に付けていった。当時の監獄所は水洗でなく溜池方式で窓際の壁に沿って下に落とす方式がとられたそうです。ある日、何時ものように観察していると古新聞が引き詰められた上に垂れ流したのが、新聞のインキが脱墨していることに気づいた。


日本人はコメ文化で成り立っている。当然ながら成分に米糖(糠=ぬか)がrグロプリンというタンパク質で、昔から日本人に馴染みの洗剤であった界面活性剤であった。面白い発見の新事実に興味を持った。


3.15事件の転換は、同じく収監されていた水野成夫さんが、獄中で転向宣言を発表して釈放された。それを南さんは聞いて、同じく転向宣言して娑婆に出てくるが、寺島に家に戻って始めたのが玉の井(永井荷風の濹東綺譚に登場する)入口に婦人解放同盟をボランテリアで開く、当然ながら話題になり水野さんと旧交を温めることになった。


監獄時代の話に及び脱墨のことも及ぶ、当時の水野さんは転向後、もともとのエリアであったフランス文学に向かい翻訳物でベストセラーを出していた。その良き理解者が宮島清次郎さん(日清紡社長)で、繊維で財を成していた。陸軍から軍事物資補充として、紙の製造強化の一環として再生紙を作ることで国策パルプを創設した。


なかなか思うようにいかない時に、脱墨話を聞き陸軍に申請した。そこで宮島さんが私財を出し、太平洋戦争の前の年に、国策パルプ内に大日本再生紙株式会社の研究所を作り再生紙を作った。


終戦後合併して国策パルプ社長に水野さんがなりました。水野さんはその後文化放送を買収して、それを土台にフジテレビを創設し、その後、産経新聞を再建した。


一方、南さんは京都大学医学部の出身の代田稔さんの依頼で、「ハガキ一枚、タバコ1本で買える健康」のヤクルト(ラクトバチルス・ガゼイ・シロタ株=代田さんの名前を取って)を設立した。家え貧して孔子出るの諺もあるが、時代の変化に十分と対応できた南さんの生き様にエネルギーパラーを感じる。


再生可能エネルギーと言われ自然の恵を謳歌することも大事であるが、それよりも、もともと持っている人現本来の知恵と叡智のエネルギーを発揮することが今ほど求められていると思った。