地球へ ようこそ!

化石ブログ継続中。ハンドルネーム いろいろ。
あやかし(姫)@~。ほにゃらら・・・おばちゃん( 秘かに生息 )。  

丹波霧     ( その1 )

2008-08-06 08:11:53 | ある被爆者の 記憶
明治初年の鉄道敷設の際に、この城下町を煤煙で汚すからという理由で、列車の姿すら町なかのどこからも視界に入らないように、鉄道は隣村を連ねさせたという。
 おかげで、交通は、最寄り駅まで出るのに、一里以上の道を鉄道馬車に頼らなければならず、やがてこの鉄道馬車は、一輌か二輌かの客車を牽いた軽便鉄道となって、マッチ箱のような汽車が町なかを走る結果となっていた。
 篠山軽便鉄道はお城の北堀端の土手の上を、堀に沿って走った。御大礼記念に植樹されたという堀端の桜が満開の頃ともなると、櫓も白壁一つない石垣だけのお城であっても、花雲の上に浮かぶ古城を仰ぎ見るために、篠山の人々はこの堀端に足を運んだ。
 街の目抜に、厳めしい大名屋敷の御門と見紛うような裁判所があるのも篠山らしかったが、その前の狭い辻を入ると、すぐにも北新町といって、もと、侍たちの住んだ、お城をとり巻く一角となる。この道の突き当たりに、遮断機の下りる軽便鉄道の踏切りがあった。軽便鉄道の踏切りは他にもあったが、遮断機のあるのは、全線ここだけではなかったろうか。たとえば、この北堀は、大手で西堀と距てられているから、軽便鉄道は北堀端沿いに走って、大手の道を横断するのに、その踏み切りは無人であることはもとより警報機もなかった。なぜ、北堀のそこだけが踏切り番小屋付きの遮断機が上げ下ろしされるのか、私はいつも気になっていた。
 城下町の道らしく、そこが見通しを防ぐために、わざと筋違いにした地点だとは、そこが毎日の通学路であったのに、遮断機の有無ばかりに気をとられて、道のせいだとは考えられなかった。
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丹波霧     ( その2 )

2008-08-06 08:10:28 | ある被爆者の 記憶
おまけに、この踏切りのところまで出てくると、急に視界が広がり、満々と湛えた堀を距てて城廓が見渡せる。桜が咲き乱れる頃には、この堀にはボートが浮かべられ、踏切りのすぐ向うにはボート乗り場が仮設されて、踏切り番の家族が切符を売り、時間がくると、大声で、そのボートの番号を何度もゝ呼んで知らせていた。おそらく、そんな気持ちの華やぎが、この踏切りでは先に立って、地理的条件を忘れさせたのにちがいない。
 遮断機といっても、物干し竿の太くて長いのを、根元に重石をつけて上げ下げするだけで、野なかの撥ね釣瓶と大差なかった。踏切り番は中年の夫婦であったが、男の方はよく憶えていないのに、女房の方の印象はいまだに忘れていない。顔は黒いというより、鉄色をしており、線路際の屋根瓦が鉄錆で赤くなるのと同じように思われた。曲毛の髪に、いつも横櫛を挿しているのが、強(したた)かさを示すように、遮断機の傍に近づく子どもを声高に制した。
 歩行を中断された子どもたちの目の前を、列車が通過する。軽便とはいえ、蒸気機関車にちがいないのだから、その威容に打たれても誰もが目迎目送したし、その怖い踏切り番の指示に素直に従うのも、一時の軽便の勇姿が後立てしているように思われるからであった。
 「 なんで、あそこの踏切りだけが、遮断機があるのんや。」
 「 そない言われるとそうやな。けったいなこと気がつく子やな。・・・そや、あそこはお城の鬼門や、そやさかいかもしれんで。」
 母の言うことの方が、よっぽどけったいだと私は思った。でも、鬼門と言われて、踏切り番の横櫛の女は、さては鬼婆であったかと思ったりした。
 
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丹波霧     ( その3 )

