道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

あけまして……

2008-01-03 01:47:14 | 旬事
……という台詞にもいい加減あきました頃でしょうか。

先日、クリスマスの直前に友人と飲んでいた時に、「正月」について言葉が及んだ。
彼曰く:「正月の生ぬるい空気がいやだ。寒空の中で茶を飲んでいる精神を大事にしたい」
私:「あ、"ふゆはつとめて"ね」
彼:「そうそう、枕草子」

しかし、これは高校の時から思っていたことだが、新暦で正月を祝うというのは、伝統行事の一連の文脈からするとおかしい。
「迎春」「賀春」という言葉の通り、旧暦の一月一日は春を迎える日、立春であった。
春に生命が生まれ、夏に発展し、秋に枯れ落ち、冬に耐え忍んで力を蓄え、再び生命が芽吹く季節が到来したことを祝うのが正月行事だったのである。
節分の豆撒きだって、本来は年末に積もり積もった邪気を祓い、家をきれいにして新たな年(=次の生命サイクル)を迎えるためのものである。
それを、生命循環の意識から切り離して形式だけバラバラに残したのだから、行事や言葉の意味が文脈を持たないものになってしまっている。

大学に入って中国人と知り合って感心したのは、中国では建国記念日やメーデーは新暦で日付を決めるが、正月・端午・七夕など伝統行事は旧暦で行っている。
これでこそ、「迎春」が意味を持つし、織姫と彦星も初秋の晴れた日に逢えるというものであろう。


と、いつも文句ばかり言っているが、かくいう私も、実は新暦正月のこの時期は結構好きである。
春を迎えるというめでたさこそないが、街は静かで、道行く人は楽しげで、そして空気が澄んでいる。工場やトラックが休んでいるためであろうか。元旦の空はいつも高い。

もちろん、田舎に行けば、空気は常にきれいだし、正月のこの時期は雪が降るから、むしろ空はいつもより低い。
しかし、東京で、いつも見慣れた街で、いつもと違う景色を見るというのが爽快なのだ。この爽快さは、大掃除で家のガラス窓を全て拭き終わった時の感覚にも似ている。
そんな時、少し悔しいが、「ああ、年が明けたな」と思ってしまう。

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  元日 王安石
爆竹声中一歳除 春風送暖入屠蘇
千門万戸瞳瞳日 総把新桃換旧符

爆竹の声で年が明け 暖気がふわりと屠蘇をかすめる
無数の門戸に朝日が差し込み 家々全てが符を換える