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地球へ ようこそ!

化石ブログ継続中。ハンドルネーム いろいろ。
あやかし(姫)@~。ほにゃらら・・・おばちゃん( 秘かに生息 )。  

こころの 唄  ( シンデレラ ナイト!)

2007-12-09 18:24:04 |  メモリー 
昨晩 シンデレラ ナイト!
昨日は沢山の唄たちにつつまれた音楽空間にいた。
Sちゃんを慰めはげまし、Iちゃんを喜ばせ幸せな気持ちにさせた唄たちは
恐らく一番わたしを幸せにしてくれた。
この結婚以来 いや もっと前からかもしれないけれど・・・
途絶えることなく 延々と続いた病気との闘いの中で・・・
もちろんそれはずっと自分との闘いであったし 自分のすぐ隣にいる人たちとのジンカンにおける闘いであったわけだけれど・・・

一番越えるのが大変だった こころの病気を克服させてくれたのは
唄の神様たちが生み出した唄たちだ。
その生まれでた沢山の唄たちは 私に「もう一度生きなおそう」という決意をさせてくれた。
再び生きる原点に返してくれた。
人は 決して力には 屈することがない
だけど 温かいこころには こころ開くんだ。

そんなことにも気づかせていただいた。
丙火 太陽  
私の星だ。
いつの日か 
「 こころに 太陽を くちびるに唄を 」
下手くそでも なんでも 唄を 届けるんだ! そんな気持ちになったシンデレラ・ナイト! ありがとう!

>丙( 火 の 陽 +の星 )但し私は 夕日。沈みかけているやつね。杖とか カンテラとか 灯台とか よろしくで~す。
同じ星をもっているあなた様は おこっちゃあいけないのよ、喧嘩売ってもいけないのよ、にこにこお日様やるのよ、いい?

あなた「 わたしの星は何か?」ってか?しるわけねえべ。
だけどね 木 火 土 金 水 のどれかに所属してることは間違いないわよ。」

じゃなきゃあ 宇宙人だわさ。

ps,どうしても聞きたいなんちゅう人はお誕生日入れといて。飛び道具で調べてあげますわん。何年 何月 何日 生まれ 男女の区別 いれといてね。

だ~け~ど~ ここにきて旧暦でどうのこうのっていうお話でてるんで、ま あんまし期待しないことよ~~ん。

ここレアブログなんで アクセスないからこういうこと書いてますけど、私も 私も・・・なんて来ませんよね?大丈夫ですよね?

 大切なこと言い忘れた。との~~との~~ 家庭教師ご苦労様で~~す!あたいには 絶対 絶対 出来ないことです~~ぅ~

こういう時 劣等生でよかったとつくづく思うのであります!えい えい お~
(ちがうか)おいらは~神社 仏閣めぐりコース 専門ですがな。

>てつさ~~ん ありがとうね!いろいろ教えてくださって!あ 前の質問ですけど むちゃくちゃ怖い 怒鳴る くっそ真面目なやな先こうだったさぁ~~。

こころを解放するものは・・・

2007-12-08 11:35:53 |  メモリー 
横浜 本日快晴。

あたしゃね 本日も忙しいんでおじゃる。

何してるか?って?松居和代さんですがな~。(和代の字 これでいい?)家事全般できないんですけれど、とても専業主婦なんて 大きい声では言えないんですけれど・・・
とりあえず2●年 離婚もしないで●●家の一員として只今も存在してるみたいね。

今日はマンマミーヤ試験期間だけど私はおでかけ、大体 私がいてもろくなことにならないんだわ。私の立場から言わせてもらえば 八つ当たりの対象になるだけ、ばかばかしいので おでかけ。

いいとこ。 とっても いいとこ。神様ありがとう!ってとこ。とうちゃ~~んありがとう!ってとこ。

どこか?って。いい質問です。(かどうか わからないけれど)

つまりは ワタクシのこころの解放地帯。

ワタクシの大好きな ストリート・ミュージシャンの路上を聴きにいくんであります。あんさんも行きますか?

