日常のことばたち

時々落ち込むこともあるけれど、いまを生きるんだ。

生涯で出会う人の数

2005-08-09 21:48:33 | 日常
ふと思ったんだけど、
生涯で出会う人の数ってどれくらいなんだろう。
いろいろ調べてみると、2~4万人らしい。(根拠がどこにあるかは不明)
一言しか言葉を交わさない人も含むのであろう。
逆に生き方に大きく関わる人の数を考えるなら、
その数は決して多くはないだろう。
家族、親戚、保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、その他の学校、塾、近所、職場、サークル、友人の紹介、飲み会、インターネット・・・
今、人と出会う機会を思いつくだけ挙げてみた。
自分のことを考えてみると、だいたいこの中に含まれてる。
じゃあ自分の生き方に大きくかかわる人の数を考えてみる。
ここで言う『大きく』の意味は、捉える人によって違うだろう。

う~ん・・・考えれば考えるほどに、多くなっていくような気がする。
明確な線引きはないのか・・・
会える人、会えない人、メールで連絡が取れる人、今はもう直接連絡を取ることが適わない人、この世にはいない人・・・
数を限定することが難しくなってきた・・・

では、今までの人生で、この人の存在は今でも強く残っているという人はいないだろうか?
今となっては連絡が取れない人かもしれない。
おそらく1人はいるはずだ。
忘れることはないであろう人。
記憶にも心の中にも色濃く残る。
おそらく、その人はあなたの人生に大きく関わっていないだろうか?
私の場合、その人は大きく関わっている。

生涯で出会う人の数。
これから先、どれだけの人に出会うだろう。
そしてその中で、人生に大きく関わる人がどれほど現れるだろう。
別にそれに何かを期待はしていない。
でも、その人も生涯で出会う人のひとりなんだろう。

あともうひとつ。
先に述べたように、
今すでに出会っている人の中にも、
人生に大きく関わっている人がいる。
敢えて本人にそんなことは伝えないけど、
心より感謝。



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おじいちゃん

2005-08-09 00:30:24 | 日常
今の自分の状態をよく、「おじいちゃん」と例える。
老後を迎えて余生を静かに暮らすおじいちゃんである。
夢や希望とは無縁の生活だ。(そうじゃないおじいちゃんもいるだろうが)
独りになってからそう思う。
余生を静かに暮らせるかと思いきや、
どうやらそうもいかないらしい。
しがらみだらけの世界の中に暮らすものとして、
まだまだ忙しく動かないといけない。

学校の教師をやってる大学の頃の友人が以前こう言ってくれた。
「K(亡くなった私の妻)が亡くなって、私まだ立ち直ってないんだ。学校で子どもたちを相手していると、Kも小さい頃こうだったのかなぁって毎日思ってる。」

そして、その友人の結婚が決まって、ミニブーケをプレゼントしたときに、
「Kはいなくなっちゃったと思ったけど、そうじゃないんだと思った。Kは『ゆう』の中で生きているんだね。」

悲しんでいるのは自分だけじゃないんだなと思うと同時に、
そう思ってくれることがうれしかった。
確かに、私の妻が生きているなら、結婚が決まったお祝いにミニブーケとか、かわいいプレゼントを真っ先に考えただろうなと思ったからだ。

このおじいちゃんの中にはおばあちゃんが生きているのかね。
あーいや、写真の中のあいつは当時の25歳のまま。
おばあちゃんなんて言ったら怒られちまう。
おじいちゃんは、これからどうやって生きていけばいいんだろうかね。
おばあちゃんがいないとやっぱり寂しいよ。
   ↓
(結局おばあちゃんと言ってる。)
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