2008-08-06 08:09:21 | ある被爆者の 記憶
山国生まれの子どもたちが、列車に寄せる心は、いつも明るい希望に満たされているとはかぎらない。
 軽便鉄道の福知山線接続駅で、初めて本ものの列車を見て、溜息をつくのである。つまり、本ものの列車は他国のもので、自分たちには紛いものしか当てがわれないような、卑屈と羨望を思い知らされることになる。
 物心ついたときには、子どもたちの誰もが、”けいべん”と呼び慣わして、愛着もあったが、それ以上に、どうしても蔑称としか子どもたちの耳には響かなくなっていた。
 ”軽便 " の文字がその意味だと知ったときは、私だけでなく、それまでの連想の、余りにかけ離れた卑俗な思い込みに、篠山の子どもたちは、ことさらに嘲笑し、なおのこと自虐的となった。
 小学生も、三、四年生ぐらいの時であっただろうか。先生が教室で次のように指示した。
 「 明日は検便するから、マッチの小箱に入れて持ってくるように。」
 「 先生、そりゃ、いくらなんでもひどい。けいべんはマッチ箱より大きいよ。」
 たしか、そんな意味のことを真顔で言った子どもがいた。
 軽便は遠慮のない幇間的存在であった。篠山の子どもは、いわゆる少年時代の夢を、どこかいびつに、そのくせ大まじめに抱かせられたのは、この軽便鉄道のせいかもしれない。
 ”けいべん ”を軽便と知らず、これと楽しんでいる間は、これほど遠慮のない高価な遊び相手はなかった。
 「 けいべんは何と言って走るか、知ってるか。」
 「 シャッキン、シャッキン、カエセヌ、カエセヌ。」
 こんなことを言って笑い合った。
軽蔑されながら珍重される。それが軽便の意味であったかもしれぬ。軽便鉄道は、人間の送迎だけでなく、貨物の集散運送も、もとより扱った。起点の篠山町駅は、その構内の広さなど、却って、本線とよばれる田舎の駅駅より大きく立派だった。
 
 
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丹波霧     ( その4 )

2008-08-06 08:08:17 | ある被爆者の 記憶
軽便とはいえ、機関庫も幾つもあり、引き込み線も輻輳して、荷物倉庫が建ち並び、その間を、貨車が何台も、仲仕の肩に押されながら、編成のためや、編成から離脱するために往ったり来たりしていた。
 子どもたちは、幾条にも走る線路を挟んで、向こうの倉庫と、こちらの倉庫とに分かれて、対峙して戦争ごっこも出来た。
 倉庫の中にこぼれた石灰は煙幕に、豆粕は爆弾代わりに使うことが出来た。野戦になっては、積み上げられた原木の陰に身をひそめたり、荷積み前の土管の中にもぐり込んでは、急場のトーチカ代わりにすることも出来た。
 そんな子どもの戦争ごっこの合い間を縫うように、軽便の機関車は、それでも、青、赤、白の手旗の振られるのを合図に、機関車と駅舎の間を往来した。
 時には、子どもたちが、線路に降り立って、白兵戦の真只中に、機関車が割って入ることもあった。
 「 こらあっ。」
 機関士が、怒鳴ったり、突如、警笛が鳴ったりすると、子どもたちは、ますゝ喜んで、
 「 退却 !」
と言っては、それぞれの倉庫の陣地にもぐり込んで息を殺した。
 上海事変は、もうその頃始まっていたであろうか。とにかく、『 少年倶楽部 』の口絵や、新聞紙上に見た陸線隊なる勇士たちの、市街戦もどきのイメージが、子どもたちにあった。

 古さと新しさが行きつ戻りつしていた時代であった。それは、私にとっても、また篠山にとっても、やがて決断されなければならぬ宿命を孕んでいたのかもしれない。
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丹波霧     ( その5 )

2008-08-06 08:07:35 | ある被爆者の 記憶
夏休みなどになると、歩いて行ける距離でもあるのに、私は、枕と寝巻を風呂敷包みにして、母の実家へ泊りに行くのに、わざゝこの軽便に乗り、一駅区間を楽しんだ。
 ある時、乗り合わせた客の中に、山伏の一行がいた。山伏を見たのはそれが初めてではない。しかし、軽便の小さな車輌の中で、鼻つき合わすようにして、この異人種と時を過ごすことなど、夢にも思わぬ出来事であった。駅長にしろ駅員にしろ、機関手も車掌も、みんな知っている顔ばかりの軽便が、いつの間にか異人種に占領されて、私は、その捕虜( とりこ )になってしまった気がした。その中の白い髯を生やした老山伏が話しかけてきた。
 「 どこへ行くのや、大阪か。」
 意外に優しい声にほっとしたものの、私は首を振るのがやっとだった。
 「 ひとり旅とは偉い。ほんまに偉い。」
 仰山に感心してみせるから、横合いから、幾つもの山伏の顔がこちらを覗き込んだ。私は顔が熱くなるのを感じながら、
 「 ちがう。西町の親戚に行くだけや。」
と、気張って物を言った。
 「 ほほおう―、そうか、そうか。」
 山伏は頷いてみせ、まわりの山伏に同意を求めるように、
 「 折角、よい旅の道づれにと思うたのに、のう。」
と言った。
 山伏たちは、どおっと笑った。その笑いの中で、山伏のひとりが、
 「 お前、どこの子じゃ。」
と尋ねた。何と答えたものかと迷ったのを察したか、自分の質問のわるさに気づいたか、すぐに、
 「 何という家の子じゃ。」
 「 宮川。」
 「 ふうむ、篠山にそんな家、あったかのう。」
と、仲間に尋ねた。
 さっきの山伏が、答えを出した。
 「 聞かん名じゃ、他国者( よそもの )じゃろ。」
 私は、事のなり行きが分かっていた。この土地で宮川の名を言うと、決まって他国者と言う。しかし、山伏は他国者でないのか。口惜しくなると涙がこぼれてくる性質を知っていたから、なるたけ聞かぬふりしていようと、私は思った。
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丹波霧     ( その6 )