場所ですか? えっとう~ 百合の咲く丘ね。新しいとこ。おっぱっぴーの前かな?これがヒントだな。

出る人達ですか? えっとう~ 『 STAR 』( これを変化させるんですよ)

時間は 夕方よね?何時かな?

今日が路上最後なんです。悲しいけれど・・・。だから とうちゃんには悪いと思うけれど 出かけさせてもらいます。

今朝は朝から シンデレラ。お掃除とか ご飯作りとかやってます。まあ 当たり前ちゃあ 当たり前のことやってんですけどね。
さ じゃあ 残りの仕事 ちゃんちゃん片付けよっと。じゃあね!


      

NAGASAKI   原爆   祈る   平和

2007-08-09 11:36:05 |  メモリー 
本日 長崎の地 原爆から62年
長崎は 私のあこがれの地だった。

つまりは 中・高時代のあこがれの君が 長崎大学に進学したからだ。
追っかけをしたけど、受験に失敗した。

長崎の人(=あだな)は 多分優秀な方だったのだと思う。長崎大学付属病院のお医者様になった。

だけど33歳の若さでこの世を去った。小さなお子様を二人残して逝かれた。

高校生の時だったかな? その憧れの人に 
「さだまさしさんの 『 精霊流し 』 という歌を知っていますか?」と聞かれた。

その歌は知らなかったけれど、多分その時からさだまさしさんが好きになったのだろうと思う。

 せめて 祈る
       
         こころを  こめて  平和。

>写真は、グアム島 横井庄一さんの記念館近くのマリア像。
    
         





Let  Freedom  Ring  At  Last

2007-05-18 12:39:24 |  メモリー 
ハロー 土曜日には自宅にもどるわけで例のネットカフェにくるのはもったいないとは思ったのですけれど、何たって三度の飯より大好きなおしゃべりじゃあありませんか~自宅じゃあ誰も私の話なんぞ聞いてくれませんしね。

日ごろのストレス発散にくるわけですよ。あとね自分の足跡を残すんです。ご存知の方はご存知だと思うのですけれどワタクシ整理がとても上手。大切なものどっかに行っちゃうんです。ですのでここに書いておけばなくなりませんでしょ?

今日は 父の命日です。

生きていれば何歳になったのだろうか?82歳くらいですかね?父は68歳でなくなった。すい臓の癌だった。発見したときにはすでに3箇所に転移していたから手の施しようがなかった。

当時は癌告知は一般的ではなかったから 母たちは癌告知をしないという選択をした。多分その選択は正しかったのだと思う。そういうことは一緒に暮らしているものや伴侶が決定することだと思う。

父は元陸軍の軍人だ。満州で戦ったと聞いている。百人の部下を従えた軍曹だった。自宅のリビングには

「将校適任のものとす。」と書かれた証明書のようなものが汚い額に入ってはりがねでぶら下げられていたのをおもいだす。

私は戦後の民主主義の教育を受けたから父の軍国主義の色合いの濃い教育のいちいちが気にいらなかった。

母を泣かすところ、自分の価値観を押し付けるところ、外面のいいところ、などなど・・・。

黒のものでも父が白といえば白と認めなくてはならなかった。自分の意見をのべることができなかったことが一番嫌だった。

父がすごいと思うところは、足が二倍にふくれていても、腹水がたまっていてもそれを抜きながら働いたところ、尤もそのころには働けなくなりはしたけれど・・・。

病院内 口中 口内炎になりながらも何とか体力を取り戻すんだ、という気持ちで病院で出されたご飯を、咀嚼はできないから、白湯を注いで流し込んでいた父のことを想う。

治ったら お四国をまわるんだ。  父はそんな夢を持っていた。

口内炎はできたことのない人には分からない思うけれどちょっと患部に何かがあたっただけで飛び上がるほど痛いんだ。

私は占いを習っている。父の星を知ったときから父に対する想いは大きく変わった。父も母も平和な世の中で輝けるきれいな星だった。

大将の星を持っているから家族みんなに囲まれて「 おとうちゃん!」と慕われていれば 父の人生ももっと変わっていたかも知れない。( まあ それはわからないけれど・・・)

