道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

停電

2011-03-15 11:04:24 | 社会一般

 自分のいる地域は、どうやら18:20~22:00に停電するようだ。無理に懐中電灯で電池を消耗するよりは、寝ていた方が良いだろう。私の場合は、それで済む。
 大変なのは、自宅療養中で、電気が必要な器具を使っている方だろう。病院にいれば自家発電があるが、自宅では電気がなくなる。下手をすれば命に関わる。昨日の間にうまく対処できていれば良いのだが……。

 ネット上に溢れかえる「東電がんばれ」コールには些かの気持ち悪さをも覚えるが、しかし、実際に東京電力はよく頑張っていると思う。原発の話だって、事後処置としては、信じられない程に知力・努力を振り絞っている(ただし、原発というのは、たとえ「築40年」「想定外の事態」「世界中でも考えられる限り最善の対処」であっても、万一の事態が起こってはならないシロモノであるから、やはり彼らの責任は追及されなくてはならない。尤も、遠因は数十年前の見通しの甘さなのだから、現在の職員たち及び民主党政権には気の毒である)。
 計画停電も、仕方の無い処置である。無理をして大規模停電になっては、元も子も無い。事前に告知して停める分だけ、我々も対処しようがある。

 昨日は、鉄道各社が運行を大幅に減らし、それに伴ってオフィス・工場が機能しなくなったため、停電処置無しでも何とかなった。しかし、いつまでもそういうわけにはいかないだろう。経営が危うくなる企業・生活が危うくなるサラリーマンが続出する。既に現在だって、『ビッグ・イシュー』を売って生活している人たちは大きな危機を迎えているのではなかろうか。
 鉄道を動かし、オフィス・工場を動かし始めれば、どうしても一般家庭の停電が必要となる。故に、計画停電という処置は妥当である。

 東京近郊が停電を強いられる一方で、千代田区・中央区・港区・新宿区・渋谷区・文京区・墨田区は、一切停電しない。中央集権というのは、なるほど、権力のみならず電力をも中央に集める体制だったのか、と思ってしまう。一方、好意的に考えればいくつかの理由が挙げられる。
・大企業が多く、いざという時には一般家庭よりも統制しやすい。
・勤務の中断やサーバーの復帰などで、大きな負担が見込まれる。
・車通りが多く、信号を停めると大混乱が予想される。
こうしたことを考えると、確かにその選定は合理的かもしれない。しかし、停電させられた企業・飲食店からすれば、「行政区分の分かれ目が経営危機の分かれ目になってはいけない」とも言いたくなるであろう。

 思うに、第1~第5グループの割り当ては良いとしても、停電時刻は日によって変えるべきだ。そうしなければ、毎日9:20~13:00に停電させられる弁当屋はつぶれるし、18:20~22:00に停電させられる飲み屋もつぶれる。
 最も良いのは、7日サイクルでそれぞれの時間を変化させることだ。そうすれば、弁当屋も飲み屋も「○曜日は定休日」ということにして対処することができる。

 恐らく今回は長期戦になる。少なくとも、長期戦になっても持ちこたえられるような配慮が必要である。


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 ところで、こうなって初めて節電が呼びかけられ、(今のところ)積極的な協力を得ているが、本来ならば普段からすべきだったことも多い。昼間にコンビニの電灯を消して営業しても全く問題の無いことくらい、前々から分かっていただろう。オフィスも電気・空調をつけすぎだったのだ。街灯だって、青梅くらいまで行けば全く無駄が無いが、府中なら2本に1本くらい消しても良いし、都心なら4本のうち3本消してもまだ明るいままだろう。
 京王線なんぞは、最近もうけた金を駅舎改築に費やし、田舎の駅でも階段をせばめてエスカレーター(動かしっぱなし)だらけにしたが、その無駄な工夫が今になって仇をなしている。私の住んでいる地域では、停電時刻に軒並み運休・駅舎閉鎖を強いられることとなった。「バリアフリー」というのなら、エスカレーターを何本も増やすのではなく、エレベーターを増築するだけで良かったはずなのだ。その方が、設置費用でも消費電力でも遥かに合理的だ。