2008-08-06 08:06:27 | ある被爆者の 記憶
 「 何をしとってのお家なんや。」
 そらきた。この質問ほど嫌いなものはないのに、答えるものかと思った。もうその頃、花柳界での仕事というものが、世間一般の職業と同様に扱われないことを充分に知っていたのである。
  「 言うてみ、大概の家なら見当がつく。」
 私は、しつこいと思ったが、ふと、山伏と色街との不釣合を想像して、見当などつくものかと、やや余裕をとり戻した。
 「 おっちゃんたちは、一軒々々御祈祷してまわる時もある。せやさかい、篠山のことなら、何でも知っとる。」
 私が答えないので、山伏は誘導尋問にかかった。
「 ・・・その西町の親戚というのも宮川さんか?」
 私は、すなおに首を振った。
「 そうじゃろ、その家は何と言う。」
「 山路。」
 私自身、山伏の反応が知りたくなって答えた。
 さすが、山伏らしく瞑目したかと思うと、
「 西町の山路・・・、西町ではなかろう、乾新町の山路さんではないか。」
 私の方が驚いた。これが山伏の念力というものか―。
 西町は叔母の家で、母の実家は乾新町である。私の顔の輝きを見てとったか、山伏は急に、懐かしそうに、しかも鄭重に言った。
「 そうか、山路さんの御一家か―。」
 しげゝと私の顔を見て、
「 何かの因縁じゃな・・・。」
と言って、胸に掛けた数珠を、綾とりするように指に掛けて、何やら祈った。
「 昔、わしは、あんたのお祖父さんにあたるんじゃろ、山路さんにえらいお世話になった。遠い昔のことじゃがな・・・。わしも昔は篠山の人間じゃった。」
 山伏は寂しい笑いを残したまま、あとは語らなかった。まわりの山伏たちは、この老山伏の過去を知っているのか、聴き耳を立てる様子もなかった。
 ただ、西町駅で、私が下車する時、老山伏も立ち上がって、私の傍まで来た。ひどく右足が跛を引くのに気がついた。
「 山路の仏壇に、よう手を合わせてな、拝んでおくれ。」
と言った。
 私は、しっかり頷かねばならぬように思った。
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丹波霧     ( その7 )

2008-08-06 08:05:06 | ある被爆者の 記憶
私は、その時も、その後も、軽便鉄道での老山伏の話を、山路の祖母にも、母にも話していない。ただ、そのことがあってからは、山路の家の表座敷の上の中二階が、気になった。階段が天井に引き上げられたままで、開かずの間にちがいなかったが、日頃の生活とは何の関係もないように、隔離されていることが、却って深い意味をもっているように思われた。
確かに、その部屋には、祖父の遺品がしまわれていると言っていたし、母もまた、子どもの時、それは日清戦争直後あたりであったのであろうか、腕白ざかりの従弟たちに連れられて、この中二階にこっそり上がり、刀長持ちから、刀を出して、それぞれの子どもが、刀を振りかざして、
  日清談判、破裂して
  品川乗り出す駆逐艦
  続いて金剛、吾妻艦
口々に、当時流行の軍歌を唱って気勢を上げたら、忽ちにして、親に露顕して、仕置きをうけた失敗譚を、何のかくし立てもなく子どもたちに聞かせたこともあった。
 その部屋には、刀が何本も入った刀長持があったということだけでも、興味が湧いた。しかし、その部屋に何がしまわれているかよりも、人目をさけるようにしまいこまれてしまうことの方に、私は関心を抱いた。
 たとえば、刀長持ちにしても、貧乏下士の家に、そのようなものがあることが、謎めいて感じられてならなかったのである。また、この家の者はもとより、泊り客でも、厳重に守らなければならない、変わった約束事があった。それは、入浴、もしくは、洗濯の場合でも、濡れたタオルをしぼって広げる時に、両手でふるって音立ててはならぬという。その理由は、人の首を刀で斬り落とす音と全く似ているからと言うのである。
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丹波霧     ( その8 )