小さいころから不思議なことがあった。父方のおばあさまは 

「 にいさまが・・・、にいさまが・・・。」というような上品な言葉使いの人なのに、なんでこんな人が育ったのだろうか?ということだった。

今なら 間違いなく戦時中の教育のせいだということがわかるけれど、父が一生懸命働いたのは紛れもなく母とともに私たち姉妹を育てるためだったと思う。

何もないところから身を立てた。大阪に商売のノウハウを学びに出たときが一番貧しかったのではないかと思う。母はお腹の中に私、そして二歳年上の姉の手を引いて一円でも安い大根を買いに市場のはしごをしたと聞く。

住まいも二階を間借りしていたから姉のトイレの度に階段を上がったり降りたりした。栄養不足から母の乳は出ず、私はどうやらほんの少しの粉ミルクと、米のとぎ汁で育ったらしい。

私はこの世に生を受けたときに死にかけていたらしい?目は奇形だ。どんなのかというと、目の真ん中の瞳が分裂しているのだ。日本人だからわからないと思うけれど これがブルーの目だったりしたら、瞳の形がわかるから、きっと気持ち悪いと思う。

でもちゃんとものが見える目をいただいたことはありがたいことだ。ちなみに視力はずっと1.5だった。( 勉強しなかったからね。)

貧しさの故に( だと思うけれど)私のほかに兄弟が少なくとも一人はいた。どうやら流れてしまったらしい。貧しいとはそういうことなのだろう。

話はそれてしまうが、今の世の中でブランドのバックやお洋服を手にするために(それだけじゃあないかもだけど)男女の交わりをする、そして生まれた命を勝手にあの世に送り返す。なんていう話を聞いたりすると本当にむかつくんだ。

いわんや そういうことを子供にさせて、そのお金でぬくぬく暮らす親がいるなんていう話をきくと・・・それこそ

「 おんどりゃあ !」(= あんたねぇ~)と言ってむなぐら掴まえるかもしれない私がいる。( 最近は大丈夫よ。人様のことにかかわらない自分いるんでね。)

わたしは戦争によって父の星が全部ひっくり返って行った印象をもっている。骨の髄までしみこんだ軍事教育と民主主義の教育を受けて育った私たちの世代とのギャップは大きいのだろうと想像する。

今 私はうどんやでパートのおばちゃんをしているが、お金をいただくということは本当に大変なことだ。なんの職業についてもそれは一緒なのだろう。

お金のことだけを考えたならば、とっくにやめているだろう仕事だと思う。

何よりきついのは みなさんが私のことを育てようとしてくれているのだけれど、その気持ちに応えられない自分の能力。ふがいなさ。

50以上のメニューの暗号はとてつもない変化をとげ、何とか注文をとる、とかレジうちをする仕事までたどりついたような錯覚の中にいたのだけれど、デシャップ?とかいう仕事に入った途端、その仕事の煩雑さにすっかり怖気づいてしまった。

