中国語では「image」の訳に「意象」という言葉をあてる。
しかし、この言葉は、「哲学」「経済」「社会」のように訳語として生まれたものではなく、かなり昔から存在する言葉だから、難しい。
先日、「白居易之梨花意象」というタイトルで発表をしたのだが、一通り原稿の添削が終わった後で先生に言われたのが「"意象"って、本当は英語の"image"とは違うのよ」
幸いにして、レジュメ中に、タイトルを含め中国語として「意象」の言葉遣いが間違っている箇所はなかったが、ひやっとした瞬間であった。
授業が終わった後に調べてみたのだが、「意象」という語は伝統的に文学理論上の言葉として用いられ、南北朝期の文体論にも見られる。
様々な用例があって、意味を特定することはできないが、どうも文学古典では「外界の物象について内心で生起する主観的感覚」とでもするのが無難なようである。
が、どのあたりで「image」そもそも私には「image」という英単語自体についての認識が甘いので、まだ先生の言った意味が完全に分かったわけではない。
ところで、伝統的認識論において、「意」と「象」は異なる段階の術語である。
『易経』の文章に、「言不尽意(言葉では、意味を完全に伝えることはできない)」という言葉がある。そして、それに続いて、だから聖人は「象」を立てて「意」を伝えるのだ、と述べられている。「象」というのは天文だったり模様だったり数字だったりするわけだが、誤解を恐れずに踏み込めば「象徴」とでもいうのだろうか。
これについて三国時代の王弼なんかは、『荘子』の思想を使って、以下のように言う。「意」を理解するために「象」を用い、「象」を理解するために「言(言葉)」を使うけれど、「象」を把握できれば「言」は忘れられ、「意」を把握できれば「象」は忘れられる。そして、これらを忘れたのでなければ、「意」を理解できたことにはならない。
「言不尽意」論で必ず触れられる言説である。
王弼が語っているのは壮大なことについてだが、
彼の元々のテーマ設定を無視して、卑近なことについて言えば、我々は自分の考えを相手に伝えるのに言葉や映像を使うけれど、完全には伝えられない、ということにでもなろう。
しかし、社会生活を送る以上、「相手の意図は分かってるから、相手の細かい言葉遣いは無視する」「言葉にしなくてもわかってくれるよね」と言ったり、あるいは開き直って「どうせちゃんと伝わらないから言わなくていいや」と言ってはいけないと思う。
前者は傲慢•独善だし、後者は怠慢•無責任。
後者については放置・無視すれば済むこともあるが、前者については余計な期待をかけるのみならず、こちらの言う言葉に対して聞く耳持たないこともある。後に六朝期の清談家が否定されるのも、その独善さに起因しているのではないかと思う。
言葉は全てを伝えられない。言った言葉は相手に誤解を生むし、更に発言者本人の思考までもを言葉に合わせて改変してしまう。
100%誤解を生まないことは不可能だが、特定の誤解を避ける言葉はある。言っても言わなくても誤解は生じるが、特定の誤解を否定する言葉はある。
「因果応報」という言葉があるが、自らの本意でなくとも、自らの影響の及ぶ範囲における、自らの作為もしくは不作為に因る結果というのは、やはり自分の責任なのである。
極言すれば、他人をどのように誤解させるかについて、我々は責任を持たなければならないのである。
しかし、この言葉は、「哲学」「経済」「社会」のように訳語として生まれたものではなく、かなり昔から存在する言葉だから、難しい。
先日、「白居易之梨花意象」というタイトルで発表をしたのだが、一通り原稿の添削が終わった後で先生に言われたのが「"意象"って、本当は英語の"image"とは違うのよ」
幸いにして、レジュメ中に、タイトルを含め中国語として「意象」の言葉遣いが間違っている箇所はなかったが、ひやっとした瞬間であった。
授業が終わった後に調べてみたのだが、「意象」という語は伝統的に文学理論上の言葉として用いられ、南北朝期の文体論にも見られる。
様々な用例があって、意味を特定することはできないが、どうも文学古典では「外界の物象について内心で生起する主観的感覚」とでもするのが無難なようである。
が、どのあたりで「image」そもそも私には「image」という英単語自体についての認識が甘いので、まだ先生の言った意味が完全に分かったわけではない。
ところで、伝統的認識論において、「意」と「象」は異なる段階の術語である。
『易経』の文章に、「言不尽意(言葉では、意味を完全に伝えることはできない)」という言葉がある。そして、それに続いて、だから聖人は「象」を立てて「意」を伝えるのだ、と述べられている。「象」というのは天文だったり模様だったり数字だったりするわけだが、誤解を恐れずに踏み込めば「象徴」とでもいうのだろうか。
これについて三国時代の王弼なんかは、『荘子』の思想を使って、以下のように言う。「意」を理解するために「象」を用い、「象」を理解するために「言(言葉)」を使うけれど、「象」を把握できれば「言」は忘れられ、「意」を把握できれば「象」は忘れられる。そして、これらを忘れたのでなければ、「意」を理解できたことにはならない。
「言不尽意」論で必ず触れられる言説である。
王弼が語っているのは壮大なことについてだが、
彼の元々のテーマ設定を無視して、卑近なことについて言えば、我々は自分の考えを相手に伝えるのに言葉や映像を使うけれど、完全には伝えられない、ということにでもなろう。
しかし、社会生活を送る以上、「相手の意図は分かってるから、相手の細かい言葉遣いは無視する」「言葉にしなくてもわかってくれるよね」と言ったり、あるいは開き直って「どうせちゃんと伝わらないから言わなくていいや」と言ってはいけないと思う。
前者は傲慢•独善だし、後者は怠慢•無責任。
後者については放置・無視すれば済むこともあるが、前者については余計な期待をかけるのみならず、こちらの言う言葉に対して聞く耳持たないこともある。後に六朝期の清談家が否定されるのも、その独善さに起因しているのではないかと思う。
言葉は全てを伝えられない。言った言葉は相手に誤解を生むし、更に発言者本人の思考までもを言葉に合わせて改変してしまう。
100%誤解を生まないことは不可能だが、特定の誤解を避ける言葉はある。言っても言わなくても誤解は生じるが、特定の誤解を否定する言葉はある。
「因果応報」という言葉があるが、自らの本意でなくとも、自らの影響の及ぶ範囲における、自らの作為もしくは不作為に因る結果というのは、やはり自分の責任なのである。
極言すれば、他人をどのように誤解させるかについて、我々は責任を持たなければならないのである。