 また、アパート・マンションの入口が電気式のドアであるために、停電時に開かない・セキュリティ面で問題が生じる、というアホな事態に直面しているところも多いことだろう。
 この際言わせてもらえば、電気式というのは信用できない。テレビのリモコンだってそうだ。電池がなければチャンネルを回すこともできない。昔のように、メカニックで本体とつながっているダイヤル式であれば、そんな問題は生じない。

 既にそのうちの一部は、以前の記事でも指摘していたのだが、今回の停電騒ぎによって、我々が日常無視していた様々な無駄・思慮不足が露呈することになるのだろう。

 

補足:

停電時刻は日によって変わるらしい。しかし、5日サイクルでは、やはり定休日が分かりにくい。

http://matome.naver.jp/odai/2130001740747617201/2130010496748507803


石原氏「天罰」発言について

2011-03-15 10:48:05 | 政事

 石原都知事は昔から失言が多い。本人は失言だとは思っておらず、好き放題言っているだけなのだから、もう直らない。直らないのだが、10回に1回くらいは良いことも言うから、それで都民に受け入れられている側面が強い。

 しかし、今回はさすがにひどい。

 

「我欲で縛られた政治もポピュリズムでやっている。それを一気に押し流す。津波をうまく利用して、我欲をやっぱり一回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う。被災者の方々はかわいそうですよ」(「デイリースポーツオンライン」2011315日付より)

 

「我欲」や「ポピュリズム」ということは、その通りだろう。しかし、そのために津波が起こったというのはおかしい。旧約聖書の読み過ぎだ。

地震発生以降、ネット上では「不謹慎」という言葉が蔓延し、往時の「非国民」という言葉の如く、我々の言動を制限しようとしている。私自身はこの雰囲気を好きになれないのだが、それでも言わせてもらいたい。石原氏のこの発言は、不謹慎である。

 

 凡そ二千年、自然災害の仕組みが(自然科学的には)解明されていなかった時代では、確かに石原都知事のように「天罰」として理解する考え方があった。魯の荘公二十四年(B.C.670)に起こった水害について、劉向(B.C.77- B.C.6)は以下のように言う。

 

「……又淫於二叔,公弗能禁,臣下賤之。故是,明年仍大水((荘公の妃である哀姜が)二人の舅と浮気し、それを荘公は止めることができなかったので、臣下が荘公を蔑んだ。そこで、この年と翌年と二年続けて大水害があったのだ)」(『漢書』五行志引劉向『洪範五行伝論』)

 

また、文公九年(B.C.618)の地震については、以下のように言う。

 

「……諸侯皆不肖,權傾於下。天戒若曰:臣下彊盛者將動爲害(当時の諸侯はいずれもできが悪く、権勢が臣下へ移ろうとしていた。そこで天が戒め、以下のようなことを伝えようとしたのだ。臣下が権力を持って、君主を脅かそうとしている、と)」(同)

 

劉向の説によれば、いずれの場合も、為政者がだらしなく、臣下を増長させたために災害が起こったものとされる。そして、為政者はこうした天災を見て、自らの行いを戒めなければならない、ということである。劉向というのは学者と政治家を兼ねた人物であり、彼から見て600年も前の出来事についてこうした解釈を施すことにより、自分たち為政者への警告としたのである。

 水害・地震の時、実際に最も被害を受けるのは一般庶民なのだから、天が為政者を戒めるためにこうした災害を起こすという発想は、「為政者の言動を改めさせるためには、庶民の犠牲も仕方ない」という、我々から見れば傲慢な価値観に基づくものである。しかし、当時は、そういう時代だったのである。

 

 今回の大災害について、石原氏は「天罰」と見なしたようだが、そのように見なした上で、果たしてそれが自分の責任であるという可能性は考えただろうか。自分を含めて政治家たちがだらしないから、それが「天罰」を引き起こし、何万もの死傷者を出し、何十万もの人々に避難生活を余儀なくさせた、ということは考えただろうか。

災害を「天罰」と言うのは、現代人としては幼稚な発想であるが、その上で為政者たる自己の反省に結び付けない点では、二千年前の劉向にすら及ばない。他人事のように語る彼に、「天罰」を語る資格は無いのである。

 

付記:

どうやら撤回した模様。彼にしては珍しいが、よほど反発が堪えたのだろう。本当に反省しているのなら、ここらへんで勘弁してやろうじゃないか。(「産経ニュース」2011年3月15日付