> たとえばこんな感じ・・・

○○定食というメニューがあったとしよう。

その定食につくおうどんにはねぎとおかかと昆布がのっかる。ところがこれが一端冷たいおうどんとなるとのっかるものが変化するんだ。

定食もののおうどんがみ~~んな同じ風に変化してくれればいいのだけれどそうは問屋がおろさないわけで、このうどんは違うトッピングで・・・。

しかもそこにもっていって、レンゲをつけたりつけなかったり、小鉢をのせたりのせなかったりわけわからん状況におちいっているんです。

だ~け~ど~

この仕事しながら 思うんだ~

 68歳まで現役で体使って働いていた父のこと、姉さんがぼやいていたっけな、配達のあと、おつりもらってポケットにいれたまんま忘れていたりすることがあったって。

 マンマミーヤ・・・わけわからん授業にじっと耐えて座っていること。できないことはできないし、わからないことはわからないんだ。

 わが とうちゃん。これだけの財を稼ぐのは 大変だと思う。ホント冗談ぬきで大変だと思う。

 ジャパン 同様。多分 芸術家の星を持つ彼女にはあまりあわないだろう内容のお仕事 がんばっているのね~~。

 父が越えられなかったもの それは多分自分を無くすこと、

俺がこんなに働いているのにという思い・・・?
こだわったお店?
そっぽむいていた家族?

ちょっとわからない 途中からぬけたから。いずれにせよ、家族というのは理解しあえないものなのではないかと思うようになった。星が違うんだ。

それでも 日々の生活の中で少しでも相手のことおもんばかる私に変化をして円満なる家庭生活に近づく努力はしなくてなならないだろう。

父から受け継いだくじけない こころ・軍人の魂 それを大切にしよう!
すぐ怒鳴ったり 怒ったりすることは避けたい。価値観のおしつけ!( やっとりました。) 

多分それが父があの世で一番望んでいること。

そう思う。



学生たちの 道 ( 母校訪問 )

2007-01-22 07:55:05 |  メモリー 

おはようございます。こちら 横浜 お天気、雨のような 曇りのような?本日中に旅のお話させていただきます。

その1 『 母校 訪問 』

写真が 母校のシンボルの時計台。 この前で 下宿がなくて泣いていたんだ。ワタクシ18才の時。今みたいに にくたらしいばばあじゃあなかったのよ。
写真右は時計台下あたりから見た中央芝生。

           

 泣いていても埒が明かないので 芝生でキャッチ・ボールをやっていたおじいさんとお孫さんに 声 をかけて下宿を紹介してもらうことになった。さあ 行くわよ!

           

 学校の裏山をぬけたところにお墓があって そこを通って学校に通ったんだ。電灯が一つしかついてなかったから ちょっとこわかったけれど・・・今の世の中のような こわさじゃあないな。

           

 建てかえられた 新しい下宿と 復興中のがけ。

ここでは 私のお世話になった下宿はご紹介することはできないのだけれど、神戸の震災前に建てかえられていたので 下宿も下宿のおばさんも無事だった。私が心配していた下宿の場所は更地になっていた。

当時は貧しい学生達が住んでいたんだ。皆がそうとは限らないと思うけれど、交通事故でお父さんを亡くして 何の保障もなく( つまりは相手の人が無免許の浮浪者のような人だったらしい) 奨学金もらって学校に通っていた男子学生もいた。とっても明るい男の子だった。)

 下宿のおばさんのうちは代がわりをしていた。玄関のベルを押すと息子さんがでてきてくださった。

下宿のおばさんは 施設から病院の方に移っていた。御歳93歳。お体の具合はあまりよくないようだ。

思い出話いろいろ。栗泥棒などなど・・・。学生というだけで 許されていた特権のようなものもあったと思う。今考えると信じられないことだけれど、バンドの練習を勝手にお部屋でさせてもらっていた。相当すごい音量だったと思う。

再びもどり 構内。

学食・・・

        

 むかって右は 当時の場所にそのままあった一番きれいだった食堂のカウンター。
体育会系の薄汚れていた食堂の場所はすっかり綺麗になり 新しい校舎に変わっていた。その食堂は震災の時に倒壊したというような噂も聞いた。

 学食で きつねうどんを食べる。230円なり。近所の親子連れが食事にきていた。外部の人々にどれくらい大学が解放されているのかはわからないけれど、なんとなくほほえましい感じがした。

蘇った 構内の様子・・・

        

 左の写真の右側に駐輪場があった。学生達はどうやら自転車で構内を移動するらしい?我々の時代は皆 徒歩。駐輪場の場所はお金持ちのお坊ちゃま君 もしくは教職員の駐車場だったと記憶している。