2008-08-06 08:04:05 | ある被爆者の 記憶
おそらく、山伏の話を、祖母や母にも伝えなかったのは、この変わったタブーのある家の歴史とのかかわりを、子ども心に直観したためであったと思う。老山伏が、山路の祖父にえらい世話になったというなら、祖父が、その凄腕を鳴らした警察官時代でなければならない。その祖父が、濡れ手拭いを広げて水気を切る音に、人の首を打ち落とす音の似通いを聞きつけるというのは、普通ではない。
 老山伏の過去と、祖父の過去とが結びついているとしたら、この勝手な想像の中でしかないように思ったのである。
 山路の家は代々刑吏、つまり首斬り役人であったかどうかは別としても、牢獄、形場を預かる家であったにちがいない。父が祖父を不浄役人と軽侮したのも、母方の実家のことであり、どこまで父は詳しく知っていたか分からないが、当っていないことではない。祖父は代々の家業を、時代が変わっても踏襲したことになる。
 明治新政府の権力機構の末端としての地方警察が、どのように組織され、編成されたかについては詳しく知らない。
 しかし、山路の家に限っては、断髪、廃刀して、官服に着替えただけで、仕事そのものに変わりはなかったことになるのであろうか。
 初孫が虚弱であるといって、元気づけのためにわざと帯刀して、いっしょに写真を撮らせたりしているくらいだから、その表情からも、明治維新という歴史の転換期の動揺は見当たらない。
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丹波霧     ( その9 )

2008-08-06 08:03:04 | ある被爆者の 記憶
 この祖父が死んだのは大正十二年、軽便鉄道竣工は大正四年九月だから、祖父もこの軽便を見ている。
 しかし、祖父は生涯、この軽便に乗らなかったという。警察官として、公務の場合もあっただろうと思うのに、頑なに何かを守ったとしか言いようがない。刑事としての腕利きを見込まれて、所轄外の警察に何度も出張している。そのような時はどうするのかと言えば、当時、阪鶴鉄道と呼ばれた、大阪、舞鶴間を走った交通機関は何の抵抗もなく利用している。すると、祖父も、この旧城下を煤煙で汚すことを嫌った保守派の一人だったのだろうか。
 篠山が離合集散して、完全に幕藩時代と決別するのは、明治四年九月六日であったと思う。もちろん、軽便鉄道はおろか、鉄道馬車さえ、まだついていない。
 この日、華族条例によって、旧藩公は、東京移住を決定、次のような告諭文を残している。
  
  「 我等今般帰京後、於各、猶又朝旨を遵奉し、私見を去り、県令を重んじ、いやしくも県下に在る者、先知は後知を覚し(さとし)、迷誤なくいよゝ恪勤(かくきん)して県令に従はしむるを以て、祖先累世の恩に報ずることをせば、我等の大幸これに出でず、万一、己(をのれ)の私見を執(と)り、朝廷御役人に遠慮するものあらば、大罪身を容るる所なし。よろしく、微衷を察し、鎮静奉命せんことを希望す。
  この事、深く関心候につき、重ねて申し諭し候也。
   辛未九月
  追て、秋冷の時分、各々保護し候やう存じ候。」
 
 この文章のどこにも、新時代到来の足音を聞きつける歓喜の声は発せられてはいない。むしろ、御一新という兇暴な権力の前に虐げられた敗者の声を殺した嗚咽があるというのは言いすぎだろうか。
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丹波霧     ( その10 )

2008-08-06 08:02:27 | ある被爆者の 記憶
この旧藩公の告諭が、どこで、どんなかたちでなされたか、今はそれを伝える人もいない。だが、はっきりと分かることは、いや応なしの歴史の転換期に動揺する人心を、ひたすら、かつての君臣の情誼に訴えて慰撫していることだ。
 祖父も、きっとこの群れの中の一人であったにちがいない。
 篠山に迫る官軍陣営に、御家老にお供して誰よりも早く、時代の急変を見聞した祖父である。そして、そのことを引き金として、篠山の封建体制は音を立てて崩れ、なすことを知らぬ篠山藩であった。
 この藩公東京移住の条例は、明治新政府が幕藩体制に打った最後の止めであったろう。
 罪なくして主君を奪われ、残された家臣団は、明日からは完全に崩壊、離散の憂き目に曝されなければならなかった。
 祖父はおそらく、何のために、早うち同様に、山陰道鎮撫使の本陣がおかれた福住村山田嘉右衛門方まで四里余の雪道を駆け続けたのかを思い出していたにちがいない。ただでさえ冷たい丹波路を、身ごしらえは礼装の麻裃に蓑笠つけただけの丸腰のまま、みぞれ混じりの寒風に、馬首を立て直し、立て直ししたにちがいない。
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