明治初年の鉄道敷設の際に、この城下町を煤煙で汚すからという理由で、列車の姿すら町なかのどこからも視界に入らないように、鉄道は隣村を連ねさせたという。
おかげで、交通は、最寄り駅まで出るのに、一里以上の道を鉄道馬車に頼らなければならず、やがてこの鉄道馬車は、一輌か二輌かの客車を牽いた軽便鉄道となって、マッチ箱のような汽車が町なかを走る結果となっていた。
篠山軽便鉄道はお城の北堀端の土手の上を、堀に沿って走った。御大礼記念に植樹されたという堀端の桜が満開の頃ともなると、櫓も白壁一つない石垣だけのお城であっても、花雲の上に浮かぶ古城を仰ぎ見るために、篠山の人々はこの堀端に足を運んだ。
街の目抜に、厳めしい大名屋敷の御門と見紛うような裁判所があるのも篠山らしかったが、その前の狭い辻を入ると、すぐにも北新町といって、もと、侍たちの住んだ、お城をとり巻く一角となる。この道の突き当たりに、遮断機の下りる軽便鉄道の踏切りがあった。軽便鉄道の踏切りは他にもあったが、遮断機のあるのは、全線ここだけではなかったろうか。たとえば、この北堀は、大手で西堀と距てられているから、軽便鉄道は北堀端沿いに走って、大手の道を横断するのに、その踏み切りは無人であることはもとより警報機もなかった。なぜ、北堀のそこだけが踏切り番小屋付きの遮断機が上げ下ろしされるのか、私はいつも気になっていた。
城下町の道らしく、そこが見通しを防ぐために、わざと筋違いにした地点だとは、そこが毎日の通学路であったのに、遮断機の有無ばかりに気をとられて、道のせいだとは考えられなかった。
おかげで、交通は、最寄り駅まで出るのに、一里以上の道を鉄道馬車に頼らなければならず、やがてこの鉄道馬車は、一輌か二輌かの客車を牽いた軽便鉄道となって、マッチ箱のような汽車が町なかを走る結果となっていた。
篠山軽便鉄道はお城の北堀端の土手の上を、堀に沿って走った。御大礼記念に植樹されたという堀端の桜が満開の頃ともなると、櫓も白壁一つない石垣だけのお城であっても、花雲の上に浮かぶ古城を仰ぎ見るために、篠山の人々はこの堀端に足を運んだ。
街の目抜に、厳めしい大名屋敷の御門と見紛うような裁判所があるのも篠山らしかったが、その前の狭い辻を入ると、すぐにも北新町といって、もと、侍たちの住んだ、お城をとり巻く一角となる。この道の突き当たりに、遮断機の下りる軽便鉄道の踏切りがあった。軽便鉄道の踏切りは他にもあったが、遮断機のあるのは、全線ここだけではなかったろうか。たとえば、この北堀は、大手で西堀と距てられているから、軽便鉄道は北堀端沿いに走って、大手の道を横断するのに、その踏み切りは無人であることはもとより警報機もなかった。なぜ、北堀のそこだけが踏切り番小屋付きの遮断機が上げ下ろしされるのか、私はいつも気になっていた。
城下町の道らしく、そこが見通しを防ぐために、わざと筋違いにした地点だとは、そこが毎日の通学路であったのに、遮断機の有無ばかりに気をとられて、道のせいだとは考えられなかった。