             

 P P M  の音楽をバンドを組んでやっていた池のほとり。今は柵があってはいれなかった。部室はなかったから雨の日は崩れかかった 何だろう?洞穴?みたいな場所で練習をした。
 元彼は バンジョー弾きだった。ブルー・グラスという音楽をしていた。
只今 そのサークルは時代の流れとともになくなった。

  再び 下宿界隈にもどり  記念碑前

 

             

  実は 情けないことに 神戸の震災の日を忘れていた。(TV  ・ 新聞等 全くと言っていいほど見ていないので)
お亡くなりになった方々のご冥福を祈ってきれいなお花が沢山飾ってあった。

『 やすらかに 』 という 文字が刻まれた石碑は この町内の方々によってつくられた。
  何が出来るというわけではないけれど 今日頂いているいのちを大切にして 生きたいと思う。                  

                                   合掌


僕らの夢が いつか咲くその日まで~ ♪

2006-11-20 23:12:41 |  メモリー 
こんばんは~ こちら yokohama.本日もアクセス ありがとう!

昨晩 マンマミーヤと バトル。レベル 5     思いっきり疲れた。そして、まあ自己嫌悪にも陥るわけです。

うじうじしていても仕方ないので、小雨の中 川崎大師に行ってきました。境内に
四国八十八カ所を巡ることの出来る場所があってそこで素敵なおばあちゃまに出会いました。

とっても品がよくって、まあワタクシと反対のご婦人を思い浮かべればよろしいかと・・・。

私が思うには 自分が思いっきり落ち込んだ時って ちょこっと反省もするじゃないですか、そうすると不思議とお寺さんとかで元気もらえるんですよ。

おばあちゃん 小さい頃からお大師さんを拝んできたんだとか。75歳になって初めてお四国まわってきたらしい。香川県の人。

弘法大師さまが幼き頃修行中に、崖から飛び降りて観音様に救っていただいたというお話はきいたことあったけれど、そのお話の山の麓の観音堂の近くにすんでいたらしい。

お話をいろいろ伺ったのだけれど、穏やかであること、暖かいまなざしであること日々お大師様と共にすごしていること、などなど・・・。信仰というものはこのように無理のないことなのだろう。

その方のお父様が おつくりになったという 句。

 ”桃を背に 里を見下ろす 観音堂” 確か そんな句。

恩師が亡くなったとき 何となくお葬式に出たくなかった。私はその時四国に住んでいたんだ。だから・・・

十八番 札所の 『 恩山寺 』に一人出かけた。

 ”子をうめる そのちちははの おんざんじ

        訪ぶらいがたき ことは あらじな ” お寺の お歌。

  ご本尊は 薬師如来 さま 

 もどり・・・

 家族は ジャパンのおみやげのほうとうを食す。
 ワタクシ 気持ちリフレッシュして ナイト・ラン。限界近く走る。公園ははぶく。夜の街は 灯りがきれいだ。

 小雨の中 ほかほか。髪の毛から汗がしたたり落ちた。このところ 歳とったんだか やたら涙もろいんだよね。思い出がいっぱい頭ン中横切って泣けましたさ。

 ご家族さまより プレゼントいただく。何よりうれしい お手紙。

 三月 いきま~~す。 頑張るんだから おばはんでも。

 帰宅したら 研究会より恩師のご著書が届いていた。

訂正・・・暮らしの手帖社編集 

 曽我の雨・牛若の衣装  ― 心意伝承の残像 ―

平成 十八年 十一月 二十三日 発行

 息子さんの多摩さんの 『片岡山の 一本桜』 の ことばは・・・何となく私には 辛かった。

 それは なぜかというと・・・この年わたしが高野の里に植えた桜のためか それはわからないのだけれど・・・先生のお宅の山桜は枯れた。とお聞きしたように記憶しているからだ。

 高野山に植えた桜 十年ぶりに会いに行った今年。桜は まだ『つぼみ』だった。今日 お大師さんでお会いしたおばあちゃんは結願の高野山で見事に咲いた桜を見たそうだ。
 いつか 私は恩師のために植えた小さな桜の木に会いに行きたい。満開の桜に・・・

 恩師  辞世の句 ”散りぎはは 梅か 桜か 寒椿 ” (たしか?)

 明日から また 踏み出すんだ~。最初の 一歩。

>写真は 高野山に植えた桜、以前は陽のあたらないところに植えてあったのだが公園が作られたときに移していただけた。何とか再生できたんだ。ありがとう!
  

メモリー 「 栗 泥棒 」 の巻 (大学時代)

2006-10-20 07:20:33 |  メモリー 
おはよう ございます。本日も 横浜 晴れ。み~~んな お出かけ。
とうちゃ~~ん 頑張って 働いてきておくんなせ~。
マンマミーヤ~ しっかり お弁当 たべんだよ~~。
ジャパン~ ディズ二ーランド 楽しんでおいで~~。

ワタクシですか? まんず 今日はですね~ ルーティンワークの神社・お地蔵さん Walk & Run ですわ。今日朝一でお越しのあなたさまのためにも 祈ってくるわん。(よかったね)

本日は・・・秋 ちゅうことで 

『 栗 泥棒 』 のお話UP させていただこうかな~ なんて 思っておりやす。

お時間ですか~?えっとう~ シンデレラ・タイム までにはね。
ええこ(=よいこ)して まっちょきんさいよ。(= 待っていてね。)

@@@@@@@@@@@ スタート @@@@@@@@@@@ 

大学時代・・・わたしは 今の時代じゃあ考えられない下宿にすんでいた。
 
 私は 当時関西で一番学費の安い大学に進学したんだ。(私立)第一志望の大学は動機がふ純だったので(多分)落っこちた。でも 私はこの大学を初めて見て気にいった。それはなぜゆえかわからないのだけれど?・・・。多分 時計台。素敵だったんだ。

 第一志望の学校に落っこちてから、下宿を探しにいったので当然女学生(=これ私のことよ)用の住まうところは、もうなかった。
 
姫「え~~ん。え~~ん。」時計台前にて 泣いている。(ほんまでっせ)
 どうしよう?どうしたらいいの?(かわゆく)
 当時 皆様多分信じられないでしょうが、”下宿というものは、不動産屋さんで探す!”なんていう知恵が、19歳(あれ?18歳ですかね)の小娘に、あるわけもなく・・・。泣くしかなかったんだなぁ~。(え~~ん、え~~ん)

 でっもう~ 泣いてばかりいても、埒はあきまへんやん。時計台前で、おじいちゃま&お孫さんが野球やってたんですよ。で 声 をかけた、と。
「このあたりに下宿はありませんか?」
「一軒 知っている下宿があるから 行くだけ行ってみますか?」
「はい!」 で 行ってみると、一部屋だけ 空いていたんですよ。偶然。
おばさん「男の方と一緒ですけど いいですか?」(お部屋の中、一緒ってわけじゃあないのよ。)
「はい。大丈夫です。(住まうことが できるのなら、例え、おのこがいようとも・・・)。」

 当時 女性 6人。男性 11人。(くらい。記憶 混ざってますんで?)

 くっそ真面目な女子校、ご卒業のワタクシでしたんでねぇ、3日で出ようと思ったさぁ~この下宿。でっもう~ まんま いすわったんだな。思いっきり体育会系の下宿。上には 「はい!」
 
>>> ちょっと 長くなりそうなんで 春 夏偏は 省略・・。>>>

秋。栗の季節がやってきました。(なぜか ました。)この下宿 一部屋、一ヶ月 3500円 広さ?4,5畳。備え付け畳ベットあり。柱に 4●年 むかで何匹。4○年 むかで何匹 って彫ってある。つまりは お部屋に出て,退治したむかでの数がほってあったんだな。
 
 この下宿は 大体においてボンビーな人々の集まる下宿でしたが中には お金持ちのおぼっちゃま君?ってほどでもないかな?車持ってる人いたんですよ。

 さて場面は 真夜中 毎年恒例の栗泥棒に出かける時間がやってきました。(なぜかました。)
打ち合わせ。「いいか?」人様のお宅の栗 叩き落す係り。「誰だっけ?」
いがいがのまだ青い栗を拾う係り。「どなたでしたかしら?」

 総勢そうだな~ 5名くらいですか?女性はワタクシだけね。参加しなくちゃあいけない!って思うでしょう?体育会系だもの。一回生だしね。上には「はい!」
 えっ?思わない? まあ 普通そうだわね。(ぴろぴろ)

えい!えい! や!とう! ぱらぱら。どさどさ。栗収穫。人様の家のもの。

 ドキドキしながら 下宿に帰って来る。こんなこと やったことないもん。
 下級生がむく、栗の実。姫(この当時は 姫ってあだなだったの。かわゆく。もんくあっか!)
 炊く 栗ご飯 (やったことないもん・でも一応 女性なのでやる。)でけたで~(=できましたわ)食する。微妙。
 なんだか 青い感じの味。(そんなに おいしくないな。)

夜が 明けてくる、しらじら。

 お金もち風 先輩、Oさん下級生数名を連れて 街にでる。by car.
夜明けのコーヒー 飲みに連れてってもらった。”夜明けのコーヒー 5人で飲もうと~せんぱいが言った~♪”

 「栗泥棒」の挙句に 夜明けを迎え、コーヒーを飲む。何だか すごい不良したみたいで、変に感動したなぁ。(なにせ高校生まで 元軍人のおうちでむちゃくちゃ不自由な生活してましたんでね。もの申すなんてこと考えられませんでした、父上様に。)
 コーヒーなんて どこがおいしいいんだろう?っては思いましたけどね。

 次の朝 下宿のお知らせ用黒板に下宿のおばさんからのお叱りの言葉が書いてあった。「ほにゃらら・・・。ほにゃらら・・。だめだめ!」

 この「栗泥棒」の伝統行事は代々伝えられ、私が3回生のときには同級生の山野君が指導者になり行った筈だが、当然このような行事にはもう参加していないワタクシでしたが、髪の毛を長くのばしている、おのこのマンちゃん(=あだな・一回生)が見つかったのか・・・ 

 次の日の朝の黒板には「栗泥棒」のお叱りの文章に・・・
 ”女性の人も混ざっていました。”と書かれてあった。
「あたいじゃあないよう~。マンちゃんだよう~。」とんだぬれぎぬ。
(髪 切れ!ばかもん!見つかるんじゃねえ、どじ!)なんてこと 思いましたわ。こわっ!

 今の時代じゃあ 警察沙汰ですわ。何となく~”古きよき時代”って言っていいんですかしらん?もう時効になってます?ワタクシをつかまえに来ないでくださいましね。

 先輩のOさんとは今だにお年賀状のやりとりしてます。マンちゃんはドイツ語を落として留年し、その後の消息は存知あげませんわ。但し人のこといえません、仏語前期落として、真っ青な栗の顔になった経験がございます。

ボンジュール。ボンソワール。ヌザボン。ブザベ。イルソン。エルソン・・・
”ラ・ファタリテ、ラ・ファタリテ、デュ・ラ・ムール・・・”ってどういう意味なんですかね? 勉強しとけばよかった。ほほほ。

さって~ 本日 マンマミーヤ 早帰り。実力テストだったんだそうな。UP中に帰ってきましたわ。記事おそうなってごめんしてくれろ~。えっ 期待してなかったの?いゃんだ~(=いやですわ)
ま、いっか。一人芝居だし。じゃあまたね。

写真は 横浜の夜明け 昨年のもの。ナイト!(ナイト!の前に 自分の好きな言葉入れてね。)